終章
先を歩く吾助に並びかけて志津馬が話しかけた。
「しかし、近江屋はなんで何もしてないのにあんなに金を積んだり人を使って脅しをかけたりしたんだ」
吾助は志津馬に視線を向けることもなく、前を向いたまま答えた。
「見ただろ。近江屋は義理の息子とは言え信助のことがかわいくて仕方がねえんだ。下手したら、実の娘より大事にしているくれえなんじゃねえか」
「どうして、実の娘より信助がかわいいんだ」
「女所帯で暮らしていた男だぜ。丁稚奉公で子供のころから自分が育てた男が、実の息子のように思えるのも当たり前だろ。おきみだけでなく、近江屋もやっぱり親馬鹿だということよ」
吾助が、晴れた空の向こう側を見るように、視線を上げた。
「親ってのは、ありがたいものだ」
志津馬が立ち止まり、腕組みをして頷く。
吾助は歩速をゆるめず前に進んでいく。志津馬は慌てて小走りで吾助に追いついた。
「しかし、なんだってお前はあんなに近江屋に食い下がったんだ。近江屋には特に怪しいところはなかっただろう」
志津馬は吾助の表情を見逃すまいとその横顔をじっと見つめながら歩いている。
「信助ってあの息子の面を確かめたかったんだ。本所をちょくちょくうろついていて、おきみの葬儀もそっと物陰から見守っていた男が、近江屋の信助かどうかをな」
「なんだ、おまえ、柄にもなく親子の情を確かめたかったとでも言うのか」
突然、吾助は本所と反対の方向に歩き出した。
「おい、吾助。どこに行くんだ」
「こんだけの金があるんだ、吉原に決まってんだろ。あ、そうだ」
吾助は懐に手を入れ、切り餅をひとつ志津馬に投げてよこした。
志津馬が慌ててずっしり重いその塊を受け取る。
「分け前だよ」
「ふ、ふざけるなっ。こんなものが受け取れるか」
志津馬が怒りを込めて睨むと、吾助は穏やかな表情で目だけで頷いた。
「それじゃあ、了吉の供養にでも使ってやんな」
了吉は小悪党ではあるが、殺されるほどの罪があったわけではない。
だれも悔やむ人がいないまま、身内もなく無縁仏として葬られるには確かに哀れであった。
志津馬は白い包みに目を落とした。吾助が背を向ける。
「ま、待て」
ふと思い出したように、志津馬が歩きだそうとする吾助の背中に声をかける。
「吾助。あの日おきみが了吉を突き落としたのは、本当にはずみの出来心だったのか」
吾助の足がピタリと止まった。
志津馬は足を止めたまま、吾助の背中を見つめている。
「……桜の花びらは、裏も表も見せて散っていくもんだ」
「…………」
道脇のしもた屋の屋根で顔を洗っていた猫が動きを止め、目を細めてふたりの様子をじっと見ている。
「おきみは色気の離れねぇ粋な年増だ。了吉のような意地汚え人間は、おきみの酌なら杯も重ねるだろう」
吾助が再び歩き始める。
「それじゃあ……」
遠ざかる吾助を、志津馬はもう追おうとはしなかった。
花はすでに散り、桜は青葉を芽吹かせている。
川は流れていく。
清も濁もなく、ただ流れていく。
志津馬はひとり歩く帰り道に、新大橋の上から小石をひとつ大川に投げた。
小さな波紋が一瞬だけできて、流れの中に消えた。
(終)