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不思議の街の阿佐ヶ谷  作者: 凪沢渋次
12/17

12.大宮日記

 少しずつ、太陽の気配が出力を上げると、濃い青みが強かった空は、しっかりと白んできました。密度の高い木々の隙間にも、朝の光はちゃんと温かみを伝え、穏やかに地面に突き刺さしていくのでした。

 深い森で感じる朝。時間を感じさせないはずの世界で、それでも間違いなく流れている時間。

 そのことを、時計ではなく、色や温度、風や臭いによって感じられる悦び。

 常識や文字情報ではなく、五感を研ぎ澄ますことで本質を知る。のんびりした阿佐ヶ谷も、実はそんな街なのです。だからでしょうか、朝の森にいる感覚は、どこか午前中の阿佐ヶ谷の、控えめな雑踏を行くときと似通っていました。


 初詣などで何度も来たことのある大宮八幡宮でしたが、早朝の、しかも、さんざん“殿様”の話を聞いた後に訪れるこの場所は、全く違うものに感じられ、これまで以上に厳かな空気に包まれていました。

 神社に入るときの当然の作法として、鳥居の前で一礼をすると、案内人である門番の青年は、さも満足そうに頷いていました。

 森の深部から境内に入る道は、この神社の表参道ではなく、ちょうど脇腹の辺りから入りこむイメージになります。小さな鳥居をくぐると、細い道がひょろひょろと続き、もう少し歩くと表参道に合流するのですが、馬小屋はその手前にありました。

 これまで気がつきませんでしたが、この馬小屋は、それなりに立派な建物で、それもそのはず、入り口に掲げられている木札に依れば“神馬”がおわします場所とのことでした。

 ゴシゴシとブラシで床をこする音が聞こえてきていて、馬小屋の中で清掃業務が行われていることがすぐにわかりました。門番の青年はその音を確認すると、中に向かって「キョウコ!」と呼びかけました。

 「ん?」

 ブラシの音が止まって青年に応える女性の声。

「トオルか、おはよう」

 薄暗い小屋の中から聞こえる声は、青年への親しみがわかる無防備なトーンでした。

 門番の名前が「トオル」であることを、私はようやくこのとき知りました。

 “通せんぼ”が仕事である門番の名前が“通る”であることに、私はほんのちょっとだけおかしみを感じ、笑みがこぼれそうになりました。しかし、実はそれ以上に笑みをたたえているのは青年の方でした。

 この青年が、馬小屋の聖女、キョウコちゃんに好意を寄せていることは一目瞭然、火を見るより明かなのでした。

 朱色の袴に白の胴着の巫女姿で馬小屋から出てきたキョウコちゃんは、その伝統的な装束以外、至って今どきの女の子で、青年の隣に見慣れない私を認めると、視線で青年に「誰?」と尋ねながらも、「おはようございまーす」と、清々しい挨拶をよこすのでした。

「こちら、阿佐ヶ谷の方で、馬番に会いたいんだって」

と、つとめて仕事然と報告する体裁を保っていましたが、青年にとってこの巫女さんに会える口実は何であっても大歓迎だったのでしょう。業務連絡とはほど遠い全く別の感情で、表情は緩みに緩んでいたのでした。

「馬番に興味があるんですか?それとも馬が好きなんですか?」

 くったくのない笑顔で聞いてくる巫女さんは確かに愛らしく、青年が恋をする気持ちもよくわかりました。二人の周囲にだけ、秋の早朝の馬小屋とは思えない、温かい感情が漂っているのでした。

「馬はいないんですか?」

 小屋の中を覗かせてもらいましたが、馬の気配が無かったので、私は率直な疑問を投げかけてみました。

「今、殿がお乗りになってます、その間に掃除してるんです」

 思いがけず、キョウコちゃんの口から“殿”のキーワードが飛び出し、私はすぐに青年の表情を伺いましたが、この門番にとっては彼女の口からでる言葉は、どんな言葉でも美しい旋律に聞こえているようで、ただただ、ニコニコと聞き入っているだけでした。

「そうなんですね、お忙しいところをごめんなさい」

 私は、ここでも勇み足をしないよう充分に心がけ、しかし、これはお殿様に拝謁する好機でもあるので、少しだけ攻めてみることにしました。

「どうでしょう?少しだけ、お手伝いしてもいいですか?彼と一緒に」

 本来、馬小屋の掃除は重労働のはず、それを可憐な巫女さん一人にやらせているのは、普通に考えても不憫なこと。男である私とトオルくんが手伝えば掃除も早く終わるであろうとの提案でした。

 同時にこれは、青年の恋心を応援する機会でもあり、門番にしてみれば、今よりもさらに長く、巫女さんと一緒にいられるわけです。

 さらに、私にとっては、馬に乗って帰ってくる“殿”にお会いできる可能性もあり、門番と私の利害は一致していたのでした。

「え、いいんですか?」

 キョウコちゃんは全く警戒心を挟まずに、私と青年を見比べていました。もう一度青年の顔を伺うと、青年は巫女さんに向けて力強く頷いていました。まるで、それも門番として当然の仕事であると、あくまで業務の延長なのだとでも言うように、大きく大きく頷いているのでした。


 さて、外観から想像するよりも大分広い馬小屋の内部は、獣独特の臭いが薄くはびこっていましたが、それでもよく手入れはされており、このキョウコちゃんの一族の実直な仕事ぶりがうかがえました。

 ブラシ係を仰せつかった私は、力を込めてしっかりと床を磨き清めました。この床を磨くとお殿様への道が現れるような気がして、ブラシの先に想いを乗せていたのです。

 トオルくんはキョウコちゃんより、水くみを指示され、大きなバケツを抱えて少し離れた水くみ場へ走って行きました。

 キョウコちゃんは掃除が終わった床に新しいワラを敷き詰めていき、さらにその上に何やら細かい粉を撒いていくのでした。

「何を撒いているんですか?」

 と、私が尋ねると

「臭いを消す石です」

 と、何を当たり前のことを、とでも言うように、きょとんとした顔をしていました。

 無垢なこのきょとん顔を見て、私は、トオルくんが居ないこの間を使って、もう少し攻めてみようと考えました。

「お殿様はどのくらいで戻ってくるのでしょう?」

「まちまちですけど、だいたい、掃除が終わった頃に」

「掃除が長引いたら、お殿様もゆっくり帰ってくるってことですか?」

「そうですね。さっさと終わるとすぐに帰ってきますし」

 黙々と粉を振りながら、そんな話をしてくれるキョウコちゃんでしたが、そこだけ聞けば、まるで殿様の方が、掃除が終わるのをどこかで待ってくれているかのようにも聞こえました。

 つまり、もしかしたら、こうしている今も、どこかで殿様はこの様子を眺めているのかもしれないと。

 

 水を大量に汲んで、あっという間に帰ってきたトオルくんは、自分がいない間に、私がキョウコちゃんと何を話していたのかを執拗に問いただしてきました。私はこのかわいらしい青年を驚かせたり、傷付けたりしないよう、特に何も面白い話をしていないことを、ことさらしっかりと伝えることになりました。

 そうこうしているうちに馬小屋も大分綺麗になり、気のせいか、最初に感じていた獣臭もなくなり、新しいワラ独特の、懐かしいような香ばしさが充満していました。


 「終わりでーす」

 キョウコちゃんはこの部署の上長として、ビシっと指揮官のポジションをとり、私と門番に業務の終了を宣言しました。

 私も門番も、それに倣い、しっかり“気をつけ”をして、頭を下げました。

 「お腹空いたー」

 次の瞬間には、任務から解放され、普通の女の子に戻っていた馬小屋の巫女は、朝の日差しを全身に浴びて、はじけるように笑い、それまで以上に輝いて見えるのでした。私から見ても魅力的な一枚絵だったその瞬間です、きっと青年には、本物の女神が見えていたことでしょう。

 さて、この後はどうしたものかと、馬小屋の外観を何となく眺めていると、遠くから、あまり聞いたことのない、軽やかなリズム、しかし、ずっしりと重たい低音が響いてきました。徐々にそれは、音よりも振動としてこちらに近づいてきて、空気が、朝の冷気とは違う種類の張り詰め方に変わりました。

 その振動が、馬の並足に依るものだと気がついた頃には、私のこめかみに、肩口に、まつげの先に、巨大な影が映っていたのでした。


 「控えて!殿です!」

 門番と馬番はすでにその場に傅いていて、私も慌てて二人に倣いました。

 安定したリズムを保ったまま、馬がこちらへ向かってきています。

 その上にはお殿様が居るはずで、私は見上げたい気持ちをぐっとこらえておりました。

 やはりこの殿様は、掃除が終わるのをどこかから見ていたのではないでしょうか?あるいは遠くにいてもそれがわかる、何かしらの能力をお持ちなのではないか、すっかり温まった地面を見つめながら、私は忠実な僕の役を演じていました。

 不思議なもので、頭を下げていても、馬上の人間が自分を見つめていることがわかります。

 確実にお殿様は、この時間のこの場所では見慣れない、私の存在にお気づきで、誰かが私を紹介するのを待っているような気さえしました。

 玉砂利を蹴って近づいてくる馬は白馬で、その白さは巫女の装束よりも白く、均整の取れた曲線で、朝の陽光を乱反射させていました。

 一瞬、誰かに呼ばれた気がして、私は反射的に顔を上げてしまいました。私の鼻先10メートルもないところに、その方はおられました。

 背中の朝日と、それを乱反射させる白馬のせいで、シルエットでしか見えませんでしたが、その存在が、間違いなくこの地を治めるお殿様であり、高貴な血筋だけではなく、徳の高さや知性をも併せ持つ、偉大な人物であることは充分に感じられたのでした。

 見上げたのはほんの一瞬で、すぐさま私は、また自然に頭を地面に向けて傅いていました。さっきまでは僕を“演じて”いましたが、このとき私は、本当の僕になっていた気がします。


 特に言葉を発するでもなく、お殿様が静かに馬を下りると、キョウコちゃんはすかさず、頭は下げたまま、神馬に寄り、手綱をとって静かに馬小屋の中へ消えていきました。門番は時間が止まったように身動き一つせず、その方の放つ光に当たることすら不敬に当たる、とでも思っているかのように、忠義心と信仰心を持って小さく傅いているのでした。

 殿様が一歩ずつこちらに近づいてきて、視界にその足下が入ってくると、私は、これも反射で、目をつむっていました。それでも殿が近づいてくるのは気配でわかり、私のほんの頭頂部の先で立ち止まったことも感じられました。

「阿佐ヶ谷からいらした方」

 よく通る低音の声が、どこかから聞こえた気がして、それが自分のすぐ前のお殿様の声だと気がつくのに少し時間がかかりました。

「はい!阿佐ヶ谷から参りました」

 目をつむったまま私は、どういう感情かわからない不思議な感情のまま、それでも、とりあえず元気よく応えました。

「弓道場へ」

 と、また殿の声が聞こえると、今度は門番が、

「ハハァー!」

 と、境内中に響き渡るほどの声量で応えたのでした。門番の声の残響が消えるのと同時位に、殿の気配がすっと消え、私はまたも反射的に、頭を上げて目を開きました。しかし、すでに、殿のお姿はどこにありませんでした。


 トオルくんとキョウコちゃんに連れられて、私は弓道場に移動することになりました。

 弓道場は、馬小屋からそんなに離れていない場所にありました。境内の中ではありましたが、少し高い木々に囲まれているせいで、道場自体も、そこへ繋がる道も、非常にわかりにくくなっていて、まるで秘密の花園のような場所でした。

 私は「弓道場」という施設自体が初めてだったので、一般的に見て、そこが広い方なのか、狭いのかはわかりませんでしたが、第一印象としてはかなり立派な、美しい場所でした。

 時代劇で見たことがあるような、板張りの部屋が外に向かって開かれており、その庭の少し先に米俵のようなものが整然と並べられており、そこに、いわゆる的が貼り付けられていました。

 ここに連れてこられるまでトオルくんは一言も発せず、キョウコちゃんだけが、私をリラックスさせようと、やたらと話かけてくれていました。

「弓道場初めてですか?」

「殿はお支度があるので、ちょっと待っててくださいね」

「トイレとか大丈夫ですか?」

「あの的、私たちが作ったんですよ!」

 弓道場の持つ、厳かな緊張感とは不釣り合いなくらい、キョウコちゃんはよくしゃべりました。しかし、その所作の一つ一つは様式美をたたえており、それもまたさらなる違和感を醸し出しているのでした。

 トオルくんは神妙な面もちを少しも崩さずに、ただただしっかりと正座して殿を待っており、その姿はもはや“武士”そのものでした。


 どれくらい待ったのか、やがて、どこかで太鼓の音がなると、トオルくんとキョウコちゃんが頭を下げたので、私も真似して頭を下げました。奥の襖がすっと開くのがわかり、そこから先ほどのオーラがやってきました。今度はわりとすぐに、二人とも頭を上げたので、私もそれに倣い、頭を上げてみました。

 ちょうど見上げる位置にお殿様はいらっしゃいました。

 歳のころならおそらく50代、端正な顔立ちは、さながら白黒映画の時代劇俳優のようで、ちょんまげこそしていませんでしたが、その偉容は、間違いなく“殿様”なのでした。

 殿の登場をきっかけに、トオルくんは美しい所作で弓と矢を用意して、ここから、殿の弓の稽古が始まりました。

 私はトオルくんを含めたこの空間を、映画を見ているような感覚で眺めていました。

 殿の所作は、矢を受け取り、それを弓につがえ、弦を引き、矢を放つところまで、すべてが芸術的で、放たれた矢が真っ直ぐに空を切り、的の中心を射貫くところまでが、完成された“美”でした。

 弓道がスポーツではなく、舞や茶道の仲間であると、感性的にわかってくると、運動神経ではなく、高い精神性を持ち合わせていないと、あの的を射貫くことができないのだと、理屈ではないところで、私は得心したのでした。

 何本目かの矢を放ち、全てを的の中心に当ててから、お殿様はついに私に声をかけてくれました。

「動画配信のことだとか」

 こちらを見ないまま、急に確信に迫られたので、私はすぐには反応ができませんでした。それでも慌てて「はい!その通りでございます!」

 と応えると、また自然に頭を下げていました。

 殿はようやくこちらを向くと、

「そなたのやり方では時間が掛かる」

 と、少しだけ厳しい響きを含んだ声を私に投げてきました。

 私が応えに窮していると

「じいのところへ」

 と、今度は門番の方へ声をかけました。

「ハハァー!」

 弓道場に響き渡る声量で、門番がその指示を承ると、また、すっと殿の気配は消え、私が頭を上げると、やはり殿の姿はどこにもありませんでした。

 弓道場での一部始終、もしかしたら森に入って以降のこと全てが、妄想だったのでは?と感じる程、殿の言葉や姿の記憶は曖昧なままでした。しかし、圧倒的な力と光が、さっきまでそこにあったことは、腕や首筋や頬に、体感として残っているのでした。


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