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不思議の街の阿佐ヶ谷  作者: 凪沢渋次
15/17

15.一本映画土俵入り

 住人にとって、阿佐ヶ谷の印象は、駅前の賑やかさや、雑な洒落っけよりも、住宅街の静けさや、そこに漂うゆったりした時間の方に強く感じると思っています。私もそうです。荻窪ほど都会じゃない、高円寺ほどメジャーじゃない、そこが阿佐ヶ谷の“いいところ”なのです。


 住宅街の真ん中にある、小さな図書館に久々に訪れたときのことです。

 小さな図書館なので蔵書も決して多くないのですが、静かで混み合わないのがいいところで、荻窪の中央図書館より、ずっと居心地が良いのです。

 それだって欲しい情報はたいがい揃っていて、好きな本を座ってじっくり読めるよう、ちょうどいい間隔で、あちらこちらに椅子が配置されており、のんびり調べ物をしたいときには最適な空間なのです。

 私が、苦手な「AI理論」を、せめて上澄みだけでも学ぼうかと、理工学書のコーナーから比較的とっつきやすそうなものを数冊選んで、席に収まって斜め読みしてみましたが、やはり全く体に馴染まず、そっと返却台に返して、何事もなかったように2階にある区の公文書のコーナーへ移動しました。区議会の議事録に、楽しくも不毛なやり取りを見つけてはほくそ笑んでいると、小さな図書館には不釣り合いな大きな人影が視界の端に入ってきました。浴衣姿で髷を結っている巨大なシルエットは、間違いなく“お相撲さん”のそれでした。


 阿佐ヶ谷にはかつて大きな相撲部屋がありました。有名な横綱もいて、引退後は、相撲協会の理事にもなったほどの親方がいるような、それはそれは立派な部屋でした。しかし、時代の流れなのか、角界の勢力図の変化なのか、閑静な住宅街にいられなくなったようで、どこかの街へ引っ越してしまいました。この図書館、実はその相撲部屋があった場所のすぐ向かいにあり、まだ部屋があった頃は、図書館に向かう道すがら、よくジャージ姿の若いお相撲さんとすれ違ったものでした。部屋が無くなってからは、すっかりあの大きな影を見かけなくなりましたが、たまに出かける両国などで力士を見かけると、なんとなく懐かしい気持ちになるのでした。

 そんな“お相撲さん”が、突然、この小さな図書館に姿を現したのです。

 よくよく見ると、まだ幼い顔立ちで、髷もちゃんとは結えていない様子。如何にも新弟子という印象でしたが、その立派な体躯からは、間違いない、豪腕の気配が香ってくるのでした。

 力士は、大きな体を小さくして、書棚の下の方の段に向かって一生懸命何かを探していました。その様子がなんとも愛らしく、お節介ではありましたが、ついつい私は声をかけたくなったのでした。

 「何をお探しですか?」

 私はまるで、自分が“流しの司書”であるかのように、恭しく、丁寧に、でも好奇の目をギラつかせながら、若い力士に問いかけました。

 急に声をかけられて、お相撲さんはびっくりしていましたが、それでも敵意のない私を見て、やや情け無さそうな声で、

 「ニュージーランドの本はありますか・・・」

 と聞いてきました。


 見ればそこは「旅行書」の棚で、世界各国の観光ガイドや地図などが並んでいるのでした。

 ニュージーランドの本を探していた若い力士は、なるほど、最下段にあるオセアニアの国々の中から目当ての一冊を見つけたかったようで、狭い書棚と書棚の間で、体を丸めるのに難儀しているところだったのです。

 私はすぐ、力士に代わって小さくかがみ、オーストラリアだらけのその棚から「ニュージーランド」の本を抜き出して力士に見せました。

 「こちらでいいですか?」

 若い力士は嬉しそうにそれを手に取り、ごっつぁんです!と丁寧に頭を下げたのでした。


 親切としてはそこまでで充分なのですが、どうも私の好奇心はこの力士に魅せられており、簡単には彼を帰らせたくなくなっていました。

 「ニュージーランドに行かれるんですか?」

 力士とニュージーランドという、不思議な組み合わせに、どうしてもその奥にある魅惑的なストーリーを掘り起こしたくなり、私は思わず尋ねてしまいました。直感として、この力士なら私の好奇心に100点満点の応えを与えてくれそうな気がしたのです。

 力士は、今度は少しはにかんだ表情を見せて、その体格からは拍子抜けするほどの小声で、

 「映画に出たくて・・・」

 とうつむいたのでした。


 聞けばこの力士・ムサシくんは、元々はこの図書館の向かいにあった相撲部屋に、現在も席を置いている序ノ口の力士なのだそうです。というのも、出身がここの近所で、小さなころから例の相撲部屋に遊びに行っており、親方や女将さんからもかわいがられ、大きくなったらお相撲さんになりたい!とずっとその部屋に憧れを抱き続けていたのだそうです。

 幸いなことに体格にも恵まれ、小学生の頃から地元の相撲大会では大活躍をしていたとのこと。懇意の親方も、いまや遅しと、彼の入門を待っていたのだとか。中学を出ると、高校進学もせずに相撲部屋に入ろうとしましたが、そこは親からの懇願もあって、高校だけは出ておこうと、相撲部に入りながらも卒業を目指して入門は先送りに。部屋でも、それはそうだろうと、彼の高校卒業を待っていたのだそうです。そしてついに、高校を卒業したムサシくんは部屋の門を叩いたのでした。


 とんとん拍子での入門ではありましたが、実はこの高校時代に、ひとつ、ムサシくんにも相撲部屋にとっても、大きな事件がありました。

 事件と呼ぶにはあまりに些細なことではありましたが、ムサシくんにはとてもとても大きな“出会い”だったのです。それが“映画”との出会いでした。

 相撲にしか興味がなく、ひねもす相撲のことばかりを考えていたムサシくんでしたが、高校の同級生に誘われて、たった一度行った映画館が、彼の価値観を大きく変えてしまったのです。

 相撲以外にこんなに楽しい世界があったのか、こんなすばらしい作品が存在したのか、と。

 スクリーンには広大な砂漠と、そこを疾走する無数の馬群があったのだそうです。アラブの解放のために立ち上がったイギリス人のストーリーは余りにも有名な実話で、私も大好きな作品の一つでした。オールディーズながら、たまたまリバイバル上映されているのを、この若者は幸運にも見ることが出来たのでしょう。

 それからは相撲の稽古と平行して映画館に足繁く通う日々が始まったのだそうです。そして高校を卒業するころには、角界と同じくらい、映画界への憧憬が彼の心を支配していたのです。

 部屋に入ったのはいいものの、やはり甘くはない世界。近所の少年をかわいがってくれていた親方も、弟子に対してはしっかりと厳しく、想像していたようには結果を出せない自分にももどかしく、辛い日々が続くようになりました。そんな彼を励まし、温かく包んでくれたのもまた映画でした。コメディに救われ、ドラマに勇気をもらい、実話に希望をつなぐことが出来ました。

 数年が経ち、相撲と自分との距離に疑問を感じ始めたとき、たまたま目に入ったのが、ニュージーランドで撮影される大型スペクタクル映画の出演者オーディションの記事でした。

 普段なら手に取らないような、若者向けの公募雑誌がたまたま相撲部屋の居間に置いてあり、こっそり覗き読みしていたときに、裏表紙にあったそれを見つけてしまったのです。

 これを運命と感じたムサシくんは、親方にも内緒でこっそりと書類を送ってみました。そして、それがまさかの合格。面接にも通り、あとは3ヶ月間、ニュージーランドの撮影に参加するだけという段階にまでなったのだそうです。


 「親方は認めてくれたのですか?」

 私が控えめに尋ねると、力士は淋しそうにうなだれ、ゆっくり首を横に振るのでした。

 弟子の身分で、いったいどうやってオーディションを受け、合格までの粘り腰を見せたのかはわかりませんが、そのことを未だに親方に言えてないわけです。

 それでも、行きたい気持ちが抑えられず、小さな図書館でこっそりニュージーランドのガイドを探していたムサシくん。この健気でかわいい力士の話を聞き、私はなんとか応援したくなりました。


 ムサシくんの希望は、部屋に席を置いたまま、3ヶ月だけ映画に携わること。それがどのくらい無茶な希望なのか、相撲部屋の弟子をやったことのない私には計り知れませんでしたが、伝統やしきたりを大事にする相撲の世界のこと、息抜きの映画鑑賞くらいならまだしも、3ヶ月稽古を休んで映画の撮影に出向き、終わったらまた同じ部屋に戻ることなど、断じて許されないことだろうと、素人でも想像できます。


 悪巧みをするときの常套手段として、私は漫画家のハジメちゃんを呼び出しました。

 何故かタンシチューが一番美味しい和風居酒屋で、赤ワインとタンシチューとバケットをオーダーしてから、このかわいい若力士を支援するための作戦会議が始まりました。

 瞬く間に却下されましたが、最初にハジメちゃんから出たアイディアは「誘拐」でした。我々がムサシくんを誘拐し、ニュージーランドへ連れて行ってしまうという筋書き。

 この場合、ムサシくんは被害者なので、親方も破門にしようとは言いだしません。しかし、屈強な力士であるムサシくんが誘拐されるというのが何とも不自然な話ですし、まず、力士としてその後活動する際に、とんでもない汚点になりかねません。

 その後も真面目なのか不真面目なのかわからないようなアイディアがいくつも飛び交って、3時間ほど経過したころ、これだ!というものが浮上してきました。

 それはハリウッドの大物プロデューサーが相撲部屋に現れ、ムサシくんを直接、親方の目の前でスカウトする、というものでした。プロデューサー役の外国人はハジメちゃんの友達のロシア人、ニコライに頼むことにして、他にも、通訳の役で女優のありさを迎え、また一応本当に映画の話になったときのため、インディーズで映画を撮っている、阿佐ヶ谷演出家会議の太田さんにも立ち会ってもらうことにしました。

 細かなことも決めていきつつ、ムサシくんにベストな日程を聞き出し、ムサシくんスカウト作戦は決行となりました。


 さて、作戦決行の日。夜中に降った雨のせいで急に冷え込みが増した朝でしたが、相撲部屋の朝は早く、作戦のために我々も、午前5時に、相撲部屋の門が見える、住宅街の角に集合しました。朝稽古の前に行う、玄関掃除の際に、ムサシくんが外に出てきたところを、我々、“チームハリウッド”が偶然通りかかる、という段取りでした。

 何故、ハリウッドの大物プロデューサーが朝の5時から相撲部屋の前を通りかかるのか?という疑問はさておき、ハジメちゃんは、勝手にサングラスとダークスーツを用意してきて、実働チームに参加していました。おそらく誰かしらのSPの役なのですが、どういうわけかハジメちゃんは、さりげなく緊張していました。

 私は、万が一のときのために少し離れたところからこの様子を眺めていましたが、相撲部屋の前を何往復もしているこの集団は、どこからどう見ても不可解でしかないのでした。

 

 不自然な団体行動を始めてから約20分が経過したとき、ついに、門の前を掃きにムサシくんが外に出てきました。事前に聞いていたように、ムサシくん以外にも数人の同じような体格の若者も出てきました。手はずどおり、まずはカメラを構えていろいろロケハンをしている様子のチームハリウッドでしたが、急にプロデューサー役のニコライがムサシくんらを見つけ「スモウレスラー!」と大喜びで近づいて行きます。

 外国人ならスモウレスラーにとびついても不思議じゃない!と、ハジメちゃんは自信を持っていましたが、やはり早朝にこのテンションでカメラを回している様は、特に静かな住宅地では不自然な光景でした。

 しかし、意外なことに、その不自然さよりも、若い力士達にとっては、このカメラを携えた一行への興味の方が勝った様子で、ニコニコと歓迎ムードなのでした。

 「ジャパニーズ・ヒーロー!」「リアル・サムライ!」とひとしきり騒いだ後、ニコライは急に真顔になってムサシくんを見つけ「オーマイガー!」と頭を抱えるのです。

 何事かと見つめる力士達。早口で通訳に何か伝えるニコライ、深刻な顔でそれにうなづく女優ありさ、ふむふむ頷いたあとにちょっとカタコトな日本語で、

 「アナタ、とてもステキ、映画ムキ、とイッテマス」

 ありさがいったいどんなプランの役作りをしているのかわかりませんでしたが、それでも、雰囲気を醸し出すのには成功していたようで、力士たちはすっかり空気に飲みこまれていました。

 「今度ノ映画ニ、ゼヒ、出てください、とイッテマス、あ、どうもキャサリンです」

 勝手に名乗りだしてから、ありさは、ニコライが大物プロデューサーであること、その次回作が間もなくニュージーランドで撮影開始される事などを立て続けにしゃべり、そしてついには「親方ニ取り次いでモラエマス?」と、申し出ました。


 かくして、チームハリウッドはついに相撲部屋に潜入し、親方の目の前で、ムサシくんを引き抜きにかかるのでした。

 私はこんなときのためにハジメちゃんにマイクを渡していて、中の様子が音で聞けるように段取りをしていました。寒さでかじかむ手に白い息を吹きかけながら、駐車場の片隅で私は中の様子に耳を傾けていました。

 廊下を進んで、すぐの部屋に入ると、どうやら親方が現れて、座布団をすすめられてかしこまっていたのもつかの間、ありさはすぐに、ここまでの経緯をしゃべりだしました。

 本物の親方を目の前にして、やや緊張しているのか、ありさのカタコト具合は大分軽減されていましたが、ギリギリのところでキャラ設定は守られていました。

 まずは映画の魅力を伝え、どれだけ大きなプロジェクトで、公開された暁には大ヒットが間違いないこと、そして、その映画に、ムサシにぴったりの役があり、これを演じることが、ムサシのためだけでなく、相撲界の、ひいては日本全体のイメージアップにも繋がるのだと、何故か途中からはSPであるはずのハジメちゃんが熱く語り出していました。

 ムサシくんの表情はうかがえませんでしたが、空気から察するに、きっと気まずい思いをしていたことでしょう。ようやく声が聞こえたのは親方の問いに対しての返答でした。

 「お前はどう思う?」

 親方は、ゆったりながらも力強い音でムサシくんに問いかけました。

 「大事な3ヶ月なのはわかってるな?」

 なかなか反応を見せないムサシくんに親方は重ねて問います。

 やや間があって、マイクで拾えるギリギリの音量で、「はい」とムサシくんが答えているのが聞こえました。

 「ちょっと難しいです」

 と、親方はチームハリウッドに“否”の姿勢を表しました。

 「ちょっと待ってください!」

 急にまたSPが語り出しました。

「このオファーを断ると外交問題になる」に始まり、「この役は相撲で言えば横綱なのだ」とか「我々と“がっぷり四つ”でいきましょう」だとか、何となく相撲に絡めながら説得を試みていましたが、もう親方の気持ちは固まっているかのようでした。

 そろそろチームハリウッドもまとめて部屋か押し出されるなと感じたとき、やはり小さな音量でムサシくんの声がイヤホンの低音部から聞こえてきました。

 「やりたいです・・・・」

 マイクの向こうの世界が無音になりました。

 無音になったところにもう一度、今度ははっきりと聞こえる音量で

 「映画に出てみたいです!」

 とムサシくんの声が聞こえました。


 その後の沈黙は、10分だと言われれば10分に、数秒だったと言われれば数秒にも思える時間でした。耳だけで感じる部屋の様子でしたが、私はもうそこに同席しているかのように、真面目で熱いムサシくんを見つめていました。

 再度沈黙を破ったのもムサシくんでした。

 「ニュージーランド、行かせてください!」

 再び起った沈黙はすぐに、すぐにチームハリウッドの面々による「お願いします!」でかき消されました。おそらくニコライまでがキャラを逸脱した日本語で「お願いします」と頭を下げていました。

 また、長いような短いような沈黙があって、ゆったり、体の深いところから出ている声で、

 「最初から自分で言え」

 と親方が言いました。


 きっと親方は、この弟子が、相撲より映画に心を持っていかれていることに気付いていたのです。早くどこかで見切りをつけて新しい道を目指すように、もしかしたら公募雑誌も親方が居間に置いておいたのかも知れません。

 3ヶ月映画に全力で打ち込み、もし、そちらの世界に行きたいならそちらへ、もし相撲に戻りたいなら一番下の弟子として受け入れる、という約束を、何故かSPのハジメちゃんが取り付けて、無事にムサシくんのニュージーランド行きは決まったのでした。


 チームハリウッドはそのまま、24時間営業の唐揚げ居酒屋移動し、午前中から作戦成功の打ち上げをしました。ムサシくんも誘ったのですが、稽古があるからと断られました。ニュージーランド行きの前の日までは自分は力士なのだと、親方の弟子なのだと、少し前より「大人」の顔できっぱりと断ってきたのです。

 そんなやりとりもまた、お酒を美味しくさせた一因で、結局私たちは、そのまま深夜まで飲み続け、未来のハリウッドスターにして大横綱を想って、見事に酔っ払ったのでした。


 お酒の残った頭で駅前のロータリーを眺めると、クリスマスツリーとなった一本杉の上の方に、オリオン座がいつもよりも濃く明るく見えました。不器用な若者が、めちゃくちゃなやり方ででも夢に迎える街、阿佐ヶ谷はそんな街なのです。

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