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不思議の街の阿佐ヶ谷  作者: 凪沢渋次
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1.中央線沿線・異文化風説書

以前ショートショートで書いた作品『中央線には異世界があるってご存じですか?』を大幅に加筆修正して本格的に連載をスタート!

JR中央線・阿佐ヶ谷駅界隈に起る不思議と、それを見つめる「私」の日常。これを読んでからぜひ阿佐ヶ谷を、いや、自分の住む街を見直してみてください。

 東京の主だった街を東西につなぐJR中央線。

東京駅を出発し、神田やお茶の水を通り、中でも特に大きな駅・新宿は、東京人からしても「都会だ」と感じる、どこへ出しても恥ずかしくない本物の大都会。

 そんな大都会・新宿から各駅停車で5駅だけ離れたところにあるのが私の住む街、阿佐ヶ谷です。


 大都会・新宿まで快速で10分足らずの、とても便利な位置にありながら、どこかのんびりとした、温かな土着感がある街。“カフェ”より“喫茶店”、“JK”ではなく“女学生”、阿佐ヶ谷はなんとなくそんな街なのです。

 しかし、この阿佐ヶ谷には、そこで生活する者でないとなかなか理解しがたい、独特の“文化”があります。

それは地元の人間にとってはごく当たり前の光景で、とりたててそれについて話すことはない、とても小さな不思議。おそらく、1、2時間この街を訪れただけの人には、そんな“文化”が根付いていることに気づきすらしないでしょう。阿佐ヶ谷は、ごくごく小さな、他愛のない不思議が、静かな雑踏と豊富な自然の中にスーッと溶け込んでいる街なのです。


 数年前のある日のこと。阿佐ヶ谷駅の改札を見下ろせる位置に窓のある、チェーンのコーヒー屋で、酸味の強いブレンドを飲みながら、私は翌日が〆切りの企画書の仕上げをしていました。企画書を輝かせる、気の利いたキャッチコピーでもないものかと、天井を仰ぎ、店員の名札を覗き、コップの水滴を拭いたりして、妙案が降りてくるのを待っていました。窓ガラスにシミを見つけ、その先にある外の世界に目を落とすと、改札に向かって、エッチラオッチラと、前後左右にふらつきながら、大きなケースに入ったコントラバスを背負って歩く少女が見えました。阿佐ヶ谷駅周辺には、たくさんのライブハウスがあって、楽器を持って歩いている若者がとても多い。だからそれが、例え、イメージより大きいコントラバスだったとしても、別段珍しい光景ではありませんでした。

 何度出しても通らない企画書に、そろそろ嫌気がしていた私は、その不器用そうに歩くコントラバスの少女がどうにも気になって仕方ありません。


 少女は改札に近づくと、定期券かICカード、あるいはスマートホンでも出そうとしたのか、コントラバスケースのちょうど“腹”辺りをガサゴソとまさぐっていました。重さでフラつくくらい大きなコントラバスだから、その作業も一苦労の様子。しばらくガサゴソやると、やがて、ケースを開閉するチャックに手がかかり、後ろ手にチャックをソロソロと下ろしました。程なくして、わずかに開いたケースの隙間に少女は素早く手を入れ、ガサゴソと何やらを探し始めます。まるでケースが“生きている”かのように、大きく震え、少女はさらに大きくフラつきました。「しばし」というよりは長い時間、そんなことを続けていたのですが、少女はついぞ、定期券を見つけ出すことが出来ませんでした。すっかり冷めて、香りもしなくなったコーヒーを一口飲もうと、私がカップに手をかけたとき、コントラバスケースがもう一度、さらに大きくフラつくのが見えました。私はカップをテーブルに戻し、体をしっかりと窓の外の方に向けました。定期券が出てくるはずのチャックの隙間から、突然“脚”が出てきたからです。


 コントラバスケースだと思っていたそれは、大きな“カブトムシ”ケースでした。楽器を背負っている小柄な「少女」は、“カブトムシ”を背負った小柄な「虫弾き」だったのです。阿佐ヶ谷に昔から根付いているサブカルチャー“虫バンド“を、私が初めて目の当たりにした日の記憶です。


 阿佐ヶ谷駅周辺にいくつかあるライブハウスのうち、1つか2つは、“虫バンド”専門のライブハウスでした。虫の羽音や鳴き声、あごをカチカチさせる音などを巧みに操り、音楽として成立させるバンド、それが“虫バンド”。アーケードに面した比較的わかりやすい場所にあるライブハウスでは、確か夕べも虫バンドのライブがありました。終電で阿佐ヶ谷駅に着いて、歩いて家に帰ろうとすると、私はちょうどこのライブハウスの前を通ります。すると、そのライブハウスの前に長蛇の列が出来ていることがあります。終電の到着するような時間なのでもちろん深夜。虫バンドによる虫ライブは、だいたいそういう時間からスタートするのです。

 虫が夜行性だからなのか、昼間だとやはり嫌がる人もいるからなのか、とにかく深夜にそこを通って行列が出来ているのを見ると、私はいつしかごく自然に「今日も虫バンドか」と思うようになっていました。


 大学に合格して、この街に住み始め、数ヶ月経ったころ、一度だけ友人に連れられて虫ライブに参戦しました。その日は虫バンドの中でも特に人気のある、カブトムシの4虫奏ライブでした。巨大なヘラクレスオオカブトから、日本のコカブトムシ、クロマルコガネ、さらに台湾カブトムシと、4種様々なカブトムシによる演奏。私の最初の感想として、最も相応しい言葉は、「意外」でした。いったいあの固そうな体のどこから、こんなにも繊細な音が生み出されるのか?検討もつかなかったからです。甲羅の下の薄い羽を静かに揺らすことで起こる、細く透き通った音は、凜としてすがすがしい主旋律を担当していました。カブトムシの腹の産毛のような部分に弓を這わせて生まれる重低音は、曲全体のベースとして作品に安定感と格調を与えていました。また甲羅をハケやスティックで叩くパーカッションは小気味のよいリズムと情景描写を補い、曲の世界をより色鮮やかなものに仕上げていくのでした。とにかく、カブトムシから出るたくさんの音達は、絶妙に互いを引き立てながらも、しっかりと各々の音の存在を主張して、それはそれは素晴しい音楽を作り上げていきました。


 会社を辞めてから1ヶ月、午前中をこの、改札を見下ろすチェーンのコーヒー屋で費やすことは、私の大切な日課になっています。今日も気分転換に、窓の外の、慌ただしく、競って電車を使う人たちを眺めています。

 しばらくそうしていると、見覚えのある不器用な姿、以前に見かけたあの少女、虫弾きの姿が現れました。以前と変わらず大きなカブトムシケースを背負って、以前と変わらずエッチラオッチラと、そして改札の前まで来ると、またもやケースの腹をまさぐりだしました。デジャヴのように同じ失敗を繰り返す虫弾きの少女。どうもカブトムシの気に障る部分をいじくったのか、改札の前で、またもやイメージより大きなカブトムシは大暴れして少女を振り回し始めました。

 しかし、今度は虫弾きの少女も、暴れるカブトムシを落ち着かせる術を心得ているよう。ポケットから虫笛を出して、プープーと吹き鳴らし、カブトムシの注意を引こうとします。しかし、興奮状態のカブトムシは全く笛の音に気付きません。虫弾きは、今度はアメリカンクラッカーのような、グルグル回すことでカチカチ音のなる道具を出して、同じくカブトムシの関心を引こうとします。しかし、その努力も工夫も全く効果を見せず、むしろカブトムシをますます刺激したかのように見えました。少女は自分の無力をようやく察し、以前と変わらず、ただただ辺りの人にペコペコお辞儀をするのでした。

 今度もまた冷めたコーヒーを飲もうかとカップを上げた私でしたが、そこへふと、通りがかった老紳士が、おもむろにカバンから、瓶のようなものを取り出し、その蓋を外し、瓶の中身の臭いをまき散らすかのように、瓶を持った腕をグルグルかき回し始めました。カップをテーブルに戻し、しばらくその動きを見ていると、やがてカブトムシの動きは鈍くなり、老紳士の方に少しずつ近づき始めました。それはまるでずっと会いたかった母親に照れながらも甘えたがるように、もどかしいほどモジモジと、でも、ゆっくりだけど確実に、老紳士に向かっているのでした。老紳士は慌てず騒がずと言った佇まいで、静かに瓶を床に置き、近づいてくるカブトムシを優しく待っているのでした。瓶に引きよせられるようにジワジワ進むカブトムシ。ついに瓶に角が到達し、瓶を倒してしまうのではと心配になる距離になると、老紳士はすばやく、いつの間にか右手に持っていた火薬ピストルで、カブトムシの目の前に一発、銃声を響かせたのでした。窓越しのこの店にまでは聞こえなかったので、そこまで大きな音だとも思えませんが、カブトムシを驚かせるのには十分だったと見えて、カブトムシは仮死状態、つまり気絶してすっかりおとなしくなったようでした。

 虫弾きの少女はしきりに、またぺこぺこと老紳士にお辞儀をしまくっていました。老紳士は穏やかに微笑むと、瓶と火薬ピストルを何でも無いことのようにカバンに収め、ごく自然に改札の中へ進み、向かって左の総武線のホームへと消えていきました。


 捕り物の一部始終を見届け、コーヒーを飲み干した私は席を立ち、会計のためにレジに向かいました。

レジ前には何種類かの音楽ライブのフライヤーが置かれています。ライブハウスや小劇場の多いこの街では、近々行われるライブの宣伝のために、こうやって目につくところにフライヤーが置かれているのです。よく見ると、その中に、さっきの虫弾きの少女の写真がありました。真剣な表情でカブトムシを抱きかかえている写真は、先ほどの、ペコペコお辞儀をしていた彼女とは大違いの、まるでアーティスト然とした、美しい創造主の表情をしています。フライヤーを一枚手に取り、文字情報に目をやると、今夜の深夜0時、あのアーケード沿いのライブハウスで虫ライブがあるとのこと。蝉とカミキリムシとのトリオ構成、混虫セッションのようです。

 今夜も、もちろん明日の朝も、特に何の予定もない私。脱サラ組のいいところ。

久々に虫ライブにでも行ってみようか。会計をしつつ、フライヤーを二つに折って、カバンにしまいました。深夜までは大分時間があるので、荻窪の図書館まで歩いていって、どこかで昼飯でも食べようか。あえて善福寺川沿いを歩いてもいいかもしれない。今時期はあそこの新緑が気持ちいい。

 

 阿佐ヶ谷の街には今日も、小さな不思議が日常に漂い、ゆったりとした時間が流れているのでした。


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