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不思議の街の阿佐ヶ谷  作者: 凪沢渋次
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5.阿佐谷北域記

 阿佐ヶ谷はクラシックの似合う街です。

豪壮で優雅なフルオーケストラで聞くクラシックではなく、街の喫茶店の、決してよくないスピーカーから、会話の邪魔をしない程度の音量で流れてくるクラシックです。日常にすっかり溶け込んで、まるで流れていないかのようなクラシック。それでも確かに凜とした主張があり、その曲が触れてきた悠久の時をも作品の味わいに取り込んでいる。阿佐ヶ谷はそんな街です。


 阿佐ヶ谷の大きな特徴と言えば、やはり巨大なアーケード、「パールセンター」でしょう。JRの阿佐ヶ谷駅南口から約1キロメートルほど続いている屋根付きの商店街は、住人にとって雨風問わず買い物ができる便利な施設であるだけでなく、夏の七夕祭りや秋のジャズフェスティバルなど、様々なイベントで観光客を呼び寄せている、この街の顔とも言える目抜き通りです。


 さて、ここでごく基本的な“アーケード”に関するお話ですが、どこの街にもアーケードはありますが、最初からアーケードとして作られた商店街は少なく、元々あった商店街に、後から屋根がつくのが一般的でしょう。屋根はほとんどの場合、建物の2階部分の上辺りに施され、つまり屋根の下から見ると、その建物は2階部分までしか見えなくなるのが定番です。しかしながら、アーケードにある建物がすべて2階建てだったわけではもちろんなく、中には、本当は3階まである建物、5階建てのマンション、いや、もっともっと高いビルディングがあることだって珍しくありません。つまり多くの場合、屋根の下から見ることの多いアーケードですが、よくよく考えてみれば、アーケードの上にも世界が存在するということです。


 阿佐ヶ谷のパールセンターもその例外ではありません。屋根の下の世界は常に買い物客で賑わっています。ほとんどの商店は1階部分にあり、まれに2階部分を使ったカフェや事務所などがあります。屋根の下行く人々は、まさかその上に世界があるなんて想像もせずに目の前の日常を生きるため、必死に行き交っています。伊能忠敬の日本地図に北海道が無いように、アレクサンダー大王の東征がインドまでだったように、人間にとっては把握出来るところまでが“世界”です。アーケードには、利便性の反面、人の世界観と想像力を狭める問題点があるようです。

 多分に漏れず、私も世界を過小評価していた者の一人です。パールセンターなど毎日のように通っていたのに、その上にもう一つの生活があることになど気付こうともしていませんでした。

阿佐ヶ谷のアーケードの屋根は山脈のような形をしています。つまり中心が高い三角屋根がそのまま延々と続いているのです。三角屋根の両端がちょうど建物の2階部分の天井の高さになっていて、その上の生活を下の世界からは隠しています。新事実を得てからというもの、気になってふと下から屋根を見上げてみると、曇りガラスになっている三角屋根の窓の部分から、ときたま、人影が見えたりします。下の者には受け入れがたい真実として、上にもそこそこの人通りがあることを思い知るのです。


 さて、私がどうしてそんなことに気がつくことになったかと言えば、例の商工会長さんのおかげでした。北側の商店街に居酒屋やカフェをいくつか経営している北の商工会長・野間さんと、神明宮の菓子替えで懇意になり、私は日を改めておしゃべりをする機会を得たのでした。

 場所は北のスターロード。北側最大の飲み屋街で、まさに北の深部と言ってもいい場所です。南側の人間である私がそこを一人でウロつくことなどまずありません。北側の住人であるハジメちゃんに付き添いを頼み、待ち合わせ時間に間に合うように、指定されたバーへ向かいました。

駅から一本北に入っただけなのに、まだ18時を少し過ぎただけだというのに、この道にはどうも、夜の怠惰と厭世の臭いが立ちこめているのでした。意外だったのは、間口の小さな、カウンターしかないような店ばかりが並んでいる印象があったスターロードでしたが、たまに料亭のような立派な門構えの店があったり、カジュアルなカフェなども混在していたことです。指定されたバーはそんなスターロードの中心くらい、薄暗い赤提灯と、薄暗い中華料理屋の間にある、不自然に明るい地下へ降りる階段の先にありました。まだそんなに遅い時間でもないのに、この周辺だけはやけに暗く、だからこそ余計にその入り口の階段が、オレンジ色に怪しく眩しく光って感じるのでした。

 階段の先の木の重たい扉を開くと、化け物が飛び出してきたかのように、内部の雑多な音たちがあふれ出てきました。すでに秋になっていましたが、そこだけは夏の深夜のような粘性を持った室温が立ちこめており、まさに禁断の扉を開いたかの罪悪感に襲われました。異国の祭りを覗き見しているような、意味不明の盛り上がりをしている店内。商工会長の野間さんはカウンターに一人で腰掛け、常連客と思しき同世代くらいのおじさんたちと愉快に盛り上がっていましたが、私たちの入店を見つけると、すぐさま、人のいい笑顔でこっちへ手招きを見せてきました。


 私とハジメちゃんはつとめて平静を保ちながら、それでも、野間さんと常連客たちへの敬意は怠らずに軽い会釈を交えながらカウンターに向かいました。野間さんの隣に私とハジメちゃんは座り、飲むものを聞かれたので、私はビールを、ハジメちゃんはジンライムを頼みました。まずはどんな話からしたものかと、秋だと言うのにまだまだ暑い日が多いとか、先日の台風で庭にどこかの看板が飛んできた話など、いくつかの選択肢を探っていると、飲みものの到着を待たずに野間さんは笑顔のまま私に言うのでした。


 「南の人なんだって?」


 私は言葉を失いました。北の深部であるスターロードの、そのまた深部であるこのバーに、南側の人間が来ていることが、いかに場違いなことなのか、阿佐ヶ谷に住んでいる者なら誰でも簡単に理解できることでした。拘束されて殺されるなんてことはないにしても、すぐさま追い出される可能性はあるため、私はその簡単な問いかけに数秒間答えられずにいました。

「いいんだよ、南の人だって、別に法律があるわけじゃないし。ねえ、タシロくん」

今度はハジメちゃんが絶句する番でした。いつもは陽気で、何に対しても物怖じしないハジメちゃんでしたが、野間さんからいきなり本名を呼ばれたのには、一抹の恐怖を感じたのかもしれません。

つまり、この商工会長は私たちのことをすべて把握していたのでした。

「今度はいつ連載できるの?前のドロボー家族のヤツ、面白かったんだけどねぇ」

ハジメちゃんは漫画家で、かつては週刊誌に連載を持っていたこともあったのですが、それが数週間で打ち切られ、それ以降は鳴かず飛ばずが続いていました。唯一連載されていた作品『ぬすっと猛々(たけだけ)』はドロボーの家族が繰り広げるギャグあり涙ありのヒューマンドラマでした。

 野間さんはハジメちゃんの連載漫画の内容までつかんでいたのです。「ぼちぼちです」とハジメちゃんは力なく返事したきり、ジンライムを作っているバーテンさんの手元から目をこちらに向けませんでした。

長いような短いような沈黙が会長と私たちの間に流れ、ようやく飲み物が私たちの前に到着すると、私たちの心の内などどうでもいいことだと言わんばかりに、ことさら陽気に野間さんは乾杯を求めてくるのでした。

 この後の展開が全く読めないまま、私はとにかく会長のおしゃべりに集中し続けました。

昔は駅前のこの辺りにもタヌキやイタチが出た話、会長自らがチンドン屋をやって街の活性化に努めた話、神明宮の神主とは小中学校の同期だという話。何の脈絡もないような、でも何かしらの結論に向かっているような、その謎を紐解こうとしてるかのように、私もハジメちゃんも会長の話に耳と言わず全神経を傾けていました。しかし、どんなに注意深く話を聞いていても、会長の話からこの会合の結末は導き出せないのでした。

 もうどれくらいの時間が経ったのか。会長の話には切れ間がなく、こちらがトイレに立ったり、時計を盗み見る隙間も与えないのでした。

 会長の話から耳目をそらせなかったのは、その話があまりによどみなく進むからという以上に、会長の視線が常に私とハジメちゃんに注がれており、目をそらしたら命まで取られそうな錯覚を覚えたからでした。会長はどの話題のときも、いちいち私たちの反応を確かめ、まるでそこから私たちのIDを盗みだそうとしているようでした。

 一杯目のビールはとっくに無くなっていましたが、会長の目配せで自動的に二杯目のビールが運ばれ、でも私はそれに口を付けられずにいました。話はどこかのタイミングから、会長が推理小説が好きだという話になっていました。集中して聞いていたはずなのに、どこから推理小説につながったのか、全く見落としていました。人イキレと古い空調のブレンドで、変な冷やされ方をしたねっとりした気体が、首の周りにまとわりつき、いい加減この場を立ち去りたくなった頃、会長がおもむろに「ではここで一つ推理をしてみよう」と宣言したのでした。

 この宣言を待っていたかのように、それまで私たちのカウンターとは無関係に雑音を構成していた他の客達が静まりかえり、私とハジメちゃんに注目をしたのでした。雑音が消えて初めて、店内に薄くショパンのピアノ曲が流れていたことを知りました。薄暗いが、たくさんの派手な攻撃色で、統一感を欠いた店内に、さらに不釣り合いな、可憐で楽しげなワルツを遠くで聞きながら、どうやら会長の本題がここから始まることを直感しました。ハジメちゃんも同じことを考えていたようで、やっと、目線を上げて、会長を見据えていました。


「まず、南の君が神明宮に来たのはおそらく私に会うためだ。そのためにとっておきの土産まで用意して」


どら焼き屋の“ダメカワ”のことだ。


「南の君にそんな入れ知恵をしたのはタシロくんだろう。なかなか見事な作戦だった」


ここまではすべて会長のお見通しだった。ハジメちゃんは表情を変えませんでしたが、内心は私同様今にも逃げ出したい気持ちでいっぱいだったことでしょう。


「では、何故、南の君が私に会いたかったのか・・・?私に何かを頼みたかったから、私にじゃないと頼めないことを」

 

名探偵よろしく、会長は得意げに自分の推理を朗々と吟じるのでした。私にはこのとき安楽椅子とパイプが見えたものです。


「私にしか頼めないこと・・・つまり・・・君は・・・北に店を出したい!」


カウンターの中で氷がカランと音を立てて転がり、私の張り詰めていた緊張感が肩から一気にずり落ちました。


「え?」

「北に店を出したい。違うかね?」


会長は得意を通り越して、仏みたいな穏やかな表情になっており、後はこちらの自白を待つだけだとの体になっていました。


 機を見るに敏、ハジメちゃんはすかさず

「違います」

と、会長のご満悦を打ち消しました。最初の数秒は会長もこの簡単な言葉の意味がわからなかったと見えて、表情を変えませんでしたが、すぐにそれは、驚愕、落胆、恥辱へと変化を表し、ついには安楽椅子ではなく、カウンターの、座面が穴だらけのスツールにゆっくり腰を下ろしたのでした。


 そこからのハジメちゃんの攻勢は凄まじいものでした。私がとても面白い動画編集システムの企画を持っていること、それを実現することがどれだけ有意義なことか、それが後々阿佐ヶ谷の経済にも大きく貢献するであろうこと、そして、それを実現するためにはある人物の協力が必要不可欠だと言うこと。シェイクスピアの長台詞を体得した名優かのように、熱を帯びつつも、しっかりとした美辞麗句をつなぎ、ハジメちゃんはシンとした北の酔いどれたちの注目を独り占めにして、私たち作戦の核心に触れたのでした。

「ぜひ、会長に紹介していただきたいのです。“ダイモクさん”を!」


 その名前を出したときの反応は人それぞれでした。その名前を知らない人もいたようです。また、ああまたその話かと、一気に興味を失った人もいた様子。野間さんの反応は少し意外なものでした。とても淋しそうに肩を落とし、体格まで一回り小さくなったようでした。

 南の若者が緊張と戦いながら北の深部に乗り込んできて、北の実力者である自分にすがってきたと思っていた会長さんにとって、その目的が自分自身ではなく、別の人物にあったことがかなりショックだったようなのです。ハジメちゃんはそこへのフォローも忘れていませんでした。「こんなことを頼めるのは会長しかいません!北に最大の影響力を持つ会長さんにならば必ず助けていただけると信じ、かく参上した次第!」後半は芝居がかり過ぎてきて、時代劇のようになってしまったハジメちゃんでしたが、どうやらこの名調子は会長の琴線に触れたようで。

「わかったよ。話を通そうじゃない」

と、“ダイモクさん”への橋渡しを約束してくれたのでした。


 会長はそれでも最後まで、「私でも相談に乗れるんだけどね・・・」と、やっぱり自分をもっと頼って欲しかったことをにじませており、この人物の優しさが十分に伝わりました。そしてまたいつか必ず、この人を頼みにこのバーを訪れる日が来るだろうと確信したのでした。


 さて、意中の人“ダイモクさん”と会える場所は意外な場所でした。

 その日、会長の口からは驚くべき事実が語られたのでした。

 

 「“ダイモク”は南にいる」

 

 果たして、私はアーケードの屋根の上、天上界に足を踏み入れることになったのでした。

 ビリヤード場の入った雑居ビルの階段を前に、私は一つ大きく深呼吸をして、不安と期待がない交ぜになった不思議な感情を胸にゆっくりと一段目に足を乗せたのでした。


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