16.中央道中膝栗毛
常に静かな阿佐ヶ谷の駅前ですが、土日の午前中の静けさはまた一際で、外へ出て歩き回ることに対して何かしらの戒めでもあるような、信仰心すら感じてしまうほどです。
JR阿佐ヶ谷駅の大きな特徴の一つは、土日祝日に快速電車が止まらないことでしょう。
阿佐ヶ谷駅は、路線で言うとJR中央線の駅です。しかし、普段はそこにJR総武線も通ります。さらに、東京メトロの東西線も乗り入れており、その3種類の電車、色で言えば、「オレンジ」と「黄色」と「水色」の車両が、小さなこの駅をせわしなく行き来しているのです。
しかし、さらに細かいことを言えば、阿佐ヶ谷駅からお茶の水駅までの間は、中央線と総武線が併走している区間なので、利用者からすると、2種類の鉄道が通っている、というよりは、「各駅停車」と「快速電車」の違いくらいにしか感じていません。
その「快速電車」であるオレンジの中央線が、土日祝日には阿佐ヶ谷駅を通過してしまうのです。
黄色い車体の総武線だけが土日祝でも阿佐ヶ谷と都心をつないでくれているのです。
ところが、ある日曜日、阿佐ヶ谷駅にオレンジの中央線が止まることになったのです。
ことの発端は、あるアニメでした。
阿佐ヶ谷は、実は“アニメの街”という側面も持っています。
昔から大手アニメーション会社のアトリエがあったことから、アニメーターやそれに関連する職業の人が多く住んでいたのだそうです。さらに、その影響なのか、アニメーターを志す人のための専門学校も多く、高円寺寄りの線路の高架下には、“アニメストリート”と呼ばれる、アニメーターやアニメファン御用達のお店がズラリと並んでいる一画があるくらいで、阿佐ヶ谷と“アニメ”は、文化的にも産業的にも、しっかりと結びついているのです。
そんな阿佐ヶ谷のアニメ専門学校生の1グループが、共同で製作したアニメ作品が、ネットで大ヒットして話題になったのがかれこれ2年前くらいのことでした。
『阿佐ヶ谷北東魑魅魍魎』というその作品は、本当の阿佐ヶ谷駅には実在しない「北東口」という改札から街に出ると、化け物たちが闊歩する異世界に通じている、という設定で、主人公の少女が次々に現れる化け物たちを倒しながら“自分の本性”を探しに行くストーリーなのでした。
地元民として一応興味があったので、全部ではありませんが、私も見てみたことがありました。かなり忠実に阿佐ヶ谷駅周辺が描かれており、また、いかにも阿佐ヶ谷界隈に住んでいそうな人が出てきたりと、阿佐ヶ谷をよく知っている人が作った作品だということはすぐにわかりました。
もともとは専門学校の卒業制作で、仲間内で作った作品だったそうですが、これがネットに出て大人気となったため、制作会社によってシリーズ化までされ、現在では約30本ほどの作品がネット上に挙げられているようです。
人気アニメの特徴とも言える、ファンによる聖地巡礼も盛んになり、いつの頃からか、阿佐ヶ谷駅周辺には、明らかに『魑魅魍魎』のファンと思われる人達が、スマホを片手に彷徨くようになりました。アニメに出てきた喫茶店は連日満席になっているとも聞いています。
私はそこまでアニメに詳しくなかったのでよく知りませんでしたが、現在のアニメ産業は、行政や他の産業と手を組んで広報計画を立てることも多いようで、まさに『魑魅魍魎』は、阿佐ヶ谷の商工会ともしっかり繋がっているようでした。聖地巡礼に訪れる人を睨んで、商店の方でも関連の商品が用意されていたり、街の風景の中に実際の化け物のオブジェをさりげなく置いておいたりと、作品の発表と同時に、そういった仕掛けを街全体で計画していたようなのです。
アニメーターたちは今や、ただ絵が上手いだけの人ではなく、そういったビジネスの感覚も持ち合わせていないと成功しないのだということを教えられました。
その辺りのことは、「阿佐ヶ谷演出家会議」ですっかり仲良くなった、アニメーターのあいりんからもよく聞いていて、実際、あいりんはこの『魑魅魍魎』の広報にも携わっている一人でした。
あいりんはアニメと実際の空間を結びつけることに大いに興味を持っていて、街のあちこちで見かける化け物オブジェのほとんどはあいりんのアイディアとのことでした。オブジェの製作はもちろん、置く場所のデザインから、そこに置かせてもらう交渉まで、ほとんどをあいりん自らやっていたのだそうです。
そしてこれまた彼女のすごいところで、そういったクリエイターたちの想像力をちゃんとお金に換える才能も備えているのです。
髪の毛がいつもショッキングピンクのあいりんですが、実は専門学校に入る前にはたくさんのアルバイトをしていて、その全てのバイト先で「ぜひ社員に!」と言われるほど、有能で、各会社の利益を倍増させてきた実績があるのだそうです。とかく、芸術的センスとは真反対だと考えられがちなビジネスの才能ですが、こういう二物を与えられている子がいるのはただただ羨ましい限りです。
さて、そんなあいりんに、中央線のラッピングの仕事が舞い込んできました。
『魑魅魍魎』の人気にJRもあやかろうと、春休みに「『魑魅魍魎』スタンプラリー」を企画したのだそうです。中央線の停車駅にキャラクターのスタンプを置いておき、それを中央線に乗って集めていくというもの。全スタンプを集められると限定のグッズが手に入るので、ファンには垂涎の企画、しかも、それをアニメの舞台である阿佐ヶ谷駅でもらえるというところが、特にファンを唸らせているようです。
この期間中、中央線のある車両にだけ、「魑魅魍魎」ラッピング車両を作ろうという話があいりんのところにやってきたのです。もちろんそれも彼女の撒いた種の一つだったのでしょうが。
車両には、主人公はもちろん、たくさん出てくる化け物たちも描かれることになりました。しかも、各エピソードに沿った描き方、例えば、窓を覗く癖のある化け物は電車の窓を覗いているような位置に、天井から現れる化け物ならちゃんと車両の上部から顔をだしている、というように、そこら辺もまた、あいりんのディレクション能力とクリエイター能力の合わせ技で次々と提案し、その効果を最大にしていくのでした。
その車両が阿佐ヶ谷駅に到着する時間を事前に調べて、専用サイトで発表することで、アニメファンたちが瞬間的に阿佐ヶ谷に大挙することもありました。一度に全車両を見ることはできないので、カメラでコンプリートするために何日も訪れる人がいたり、また、キャラクターの写真をいい感じに撮れた人が、それをSNSでアップすることで、さらにブームの火に油を注ぎ、『魑魅魍魎』は大きな波になっていったのでした。
そしてついに、当然のことながら、このスタンプラリーにも最終日が近づいてきます。
この日がなんと日曜日。阿佐ヶ谷を舞台にしたアニメのスタンプラリーで、しかもそのアニメのラッピング車両が、日曜日だという理由で阿佐ヶ谷駅に停車しない。これはあいりんや関係者にとってはあり得ないことでした。
企画が始まる少し前、あいりんと飲んでいた際、あいりんが私に、誰か商店街に知り合いがいないかと聞いてきました。理由を聞くと、JRの取り決めの中に、特段の大きなイベントがあるときなど、快速を臨時で停車させる特例があるのだと言うのです。つまり、その日、ちょうど阿佐ヶ谷の乗降客が増えることがわかっていれば、JRも快速を阿佐ヶ谷に止める決断ができるというのです。
これはなかなか面白い挑戦だと思い、私はすぐさま阿佐ヶ谷の南北の商店会長に話を持っていきました。
北口の商店会長の野間さんはすぐに、『魑魅魍魎』関連のイベントを企画することを了承してくれました。もともと『魑魅魍魎』の舞台となっているのが、主に北口の商店街であることもあって、『魑魅魍魎』人気の恩恵には大いに預かっていたのです。
しかし、南の商工会長、“白猫のぶーやん”は、すぐには了承してくれませんでした。
作品の中で、猫は“化け猫”としてしか扱われておらず、その悪の化け猫の親分は、誰がどう見ても、この“ぶーやん”をモデルにしているとしか思えないのです。
ぶーやんはそれをいたく気にしていたようで、全猫を代表して、『魑魅魍魎』における猫の地位を改善するよう、再三専門学校側に意見書を出していたのだそうです。しかし、作品の中のことなのでと、全く受け入れられないまま、アニメは完結してしまい、ぶーやんとしては行き場のない憤りを残したままだったようなのです。
私は、今度は逆に、そのことをあいりんに持ち帰りました。
あいりんの号令で『魑魅魍魎』のアナザーストーリーとして猫を主人公にしたスピンオフアニメを作るように提案したのです。
さすが、動きの早いあいりんは、瞬く間にプロジェクトチームを立ち上げ、その週のうちに化け猫目線で描いた『魑魅魍魎』、『魑魅魍猫』をネットに上げました。
この作品の中で、化け猫たちは、阿佐ヶ谷に一番最初に住み始めた先住民族として描かれており、後からやってきた人間や他の化け物のせいで立場が弱くなってきたこと、それを挽回しようと様々な活動をするも、裏目に出て、人々に忌み嫌われるようになる、という、化け猫たちの悲劇、そして行動原理を繊細に描き、その正当性をしっかりと強調していたのでした。
これは当初からぶーやんが求めていたものであり、実際、これを見たぶーやんは途端に機嫌を直し、すぐさま、南でもイベントを開催することを了承してくれました。
南口のアーケード全体に隠された『魑魅魍魎』と化け猫のオブジェをお客さんが見つけ出して、その見つけた数によってお店のサービスが受けられる、というシステムをあっという間にスタートさせたのです。
このイベントのため、中央の広場に巨大な化け猫像が出来ただけでなく、マンホールや床のタイルがさりげなく猫の目になっていたり、魚屋やウナギ屋の看板のロゴをよく見ると化け猫が隠されていたりと、そのこだわり方はむしろ、前々から計画していたのでは?と疑うほどでした。
さて、こういった動きをJRに伝えるのは、今度は行政や警察の仕事になります。
そちらに明るい、善福寺川のタヌキ連にお願いすると、すんなりと事が進んで、スタンプラリー最終日の日曜日、『魑魅魍魎』ラッピング車両の中央線が阿佐ヶ谷駅の停車することが正式に決定したのでした。
この珍事に沸き立ったのはアニメファンだけではありませんでした。
鉄道ファンも大いに盛り上がり、日曜日であることがわかる日付の表示と、阿佐ヶ谷駅のホームにオレンジ色の車体が停車している様子をどう撮ったら綺麗にカメラに収められるか、アングルを検討している様子がネット上でも話題になっているほどでした。
さて、そしてついにその運命の日曜日。阿佐ヶ谷駅は不思議な興奮に包まれていました。
普段の日曜日なら、チェーンが掛けられて中に入れないようになっている3番線、4番線のホームが、この日は解放され、早い時間からアニメファンと、鉄道ファンがそれぞれ大きなカメラを携えてホームを埋め尽くして待ち構えていました。
JRの粋な計らいで、この日の中央線は「阿佐谷行き」に。つまり阿佐ヶ谷を終点にするという演出を見せてくれました。ヘッドの行き先表示には、わざわざ「阿佐ヶ谷」の表示の下に(魑魅魍魎の世界)と追記される徹底ぶり、これはむしろ鉄道ファンにたまらないサービスなのだそうでした。
また駅の方も、駅ビルに繋がる小さな改札口に、即席の「北東口」という看板をつけ、その回りを化け物でいっぱいにしていました。この辺りのデザインにはもちろんあいりんも関わっていて、駅ビルすら、照明を少し落として、なんだか異世界かのような演出が施されていたのでした。
南北で行われたイベントはどちらも予想を上回る集客で、阿佐ヶ谷駅に中央線が臨時停車するのも妥当と思える結果を出していました。
昼間からいつもより賑やかな阿佐ヶ谷駅周辺は、商店街の人も街行く住人らも、みんなが楽しそうで、街全体がさながら遊園地にでもなったかの様相でした。
そして、15時。間もなくラッピング電車が阿佐ヶ谷駅に入線する時間となりました。
高円寺駅から真っ直ぐに伸びている線路の直線は、普段からフォトジェニックで、天気のいい日には鉄道マニアたちが、そこを通過する特急電車をカメラに収めるため、先を争ってホームの先端の場所取りをするくらいでした。
この日もそういった人たちは多かったのですが、やはりアメのファンの方が圧倒的に多く、気のいい鉄道ファンは、アニメファンによりよく撮れる撮影ポイントを伝授したりしていました。
中野駅を定刻で出発した『魑魅魍魎』の中央線は、なめらかに加速し、順調に高円寺を通過しました。
少しだけ傾き始めた太陽は、やさしい光をビルや線路に投げていて、その乱反射によってまるで回想シーンのように柔らかな画が完成していました。
ほどなくして、そこへ、輪郭の美しい、濃いオレンジ色の車体が遠くから現れたのです。
その姿が最初に目視できたときには、ホームから興奮の歓声が漏れ、一気に無数のシャッター音が響き渡りました。
その電車はまるで、遠くに見える新宿の高層ビル群から流れ出した一筋の液体のようにも見えました。
駅内アナウンスもこの日のためだけにアニメ声優によるものに替えられていて、ホームの興奮は最高潮に達しました。
徐々に減速し、静かに電車が入線すると、今度はまたラッピングの画に対するたくさんの歓声が入り交じり、シャッター音は多方向から多方向へ交錯を繰り返していました。
終点なので、車両はしばらくそこに止まりますが、そうとは言っても他のダイヤにも影響するので、停車時間は5分ほどでした。
日曜日だからこそ5分も止めていられたのであって、平日だとこうはいきません。
そういったことも含めて、このイベントはとても貴重な、希少価値の高いイベントになったのでした。
一つのアニメ作品が、ここまで小さな街を熱くさせるなんて、思ってもみませんでした。
作り手もファンも、商店街もお客さんも、住人もビジターも、全員が笑顔になれるイベントなんてそうそうあるものではないでしょう。
あいりんが作りたかったのは、アニメ作品ではなく、本当はこんな「世界」だったのかもしれません。
クリエイターにはまだまだやれることがある。そんなことを信じたくなる、信じられるようになった、素敵な日曜日でした。