2.白鼻芯奇譚
阿佐ヶ谷は多くの緑に囲まれた街です。
中央線と垂直に交わる中杉通りには、大きなケヤキ並木が続き、駅前の風景に季節感を与えてくれています。さらに南下すれば、善福寺川沿いに原生林も残る緑地や、春には桜が満開になる公園があります。神社や寺も多く、その境内はたくさんの草花で彩られており、また、閑静な住宅街には、未だに大きなお屋敷も多く残っていて、手入れの行き届いた、あるいは手つかずの庭木が各お庭の表情を演出しています。
阿佐ヶ谷という街では、時間が、人と自然が長い年月をかけて決めた、“本来”の速度で流れているのです。阿佐ヶ谷はそんな街です。
帰宅途中の路地の入り口に、杉並区の公式な掲示板があり、区民への注意喚起や区の公会堂で催されるイベントのお知らせなど、ポスターやチラシが事務的に貼られています。
そんな中の一つに、ここ数年ずっと貼られている気になるチラシがあります。如何にも大慌てで作られた、媒体としてのセンスは皆無のそのチラシには、大きくこう書かれています。
“ハクビシンに注意!”。
ところでハクビシンという動物をご存じでしょうか?元々は中国大陸に多い、タヌキによく似た動物で、鼻に真っ白いスジが通っていることから“白鼻芯”と呼ばれています。いつの頃からか、このハクビシンが阿佐ヶ谷界隈でよく目撃されるようになり、小さい子が手を出して噛まれたりしないように、この注意喚起のチラシが貼られているのでした。
森が多い阿佐ヶ谷のこと、以前からタヌキやイタチを見かけることは少なくなかったのですが、ハクビシンが見られるようになったのはここ10数年のことだと思われます。
たくさんの病原菌を持っているのだとかで、見かけたらすぐに通報することが呼びかけられ、通報したらばおそらくは、保健所職員あたりがそれを捕獲し、処分するつもりなのでしょう。
ところが、このチラシを目にする以前も以後も、ハクビシンの目撃情報はたくさん聞くものの、ハクビシンが“捕獲された”という情報は一度も聞いたことがありません。
私が初めてその獣に出会ったのは、3年ほど前の、ある夏の夜でした。職場で上司と大もめにもめ、ムシャクシャしていたため、気分転換に1杯だけ飲んで帰ろうと、駅の近くの、チェーンの格安焼き鳥屋に寄った帰りでした。こういうときの“1杯だけ”などいい加減なもので、数杯の発泡酒とたくさんの芋焼酎のロックをあおり、したたかに、いや、大いに酔っぱらっていました。
阿佐ヶ谷は、長く続く、賑やかなアーケード商店街が特徴的ですが、青梅街道を越えるとすっかり静かな住宅街になります。それがこの街のいいところでもありますが、夜になるとあまりにシンとしていて、男でも若干不安になることがある程です。
その夜もそんな、しっかりと暗く静かな夜でした。大きなお寺の横にある、小さな墓地の脇を通る小道が私の帰り道なのですが、そこにさしかかったとき、目の前にあの獣、ハクビシンが現れたのです。初めはそれがハクビシンだとはわかりませんでした。しばし見つめ合う時間を経て、鼻筋の白が怪しく光り、夜行性らしく瞳のギラギラと輝いている様子に、きっとこれがハクビシンであろうと、酔った頭にもピンと来たのでした。
突然目の前に、初めて見る獣が現れたことは、なかなかに衝撃的な出来事で、軽く“恐れ”を感じたのを覚えています。このときの“恐れ”は“恐怖”より“畏怖”に近く、だからこそ余計に、私の体は動けなくなったのだと思います。私は小道の入り口で立ち止まり、ハクビシンの動向を見守ることになりました。まるで動いたら噛みつかれる決まりがあるかのように、私は息を殺して静止していました。ハクビシンも道の真ん中で身じろぎもせずに、まっすぐこちらを見つめていました。どのくらいの時間、そうしていたのかよく覚えていませんが、かなり長い時間に感じていたのは確かです。私とハクビシンはしっかりとお互いの目を見つめ合っていました。正確に言えば、一度その目を見てしまったため、それを逸らせなくなった、というのが本当で、鋭く光るハクビシンの瞳は、私の目の奥にあった、感情の澱みダマのような部分をしっかりとつかんで離しませんでした。そしてその後、不思議なことが起こりました。ハクビシンがゆっくり、こちらに話しかけてきたのです。
「自分を信じろ」
まっすぐにこちらを見据えながら、ゆっくりと、でもハッキリと、私に語りかけてきたのです。口を開いて日本語でそう言ったわけではなく、テレパシーのようなものが頭の中に響いたわけでもなく、それでも確かに、ハクビシンは私にそう語りかけてきたのです。
「自分を信じろ」
なんとも漠然とした、まるでおみくじに書かれている文言のような、どうとでも解釈の出来る言葉。しかし、そのときの私には、不安に空いた穴ぼこのような痛みにピタっとハマる、説得力と勇気に満ちた一言でした。
入社4年目、後輩もできて最初の役職に就いたものの、自分の出した企画が全く通らず、それでも会社にとって、絶対に必要な事業だと自信があったので、会議の後に上司を捕まえ、直談判をした日でした。「会社には会社の事情がある」「社員のやりたいことだけやっていたら経営にならない」会議の度に、企画書を出す度に、何度も言われるこのフレーズ。「上手くいく根拠は?」「前例のないものに投資できない」、「保障のない投資は投棄だ」と、毎度交わされるこのやり取りに、本当に嫌気がさし、1杯のつもりの発泡酒が深酒に変わっていたのでした。
ハクビシンに背中を押され、私はその後少しして脱サラし、自分の力でかの企画を実現するための今にいたるのです。だから私にとって、ハクビシンは、ハクビシン様なのでした。
その後近所に住む知り合いに聞いてみると、ハクビシンに支えられた人の話は少なくなく、失恋のショックから立ち直った者、借金の悩みを解決した者、病気の不安から解消された者、すべてその影にハクビシンがあって、ハクビシンに感謝をしているという人が次々と現れるのでした。
ある秋の日、近所に住む舞台女優のありさと飲んでいたときです、話はありさの住むアパートの大家さんで、自宅で手話教室をやっているお婆さん、琴さんの件になりました。
古くから住宅街であるこの辺りには、築50年を越える古い家屋がまだまだたくさん残っていて、そこに住んでいる人々もまた、なかなかの年代物でした。阿佐ヶ谷の南部が、まだ「成宗」という地名だったころから住んでいる老人が、まだまだたくさんお元気で暮らしているのです。
琴さんも、そんな、この街の古参の1人で、そのお宅は都会には贅沢な木造平屋の大きなお屋敷で、ご主人を亡くしてからは1人で住んでおられました。暇をもてあましては、若いありさらを誘って、手話を教えつつ、紅茶を楽しむ会を開いているのだとか。しかし、少し前にありさが訪れると、いつも陽気な琴さんが、珍しく不安そうに天井をにらみつけていたのだそうです。そして誰かに聞かれないよう小さな声でありさに打ち明けたのだそうです。「屋根裏にハクビシンが住みついてる」と。
ありさも最初は何のことかわからず、何かの間違いではないかと、琴さんを励ましたのだそうです。野生動物が、人間の住んでいる家のすぐ近くの空間、屋根裏に住みつくなんてことが果たしてあるわけがないと、ありさには簡単には信じられなかったのです。しかし、琴さんは頑なに言い分を改めませんでした。琴さん曰く、ハクビシンは、昼間は全く静かにしていて、少しも気配を感じさせませんでしたが、夜になると活発に動きだし、その足音は下で生活している琴さんにしっかり聞こえてくるのだとか。特に、誰かからの電話で話しているときには、ことさら足音が激しくなり、相手の声が聞こえないほどなのだそうです。また、テレビを見ながら気持ちよくウトウトしていると、その足音はさらに激しくなり、少しもゆっくり寝かせてくれないのだと言います。
どうしたものかと琴さんに相談されたありさが、そのままその相談を私にしてきたという次第なのでした。
日を改めて、私はありさに連れられ、琴さんのお宅にお邪魔することになりました。そのお宅は、厚い生け垣に囲まれた瀟洒な建物で、平屋とは言え、かなり大きな瓦屋根を持つ、立派なお屋敷でした。瓦屋根でありながら、窓やドアなど、ところどころに洋風なデザインが施されており、作り手も住み手も、相当なセンスの持ち主であることが伺われるお屋敷なのでした。私は何度もその前を通ったことがありましたが、どんな高尚な種族が住んでいるのかと、遠い目で見ているだけでした。しかし、近くで見ると、どうしても築年数は感じられ、古めかしさは威厳と格式を醸し出しながら、同時にどこか、うら寂しく、か弱い印象も外界に放っているのでした。
私の初訪問に琴さんは笑顔で歓迎してくださり、ご自慢の紅茶だけでなく、初めて口にするような甘いヨーロッパのお菓子や、しっかりと醤油の旨味が染み渡った高級なお煎餅、またさらに時間が経つと、今度は夕飯の準備までしてくれたのでした。
本来なら適当な時間でおいとまをするべきところなのですが、この日はハクビシンの足音を確認するという大役があったため、無遠慮にご相伴にあずかることとなりました。
シャキシャキのキュウリとタコの酢の物から、甘辛く味付けされた鶏肉とにんじんの煮物、芋栗ご飯に、きのこのたくさん入った赤だしの味噌汁など、琴さんの手料理はどれもすべて私の好きなものばかりでした。「頂いたものだけど」と言って、良さそうな赤ワインまで出してもらい、私とありさは心の底から美味と優雅を満喫したのでした。しかし残念なことに、その日、本来の目的であったハクビシンの足音は全く聞こえませんでした。「せっかく来ていただいたのに」と琴さんはとても申し訳なさそうに頭を下げるのですが、こちらもこちらで、美味しい思いだけをいただき、何の役にも立たずに帰る申し訳なさでいっぱいで、帰り道、ありさとコンビニの前で小さな反省会をしたくらいでした。
琴さんからのお招きはこの後、実に3回も繰り返され、2回目はチーズフォンデュを、3回目はボタン鍋を、4回目にはトリの丸焼きの中にご飯が詰め込まれている、クリスマスに食べるようなご馳走を振る舞われました。
回を増すごとにグレードが上がる料理をいただくも、ハクビシンは一向に足音を立てず、私たちもいつしか、その最初の目的を忘れかけていました。しかし、その次に山菜の天ぷらを用意してくれると聞いて伺った回で、ちょっとした事件が起こりました。
いつも通り、私とありさはダイニングでビールを頂きながら馬鹿な話を続けており、琴さんがしばらくキッチンから出てこないことにも気付かずにいました。程なくしてキッチンの方から何やら煙たい空気が流れてきて、ありさがすぐにキッチンへ向かうと、大声で「琴さん!火事!」と叫んだのでした。天ぷらを揚げるための油が長く熱されていたために起った自然発火のようでした。ありさによれば、琴さんは油の鍋の前で呆然と、燃え立ち上がる炎をただ眺めていたのだそうです。ありさが琴さんを連れて表へ出て、私は何かで学んだとおり、たまたまダイニングにあった厚手の毛布を鍋にかぶせ、なんとか火が広がるのを食い止めました。消防車を呼び、それが到着するまでの間、他に火が燃え移ってないか、台所の隅々を、それこそ虫一匹見逃さないほどの集中力で検分しました。だからこそ、天井にあったちょっとした隙間から覗くあの視線にも気づけたのです。
古くなった天井板にはところどころに、普段なら気にならない程度の隙間があり、その向こうにある空間は、驚くほど深く濃い黒でした。しかし、そんな黒の中で、白く光る一筋の線が確かに動いたのです。そしてその瞳は確実にこちらを見据えており、今度は何も言わずにスっと消えてしまいました。あれは間違いなくハクビシンの瞳、ハクビシンの鼻筋でした。
もしかしたら、ハクビシンは、琴さんがやがて起こすであろうボヤ騒ぎを防ぐために、私たちを呼び出したのではないか?私たちはまんまとハクビシンに操られていたのではないか?ハクビシンを信奉する私にはそう思えてなりません。
その後、琴さんは千葉に住むご長男のお宅に引き取られたとかで、阿佐ヶ谷からいなくなってしまいました。あの瀟洒で居心地のよかったお屋敷も、まずは更地に、そして駐車場へと姿を変えてしまったのでした。
区の掲示板にはまだ“ハクビシンに注意!”の文字が貼られています。最近ではめっきり目撃情報も聞かなくなったハクビシン。それはそれでいいことなのかも知れません。ハクビシン様にお出まし頂かないといけないような、小さな不幸や不安が、この街から無くなった証拠ですから。
寺の横の墓地の脇の小道を歩きながら、今日も私は、少しだけ酔った頭でそんなことを考えているのでした。