とある弾き籠りのオクターブ(心)を上げる語り
本当に個人的なことなので読まないでいただきたい。
引き籠りのタブレットの使い手健悟はある日、ドナーカードに臓器を提供しないという意思を表示せし、ドナー拒否意思表示者の一人であった。そんな環をあははとどんどん広げようという女の子がいた。名はない。与えられし名をただ名前だけのために生きているという女の子とリズムに乗ってただ引き籠っている俺はある日、がっかりするほどの殺人者であった。タロット占いなんかに頼れば悪魔のカードなんてざらに引く。人狼ゲームに参加すれば裏切り者のカードを引く。神は俺を見ていない。そんな俺は、「神は死刑だろうな。」と思っている。大事にしている記憶と未来を一つの訓練としてしか見させない訓練事業所もっこくはまさに俺にとってただのアパートでしかない。しっかり働く(もといその日の課題としてデイケアに出る)を繰り返して壱年は過ぎただろう。学校としてみるという作戦はまさに俺にとって俄然そのデイケアの事を恐怖することでしかない。恨み辛み多き人生わりかし過ごしてきた俺は自殺したいと思った。その結果、俺は左手に彫刻ナイフで傷を付けた。軽い傷であった。健悟は悪魔憑きであった。俺はそう思っている。大人になった俺には、あまりに子どもの見るものでない大人の恐怖足りうる姿の子供の大人になった姿が恐ろしくて仕方がなかった。所謂モンスターチルドレンの増加は醜い階級社会の姿を露呈している。スフィンクスは語っていただろう。「朝は四本足、昼は二本足、夜は四本足とはなんだ。」と答えは人間とアウグスティヌスは語っていた。仕方ない。アウグスティヌスについて調べてみますか。なんだかよく分からない人々(日本人の賛同)を得ている。アウグスティヌスならこう語るだろう。「無名の哲学者ほど美しいものはない」と。健悟さんはなぜ子供のころから健吾さんというもう一人の俺に苛まれるのだろう。教員が変わる中学の子供の頃あたりからだっただろう健吾と表記されるようになったのは。悔しいのはそれくらいだろう。一番尊敬する人はDECO27pである。2019年現在、俺は今も独身身でエッセイを書いている。自由なんてないこの世界で人殺しの歌を聴くのは
俺にはとても悲しいことだろう。ピノキオpという真っ黒な存在があってこそのネットなのかな…と思うのであった。了
心ってやつはやっぱ大事だね。