逃避行
ユリアーナがそっと、後方を伺う。
「…だれか、居ましたね」
刺客の、隠しきれない殺気は空気を僅かに赤く滲ませている。
脅威が迫っていると認識したのはつい先程の事。私たちが気づくより先に、奴らは動き出していたということか。
「ユリアーナ、居なくなるのは私も一緒の様です」
城内は危ない、留まれば必ず殺される。周囲全員が敵の可能性だってあるのだ。兄は近衛騎士団長、帝にも近い。彼が敵ならその直近だって―――
「完全に暗くなったら此処を出ましょう。準備してください」
城下の外れに隠れ家を用意してある。まさか使うことになるとは思ってもいなかったが。
最低限生活できる程度の用意は向こうにある。数冊の魔導書と軽い装備を詰めた。
「準備、できました」
という声に、振り向いて一瞥する。
「ユリアーナ…貴方は」
町娘のような軽装と、小さな背中に武骨な剣。アンバランスを身に纏って立っていた。
「行きましょう、案内をお願いします」
「その前に、剣は私が預かります」
彼女にもう、戦う必要はないはずだ。いざとなった時前に出るのは私なのだから。
「分かりました、では」
想像していたよりあっさりと手渡される。もっと抵抗あるものと思っていたのに。
「これは私のものではありません。彼の、そしてヴァインツィアル家のものです」
私か、それとも他の誰かが願った時、きっと彼女は剣を取る。その時まで。
「行きましょう、付いてきてください」
朧な月の下、広大な庭を夜風と共に駆け抜けた。呼び止める者も、人影すら無かった。
おかしいことだと、どうしてこの時気が付けなかったのだろう。此処はそんな簡単に抜け出せるような牢屋ではなかったはずだと…
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夜の街を駆ける、只駆け抜ける。小さくなって裏口を潜り、夜闇に紛れてひたすら走った。
誰かから逃げているわけでも、追いかけているわけでもないのにどうして心は急くのだろう。
誰も、何もいない背後がこんなに気になるのだろうか。月光に大きな城のシルエットが浮かぶ。まるでその中に何かが巣くっているような、そんな気がした。
「まるで…魔女でも住んでいるかの様ですね」
悪い魔女の住む大きなお城。エレンの部屋で読んだ、おとぎ話に出てくるみたいな。
切れた息を整えて、もう一度遠くへ視線を送った。
戻れない場所がまた一つ増えてしまったこと。花に虹を掛ける、あのお姫様には会えないこと。
後悔が絶えることはない。けれど過去を断ったと思えば、肩の荷も幾分かましになった。
もう少しで着くからと歩みを緩めるエレンの背中、彼女は一体何を背負い、何を捨てて歩くのだろう。
「これから、どうするのですか」
口を衝いて出る思いは、いつしか私に問われた言葉。
数秒、前を向いたまま何も答えない。
「そう、ね。まずは―――」
疲れたような声に本人は気づいているだろうか。
「ちょっと休憩しましょうか」
鍵も無いような扉を軋ませた。土気色の壁に月光が反射して青白く映る。
壁に直接打ち付けた棚には薄く埃が積り、簡素なベッドは王城のものより劣ると目に見えて分かっている。そのはずなのに睡魔を誘うのはどうしてだろう。
腰かけるエレンに倣う。硝子もなにもはめ込まれていない窓から覗く高い月と、そこまで届く高い壁、暗い影。
「今は未だ、此処から脱出できる状態ではありません」
壁の上、兵士だろうか。慌ただしそうに動く小さな影が見える。
「暫くしたら追っ手も諦めるでしょう、そしたら」
彼女の目は一体何処を見ているのだろう、何処に行きたいのだろう。
「……本当は、本当はね。弟の所に行きたいの」
頬に流れる涙の小川が溢れる。
死にたい。辛いこと悲しいこと全部置いて逃げ出してしまいたいと。
私のせいだ。私が居るから彼女は。私が居なかったら、彼女は―――
「でもね、もっと大切なものができたから。置いてけないから」
「私は、ただあなたの為。そのためだけに今を生きます」
他人の為に屠ったのは敵のみに在らず。己が意思すら殺し尽くす、鋼を纏った高潔の。その命を繋ぐためには私は余りにも未熟で、未完成であった。