外れた歯車は咽び慄く、そして
揺れる箱の中、暖かな空気が眠気を運ぶ。昨日はぐっすりだった姫さんももう寝ちまった。
俺の膝を枕にして。筋肉の塊に頭を乗せていて、痛くないのだろうか。
昨日はあれほど拒絶していたのに、すっかり心を赦したようである。
車窓から顔を出せば日差しが。若草の香り、車輪は回る。遠く見える先頭の馬車、列は続いていた。
今日の夕方、次の町に停まる。そこでまた一泊して次の日には帝都だ。俺もそれまで寝ていようか、どうしようかと考えつつもうとうとし始める。
視線を下げて、ユリアーナの髪に手を添える。陽気が体を包み、心地の良い誘惑に視界は狭く細くなっていった―――
どれほど眠っていたのだろう。衝撃が目覚めを強制した。車輪が石に乗ったとかいうレベルじゃあない。
覚醒していく意識と共に、五感も機能を取り戻していく。
窓から見える空、車が横転しているのか。
焦げ臭く、煙たい。
悲痛な声、何を叫んでいるのだ。
ユリアーナは…寝ているのか気絶しているのか分からない。
天井と化した扉から這い出る。
頭を出し、見渡せば辺りは地獄の様であった。転がっているのは積み荷。道から外れた馬車、燃えているものも。逃げ回り猛る馬。そして―――
血の匂い。原型を留めず転がる死肉。生者の群れは喘ぎ、懇願し、または厭世に空を見上げる。
見上げる先には、何か大きなものがいた。黒い影、空を覆い尽くす正に絶望の象徴。広げた羽は爆風を生み、鋭い爪が首から上をさらう。炎が倒れ伏した者達を焼き払った。
「飛竜…」
誰がそう呟いたのか。自分だったかもしれない。そんな呆然自失の中を一人立ち上がる。
今立ち向かえるのは俺だけ。騎士は皆、さっき入違ったのだ。此処には無力の商人しかいない。
彼らを、何よりユリアーナを守り切れるのは俺だけだって
「分ってる、だから」
力を貸せ、魔剣。
はらり、巻かれていた布が落ち、露になった刀身が戦火に煌めく。
無謀だと、無茶だと、言われなくたって分っている。分かっちゃいるがそれでも
「ヴィリィ…?」
背後から声がした。それはそれは本当に悲しそうで、今すぐにでも抱きしめてやりたいぐらい。
「大丈夫だ、だから」
肩に剣を担ぐ。
「ちょっと先に行っててくれや」
何か言いたそうな唇を噛みしめて目を伏せた。俺もユリアーナも分かっている。分かった上で
「貴殿を、信じます」
そんな顔するなって、綺麗な顔くしゃくしゃにしてさ。
そら、走れ。振り返んなよ。
去る影見送る。
「さて、お前もやっと輝けるなァ」
柄を両手で握りしめる。覚悟はあるか、そう問われた気がした。
覚悟はある。同時に後悔も、無念だってある。だから
睨めつけるはたった一点、目の前に堂々降り立った彼奴の顔面に。
声を大にして叫べ。
「全部まとめて、ぶった切ってやらぁ!」
******************************
目覚めた時、傍らに彼はいなかった。言いようのない不安と孤独。否、これは恐怖であるか?
私は無力だ。守ってもらわなくては出歩くことすらできないのだと。守ってもらう人間がいなければ。いなければ私は―――
ひっくり返った馬車から這い出た。凄惨とした辺りに、巨影が落ちる。
そこに独り、大地を踏みしめる男がいた。
「ヴィリィ…?」
ずっと傍にいて。私から離れないで、一人にしないで。ずっとずっと抱きしめて、私を守って、お願い…
「大丈夫だ」
だから?待てっていうの?
私もう待てない。だってずっと貴方を、守ってくれる人を待ち続けた。もういや、もうあそこには戻りたくないの。
ちょっと先に行っててくれや、なんてそんな。
私は無力だ。彼のために何一つできない。握りしめた拳で涙を拭う。彼は立ち尽くす、此処にいる皆を、何より私を守るために。
「貴方を、信じます」
必ず守り切ってくださると。
踵を返して私は歩く。
早く行けと声がした。
精一杯私は走る。
『それでいいのだ、お前はそれで』
最後に、彼じゃない誰かの囁く声がした。