忍の一字
吾助は志津馬の怒りを意に介した風もなく、川面に視線を向けた。
「ふたりの土佐衛門は、どのあたりに流れ着いたんだ」
志津馬は吾助の言葉を黙殺した。
「おい」
吾助がさらに声をかける。
「…………」
志津馬の父親の青木市佐衛門も定回り同心であった。
市佐衛門は生前「志津馬よ。定回りというものは、町民がみな静かに暮らせるように、日々心を砕くものだ。それが、本来の役割だ。だから、みなの暮らしが乱れるようなことが起こった時は、それを自分の責とし、心の上に刃を置き、じっと事を治めるまで耐えねばならぬ。『忍』の一字を決して忘れるでないぞ」と何度も訓戒した。
志津馬の脳裏に、市佐衛門の姿とその言葉が浮かぶ……。
志津馬が吾助に目を向けず、大川の二カ所を続けて指さした。
「男の死体はあそこの棒杭に引っかかっていた。女の死体は、あそこの花びらがたまっているあたりに流れ着いていたようだ。まず、新大橋から身を投げたと思っていいだろう」
吾助は志津馬が指差した川面に目を向け、その後、上流に目を向けた。
用意してあった大八車にふたつの死体が乗せられ、運び去られる。
「石原町と菊川町の名主に、おきみと了吉の死体を取りにくるように言っといてくんな」
吾助は、何も聞かずともふたつの水死体の名前を口にした。
「なんだ、仏の名前を知っていとは、顔見知りか」
「顔見知りというほどじゃあねぇ。だが、本所の人間はたいがい顔と名前ぐらいはわかる」
「ほう」
志津馬が初めて好意的な視線を向けたが、吾助は眉間に皺を寄せたまま腕組みをして水面を見つめていた。