1-2 突入
「……ラセツちゃん、ね」
女主人がそう言うと、ラセツが不快そうに白の柳眉を顰めた。
「ちゃん付けはやめて。なぜ、私がちゃん付けで、この子供がさん付けなの?」
「実績と、信頼の差ではないですか?」
ティムは肩を竦め、ラセツに背を向けて小馬鹿にしたような笑いを零した。
ラセツの鋭い目が突き刺さるが、ティムは意に介した様子もなくノンアルコールのカクテルを口につける。女主人が、ラセツに言葉を続けた。
「不愉快にさせたなら謝罪するわ。ティムさんも、ごめんなさい。説明を続けても良いかしら? ラセツさん」
「……」
ラセツは、黙ってゆっくり首を縦に振った。
女主人は手袋の位置を少し調整し、バーカウンターの下から五十センチほどの一つの杖を取り出した。カウンターテーブルに置かれた杖は、青白い光に全体を包み込まれており、バー全体の雰囲気も相まって幻想的だった。
「これは、五級アーティファクト、火渡しの杖です。効果は、この杖を振ると火柱が立つと言う物――。ご存知と思われますが、この、青く全体が光っている状態が非活性。すなわち、迷宮に繋がっている状態です」
アーティファクト・ラビリンス。
アーティファクトが、生み出す迷宮。
ラセツの蒼の目が、大きく見開かれる。
「綺麗……」
ラセツの反応を見て、ティムが怪訝そうに首を傾げた。
「……不思議ですね? その反応はまるで、『非活性のアーティファクトを見たことがない』かのようです」
ラセツは、黙り込んだ。図星だと、答えるかのように。
アーティファクトに素手で触ると、異世界迷宮へと転移する。
そして、異世界迷宮をクリアすると、アーティファクトを自由に使える状態になる。
「……どのような事情があるのかは存じませんが、知識をしっかり蓄えて、探索準備を整えてから潜る方が良いのではないですか?」
「そんな時間は、ないの」
ラセツの陰鬱な目が、ティムへと向けられた。ラセツが右手を構えると、細やかな装飾が施された黄金色の腕輪がキャンドルの光を反射して鈍く光る。
彼女の背後に漆黒が渦巻いた。
ガラスのヒビ割れのように空間に裂け目が走り、そこから、巨大な右手が滲み出るかのように現れた。
黒いモヤがかかったような、死を感じさせる化け物の右手。
およそ三メートルほどだろうか? シダレのように垂らしたその右手が、ラセツの右手の動きに合わせて、ティムへと掌を向けた。
力強く開かれた手は指先に筋が張っており、長い爪があまりにも禍々しい。
死神と形容するに相応しい手だった。
ティムは、それを見ただけで背筋に悪寒を走らせた。ぞわり、とティムの産毛が逆立つ。
「私は、必ず戻ってこれるわ。それだけのアーティファクトを持っている」
「――」
ラセツが白い髪を振り、手を下ろすと、それに呼応するかのように死神の手は煙のようにフッ……と消え失せた。
まるで、最初から何もそこに無かったかのように、いつものバーの光景が戻っていた。
女主人は一つ溜息をついた。額に脂汗が浮かんでおり、今の一瞬でかなりの恐怖心が彼女の心の中に湧いたのが手に取るように分かる。
有り得ない。ティムは、直感的にそう思う。
明らかにそれは、高位のアーティファクトだったからだ。
もしかしたら、ティムが所持している二級のバッグよりも――。
もし、それが一級ならば、数十億? 数百億? そのような莫大な価値を持つ物を、一人の少女が持っている。
彼女が手に入れた物ではないだろう。どのような事情で、彼女はここに居るのだろうか?
女主人が言葉を続けた。
「……それでは、五級から始めると言うことで……」
「どうして? 私は、一級を持っているの。もっと上のランクでも大丈夫だと思うわ。それこそ、二級とか、一級とか……」
「流石に、何も知らなさすぎる、と言わざるを得ないですね」
ティムが眉を顰めた。ラセツが怒りの目をティムへと向けた。しかし、構わずにティムは言葉を続けた。
「アーティファクト・ラビリンスの恐ろしさを知らないから、そのような無謀なことが言えるのでしょう?」
「何よ、子供のくせに……!」
ティムがカクテルを飲みながら、首元のチョーカーに取り付けられている、小さな翠色のプレートをラセツへと見せつけた。
「このプレートは、アーティファクト・ラビリンスから戻ってくることができた、と言う証明です。何級から戻ってきたかによって色は変わりますが、探索者の経験値の深さ。そして、強さを表していると思っていただいて構いません。しかし、貴方はそのプレートを、所持していない。つまり、四級以上に潜る資格を有していない」
「まぁまぁ……」
それを仲裁するように女主人が曖昧な笑みを浮かべ、ラセツに言葉を続けた。
「ごめんなさい。ティムさんの仰る通り、《プレート》を持っていない方が最初に潜れるのは、五級と言う決まりがあるのです」
「そう、なの……」
ラセツが僅かに落ち込んだように目を伏せた。しかし、意外にも素直に忠告の言葉を聞き入れる。女主人は言葉を続けた。
「それでは……。探索者として登録されるのであれば、登録料と、それから五級アーティファクトへ潜る探索料を合わせて……。五万を頂戴いたします」
「お金は、ない」
ラセツは端的にそう答えた。その言に、ティムは驚きを隠せなかった。
数百億の価値を持つ物を持っている少女が、五万を持っていない。意味が分からない。
ラセツは言葉を続けた。
「でも、私はアーティファクトを取って帰ってくる。それを売ったお金で、必ず、後で払う」
「いえ、しかし……」
言い淀む女主人。ティムが後ろポケットからマネークリップを取り出し、その中からお札を五枚、カウンターテーブルの上に乱雑に置いた。
それから、ラセツに対して笑みを零す。
「貸しておきますよ」
「……どう言う風の吹き回し?」
「少し、興味が湧いたので。僕に借りるのが嫌ならしまいますが?」
「……」
ラセツは、心底悔しそうに唇を噛んだ。
彼女の目から、不意に、ぽろりと大粒の涙が溢れる。
「えっ、あっ、いやっ。何でっ? 何で泣くんですかっ!?」
ティムがそれを見て慌てた声を上げた。ラセツは袖でゴシゴシと涙を拭い、気丈な顔を上げてみせた。一つ、深呼吸をおこなって、それからティムへと顔を向ける。
「……必ず、返すから」
「あぁ、うん。はい」
何とも居心地悪そうに、ティムはラセツに背を向けた。
女主人は困ったようにこめかみを押さえ、白い布の手袋をカウンターテーブルの上に差し出す。
「アーティファクト・ラビリンスの中でアーティファクトを発見した場合は、必ず手袋をつけた状態で持ち帰るようにして下さい」
「……分かったわ」
ラセツは手袋を受け取り、頷いた。そして、青白い光を放つ杖へと視線を向ける。
「ゴールは、青白く光っている一本の柱です。迷宮内に必ず一つあるので、そこに、素手で触れて下さい。現実世界へと戻ってくることができます」
ラセツの唇が、小さく動く。
「……ありがとう」
そして、青白い光を纏っている杖へと手を置いた。
刹那、彼女の周囲に光が走った。異世界迷宮へと転移する際に発生する強大なGに顔を顰める彼女の身体が、緑と白の光と共にフッと消えていった。
ティムは、消え去った彼女の姿を見て、呟く。
「何者でしょうね、彼女……」
謎だった。
しかし、あれだけ高位のアーティファクトを所持しているのであれば、五級程度なら楽勝だろう。それが例え、何の力も持たない少女であったとしても。
「何だか、喉が乾いてしまいましたね……」
ティムは、空になったグラスを女主人に差し出し、笑みを零す。
「ひとまず、もう一杯、同じのをいただけます?」