おきみの息子
吾助は早足で新大橋を渡ると、近江屋に向かった。
「若旦那はいるかい」
近江屋に着くと、吾助はこれ見よがしに手にした十手をちらつかせながら、店先にいる丁稚に声をかけた。丁稚は銀色に光る十手を目にし、驚いて奥に姿を消した。
間も無く現れたのは、恰幅のいい五十がらみの立派な身形の男だった。
「わたしは、この店の主人の近江屋信兵衛でございます。店先ではなんですから、どうぞ奥へ」
呼び出した若旦那ではなかったが、吾助は黙って店の中に入った。
奥の座敷に通されると、高級そうな菓子と茶が間をおかずに運ばれてきた。
普段口にしたこともないような、たっぷりと砂糖を使った饅頭と、番屋で出している番茶とは雲泥の差の玉露。
吾助は遠慮せずに菓子を口に運び、茶を飲んだ。
「お気に召しましたかな」
信兵衛が音も立てずに襖を開けて入ってきて、吾助の前に座る。
「ああ、やっぱり川の向こうは口にするもんが違うな」
吾助の嫌味を、信兵衛は鼻で笑って聞き流した。
「それで、本所の親分さんが川の向こうになんの御用ですかな」
「なんだ、俺のことを知ってるのか。それなら話は早えわ。昨日、大川で上がった土佐衛門のことは知ってるな」
「お気の毒なことです」
信兵衛が表情を消して静かに答える。
「とぼけるんじゃねぇ」
吾助が声を荒げる。
「おい、近江屋。おれをなめるんじゃあ、ねぇぜ。上がった土佐衛門のうちのひとりは、ここの身内だ」
「はい、確かに存じ上げています。身投げしたおふたりのうちひとりは、うちの婿の母親であるおきみさんだそうで」
「ほう」
あまりにあっさりと繋がりを認めた信兵衛に、意外な思いを抱いて吾助はその顔を覗き込んだ。
信兵衛は表情を変えない。
「しかし、うちの息子の信助とおきみさんは、信助が婿に入ったときからきっぱりと縁を切っております。このことは、信助もおきみさんも得心していますし、名主さんに問い合わせていただければ、当時のいきさつも証言していただけると思います」
「その、当時のいきさつとやらを聞こうか」
「はい。信助は元々はうちの奉公人でございました。小僧の頃の名前は、幸吉と申しました。わたしには娘がふたりおりますが、息子はいません。そこで、奉公人の中で特にできの良かった幸吉を婿にしようと思い立ったのです。わたしは幸吉を上の娘の婿にしようと思い、娘に話をしました。しかし、気の強い上の娘は奉公人と一緒になりことに納得をせず、しかたなく次女のお由に話したところ、お由は密かに幸吉に思いを寄せていたようで、話は上手くまとまりました。幸吉にはひとつのいやもありませんでした。自慢するわけではございませんが、近江屋の婿になれる上に、わたしの娘はふたりとも人並み以上の器量を持っております。上の娘は嫁に出しました。そして、幸吉は名前を信助に改めて、近江屋の婿になりました。そのとき、おきみさんとはしっかり話させていただきましたが、幸吉は近江屋の人間になりきってもらい、おきみさんとは縁を切ってもらうと。おきみさんの暮らしと、近江屋ではやはり釣り合いが取れない。幸吉は然るべきところに養子に出てもらい、そこから改めて我が家に婿に来てもらいました。おきみさんは、非常に悲しみながらも大喜びで、泣きながら笑っていましたよ。その日からこちら、おきみさんと信助は一度も会っておりません。近江屋では、信助のことを婿養子として軽んじたりはしていません。立派な次の当主として、家族も奉公人もわたしの実の息子同様に扱っております」
「しかしそれで実の母親と『はい、おさらば』じゃあ、ちっと冷たくねえか。あんたにしても、信助にしても」
「おきみさんには、毎月暮らしに困らぬように、十分な金を渡しています。今回も、葬儀の費用として匿名で金を届けさせました」
「信助はおきみに会いたがってねえのか」
「信助とおきみさんは、縁を切りました。二度と会うことはありません。今回も葬儀にもいかせません」
「随分と頑なだな」
「商売というものは信用が第一です。近江屋の屋号を何よりも大事にする人間にしか跡目は譲れません。例え、実の親が死んだとして守るべき約束は守ってもらいます」
「冷てえ話だな」
「人情で商売はできません。商売は算盤でするものです」
信兵衛の態度には、取り付く島もなかった。
「ところで、信助に会わせてもらおうか」
「それはお断りします」
「なぜだ」
「信助には、おきみさんが亡くなったことは知らせてありません。妙な里心がつくと、本人のためにもなりませんから」
「おいおい、近江屋の看板がそれほど大事か」
「大事でございます。親分さんがその十手に命をかけるのと同様、看板に命を懸けるのが商人でございます」
吾助ほどの男が、信兵衛の迫力に一瞬気圧された。
「わかったよ。出直すぜ」
「いえ、結構でございます。もうこちらにはいらしていただかなくて構いません。用事はすべて終わりました」
そういうと、信兵衛は懐に手を入れ、袱紗を取り出して畳の上に置き、吾助のほうに押し出した。
吾助が目の前に置かれた袱紗を開いてみる。中には一両小判が二枚入っていた。
「ふん」
吾助が鼻から息を吐き出し、袱紗を閉じる。
「どうぞ、お受け取りください」
本所の岡っ引きの吾助は意地汚く、差し出された金は平然と懐に入れるという評判は、日本橋にも届いていた。
「近江屋、このおれを、舐めるんじゃあねぇぜ」
吾助が目を細め、信兵衛を氷柱のように鋭く見つめる。
「左様でございますか」
信兵衛は平然と袱紗をたたみ、懐に入れると立ち上がって手を叩いた。
「本所の親分さんがお帰りだ。誰かお見送りをしなさい」
番頭と手代らしき男に囲まれ、吾助は半ば強制的に表に出された。