真相
「……わたしの話はこれだけです。後はお話しすることはありません」
しばらくの沈黙の後、信兵衛がきっぱりと言い切った。
吾助はまだじっと信助を見ている。
「あんたの話はわかった。だが、まだ息子さんの話を聞いてねえ」
信助が目を開けて吾助を見る。
「義父が申し上げましたこと意外に、わたしからお話しすることは何もありません」
「まだ隠してることがあんだろ」
「いえ、何も」
信助の表情は木像のように変わらない。
吾助が信助の顔に自分の顔を近づけた。
「おれの口から言ってやろうか」
信助が眉間に皺を寄せて、汚物でも見るような目つきで吾助を見る。
「どうぞ」
「お前ぇ、ちょくちょく本所に母親の様子を見にきてただろ。その面に見覚えがあるぜ」
「あっ」
信助が口を半開きにしたまま体をわずかに仰け反らせる。
信兵衛がちらりとそんな信助の様子を見て口を挟んだ。
「義絶したとは言え、おきみさんは信助の実の母親。時折様子を見に行って、何かいけないことがありますか」
吾助が信兵衛を目で押さえつけるように見る。
「あんたは黙っててくんな」
信助に視線を戻すと、吾助は話を続けた。
「それじゃあ、了吉って男のことは知ってたか」
信助が、時折本所におきみの様子をうかがいに行っていて、その上で実の母親に男ができたと知ったとしたら、心中穏やかではない気持ちになったとしても不思議ではない。
「ふたりでいるところを一度みたことはありますが、あの男のことは存じ上げませんでした」
信助は腰を落ち着け、努めて冷静に吾助に答えた。
「向こうは違ったみてえだぜ」
「…………」
信助だけではなく、信兵衛と志津馬も吾助が何を言い出すかわからず、じっとその顔を見た。
「おれが、千住にまでわざわざ出向いたのは、おきみのことを調べるためじゃねえ」
志津馬が驚いて口を挟む。
「え、じゃあ何を調べに」
「おれが、調べに行ったのは、了吉のことだ」
「了吉も、千住にいたのか」
「ああ、しかもおきみと信助が住んでいたのと同じ裏店にいたんだ」
「しかし、信助は了吉の事なんぞ知らないと……」
「子供の目から見た大人なんぞは、そんなに大差ねえもんだ。よほど親しい人間を除いてな。自分のことを思い出してみねえ。子供のころに近所に住んでいたおっさんの顔なんか、思いだせるもんじゃねえだろ」
「確かに」
「しかし、了吉は覚えていた。信助のこともおきみのこともな」
吾助が細い目を見開いて、信助を見つめる。
信助の目は、吾助の瞳に吸いつけられたように動かなかった。
「了吉は、信助がおきみのすぐ近くにいるにもかかわらず、母親の前に姿を見せないことに疑問を持った。そこで、信助の後をつけたんだ。そして、信助が近江屋の若旦那に収まっているのを知った。ああいった小悪党は、そういう小さいところにはよく気が回る。おきみが昔身を売って暮らしていたことを知っていた了吉は、そのあたりから母子が直接会うのを憚っているんだと踏んで、おきみの脅しをかけたのさ」
「なんだって」
信助が思わず身を乗り出して、片手を畳についた。
「それで、おきみはどうしたんだ」
志津馬が同心の立場も忘れて、吾助に答えを促す。
「おきみは、初めは黙って金を払っていたんだろう。金の受け渡しを人に見られないために、ふたりで会うときは茶屋の奥座敷にした違えねえ。茶屋に上がれば、ちょっとは酒も飲むし料理も頼むだろう。そのあたりを周りの人間は勘違いしたって訳さ。おきみの、信助と自分のことを秘密にするために、周りには新しい男ができた振りでもしてたんだろうよ」
「強請りか……。年寄りの女に向けて、ひどいことをしやがる」
信助の顔が、見る見うるちに青ざめ、やがて火をつけたように真っ赤になった。
「あの日も、おきみはいつもどおり金を渡すために了吉と会った。場所はいつもの日本橋の茶屋だ。だが、その日はなんのはずみか了吉が飲みすぎてふらふらになるほど酔っ払ったんだな。酔っ払って蹴躓いて転んだ時の傷が膝小僧にあった真新しい傷さ」
「それで、どうしたんだ」
「ふらふらになった了吉を連れたおきみは、本所に帰ろうと新大橋を渡った。その時、酔った了吉が橋の柵に寄りかかって立ち止まり、その瞬間にふと人通りが途絶えた。おきみはとっさに出来心で了吉を大川に突き落としちまったんだ」
「それじゃあ、なんで殺しの下手人のはずのおきみの死体が大川に上がったんだ」
「おきみは、了吉を突き落とした後、ふと我に返ったんだ。これで、信助は淫売の子供から人殺しの子供に変わっちまったとな。だが、たったひとつだけ、信助を人殺しの子供にしない方法があった。それが、自分も身投げして、この話を心中に仕立て上げることだったんだ」
信助の目は、もう吾助を見てはいなかった。
視界がぼやけ、何もかもが曖昧に見える。
瞬きをひとつすると、信助の目尻から一筋の涙が流れた。
「母ちゃん……」
固く引き結んでいた信助の口から小さな呟きが漏れた。
「自分の子供の行く末を楽しみにしている母親が身投げなんぞするはずがねえ。だがおきみは、自慢の息子の行く末を守るために命を捨てたんだよ」
一度流れ落ちた涙はもう止めることができなかった。
「母ちゃんっ」
もう一度母のことを口にすると、信助が突然立ち上がった。
驚いて、信兵衛が信助を見上げる。
「信助、どこに行く」
信兵衛は信助の袖をつかんだ。
しかし 信助は信兵衛の問いに応えず、乱暴に袖を振りほどくと外に出ていこうとした。
「待て、信助」
志津馬が信助の前に立ちはだかった。
「どけっ」
信助が両手で志津馬の胸を押そうとする。
志津馬は、するりと体をかわし、信助の体を抱きとめた。
「信助、落ちつけ」
「母ちゃんが、母ちゃんが……」
信助は縛めの手を振りほどこうとするが、力では志津馬には敵わない。
やがてあきらめたように信助が力を抜くと、志津馬も手を緩めた。
信助はその場に魂が抜けたように座り込むと、そのまま畳に突っ伏し、大声をあげて泣き始める。
「母ちゃんは、おれのために……おれのために……」
志津馬が信助の肩に手を置く。
「おきみは生き甲斐だった息子を守ったんだ。母として、人として悔いはなかろう」
信助の泣き声が大きくなる。
そんな信助をじっと見つめていた信兵衛が、吾助のほうに向き直った。
「親分さん。もしかして、何か信助にお咎めがあるんでしょうか」
「さあな。おれは本当のことを調べだすのが仕事だ。こっから先は奉行所の仕事さ」
信兵衛が志津馬を見る。
尻を持たされた形になった志津馬は、背筋を伸ばして吾助を見た。
吾助は口を尖らせてそっぽを向いている。