地獄から見上げる空
躰が熱い、昨日入った風呂より熱い。
体のあちこちに荊が巻き付いている、そう自覚したのは少し後のことだった。
ふと、前を見た。竜が佇んでいる。こちらを見つめたまま動かないでいる。その目には、確かに脅えがあった。
どうしてだろう。あれほど敵わないと、立ち向かえばたちまち肉塊と化す、そう思っていたのに。
なんて、なんと可愛く思えてしまうのでしょう。
『さあ、力を奮いなさい。これは貴方の力よ』
嗚呼、嗚呼、眩む。濃厚な死の香りに狂気が混ざる。見失ってしまえ、見放してしまえ。お前を止めるものはもう、この世にいないのだから!
「全てを喰らい、貪り尽くせ―――」
全部亡くなってしまえ、そう願ったのは私だったのだろうか。朧に霞む世界の中で、そんなことを考えた。
「『荊の処女』ッ!」
地面から伸びた、数多の荊が天を突く。それらは四方に広がって―――
死体を啄み始めた。焦げたもの、容が残っていないもの、それらの上を蹂躙する。無論彼の、ヴィリィの両腕も。
ビチビチと肉が跳ね、溢れる黒い血はまるで噴水の様。
嗚呼、ああなんて甘美な罪の味。頭がおかしくなりそう。染みわたる魔力に体が震える。もっと、もっと欲しい。飲み尽くせ、呑み干してしまえ。私に全てを捧げるがいい!
いつしか私は笑っていた。血色に染められた空を仰いで。
どこかから声がする。女か、それとも子供だろうか。でも、その声もすぐ消えた。きっと喰ってしまったんだろうな、私が。
…あれぇ。私、なんで人を。
スッと、唐突に何かが無くなった。音が消える。空が赤い、私は何をしたんだ。
死骸を喰らった。生者の命も食んだ。彼が守ろうとした、そして守った人たちを。
『どうしたの?もう魔力は十分食べたでしょう』
違う、そういうことじゃない。
『さあ、これは貴方/私を守る戦いよ』
剣を取り腹に突き立てようとする。
『貴方が死んだら…後ろにいる彼らはどうなるのかしら』
知ったことか、町の人間は誰も手を差し伸べてくれなかった。
『彼はきっと、悲しむわ』
食いしばった歯の隙間から、自然と漏れる嗚咽。
分かってる。分っている!
「私は、アレを倒す。必ず」
柄を持ち直し、見据える前方に巨影。
『貴方はそれでいいわ…私は違うけれど、ね』
心の奥底、深淵に浮かぶ笑みが余りにも不気味で目を逸らした。
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魔力は十二分。人の命を吸い取ったのだ、此処で結果を出す。
右手に触れた剣は、まるで私の中にまで入ってくるように飽和した魔力を貪った。
柄から感じる剣の鼓動、錬成された高い密度の力がそこにある。生命力の塊といっても過言ではないそれは、刃の切れをより一層研ぎ澄まし、意外なことに余剰分を返してきた。
前方に目を据える。竜が少し小さくなったかのように見えた。
これなら、いける。
確信と同時に動く。丹田に溜めた魔力塊を一挙に放出する。収縮させた筋肉はバネのように。前へと跳躍する体は吹き抜ける風と化し、踏み込む足は大地を揺るがさんとした。
目標、眼前。必ず殺せ。
刃に乗せた冷たい殺気が腹を薙ぐ。彼が付けた傷だろう、そこをもっと深くと抉り取った。
血が、腸が溢れて零れ落ちる。咆哮はまるで悲鳴のよう。近距離で響く大音響に頭が痛む。剣戟の止んだ瞬間に飛び立とうと振るわれた両翼。その暴風は軽く人を吹き飛ばせるくらい。
剣を大地に突き立てても、体は空中で風と踊る。
「『荊』、貫き引き留めなさい」
呟いた言葉が荊を呼ぶ。空へ浮いた竜の、その巨木のような四肢を貫いて縫い留めた。地に落ちた巨躯を切り刻まんとしたその刹那。
目の前で、大口が開かれた。喉奥に見えるのは、せり上がってくる業火の片鱗。
「『荊』ッ!」
咄嗟にその咢を縛ろうと荊を放つ。少し遅かったか、巻き付く途中で炎が溢れた。瞬時の思考が選択したのは、跳躍。もちろんそれだけでは避けようもない。だから
足元から呼んだ荊を足場に、天へ。腕ほどの太さの茎を蹴り昇り、高みへ至る。
―――直上は、頂いた。
浮遊感、重力からの解放。瞬間、落下が始まる。逆手に取った剣を振りかぶって、狙うは右の眼。凄まじい加速と勢いに、鱗はその意味を成さぬ。眼球が確実に潰える手ごたえを感じた。
痛みに悶え、苦悶の咆哮が牙間から洩れる。拘束から脱却せんと足掻き、私はふるい落とされた。
荊の緊縛も、既に持ちそうもない。終いには、断裂音と共に引き裂かれた。大きく翼を奮った竜は先程と比べようもない爆風を残して颯爽と飛び立ってゆく。
「追いなさい!」
追撃に放った荊は、その悉くを焼き払われた。奴は最早、手の届く範囲にいない。
逃した、爪が甘かった。殺しきれなかった。災いの芽を摘み取れなかった。奴は傷を癒して再び悲劇を生むに違いない。
彼と、彼が守ろうとした人、私がとどめを刺してしまった人々。それらに合わせる顔がない。
いつしか涙が零れていた。もう泣いたってどうにもならないって、そんなことは分かっている。
私は人殺しだ。彼らの死を、私は無駄にしてしまった。罰を受けるべきだ、糾弾されるべきだ。
でもここにはそれを証明できるのは私しかいない。このまま墓場まで持って行っても、きっと待つのは地獄だと。分っているのならば、私は―――
刃を首に、地に濡れた輝きが冷たい。
『もしも、貴方が私/貴方に罪があると思うなら』
このまま、死のう。
『その罪、償いなさい』
此処で断ち切ってしまえ。それがきっと、一番楽だ。
『貴方/私には未だ為すべきが残っているわ』
荊が私に巻き付く。
『俄然、貴方に興味が沸いたわ、きっと貴方なら成し遂げる。私/貴方が為しえなかった悲願を、ね』
自分の思い通りにならない強い力に、無理矢理剣を下ろさせられた。
「…悲願って、何」
『貴方/私が全ての罪を赦す立場になる、ということよ』
意味が分からない。
対面した意識、心の奥深く。私が底で笑っていた。
感想も、批評も、評価も欲しいっス…
モチベバリ上がりますっス。何卒よろしくお願いします。