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Ayaki  作者: 桐澤 明
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 自分の名前が好きだった。

 自分の名前を考えてくれた、母が好きだった。

 小学校の入学祝いとして母がくれた赤いリボンとランドセルが好きだった。

「彩り豊かな、希望に満ちた人生を送れますように」

 小学一年生の時、自分の名前の由来を調べてこようという宿題があり、私は母に聞いたそれを意気揚々と披露した。

 するとクラスメイトの一人の男子が、「きぼーだって、きぼー。えらそー」とはやし立てた。

 血の気の多かった私はその男子に掴みかかり、結局取っ組み合いの大喧嘩をして居残りさせられた。双方ともに保護者が呼び出される事態になった。

 職員室で母親を待つ間、怒られたらどうしようとかいやでも相手の男子の方が悪いんだとか取り止めのないことを考え続けた。

 相手の男子の母親が先にやって来た。その男子は母親を見るや否や、「ままー」と言って泣きついていった。子供心に情けないなと思って目を逸らした。

 それからどれだけまっても私の母親は現れなかった。代わりに現れたのは、血相を変えた事務員さんだった。

「伊勢さん!伊勢彩希さん・・・いる?」

「・・・?はい」

 訳のわからないままに手を上げる。

「伊勢さん・・・。あなたのお兄さんからお電話です」

 そのまま事務室に連れていかれ、指示されるがままに受話器を取った。受話器の向こうから聞こえてきたのは兄の声だった。

「彩希か!?」

「お兄ちゃん。どうしたの?」

「落ち着いて聞いてくれ」

「・・・・・・」

「お母さんが、死んだ」


 お葬式の諸々の作法を理解できるほど大人ではなかったけれど、人が死ぬということを理解できるほどには大人だった私は、ひたすら大泣きしていた。父親も似たようなもので、大泣きこそしないもののただ呆然としていた。そんな中で一番てきぱきと動いていたのは当時中学に上がったばかりの兄だった。

 母は、私が喧嘩したことで小学校に呼び出されて、その道中で歩道橋の階段を転げ落ちて死んだ。春の、雨の日だった。

 いわゆる一流企業に勤めていた父は、その日を境にすっかり別人になってしまった。母親の生命保険金を食い潰して真昼間から酒を飲み、夜は部屋で何やらぶつぶつと独り言を言っていた。

 何を言っているのだろうと思い、一度父の部屋の戸に張り付いて聞き耳を立ててみた。そして、聞くんじゃなかったと思った。

 父は、もういなくなった妻の名前を何度も何度も呼び続けていた。

 私の両親は、とても仲が良かった。喧嘩をしたところなど見たこともない。たぶん一般的に言うところの「理想的な家庭」そのもののような家族だったと思う。愛し合うとはこういうことかと子供心に考えることもあったほどだ。

 ただ、どうやら父親のそれは愛ではなく依存だったようで、妻を失った父は一人の人間として存在できなくなったかのように壊れていった。

 父の独り言を盗み聞きしたその日、私は思い切って父に声をかけた。

「お父さん」

 部屋の隅で膝を抱えていた父親は、鈍い動作で私の方に身体を向けた。母の生前、二十代に間違われることもあるほどにきびきびと動いていた姿はもうどこにもない。

「・・・彩希か」

「お父さん、大丈夫?」

「・・・・・・美咲が、いないんだ」

 美咲というのは死んだ母の名前だ。

「・・・お母さん、は」 

「お前のせいだ・・・彩希」

「え?」

「・・・お前のせいで、あの日美咲は出かけたんだ。小学校から呼び出しがあって、それで美咲は雨の中を・・・・・・お前のせいで、お前のせいで」

 父がゆっくりと立ち上がり、私の方に近づいてきた。

「お父、さん?」

「死ねよ」

「え」

「お前が今ここで代わりに死んで、美咲を返せよっ」

 父親の手が私に伸びた。

私に絶対的な安心をもたらしてくれているはずだったその手は躊躇いなく私の首を掴んだ。

「おと・・・さん」

 喉の隙間から絞り出すように声を出す。しかし父親に私の声を聞く気はないようで、彼は死ね、死ねと小さく呟き続けていた。

 意識が遠のいてきたとき、玄関の戸が開く音がした。兄が中学から帰って来たのだ。

 父親ははっとしたように私の首から手を離した。そして私の方を見ることはなく、のしのしと部屋を出ていった。


 私のせい、なのかなあ


 誰もいなくなった部屋でぼそりと言ってみた。誰にも聞こえていない。誰にも聞こえていないと知っているからこそ言ってみた。


 その日を境に、世界が変わった。

 普通なら母親が死んだ日に変わりそうなものだけど、私の場合は確実に、父親に首を絞められたこの日が何かの境界線だった。


 私の周りはいつも通りだった。

 小学校に行くとクラスの子たちが何やらわいわいと騒いでいて、宿題が多いとか何とか愚痴をこぼしているのもいつもどおりで、いじめられている子はいつもどおりトイレの個室に籠って泣いていて、先生はたまに私に家庭のことを尋ねてくるけどその声も結局いつも通りで、ああ結局何も変わっていないんだなって思って。


 そして、私は独りだった。


「伊勢さあん」

 不意に名前を呼ばれて顔を上げた。クラスの女の子たち数人が私の机を取り囲むように立っていた。私の名前を呼んだのはそのリーダー的な子だった。私は三年生に上がっていた。

 私は聞こえなかったふりをして手元の本に視線を戻した。返事をしてもしなくても面倒になるのは明らかだったので、喋らなくて済む方を選んだ。

「ちょっと!」

 思った通り、彼女は私の机をだん、と叩いて抗議した。

「何」

 会話をするつもりは無かったけど、このまま耳元で喚かれるのも嫌だったので短く返す。

「私が話しかけてるのに、どうして無視するの?」

 周りの子たちがそうだそうだとはやし立てる。その姿は誰かに似ている気がした。


「先生が言ってたよ、彩希ちゃん可哀相だから誘ってあげてって」


 ああ、誰かとかじゃない。先生もクラスの子もみんな同じなんだ。


 そう悟った瞬間もうこれ以上周りを見回すことも無駄だと同時に悟って、私は気が付いたら彼女に掴みかかっていた。



 放課後に教室に居残りさせられた。

 先生は片付ける気力が無かったのかそれとも私への見せしめにしたかったのか、私によって引き起こされた教室の惨状をそのままにしていた。

 いくつかの机は床に引き倒されたうえ中身がぶちまけられ、窓ガラスは砕け散っている。

 自分が何をしたのかははっきりと覚えていない。でも先生に羽交い絞めにされたとき、誰かの机を振り回していたのだけは覚えている。

 この一件では兄が呼び出された。というか兄以外に呼び出せる人がいなかったのだろう。

 放課後の教室で兄を待っているこの状況は、母が死んだあの日によく似ていた。

 だから、兄が息も絶え絶えに教室に駆け込んできたとき私は心底安心した。

 

 さんざんお説教を食らったその帰り道ですら、兄は私の手を引かない。

 兄は泣いている私を慰めない。

 私はそんな兄が好きだった。


 変わってしまった世界の中で、兄だけは変わっていなかった。

 兄は私の理解者で、私も兄の理解者だった。

 そう、思いたかった。


 期待することの馬鹿らしさを一番知っているはずの私は、その日の翌日まではそのことに気が付かないふりをしていた。


  

 その日の翌日、父の友人を名乗る人物が訪ねてきた。その日は土曜日で、私は兄よりも先に起きてさっさと朝食を済ませていた。珍しく朝寝坊気味の兄が起きてきた直後くらいに、その人物はやってきた。

 穂積と名乗ったその人物は、墓守だと言った。そして私か兄を後継者として迎えたいのだと言った。

 聞いたことのない仕事だった。でもお金にはなるみたいだった。父親は私か兄を売りたいみたいだった。道徳的な話は正直どうでも良かったし、それで父親に多少なりとも恩を売れるならそれはそれで本望のような気がした。

 きっと兄も喜ぶだろうと思って兄の方を見て、驚いた。

 兄は、怒っていた。

 今までみたどんな時よりも怒っていた。きつく握りしめた指の隙間から血が滲んで見える。

「父さんにとって、俺たちは何?」

「・・・・・・」

「俺はさ、はっきり言って父さんのこと嫌いじゃないんだよ。何回も酷いことされたけどさ、・・・・・・好きなんだよ、それでも」

「・・・・・・」

「父さんは、違ったの?」

 兄のその質問に父は答えなかった。というか質問の意味を理解していない顔だった。

 当然だ。だって父が愛したのは――というか必要としたのは、母だけなのだから。

 兄は父のその反応に傷ついているようだった。


 私はむしろ兄のその反応に傷ついているようだった。


 黙ってしまった兄の横顔を無言で見つめる。

 兄は父に愛されてると思っていたのか、それともこれから愛してもらえる見込みがあると思っていたのか。いずれにしても愚かだった。

 そして、兄がそんな期待をしない人だと期待している私も負けず劣らず愚かなようだった。


「私、行きます」


 もう終わりにしようと思った。

 うわべだけの学校も、馴れ合いばかりの家族も、そして何より、うっかりそこに慣れつつあった私も。


「彩希!」

 半ば想像はしていたことだけど、兄に止められた。その想像は外れてほしかった。

 兄なら行かせてくれると信じたかった。

「何」

「なんで、そんなこと言うんだよ」

「なんでって。それでお金が手に入るんでしょ?一番早いじゃない」

「だからって彩希が行くことないだろ!」

「じゃあ、悠希が行くの?」

「どういう、意味さ」

 もう口をつぐもうかと思った。でもつぐめない。私はきっとまだ期待していた。

「私と悠希って、似てると思う?」

「・・・似てる、だろ」

「私はね、似てないと思うんだ」

「・・・どこがさ」

「確かに似てるところはあるよ?私も悠希もね、誰にも頼らずに生きていけるの。でも悠希はね、誰かのためにしか生きられない人なんだよ」

「何を、勝手に」

「私は自分が一番大事だけど、悠希は、自分を大切にできないの。だから自分のためには生きられない。それが私との最大の違い」

「・・・・・・そんなことは・・・」 

 

 我ながら、意地の悪いことを言っているなと思う。

 私は兄が反論できないことを知っている。

 優しいことは悪くない。人のために生きられることも悪くない。

 でもその優しさは、それを必要としない人には毒なのだ。


 知らないふりはもうできない。 


 私の去り際、兄は私に謝った。「何が」と返すとそれ以上食い下がってくることは無かった。私はそのことに感謝した。

 もしここでこれ以上何か言われていたら、きっと私はもう兄を好きではいられなかった。


 早速出発しようということになって、部屋に戻って荷造りをした。義務教育はもう受けないと聞いた。じゃあ筆箱も教科書も時間割も体操服も勉強机ももういらない。友達も先生ももういらない。そう考えると持って行く必要のある物なんてせいぜい着替えくらいしか思いつかなかった。

 部屋を出ようとして、ドアの近くに転がっている赤いランドセルに気が付いた。

 最近は赤いランドセルなんてもう時代遅れで、母はピンクがいい?と聞いた。赤がいいと言ったら母は赤いランドセルと一緒に赤いリボンを買ってくれた。


 お母さん。


 誰もいない部屋で言ってみる。誰にも聞こえていない。誰かに聞こえてくれることを期待する権利は自分の手で放り捨てた。

 赤いランドセルだけは、持って行くことにした。



 壊した教室の修理代とぼこぼこにした女の子の治療代を払い忘れていることに私が気が付いたのは、穂積の家に着いた後だった。  



 穂積は私を買い取った直後こそぎこちなく話していたものの、すぐに普通に接してくれるようになった。彼はあまり深入りをしてこない性格で、それでいて自分よりはるかに年下の私と対等に接してくれる彼には好感を持てた。

 でも彼の袖口からのぞいた傷を見てしまってからは、それは終わった。

 穂積のもとに迎えられてから二週間くらいたったころだっただろうか。穂積はいつも長袖で、その日はたまたま袖をまくり上げていて。その袖の隙間から見えた傷跡はどう見ても不注意でついたような傷には見えなかった。

 彼はどうやら余命宣告を受けているらしく、最初はそのせいだと思った。

 でも彼は生きることに絶望しているようには見えない。

 それでいて、彼のまとう空気はどことなく自棄を孕んでいる。

 少し気にはなった。彼の経歴について聞いてみたこともある。

 でも暴く必要のないことを暴いてまで穂積を嫌いになりたくはなかったので、私は気が付いていないふりをすることにした。

 人を遠ざけながらも遠ざけ切らないように防衛線を張っている自分は嫌いだった。

 それでも、誰かを嫌いになるよりはいくらかましだと思えた。

 

 私が穂積のもとに引き取られてから一か月くらいたったころ、初めて私個人への報酬というものが入った。

 何か特別なことをしたわけではない。墓守の仕事のため墓地に向かう道中でいきなり襲い掛かって来た幽霊を反射的に蹴飛ばしたらたまたまそれが賞金首レベルの悪霊だったというだけのことだ。

 穂積はその報酬を全額私にくれた。別に使い道もないし穂積に譲ろうかと一瞬思ったけど、壊した教室の修理代とぼこぼこにした女の子の治療代のことが頭をよぎり、私はそれを受け取ることにした。

 人生で最大級の大金を手に部屋に戻った私は、そういえば現金って郵便で送れないんだったっけということに今さら気づいた。かといってお金の振り込みの仕方なんて知らなくて、結局何かに入れて送ってしまおうと思いついた。

 さっそく何か入れ物になるものは無いかと部屋を見回した。

 私は片付いた部屋というのが苦手だった。もう少し正確にいうと広い場所が苦手だった。私の部屋なのに私には手の届かない空白があることが耐え難かった。

 つまり、そのような大義名分のもとに、私の部屋はいつも散らかっていた。

 部屋の中に雑然と転がされたものを端から検証していく。

 しかし目に入るのは衣服や本ばかりで、お金を入れられそうな形のものは見当たらない。穂積に頼んでみようかとも思ったけど、彼にはこれっぽっちも関係のないことで彼の手を借りるのは気が引けてやめた。

 不意に、視界の端に赤いものが映った。

「?」

 そこにあったのは赤いランドセルだった。


 なんで、これだけ持ってきたんだっけ。

 少し考えて、それを買ってくれた人の顔が浮かんだ。


――彩り豊かな、希望に満ちた人生を送れますように


 小学校の宿題だ。

 でもごめんね、お母さん。

 私はそんなに上手には生きられない。


 さようなら。

 

 赤いランドセルに必要な分の現金を詰めた。

 穂積が寝室に入ったのを見計らって、近所の郵便局に向かった。

 地味な制服に身を包んだ局員がどこか腑に落ちないような顔をしながらも私の手からランドセルを受け取る。

 

 家に帰った後、一人で泣いた。

 このことは私しか知らなくていい。



 それから数年が経ったある冬の日、私が目を覚ますと穂積の姿が無かった。

 まだ寝ているのかと思い、寝室まで様子を見に行った。しかしそこにも彼の姿は無い。

 居間に行くと、テーブルの上に書置きがあった。

『ちょっと用事ができたので出かけます。悪いけど、今日の仕事は彩希一人で行ってください』

 基本的にマイペースな穂積の性格からは想像もつかないような荒っぽい筆跡だった。

 言われた通り、その日は一人で墓地に向かった。玄関には彼の靴が無かった。

 

 仕事から戻ると、玄関に彼の靴があった。台所から人の気配がする。それを追っていくと、予想通り穂積がいた。戸棚の中の包丁と睨めっこをしている。睨めっこというにはあまりにもうつろな表情だが。テーブルの上には便箋らしき紙が数枚散らばっていた。

 彼が何をしようとしているのかは薄々察しがついた。

 咄嗟に止めようとして、止めようとした自分に驚いた。

 そこまで立ち入る権利は無いだろうと自分に言い聞かせる。現実的な話、彼がこれから何をしようと私には全く影響が無い。

 しかし、仮に穂積が大怪我でもして仕事に支障をきたしたら大迷惑だから、とあまり説得力の無い理由をこじつけて足を踏み出した。

 名前を呼ぶと、穂積は弾かれたようにこちらを振り向いた。戸棚に伸ばしかけていた手を素早く引っ込める。

「あ、ああ、お帰り。どうだった?」

 穂積がぎこちなく笑う。

 場違いだが、お帰りと言われるのは随分久しぶりだった。穂積のところに来てからというものの出かけるときは二人同時なので、お帰りもただいまも必要なかったのだ。

 ふっと表情が緩みかけて、私はそのことを意識の隅に追いやった。

 ただいまと返そうかと思ったけど、やめた。

「別に何も無かった」

「いや、そうじゃなくて。一人で行かせたの初めてだからさ。大丈夫だった?」

「問題ない」

 あえて短く返して、いつも通りコーヒーを淹れ始めた。仕事終わりのコーヒーを内心楽しみにしているのは穂積には内緒だ。

 コポコポとお湯を注ぎながら、横目で穂積の様子を窺う。いつからここにいたのか、手先が真っ白になっている。

 私は手元のコーヒーを無言で穂積に差し出した。

 彼は目を丸くした。

「え」

「何」

「彩希」

「だから何」

「お前頭でも打ったのか?」

「なんでそうなる」

 失敬な。

「いや」

「私のコーヒーが飲めないのか」

「いや、そういうわけじゃ」

「じゃあ、はい」

「・・・ありがとうございます」

 彼はまだどこか腑に落ちないような顔で私の手からマグカップを受け取った。我ながら似合わないことをしている自覚はある。

 その後自分用のコーヒーを淹れ直して、彼の向かいに腰を下ろした。

 彼は慌ててテーブルの上の便箋を隠そうとした。私はそれを遮って問い掛けた。

「で、穂積」

「あ、はい。何すか」

「さっき、何してた?」

「さっき?何もしてない」

「嘘だ」

「嘘じゃない」

「ふうん」

 あえてどうでも良さそうに返した。

 穂積の表情が少しだけ歪む。詮索されたくないようにも見えるし、されたいようにも見える。たぶん両方なのだろうけど。

 どうしようかなと少し悩んだ。このまま何も見なかったことにするのが一番無難だというのは重々承知している。でも、その無難な道に逃げる自分を許せる自信は残念ながら無かった。

「で、これで誰か救われた?」

 だから、暴くことにした。開けてはいけない箱を開けるようなこの感覚は、兄を傷つけたあの日に近い。

「救う?」

「あ、違う?じゃあ、これで誰か赦された?」

 穂積の表情が強張った。図星か。

「・・・私は、穂積とその手紙の差出人の間に何があったのかなんて知らないけど。どっちかが悪かったの?どっちかが被害者なの?どっちかが加害者なの?」

「それは、・・・違うと思う、けど」

「じゃあ、どうして穂積は赦しを求めるの?その手紙の人は赦してくれてるのに、まだ何か欲しいの?」

「・・・・・・いくら、言葉で赦してくれたって、俺のしたことが消えるわけじゃないだろ」

「そう。消えたりなんかしない」

「だから・・・」

「だから?残りの人生全部相手のために捧げれば赦されると思った?」

 言いながら、その言葉が自分にも刺さっていることに気が付いた。

「他人のために生きるな。他人を生きる理由に使うな。その行為は他人のためじゃない。他人に尽くしている自分なら愛せるかもしれないと期待しているからだ。自分を貶める自分なら赦されるかもしれないと期待しているからだ」

 こんなことを言っている私もまた、穂積が不毛に悩み続けるのも見ていたくないと思ったからこうして干渉しているわけで。

 そういえば、自分以外のために行動するというのは初めてかもしれない。

 説教めいたことをしている手前、穂積に背中を向けるまでは、硬い表情を崩すわけにはいかなかったけれど。 


 ふと、兄に会いたくなった。

 今なら少しは優しくなれるのかもしれない。

 結局私もこっち側なのかと思うと、これまでのことが全て虚しくなるような気がしたから、それについては考えるのをやめた。




 それからしばらくして、私は一人でとある墓地の墓守を担当することになった。そこそこに名のある大学の裏にある墓地で、亡者たちは意気揚々と学び舎に向かう学生たちを何処か眩しそうに見送っていた。

 私はというと大学寄りの人通りの多いところを避けて、来る日も来る日も墓地の隅っこでじっと座っていた。

 私がその墓地の担当になってから一か月が過ぎたころ、いきなり知らない青年に声を掛けられた。聖と名乗ったその青年は、お隣の大学の三回生らしい。

 どうやら聖は私を家出少女だと勘違いしたようで、保護者面をさげてやってきた。

 不必要に干渉されるのは面倒だったし、なにより勘違いしたままで憐れみの目を向けられるのが不愉快だった。だから、不本意ではあったけど、仕事なのだということを彼には説明しておいた。

 それでも聖は毎日墓地にやって来た。大学生というのはそんなに暇なお仕事なのだろうかと思うほどだった。

 彼の話は往々にして退屈だった。

 大学の講義の話、レポートの話、バイトの話、サークル活動で知り合った女子の話、それから少しの惚気話。

 彼は訊いてもいないことをそれはそれは楽しそうに語る。私は基本的に彼の方を見ることすらなく、数分に一回機械的に生返事をする。どちらが年上やらわからない。

 それでも、私が体験することのなかった、そしてこれから先も体験することは無いであろうその世界の話に、興味を持っていなかったといえば嘘になる。

 気が付いたら、生きているはずの私までもが、彼を眩しそうに見ていた。

 もっとも、私がそれを自覚したのは穂積に指摘されてからだったけれど。


「彩希、何か良いことでもあった?」

 ある日、仕事から戻ると穂積が怪訝そうに尋ねてきた。

「え?」

「いや、今笑ってたように見えたから」

「私が?」

「うん」

 少し驚いた。笑うようなことがあっただろうかと記憶を辿るが、それらしいものは見つからない。

「まあ、笑ってるというか。何か楽しそう」

 しばらく黙り込んでいると、穂積がそう付け足した。

「…ふうん」

 私はあえてどうでもよさそうに答えた。

 表情云々の話それ自体よりも、自分でそれに気が付いていなかったことに戦慄した。

 いつの間にか、聖は随分と私に近づいていたらしい。それとも、あまり考えたくはないが、私の方から近づいたのだろうか。

 もっともその差は大した問題ではなくて、問題なのは距離の方だった。

 一昨日も昨日もこれで大丈夫だった。

 今もこれでも良いのかもしれない。

 でも、脳裏に浮かぶのは過去や現在の光景ではなくて、そう遠くないと確信できる未来の、それでいてまだ輪郭すらつかめない最期の光景だった。

 終わりが不可避なら、繋ぎ止める努力に何の意味があるのだろう。

 そしてそれは往々にして、浅くない傷を伴うというのに。


 仕事終わりのコーヒーを飲み終えて、部屋に戻った。

 何年か前にランドセルを送り出してから、物の量は大して変わっていない。大きく変わったのは服ぐらいだろう。この数年で嫌味かというほど身長が伸びて、服を買わざるをえなくなった。最初は動きやすさだけを考えて買っていたけれど、去年あたりからスカートに変えた。穂積には「こっちの方が動きやすい」と言い訳をしたけれど、本音を言えば興味本位だった。

 ベッドの上で膝を抱えて、穂積の言葉を反芻する。

 楽しそう、何て言われたのは記憶にある範囲では初めてかもしれない。

 楽しいことなんてあっただろうか。

 今の自分の状況が普通だとは思わないけれど、不幸だと思ったことも一度も無かった。

 全く間違えずに進んできたわけではないにせよ、長い目で見れば自分に誇れない生き方をしてきたつもりはない。

 それでも、楽しいことがあっただろうかと考えるとそうだとは即答できなかった。

「あー」

 私は無意味な言葉を発してベッドにうつ伏せに倒れ込んだ、

 考えたところで何にもならない。聖は当人の気が済むまで墓地に通い詰めて、遅かれ早かれ私の前からいなくなる。その揺るがない事実だけを見据えていれば何も問題は無いと思っていた。

 

 私が思考を止めるのが合図であったかのように、穂積の携帯電話の着信音が響いた。

 電子音は数秒で止まり、穂積が電話に出る声がする。

「もしもし…え?」

 その声がどこか緊張しているように聞こえた。

 いつもなら穂積が何をしようと干渉しないことにしていた。ただ、この時は穂積の声色が気にかかって、足音を潜めて穂積の部屋に近づいた。

 ドア越しに、穂積の声が漏れてくる。

「家を出た?…そんなこと俺が知るか。大学生だろ?一人暮らしくらい普通だろ」

 あまりにも墓守の仕事とは関係の無さそうな会話だったことに驚いた。だが、それ以上に、基本的に温厚な穂積が声を荒げていることに驚いた。

「…はあ?こっちに来る?お前それは都合が良すぎるだろ。…おい、伊勢!」

 自分の身体が強張るのがわかった。

 穂積は私を上の名前で呼ばない。呼ばないでほしいと私が初日に頼んだからだ。

 そうなると、電話の相手は一人しか思いつかなかった。

 私はノックもせずに穂積の部屋のドアを開けた。乱暴に開けすぎて、目一杯開いたドアが壁にぶつかって跳ね返る。

「彩希?」

 穂積がギョッとしたように振り返る。私はそれには構わずに、努めて平坦な声で尋ねた。

「今の、誰?」

「ああ、いや、ちょっと…」

「おと――父親?」

 お父さん、という単語には馴染みが無さすぎて、やめた。

「……そう、だよ。彩希のお父さんから」

「どうしたの?」

「何でもないよ。事務連絡」

「ごまかすな」

 剣呑な声が出た。

 穂積が私を気遣って何かを隠そうとしているのはわかる。でもそうまでして庇う必要があるほど弱いと思われるのは我慢ならない。

「…わかったよ」

 穂積はやりきれないような顔で溜息をついて、私に身体を向けた。

「伊勢が――彩希のお父さんが、こっちに来るって言ってる」

「……は?」

 声が裏返った。状況が理解できない。

「どういうこと?」

「家賃を滞納して家を追い出されたから泊めてくれって」

「ここに?」

「ここに」

「なんで?…悠希は?」

「お兄さんは大学に入って一人暮らしを始めたんだとさ。父親とは完全に連絡を絶ってるらしい」

 で、家の金銭管理をする人間がいなくなった結果がこれか。

「……来るっていつ?」

「わからない。電話切られた」

「……そう」

 これ以上穂積を糾弾するような真似はしたくなかったので、私はそのまま穂積の部屋を後にした。

 

 自分の部屋に戻り、再びベッドに倒れ込む。

 もし今、父親に再会したらどうするだろう。

 再会の喜びなんてものは欠片も期待していない。向こうだってそうだろう。

 その可能性を差し引いても、父親が私のことをどう思っているかなど見当もつかない。

 身内なのに散々だなと自嘲気味に思い、でもすぐに当然かと思い直した。六年以上――母親が死んだ時から考えれば十年近く、お互いを見ていないのだ。もう立派に、これ以上ない他人だった。

 

 その日の夕方、いつも通り墓地に出かける前に、私は机の引き出しの中から銀のカッターナイフを取り出した。スカートのポケットに差し込んで、玄関へ向かう。

 結局考えの読めない相手の行動なんて想像もつかなくて、私は極端な二つのパターンだけを想定した。

 一つ目は父親が私を殺そうとする場合で、もう一つはその逆だった。


 その日も、いつものように聖が訪ねてきた。

 大学での出来事をひとしきり話し終えた聖は、平和そうな笑顔で別れを告げて、いつものように帰っていった。

 そして聖と入れ違いになる形で、会いたくなかった人物が訪ねてきた。

 会いたくなかったんだなと自覚したのはその人物が視界に入ってからだった。はっきり言って、それくらいどうでもよくなっていた。

「彩希。ちゃんとやってるか?」

 その男は不潔を絵にかいたような恰好で墓地に踏み入り、私の姿を見つけてそう言った。

 その口調がひどく私を苛立たせる。

「答えろ」

 自分が父親であることを、何か特別な肩書のように思っている。お前の親なのだからお前の様子を見にきてやったのだという押しつけがましい何かが透けて見える。

「おい」

「答える義理は無い」

 本心からそう言った。言った瞬間男の拳が飛んできて、構える間もなく吹き飛ばされた。息が詰まる。腹部に鈍い痛みがあった。

 思わず笑いだしそうになった。

 親であることを振りかざしながら、子供の一人も繋ぎ止められない。行き詰まったら暴れることしか能がない。しかもそんな自分に酔っている。小学生でももう少しましだ。

 地面に転がったまま、そっとスカートのポケットに手を伸ばした。

 正当防衛という名称で、ここで殺してしまおうかと考えた。

 それを遮るように、聞きなれた声が墓地に響いた。

「何してるんですかっ」

 男の向こうに、息を切らせた聖の姿が見えた。

「……何だお前」

「俺は、その子の……」

 何を言おうとしたのか、聖はそこで言葉を詰まらせた。それをどう解釈したのやら、男がにやりと顔を歪めた。

「へーえ」

 男が私に向き直り、私の髪を掴んだ。

「彩希お前、仕事もしないで男作ってたのかよ」

 私はそれには答えず、ポケットの中でカッターナイフのグリップを握り締めた。スライダーに添えた親指に力がこもる。

 今なら、確実に男の首を掻き切れる。

 そのつもりで、男の顔を見据えた。

 しかし、目が合ったとたんやる気が失せた。

 肉親の情などではない。単純に、手を下すことすら馬鹿らしく思えたのだ。

 だから、代わりに、男の顔を睨みつけた。勝手に生きて勝手に死ねという思いを込めて。

 思えば、こうしてこの男の目を見たのは六年前に首を絞められた時以来だった。状況もさして変わらないと思うと妙に滑稽だった。

 この男は、六年前に妻を亡くしたその日から完全に時を止めている。

 もともと自分のためには生きられない人だったのだと思う。だから妻を亡くしてからは、きっと子供を憎むためにしか生きていない。

 それだけを見れば、哀しい人だ。

「気味悪いガキだな」

 男はそれ以上暴力を振るうことなく、忌々しそうに吐き捨てて手を離した。棒立ちの聖を押しのけて墓地の出口へ向かう。何となくだが、あの男に私は殺せないという気がした。私を殺して、次いで悠希を殺して、本当に独りになったら、今度は自分が生きていけなくなるということをあの男は無意識に自覚しているのだと思う。

 そう考えれば、弱い人だ。

 男の姿が完全に見えなくなってから、聖に手を差し伸べられた。

 私はその手に気付かなかったふりをして立ち上がった。実際必要無い。

 案の定、青年には先刻の男のことを尋ねられた。妙な誤解をされても面倒なので、私は必要最低限のことだけを伝えた。私にその気が無くても、この手の話を詳しくすれば悲話だと勘違いされることは経験則で知っている。


 幸か不幸か、この日、これ以上聖が食い下がってくることは無かった。

 それでも、この日を境に聖の私を見る目の色が変わった。

 私は、この日を境に彼を眩しいとは思わなくなった。

 父親は借金取りに追われてこの日の間に姿を消した。


 梅雨が明けて、空気に夏の匂いが混じり始めた。私が雨傘をしまい込んで日傘を持ち歩くようになったころ、聖が三日続けて現れない日が続いた。

 一日目の仕事終わりに何か違和感を感じて、二日目の仕事終わりに聖が現れていないせいだと気が付いて、三日目の仕事終わりには違和感すら感じなくなっていた。穂積の家に戻ってから、そのことに少し安堵した。同時に、もしこれが父親と再会する前だったらまた違ったのだろうかと考えて、ろくな想像にならない気がしてやめた。

 四日目の夕方、聖はひどく慌てた様子で墓地に現れた。あまり体調がすぐれないように見えた。

「ごめん、ちょっと風邪ひいて、しばらく来れなくて」

 理由も訊いていないのに聖は一方的にまくし立てて、挙句の果てに頭を下げた。

 何を言われているのか、今一つ理解できなかった。だから訊いた。

「何で謝る?」

「何でって……来れなかったから」

「それが?」

「いや、その……」

「別に約束したわけではないのだから。謝る理由がわからない」

 そう告げると、聖はひどく落ち込んだ顔を見せた。


 その日から、聖が墓地に来る頻度が目に見えて下がっていった。

 毎日だったのが数日おきになり、やがて週に一回になった。


 終わりが近づいているのだと思った。

 それ自体は必然だと思っていたし、比較的緩やかに収束していることに安堵すらした。私だって必要以上に傷つけたいとは思わない。


 ただし、向こうから傷つけられに来る場合はその限りではない、ということを自覚していなかった。


 聖と父親が顔を合わせてからちょうど一か月くらい経ったころだろうか。聖が沈痛な面持ちで墓地に現れた。そんな顔をぶら下げてくるくらいなら帰れと思いながらも、名前を呼ばれたので仕方なく顔を上げた。

「彩希、一つ訊いていい?」

 聖は暗い表情のままでそう言った。ろくなことにならない気はしたものの、無視するのも躊躇われる。

「何」

「彩希は、俺のことどう思ってる?」

「どうって?」

「少しはさ、彩希の力になれてる?」

 心の中で、何かが崩れるような気がした。

 こいつは――そんなことを考えていたのか。

 いつもより少し慎重に、言葉を探す。なるべく私の気持ちが伝わるように、そしてなるべく私の動揺が伝わらないように。

「私の力ってなんだ?」

「え……だから、その、少しは助けになれてるのかなって」

 眩暈がしたような気がした。

 どうして、私は少しでも彼のことを眩しいなどと思ったのだろう。所詮、彼も今まで私が出会ってきた人と変わらない。

 そしてどうして、私はそんなことで今、傷ついているのだろう。

「私に助けが必要なんて、いつ言った?」

 わざと大きな声を出した。そうしないと脆弱な内面を見透かされる気がした。

「それは、」

「私は何もいらない」

「でも、彩希はここで一人で」

「だから?」

「だから、俺が」

「一人は不幸せ?」

「……寂しいだろ?」

「誰が決めた?」

「いや、決めるも何も普通に考えたらさ、」

「普通って何だ?」

「それ、は」

「私に助けが必要なのも、一人が寂しいのも、あなたの決めたことだ。私は知らない」

 一息に言った。半ばムキになっていたかもしれない。でもそうでもしないと、私の輪郭がほどけてなくなるような気がした。

「何で、そんな意地張るんだよ」

 しかし聖は引き下がらなかった。いっそ立ち直れないくらいに傷ついて帰ってくれれば良かったのに。

「意地?」

「そんな一人で頑張らなくていいだろ。ちょっと弱音吐くぐらいしてもいいだろ」

「弱音?」

「……俺じゃ力になれないのか?」

 聖が、それまで地面に落としていた視線を私に向けた。目が合う。

 多少なりとも本心が混じっていることはわかる。でもそれを認めたくはなかった。認めてしまったら、きっと私はもう生きられなくなる。

 どうしてこの世界は、引き返せなくなってから、不釣り合いなほど優しい生き方をちらつかせに来るのか。どうして、今さら。選べなくなってから。


 それが、許せない。


「……馬鹿にしてるのか?」

 口に出した言葉には、私が思った以上の凄みがあった。聖の顔が強張るのがわかる。

「私が誰かに頼らないと生きられないとでも?」

「そんなことは言ってな」

「言ってる」

「俺はただ、君の助けに」

「違う。貴方が望んでいるのは『自分がいないと生きていけない誰か』だ」

「え…」

「私が不幸に見えたか?可愛そうな境遇の少女を見つけてどう思った?自分の出番だと思ったか?俺が守ってやらないといけない?笑わせるなよ」

「そんなこと考えてないって!」

 聖が初めて声を張り上げた。

 それでも暴言は止まらない。

 そうしてでも、今の生き方に縋り続けていたかったから。そうさせてほしかったから。

「私は父に売られた時からもう一人で生きることを決めている。それを悔やんだことは一度も無い」

「だから……なんでそう決め付けるんだよ。なんで一人で片付けようとするんだよ」

「ほら」

「え?」

「貴方の望みは、『自分がいないと生きていけない誰か』だ」

「違う」

「違わない。何を望もうが勝手だが、それに私を巻き込むな。求められることを求めるな」

「巻き込んでなんか…俺はただ君を」

「貴方の理想で、私の生き方を否定するなっ」


 もう、これ以上私に光を見せるな。


 そこからは、ほとんど無意識だった。

 気が付いた時には私は、聖の胸にカッターナイフを突き立てていた。スカートのポケットに入れっぱなしにしていたことはこの時思い出した。

 私の手元を中心に、赤が広がる。

 聖の身体が私の足元に崩れ落ちる。

 聖の胸からカッターナイフを引き抜く。返り血が右目の視界を奪う。


「なんで、こんなこと…」

 

 ごぼごぼとしたノイズ交じりの声で、聖が問う。


「貴女が私のそばにいたからよ」


 言い放つ。聖に届いたかどうかはわからない。

 

 ぐらり、と世界が歪むような感覚に襲われた。

 私は――自分を捨てた人間は殺せないのに、自分に優しい人間は殺すのか。

 日が沈む。聖の死体に差していた西日が途絶え、墓地に暗闇が下りる。

 ここには私と聖しかいない。聖は私が殺した。

 もう、世界のどこにもいられないような気がした。

 自分が人間ではなくなったような気がした。

 他人の優しさを捻じ曲げて食い潰して生きる、そういう怪物になったような気がした。

 

 この世界に怪物の居場所は無い。

 

 怪物は墓地を駆けだした。

 どこをどう走ったのかは覚えていない。それでも厚かましくも帰巣本能だけはあったのか、目が覚めたときには私は穂積の家のソファで横たわっていた。


「……?」

 ゆっくりと体を起こす。

 室内には誰もいない。でも、家の中には人の気配がする。

 生臭い臭いがする。

 いつもの癖で、寝癖だらけの髪を手櫛で梳く。いつも以上に引っ掻かる。どうしたものかと思い、自分の長い髪に目を落とす。

 赤茶色の何かが、髪にべっとりと絡みついている。

 視線を手に移す。

 手のひらも似たようなもので、怨念を具現化したような色でまだら模様が描かれている。

 ああ、そうか。


 私はたぶん人生で初めて悲鳴というものを上げた。


 


 それからのことは、あまり覚えていない。

 わかるのは、穂積に尋常ならざる迷惑をかけたということと、その結果、聖は「事故死」したことになったということだけだ。

 唯一事情を知る穂積は私を一切責めなかった。それが想像以上に辛くて、試しにカッターナイフで自分の胸を貫いてみようと考えて、それは穂積の二の舞だと気が付いてやめた。


 聖が死んでから一か月くらい経ったころ、私は墓守としての仕事を再開した。

 墓地はいつも通りで、一月前に聖が倒れていたところには何の痕も残っていなかった。

 いつも通り墓地の隅っこで膝を抱えて座った。


 名前を、呼ばれた気がした。

 気のせいだとわかっていたので無視した。

 もう一度、呼ばれた。

 振り返った。

 

 聖がいた。もちろん生者ではない。


「なん、で」

「え?」


 彼の背後を見る。新しい墓石が増えている。

 そこに刻まれているのは、彼の名前だった。この墓地だったのか。


「なんで」


 同じ質問を繰り返した。


「彩希……なんで、名前、知ってるんだろ俺」


 聖は、死ぬ前のことを覚えていなかった。

 いっそ覚えていてくれたら良かったのにと思ってしまった私は、もう完全に「そっち側」だった。



 

 聖は、死ぬ前のことを覚えていない以外は生前と全く変わらなかった。

 もちろん大学の話なんかをすることは無かったけれど、人当たりの良さはぶれない。

 聞き覚えのある会話が、毎日繰り広げられた。

 内容が完全一致することはもちろんない。しかしそれは明確な方向性を持っているようで、かつてと同じ結末へ向かっているのがわかった。

 私が聖の言葉に応えなければ、それは止められるようにも見えた。

 でも、そうしなかった。

 決して繰り返したいことではない。でもそれを意図的に避けるような権利はもう無いような気がした。


 そしてとうとう、あの日と全く同じ会話が繰り返された。

 私はあの日と全く同じように、聖にカッターナイフを突き立てた。

 聖は、それで全てを思い出したようだった。

 それでいて、私を恨んでいる様子は一切見せなかった。それは予想できたことだけど、やはり辛い。

 私は彼にカッターナイフを渡した。彼を殺したモノだ。

「殺された人間は、自分を殺した人間が死ぬまで成仏できない」

 そう告げた。一応事実だったが、ここで必ずしも告げる必要があったわけではない。

 ただ、聖に殺されなければ、もう人間として死ぬこともできない気がした。それが一種の甘えであることは十二分に理解していた。

「復讐しろって言うのか!?」

 案の定、聖はそれを拒否した。

「復讐じゃない。私の墓守としての仕事を全うするために協力してくれと言ってる」

「そんなことしたら君が死ぬだろ!」

「だから?」

 本当に、残酷なほど変わらない。


 むごく甘い。


「私の命だ。どう使おうが私の自由だ」

「馬鹿かお前は!」

 聖が声を張り上げる。

「馬鹿は貴方だ。自分の仇を討てるんだ。いい機会じゃないか」

 あえて煽るような言い方をした。それで聖が動くとは思えない。それでも他にどうしようもなかった。

「ふざけるな!」

 聖がカッターナイフを投げ捨てた。私はそれを拾い上げた。やはりそううまい話は無いらしい。

「そうか、できないか」

「当たり前だろ…」

「私のせいで貴方は全部失くしたのに、随分とお人好しだな。私を許すのか?」

「……許せるって言ったら、それは嘘になるけどさ」

「だろうな。じゃあどうして殺せないか教えてやろうか」

「え?」

「ここで私を殺したら、貴方は独りになってしまうからだ。何、その心配はいらない。私を殺したらあなたは成仏できるのだから」

「そういう問題じゃない!」

 そういう問題じゃないということはわかっていた。

「そういう問題なんだ。貴方が心配しているのは私の命じゃない。私が死んだ後に自分が独りになるのではないかということだ。そしてその心配はいらない。墓守として保証する」

「……違う。俺は」

「今口ごもったな。図星か」

「っ……」

 


 結局、私は自分の喉にカッターナイフを突き立てた。灰色の世界に鮮やかな色が散った。

   


 

 自分の死体を見下ろすというのは随分妙な気分だった。

 死体を挟んで、聖が呆然と立っている。その姿は光の粒子に変わりつつあった。

 聖はどうしてこんなことを、と問うた。

 ふと、本当のことを答えそうになって口をつぐんだ。

 これが聖の望みではないことくらいわかっていた。完全に、私が私のためだけにしたことだった。

 最期に、彼に優しい言葉をかけることもできないわけではなかった。ただ、それはあまりに私に都合が良すぎる。

 私は聖の中で、怪物であり続けなくてはいけなかった。

 だから、 

 

 さようなら、偽善者。


 そう言って、見送った。

 私に失望してくれていればいいと切に思う。

 


 

 

 


 仰向けに地面に転がってみた。

 空が遠い。

 体は粒子となって空に昇っていくのに、私はどんどん空から遠ざかっていくような錯覚に見舞われた。


 兄が私を心配していたことも、穂積と私が似ていたことも、世界が本当に優しかったことも、そして私が愛されていたことも。

 本当は全部知っていた。

 でも、知らないふりをしなければ生きられなかった。

 そういう生き方に閉じこもる以外のやり方を知らなかった。

 閉じこもったのに、この世界は私を放っておいてはくれなくて。

 そして引き返すにはあまりにも遅すぎて。





 酷く甘く、酷く優しい。

 そんな世界に、嫌悪と別れと、


 最上級の感謝を。




 







 



 


 

 


 

 

 

 

 


 

 


 

 

 

 

 

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