近江屋父子
間もなく、信兵衛が信助を連れて現れた。
信助は青白い顔色をしているが、体の具合が悪そうには見えない。志津馬と吾助の前に向かい合う形で信兵衛と信助が座った。
信助は座布団に座るなり瞳を閉じ、一言も口を利かない。
志津馬にはこの親子の持つ敵意はやはりおきみと了吉の死に繋がっていると感じられた。
「今日は何のご用件ですかな」
初めに口を開いたのは信兵衛だった。
「決まってんだろ。おきみと了吉の件だよ」
「おふたりの心中の件はうちにはなんの関わりもないと申し上げているはずです」
「それが、心中でなく、殺しだったとしたら」
信助の体がわずかに動いたような気がする。
「おきみさんが殺されたと」
信兵衛が、信助の代わりのように口を開く。
「だれが、そんなことを言った。殺したのがおきみだよ」
「な、なんですと」
信助が大きく目を見開き、吾助を見る。
「吾助、いったいどういうことだ」
何も聞かされていない志津馬も、動揺を隠すことができずに吾助に問いを発した。
「言ったろ、千住に行ってきたと」
千住という地名を聞いて、信助がわずかに体を震わせた。
吾助が近江屋の父子を交互に見る。
やはり、信兵衛が口を開いた。
「それが、何か」
「千住は昔、おきみと信助が住んでいたところだろ」
信助が始めて口を開く。
「あの人とは、もう縁が切れています。今は何の関係もありません」
信助が再び目を閉じた。
信兵衛が懐に手を入れ、袱紗に包まれた白い塊を取り出した。
切り餅が四つ。都合百両の金が畳の上に置かれた。
「これで、お引き取り願えませんか」
吾助は信兵衛を無視して信助に話しかけた。
「母親が淫売だったことを、そんなに隠したいか」
信助が膝の上の拳を細かく振るわせる。
「…………」
信助の瞼の裏に、自分を家に残して外に出ては、酒臭い息を吐きながらよろよろと夜半に帰ってきた母親の姿が浮かんだ。
母は夜の外出の時だけは化粧をする。
その頃信助は、同じ寺子屋に通う子供たちに「淫売の子、淫売の子」とよくいじめられ、筆を隠されたり、着物に墨を付けられたりした。
長く思い出さないように心の奥底に沈めていたそんな記憶が、吾助の一言でよみがえってくる。
信兵衛が百両の切り餅を前に押し出す。
吾助はその金に見向きもせず、ただ信助を見つめていた。
「親分さん。あなたのお調べが行き届いていることは良くわかりました。しかし、そんなおきみさんの過去が、今の信助と近江屋に何のかかわりがあるんですか」
志津馬が横目で吾助の様子をうかがう。
吾助は黙って信兵衛の言葉の続きを待っている。
「おきみさんが身を犠牲にして生計を立てていたのは存じ上げています。わたしは。それを承知で信助を婿にしました。それというのも、おきみさんが身を売ったのは、信助が通っていた寺子屋の束収を支払うためだったからです。信助の父親は大工でしたが不幸な事故で亡くなりました。おきみさんは女手ひとつで信助を育てたのです。信助は頭のいい子供だった。だから、裏店の者たちが通うようなところではなく、きちんとした商家や武家の子息が通うようなところに通わせてはと勧めてくれる人があったそうです。しかし、そういったところはやはり金がかかる。かつかつの暮らしをしていたおきみさんは、止むを得ず春ひさいで金を作ったのです」
現代と違い、女が働けるところなどごくわずかしかない時代である。
おきみが息子のために身を売るのはほめられたことではないが、決して誰にも責めることはできないはずだった。
「信助は、暮らしの違う周りの子供の中で、ずいぶん苦労をしたようです。しかし、母親の苦衷を知る信助は、一心に励むことを止めなかった。その寺子屋から紹介された子供をよく奉公させていたわたしは、信助の話を聞いて、一も二もなくうちによこしてくれるように言いました。信助がうちに来てからは、おきみさんは、もとのお針仕事などの内職をする以外に、別な金稼ぎをしてはいませんよ」
信助は黙って信兵衛の言葉を聞いている。
「おきみさんは、信助を婿養子にする話を切り出した時、自分から義絶を申し入れていらっしゃいました。自分のような人間が、近江屋と関わりを持ってはならないと。わたしは当然断りました。けれども、おきみさんは頑として受け付けません。仕方無しにわたしは毎月決まった金をおきみさんに受け取っていただくことを条件に、義絶の件を受け入れました。そして当時幸吉という名前だった信助は、名前も改めて近江屋の婿養子になったのです」
これだけの話を聞いても、まだ吾助は口を開かない。