1-3 白の世界
――アーティファクト・ラビリンス(五級/塩の大地)――。
激しい重力を全身に感じながら、ラセツはアーティファクト・ラビリンスの中に突入した。周囲の空間が焼ききれるようなバチバチと言う音を耳で感じながら、ゆっくりと蒼の瞳を開く。
「ぐぅ……っ!」
全身を襲う目眩と立ちくらみがラセツを襲った。足元が覚束なくなり、たたらを踏む。強い吐き気に襲われ、その場にうずくまる。
迷宮酔いだ。
それを支えてくれる人は、居ない。酸味が胸元にまでこみ上げてくる。ラセツは、地面に向かって盛大に吐瀉物をぶちまけた。
「うぅ……おぇっ……」
胃の中が空になると、少しだけ楽になる。ラセツは、ふらふらと立ち上がり周囲へと視線を向けた。
真っ白。
世界は、どこまでも白かった。
「……」
ラセツはボゥッとその光景を眺める。
純白の景色が広がっていた。地面は平坦と言う訳ではなく、窪みや丘などを作っている。
「雪……じゃないわよね……」
寒さは感じない。むしろ、ほのかに暖かくさえあった。
地面に広がる白い粉をひとつまみし、匂いを嗅いでみる。磯のような香りが鼻腔をくすぐる。一舐めすると、しょっぱさが口の中に広がっていくのが分かる。
「塩……?」
広がっていたのは、塩の大地だった。塩を掻き分けてみると、その下には岩肌のような地面が見えてくる。どうやら、荒野のような空間に塩が数十センチほど積もった世界らしい。何百トンの塩があるのか想像もつかない。
ラセツは、後ろを振り向く。そこにあったのは、巨大で滑らかな壁だった。
壁には、塩の大地がそのまま続いていくと錯覚してしまいそうなほど、精巧な絵が描かれており、ラセツが触れると、異様にしっかりとした感触が跳ね返ってくる。決して薄い壁ではなく、ずっと向こうにまでその厚みがある、と肌で感じる。
ラセツは、首を上に傾けた。景色と同化した絵は途中で途切れ、その上には真っ白な壁が遥か上空まで続いている。グイッと上に傾けても、その終わりが見えない。
ラセツは、上を向いたまま壁に背を向けた。
壁は、中央に向かって沿っていく形だった。この空間が、円形のドームによって囲まれていると言うことが分かる。天井には二つの太陽が見えるが、壁で囲まれている空間である以上、あれも絵なのだろう。光を帯びて本物の太陽のように空間を照らしている為、ずっと見ていると目が悪くなってきそうだ。
「ここが、アーティファクト・ラビリンス……」
感慨にふけるかのように、ラセツは独りごちる。そして、白いまつげの美しい目を細めて、同じ色合いのこの世界へと視線を向けた。
「アーティファクトを、探さないと……」
そう言って荒い呼気を漏らす。ラセツは一歩ずつ、この空間を歩み始めた。塩の大地にブーツを半分ほど取られ、思うように進むことができない。
不意に。
ラセツは、気配を感じた。
「――」
白き塩の大地を、二匹の狼が悠然と歩んでいた。
狼達はラセツを認識した途端、身を屈め、戦闘態勢に入る。低く唸り声を上げ、犬歯を剥き出しにしながら飛び掛かる隙を伺うように、ラセツの周囲をゆっくりと周回し始めた。
「……」
ラセツは苦虫を噛み潰したように目を細めた。
アーティファクト・ラビリンスに当然のように生息している、探索者達を襲う、敵だ。
五級アーティファクトに存在する敵の強さは、ウサギなどのような小動物から、熊レベル。今にも襲いかかってこようとする狼二匹を鋭く睨み、ラセツは右手を構える。
ラセツの腕を彩る黄金細工の見事な腕輪が、揺れた。
一級アーティファクト、『死神の右手を操る腕輪』。
瞬間、狼の背後の空間に黒い渦が生じ、空間に亀裂が走った。その亀裂を更に引き裂きながら、勢い良く死神の手が飛び出す。狼がそれを認識し、回避行動をするよりも早く狼の身体を掴んだ。不可避の速攻――。
死神の手と同じく、握るような形をラセツの手は虚空に向かって作っていた。
死神の手が狼を握ったその瞬間、ラセツの持つ一級アーティファクトの能力が発動する。
皮膚がただれ始めた狼が、けたたましい叫び声を上げた。その叫び声が掻き消えるのと共に狼の身体が見る見ると萎んでいき、肉体が腐り落ちていく。瞬きをする間に狼は骨になり、次の瞬間には砂へと変わっていた。
狼だった物は、僅か数秒の内にサラサラと溶け、死神の手から溢れ落ちて行った。
――死神の手は、掴んだ相手の時間を経過させる。死神の手で掴めば、数千年や数万年の時間を一瞬にして経過させることができる。
「――」
同時に、ラセツが膝をついた。黒のスカートから覗く黒タイツが白い大地に落ちると同時に、その顔は、異常なほどに青くなっていた。
「はぁっ、んっ……。うっ……」
ラセツの呼気が、荒くなる。
死神の手のもう一つの能力が、ラセツを襲っていた。
死神の手は、殺した相手の記憶を全て奪う。
狼が生まれてからずっとこの空間に居たこと。小動物等を食い殺して生き延びてきたこと。
そして。
ラセツと対峙して。
ラセツが召喚した、死神の手によって掴まれ、死んでいくまでの記憶。
「あぁぁあああぁあっ……!」
全ての記憶が、津波のように脳内に注ぎ込まれていく。
自分がそこに立っている。右手を翳している。巨大な手に掴まれる。身体が腐っていく。熱い、熱い、熱い、溶けていく。死ぬ。殺される。
自分に、殺される――。
走馬灯のように駆け巡る中に、明確に死の記憶が刻まれている。恐ろしいほどの現実味を持った実感として、ラセツを襲う。あまりにおぞましい体験に、ラセツは身体を動かせなくなっていた。
もう片方の狼が、飛びかかってくるのが見えた。
怒り狂った猛り声を上げる狼に、ラセツは成す術もなく押し倒される。そのまま、狼は鋭い牙を剥き出しにしてみせた。ラセツの、喉笛に食らいつく為に――。
「……もう、死にそうじゃないですか」
不意に、声。
ラセツに乗っていた狼が、弾け飛んだ。
悲鳴を上げながら、空中遥か高くまで吹き飛ばされ、そのまま、巨大な塩の塊のように見える岩肌へと激突した。ピクピクと全身を痙攣させ、狼はそのまま動かなくなる。
倒れ伏したまま、身動きできないラセツを、整った少年の顔が見下ろした。
「ご気分はいかがです?」
息を何度も吐き出し、ラセツは悔しそうな表情を浮かべてみせる。
「……最悪」
「それは、助けられたことが?」
「……そうね。……でも、感謝はしているわ」
そう言って、ラセツは上半身をゆっくりと起こした。熱い物が喉元を通り過ぎたかのように、痛かった、苦しかったと言う記憶だけが残っている。結果だけ見れば、怪我も、何もない。
ラセツは確かめるように自分の手を見つめた。生きていることに安堵し、顔を上げる。ティムが居た。その横には――。
ティムの身体の倍はありそうな、二足歩行の機械。熊のような造形をした大柄の機械がそこに立っていた。
ティムが指を鳴らすと、熊の機械がハードレザーバッグの蓋を開け、その中にスルスルと潜り込んでいく。決して入らないようなスペースに見る見る消えていく。
ティムはラセツの持っている腕輪を一瞥し、にこやかに微笑んで見せる。
「かなり高位のアーティファクトに見えますが、良い言葉を送りましょう。猫に小判、犬に論語、と」
「……喧嘩を売っているの?」
「売りたくもなりますね。大口を叩いて単身で突入しておいて、五級程度で死にかけているご自身の今の状況を振り返ってみて下さい。ここに来た瞬間、いきなり貴方が死にかけていたのでびっくりしましたよ。もっと余裕ある状況だと思って僕、カクテルを飲んでから来たのですから。どうですか? 貴方がガキだと言う僕にそんな驚きを与えた気分は?」
ティムの嫌味に、ラセツはムッとした表情を浮かべてみせた。だが、ティムの目を見て怒りの感情がスッと消え失せる。
ティムの目には怒りの火がほのかに灯っており、強い言葉が心配の裏返しによる物だと分かったからだ。
「…………」
ラセツは、視線を落とした。
「どうして、私を助けてくれたの?」
ラセツの問いかけに対して、ティムは肩を竦めてみせた。
「逆に聞きたいですね。目の前で襲われている人を助けるのに、理由が必要ですか?」
その声に一切の揺らぎはない。本心から、そう言っているのだろう。
ティムはネクタイを少し緩め、アーティファクト・ラビリンスのゴール――青白く光を放っている二メートルほどの柱の方へと、整った顔立ちを向けた。
「ともかく……。早くゴールして、現実世界に戻りましょう。貴方の今の実力では、アーティファクト・ラビリンスを探索するなど無謀です」
「まだ、帰れない。私はまだ、アーティファクトを見つけていない……」
強く否定の言葉を示したラセツに、ティムは溜息をついた。そして、目を細める。
「何があったんですか?」
「――」
「聞きたいことは山程あります。貴方が、何者なのか? なぜ、一級のアーティファクトを所持しているのか? ですが、それよりもまず、動機が気になる」
明らかに戦い慣れていない一人の少女が、突如として探索者になろうとする。命を賭けようとする。その理由を、ティムは知りたかった。
「どうして、貴方はアーティファクト・ラビリンスに潜ろうと思ったのですか?」