第三章 朧
「ほら、ティム! 早く早く」
帽子とサングラスをつけたラセツが、上機嫌にティムへと振り返った。
ティムは玄関先で革靴を履き、紐を結んでいる。
「そんなに急がなくても、こんな時間にスーパーは閉まりませんよ。……それにしても、まるで、テーマパークにでも遊びに行くかのようなテンションですね」
ティムは微笑を浮かべ、玄関先で立ち上がる。近場のスーパーへ行くだけだと言うのに、背中には当然のようにバッグが背負われていた。
「だって、一ヶ月ぶりの外だもの」
そう言って、ラセツは外の景色へと蒼の瞳を向けた。
「わぁ……!」
ラセツの薄桃色の唇から感嘆の声が漏れる。
夕焼けが、街を茜色に染め上げていた。地平線の彼方に落ちそうな陽光が、街全体を照らしている。
「綺麗ね……」
一つ呟いて、ラセツは深く息を吸い込んだ。それをゆっくりと吐き出して、体内に空気を循環させる。
「空気が美味しいわ」
「そうですか? アーティファクト・ラビリンスの中にあった森林の方が、空気は美味しくなかったですか?」
「そんなことないわよ。敵に襲われる心配もなく、何の気兼ねもなしに吸えるからこそ美味しいの」
そう言って、ラセツは微笑んで見せる。
「そう言う物ですか……。いえ、確かに、そうかもしれませんね」
ティムは納得して、頷いてみせた。
「さ、行きましょう。この国で、まともに買い物をするのは私、初めてなの」
まるで、今にもスキップをしだしそうな軽やかな足取りでラセツは歩き出した。ティムが、ラセツの後ろを歩いてついていく。
エレベーターを使って下まで降りると豪華なエントランスが見えた。そこを通り抜けて外へ出ると、心地よい風が吹き抜けてラセツの身体を撫でつけた。
背の高いビル群が立ち並んでいる都会の町並みが眼前には広がっていた。道路には車が往来しており、街が栄えているのが分かる。
目に見えて分かるようなアーティファクトの数は意外にも少ない。
アーティファクトは、高価な贅沢品に分類される。そのため、アーティファクトは一般に広く普及していると言う訳ではない。
空を飛ぶアーティファクトなどは少なく、数えるほどしかない。
「どうですか? 貴方の国と違う所はありますか?」
「何だか、町並みが上品ね。リアスターゼ王国の街はもっとごちゃっとしていたわ。活気はあったけど」
「都市圏は、そうですね。ただ、ちょっと田舎の方に行けば貴方の国よりも酷い場所は多々ありますよ。経済的な発展と引き換えに、人権意識などを犠牲にしてきた国なので」
そのような会話をおこないながら、二人は近場のスーパーへと辿り着いた。
「凄いわ! 人が、こんなにたくさん居る!」
店内に入るなり、ラセツは喜色を帯びた声を上げた。
時刻は夕飯時と言うこともあり、店内は雑多に混んでいる。
「うろちょろして、迷子にならないで下さいよ……」
ティムは溜息をつきながらそう呟いた。いつものように、ティムが保護者の立場だ。
ラセツは、サングラス越しにも分かるほど目をキラキラとさせて周囲をキョロキョロと見渡していた。どちらが年上なのか分かった物ではない。
「凄い、お肉がパックで包まれて売られてる……!」
「何が驚きなんですか?」
「凄いわ、ティム! これを見て!」
突然、ラセツが驚き戸惑ったような声を上げた。
「どうしたんですか?」
「こんなの、見たことない! どう言う味なのかしら!?」
そう言ってラセツが手に取ったのは、チューブ型の練りわさびだった。
「何が珍しいんですか……」
「ねね、ティム。私、これ欲しい!」
「ツンと来るのは僕好きじゃありません。買っても、どうせ貴方もそんなに食べないでしょう。無駄になる物を買うのは……」
「でも、試してみたいのよ!」
「まぁ……別に良いですが。貴方が好きな味では決してないですよ」
そう言ってティムは練りわさびをカゴに放り込んだ。
「ねぇねぇティム!」
「今度は何ですか?」
「あれは何かしら!?」
そこにあったのは、試食コーナーだった。小さな器に切り分けた野菜炒めを盛り付ける店員が立っている。
「あぁ、試食コーナーも見たことないんですね……」
ラセツはおずおずとそちらの方へ、吸い寄せられるように向かっていく。店員に勧められ、ラセツは小皿に取り分けられた野菜炒めをプラスチックフォークで口に運んだ。
「……! 美味しい! ティム!」
「……では、今日は野菜炒めにしましょうか」
仕方ないな、と言うようにティムは笑う。
ティムの許可が下りたラセツは、野菜炒めに使うタレをカゴに放り込んだ。満足したラセツは次の所へと目移りしたようで、トコトコと歩いていく。
海鮮コーナーで立ち止まったラセツが、ウニのパックを片手にティムへと振り返った。
「ティム――」
「今日の晩ごはんはもう決まりましたから、無駄な物はもう買いませんよ。明日食べたいと言う話であれば検討しますが……」
「……野菜炒めに、ウニが入っているのを、私、食べたことないの。もしかしたら、私達が先駆者になれるのではないかしら?」
「頭と舌は正気ですか?」
ティムが素晴らしい笑顔で問いかけた。
買い物を終え、二人はマンションへと戻ってきていた。二つあるエレベーターのうちの、片方がやってくる。
ラセツとティムは、お互いにスーパーの袋を持ってエレベーターに乗り込んだ。ティムがボタンを押すと、エレベータが上へと動き始める。
「ドッと疲れましたよ……。まさか、ラセツさんがあれほどに世間知らずだったとは……」
「でも楽しかったわ。ありがとう、ティム」
「まぁ、ラセツさんの気が晴れたなら良かったです。ですが、外に出るのはやはり望ましい状況ではありません。今度から、食材は前もってネットで注文しておきましょう」
「それでも良いけど、たまにはこう言う日があっても良いじゃない」
そう言ってラセツは、袋の中からチューブ型の練りわさびを取り出した。屈託のない笑みを前に、ティムは気が抜けてしまう。
意外にも子供らしさがあるラセツと、こんな何気ない日常を送るのも悪くはないのかもしれない。そんなことをふと思ってしまって、ティムは自然に零れる笑みを指先で直した。
ラセツはマジマジと、興味深そうに練りわさびのチューブを眺めている。ティムがラセツに言葉を投げかけた。
「そんなに気になるのであれば、一舐めしてみたらいかがですか?」
「でも……。はしたなくないかしら……?」
そう言いながらも、ラセツの目は練りわさびのチューブに釘付けになっている。よほど気になるのだろう。ティムは溜息をついた。
「ここには僕とラセツさんしか居ませんし、はしたないも何もないでしょう」
ティムの言葉に、ラセツは納得したように頷いた。そして、キャップを開けて中の銀のカバーを外し、練りわさびを指先につけて一舐めする。瞬間、ラセツの表情がギョッとした物に変わった。予想外の味に驚いたのだろう。鼻をつまんで悶えている。
「~~~っ!」
「……貴方が欲しいと言って買ったのですから、責任を持って貴方が処分して下さいよ」
「……多分、そのまま口にしたのが悪かったのよ。何と混ぜれば美味しくなるかしら? 何か、有効な使い方があると思うのだけど……」
「意外と懲りませんね。であれば、好きなだけ試してみて下さい」
そんな会話をしている内に、エレベーターが、ティムの部屋のある階――十四階へと止まった。
扉が、開く。
外には、一人の男が居た。エレベーターを待っていたようだった。ラセツは気恥ずかしさから、手に持っていた練りわさびのチューブを後ろ手に隠した。
男は夏場だと言うのに黒のコートと、革細工の手袋を身に着けている。フードを深く被っているが、そこからは銀色の髪が曝け出され、揺れていた。
その男を、二人は見たことがなかった。
瞬間、ティムの顔色が変わった。マンションの同じ階に住んでいる人間の顔をティムは覚えていた。意識していた訳ではないが、優秀なティムの脳みそは自然に覚えていた。
ティムの記憶のデータベースには、このような異様な雰囲気の男は存在していなかった。
街中であれば、このような違和感を覚えることはなかっただろう。ただ、この場所が自分が住んでいるマンションの階であり、今までに見たことがない男だった。ただそれだけのことが、ティムを警戒させた。
ティムは自然とラセツの半歩前に足を進め、庇うような体勢を取った。
「ティム……?」
ラセツが不思議そうな声を上げる。
杞憂であればそれに越したことはない。しかし――。
刹那、男の口角が不気味な程に上がった。