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Ayaki  作者: 桐澤 明
3/4

Hodumi

 たぶん、これは人身売買と呼んで差支えない行為だったのだろう、と他人事のように考える。


 吉野穂積。どっちも名字に聞こえると言われ続けて四十数年。職業は墓守。一応国から莫大な報酬をもらえる仕事であることはここだけの話。中学時代の同級生との間で人身売買を行ってしまった。しかも「商品」はその同級生の実の娘。小学三年生。それを後継者と称して家に連れ帰るオーバー四十の中年男。もう何をどう言い繕ってもお縄を頂戴できる気がする。ただ、苦肉の策であったことだけは声を大にして言いたい。

 それというのも、吉野は数年前に医師から余命宣告を受け、墓守の後継者探しに躍起になっていたからだ。そうでなければこんな犯罪じみた(というか立派な犯罪だ)行為に手を染めたりしない。自分はそこまで悪人じゃないと信じたい。

 

 そんな風に悶々と悩んだものだが、悩んでいた自分が馬鹿だったのではないかと思えるほどに「商品」の少女は平然としていた。

 その少女を買い取った帰り道、車の助手席に座った少女は、人形じゃないかと思うくらい微動だにしなかった。泣きだされたらどうしようという心配はしていたが、ここまで沈黙を貫かれるとそれはそれでかなり対応に困る。

 沈黙が気まずくなり、それとなく声をかけてみる。

「あの、伊勢さん」

「|彩希」

「え?」

「彩希、でいい」

「・・・ああ、そう」

 つっけんどんではあるものの、一応会話らしきものが成立したことに安心して、そのまま話を続けることにした。

「・・・あの、俺が言うのも何なんだけどさ、本当に良かったの?」

「何が」

「いや、だから、俺が買ったこと」

「ああ、そのこと」

 少女はわずかに目を見開いて吉野の方を見た。まるでそんなことを訊かれるとは微塵も思っていなかったというような目だった。

「別にいいよ。お金もらったし」

「いや、そうじゃなくて、君はこれで良かったの?」

「どうしてそんな心配をする?」

 少女は心底わからないという風に問い返してきた。

 十歳にも満たない少女があまりにも抵抗なく自分の境遇を受け入れていることがどうも腑に落ちなくて、吉野はつい問いを重ねた。

「だって、君はもう家に帰れないわけで、お兄さんとかお父さんにも会いに行けないし」

「だから?」

「・・・だからどうってわけじゃないけど・・・。辛くないのかい?」

「どうして辛いと思うの?」

「・・・・・・」

 即座に切り返されてしまい、吉野は問答を諦めて運転に専念することにした。すると意外なことに、彼女の方から話しかけてきた。

「吉野」

 呼び捨てにされた。小学三年生に。まあいいか。

「な、何だい」

「下の名前はなんていうの」

「え?」

「下の名前」

「・・・穂積」

「そ。じゃあそう呼ぶ」

「なんで下の名前?」

「・・・・・・名字って嫌いだから」

 珍しく彼女が答えに詰まったことに驚いて、助手席を横目で見た。

 少女は先ほどまでと変わらぬ無表情で、フロントガラスの向こうを見つめていた。

「何で、名字が嫌いなの?」

「・・・名字が同じだと、それだけで繋がってるって思われるから」

「・・・・・・家族のこと?」

「・・・・・・あれは他人」

「あれって、お兄さんとかお父さんとか?」

「他人だから」

「・・・・・・」

「名前は、一人に一つずつで十分だから」

 

 その時から、吉野は彼女のことを「彩希」と呼ぶことに決めた。




 少女を買い取ってから一週間で、彼女が異常なまでの聡明さの持ち主であることが分かった。

 墓守の仕事というのは平たく言うと墓場にたむろする幽霊たちが墓場の外に逃げ出さないように監視することなのだが、その他諸々の心霊現象の相談も受け付けていた。初めの一週間でその多岐にわたる仕事のノウハウを片っ端から説明していったのだが、彼女はそれをたった一回の説明で完璧にマスターしていった。

 半年くらいかけてゆっくりと教えるつもりだったことを一週間でマスターされてしまったので、二週間目からは実際に彼女を連れて墓地に出かけるようになった。彼女は(多少乱暴さが目立ったものの)幽霊のあしらい方も上手で、今すぐ自分の後を継がせても問題ないと思えるほどだった。

 その日の夜は墓地で過ごして、翌日の昼に家に戻った。

 遅めの昼食を摂っていると、珍しく彼女の方から話しかけてきた。初めて会った日以来だ。

「穂積」

「ん?」

「穂積は、どうして墓守をしているの?」

「え、俺?」

 意外な質問に驚いて、彼女の顔を見返した。

「俺が、この仕事を始めた理由?」

「うん」

「・・・・・・うーん。まあ彩希と似たような感じなんだけどさ」

「売られたの?」

 直接的な言い方をする子だなあ相変わらず。

「売られてはない、かな」

「へえ。じゃあどうして?」

 全く温度の無い声で彼女は淡々と聞いてくる。変に憐れみのこもった声よりもむしろ誠実な尋ね方のような気がして、吉野は普通なら答えないようなその問いに答えることにした。

「・・・・・・まあ、はっきり言うとお金が欲しかったんだ。一番手っ取り早く稼げるのがこの仕事だった」

 ただし、一番重要なところはぼかして答えた。それをありのままに話せる度胸は無かった。

「お金?」

「友だちがさ、ちょっと足が不自由になって。で、そいつの足を治すのにどうしても大金が必要で。それで」

「自分が余命宣告を受けているときに友だちの足の心配?」

「俺のはさ、もう治らないから」

「治らない?」

「俺、別に病気とかじゃないんだよ。ただ、身体がどんどん弱くなっていってる。たぶん彩希ほど幽霊に耐性が無くてさ。幽霊と接しすぎて生気を奪われたんだろうって。この仕事してるやつに多いらしい」

「私もそうなるのかな」

「いや、君くらい強けりゃたぶん大丈夫」

「そう。で?」 

「で?・・・って何?」

「だから、どうして墓守になったの?」

「さっき言っただろ?」

「それだけ?」

「・・・そうだけど」

「ふうん」

 彼女にしてはかなり食い下がってきたわりには引き際は実にあっさりとしていて、彼女の興味は手元の食パンに戻ってしまった。

 吉野より早く昼食を終えた少女は、自分の分の洗い物だけをさっさと済ませて、部屋を出ようとドアノブに手をかけた。しかしそこで立ち止まり、吉野の方を振り向いて言った。

「袖」

「ふぁ?」

 意味不明な単語に対して吉野も意味不明な擬音語で返してしまった。

 彼女はそれには突っ込まずに、「袖。見えてる」とだけ言って、部屋を出ていった。

 何のことだろうと思って自分の服の袖に視線を落とす。そこで初めて彼女が言わんとしていたことに気が付いた。

 吉野は半袖の服を着ない。

 長袖の服を着ているときでも、極力袖をまくることはない。ただ、台所に立つ時を除いて。

 昼食の準備をしたときに袖まくりをして、そのまま元に戻すのを忘れていた。

 

 左腕の、肘から手首にかけて、直線的な傷跡が無数に走っていた。


「あー・・・」

 見られたかな、と口の中だけで小さく呟いた。

 聡明な彼女のことだ。これが何を意味するのかもだいたい想像はついているのだろう。

 この傷が消えることはない。増えることは、無いと思いたい。

 誰もいない真昼の台所で、苦笑しながら袖を下ろした。

 その時、床に何か赤いものが落ちているのに気が付いた。どこかで見たことがあるなと思って拾い上げると、それは少女が毎日髪に付けているリボンだった。ろくに手入れもしている様子はないのに、このリボンだけは欠かさずに毎日付けているところを見ると、よほど大切なものなのだろう。

 届けてやるかと思い、リボンを片手に少女の部屋のドアをノックした。

「どうぞ」

 間髪入れずに返事が返ってきたので、遠慮なくドアを開く。もとは物置だったのだが、少女を迎えるにあたって中の不要品を一掃し、彼女の部屋として使えるようにした。

 その部屋に入るのは、彼女が吉野の家にやって来た日以来だった。

 一歩中に踏み入って、少なからず驚いた。

 機械的なほどに几帳面な彼女の性格からは想像がつかないほど、その部屋は散らかっていた。

 もともとそんなに物は多くないはずなのに、その部屋の床は衣類や本で埋め尽くされていた。まさに足の踏み場もないという表現がしっくりくる。

 親じゃあるまいし、片付けなさいなんてことを言うつもりはさらさらなかった。それでもさすがに一歩踏み入ったところで足を止めてしまい、ベッドの上で膝を抱えていた少女に怪訝な顔で見られた。

「どうしたの?」

「いや・・・・・・部屋、散らかってるな」

「散らかってるね」

「片付けないの?」

「この方が落ち着くから」

 彼女はそう言って、ベッドの上に転がっていた赤いランドセルに手を伸ばした。

 墓守は、例外的に義務教育を受けなくても良いことになっている。それだけこの仕事が国に重視されているということだろう。そのことは少女を迎えに行った時にも重々説明した。なので、少女は教科書やノートの類は全て元の家においてきた。しかし、なぜか、このランドセルだけは持って行きたがったのだった。

 やはり、普通の小学生に未練があるのだろうか。

 そう思うと、忘れたはずの罪悪感が再び押し寄せてきて、彼女の前に立っていることすら申し訳なく思えてきて、危うく本題を忘れそうになった。

「あ、そうだ」

「ん?」

「これ。さっき、台所に落としてた。渡そうと思って」

 吉野は手に持っていた赤いリボンを差し出した。

 それを見ると、少女はわずかに目を見開いて、本来そのリボンがあるべき場所を手でなぞった。

「あ・・・落としてた」

「やっぱり」

「ありがとう」

 あまりにもさらりと言われたので、聞き流しそうになった。しかし、今はっきりとお礼を言われた。

「・・・彩希、今なんて」

「・・・?ありがとうって言った」

「・・・・・・ああ、はい。どういたしまして」

 ぎこちない口調で返事をして、そのまま部屋を後にした。

 彼女が、他人に感謝の気持ちを持てる人間だったことが、どういうわけかとても嬉しかった。



 少女が来てから一カ月が経った。

 相変わらず吉野と少女は、毎日夕方に墓場に出かけて、そのまま幽霊の監視を続けて、翌日の昼に家に帰り、夕方に出かけるまでの間眠るという生活を続けていた。そんな中で、初めて彼女個人への報酬が出た。墓地へ向かう道中で偶然悪霊と鉢合わせし、彼女がそれを咄嗟に排除したことがあったのだが、驚いたことにその悪霊は国が賞金を懸けるレベルの大物だったのだ。

 あくまでも彼女個人への報酬なのだからと、吉野は全額を彼女に託した。彼女は遠慮するでもなくその大金を受け取り、特に嬉しそうな顔もせずにまたいつも通りの日常に戻った。

 彼女の部屋から赤いランドセルが消えたのはその翌日だった。

 さすがに部屋を掃除するべきじゃないかと思い、彼女の部屋にお邪魔した時だった。

「あれ、ランドセルは?」

「送り返した」

「どこに」

「伊勢悠希宛に」

 伊勢悠希、というのは彼女の兄だ。今は父親と二人暮らしになっているはずだ。

「なんでまた」

「使わないから」

「それは・・・」

 一か月前にはすでにわかっていたことのはずなのだが。

「何?」

「あ、いや、何でもないっす」

 結局、彼女がランドセルを送り返した詳しい理由を聞き出すことはしなかった。吉野個人としては、元の生活への未練が無くなったのだろうと勝手な憶測を立てていた。だからと言って自分のした行為が完全に正当化されるわけではないことも自覚していた。少女に直接的に責められたことはない。しかし、十歳に満たない子供を家族から引き離したという事実に変わりは無く、やはりいつかきっちりと謝るべきだろうと漠然と考えていた。



 それから数年たったある冬の日の昼過ぎに、吉野の携帯電話が鳴った。

 耳慣れない着信音に、咄嗟に反応できなかった。それもそのはず、吉野は仕事用の携帯電話と私用の携帯電話を分けているのだが、私用のそれが鳴ることは滅多にないからだ。たぶん前になったのは一年前くらいだ。

 慌ててバッグの底から赤い携帯電話を引っ張り出して、ディスプレイに表示された番号を見る。登録されていない番号からだった。

「もしもし」

「あ、えっと、穂積君?」

「へ?あ、はい。穂積君です」

 四十を過ぎて下の名前を君付けで呼ばれるとは思っていなかったので、かなり間抜けな返し方をしてしまった。

「あの、私です。山下由紀です。翔太の姉の」

「――!」

 続く相手の自己紹介で、全身が強張るのがわかった。

「ああ・・・・・・お久しぶり、です。どうされたんですかいきなり」

「あの、お知らせしようか迷ったんですけど、やっぱり穂積君には言っておいた方がいいと思って」

 電話の向こうの相手が軽く鼻をすするのが聞こえた。胸の中に一気に嫌な予感が満ちる。どす黒い靄にも似た何かが頭の中を浸食していく。


「一週間前、弟が――山下翔太が、亡くなりました」


 それからしばらく、吉野はその場に立ち尽くしていた。




 その日の墓守の仕事を全て少女に任せて、吉野は車を走らせて山下由紀の元へ向かった。

 山下翔太は、吉野の親友と呼べる人物だった。

 中学の時に知り合った。

 彼はバスケットボール部の部員で、吉野を同じ部活に誘ってくれた人だった。

 吉野はもともとあまり体力が無い。周りに迷惑をかけたくないからという理由で運動部への入部を諦めていたのだが、それを偶然隣の席に座っていた吉野にぼやいたところ、熱烈に勧誘された。同期から勧誘されるというのも妙な話だが。聞くところによると彼の姉がバスケ部のマネージャーをしていて、新入部員を引っ張って来いとうるさいらしい。

 結局、吉野は誘われるがままにバスケットボール部に入部した。覚悟はしていたものの練習についていくのが精一杯で、何度かやめようと思った。それでもここでやめてしまったら彼に申し訳ないような気がして、半ば意地で続けていた。一方の山下翔太はかなりの才能の持ち主だったようで、三年生を相手に互角にやりあっている。普通こういうレギュラー候補みたいなやつは自分みたいな落ちこぼれなど相手にしないものだと思うのだが、彼は練習終わりごとに吉野を遊びに誘うのだった。

 一度だけ、どうして自分なんかに構うんだと聞いてみたことがある。その時の彼の答えは実に明快だった。

「ええー。理由とかいいじゃん別に。俺がそうしたいだけだしー」

 入部してから半年がたったある日、二年生の投げたボールが、体育館の二階の観覧スペースに上がってしまった。当然のことだが、こういうボールは練習終わりに一年生が取りに行くことになる。

 その日、吉野は朝から貧血気味だった。練習を休もうかとも思ったが、やはり意地で来てしまった。そして、練習終わりに、件のボールを取りに階段に向かった。階段はステージ脇の体育用具入れの隅にある。吉野は得点板やマットを押しのけながら階段に向かい、そのまま階段を上り始めた。

 踊り場の数段手前で、後ろから誰かに呼び止められた。

「おい!吉野お前靴紐!」

 言われたことの意味を理解するより前に、自分で自分の靴紐を踏んでバランスを崩した。シューズの紐がいつの間にかほどけていた。

「あ」

 咄嗟に手すりを掴もうとしたが、貧血のせいか視界が暗くなった。手すりを掴み損ねた手は宙を掻いた。自分の身体が後ろに傾いていくのがわかった。

 


 何やらすごい衝撃がして、それでも想像したほどの痛みは無くて、埃が舞う体育用具入れの中で吉野はのろのろと起き上がった。

「あれ、俺・・・」

 落ちた、よな?今。

 まだふらつきの残る頭を押さえながら立ち上がる。物音を聞きつけたのか、顧問と何人かの部員が体育用具入れに駆け込んできた。

 駆け込んできて、「ひっ」と小さな悲鳴を上げて立ち止まった。ただ一人、マネージャーの山下由紀だけが大きな悲鳴を上げた。

 何だろうと思い、彼らの視線の先を追う。

 そこには、床に倒れた山下翔太の姿があった。問題なのはそこではなくて、彼の右膝に、倒れた得点板の角が突き刺さっていることだった。

「あ――」

 思い当たることがあって、自分の背中を見た。

 白いTシャツの背中に、赤い染みが付いている。もちろん、自分の血ではない。

 あの時、後ろから吉野を呼び止めたのは、山下翔太だった。

 自分が階段から落ちて、一緒に巻き込んで――

 ようやく状況を理解した。彼がいなかったら、あの得点板の角は、吉野の胴体を刺し貫いていたのだ。

 

 山下翔太はそのまま救急車で病院に運ばれた。

 幸い命に関わることはなかったが、彼の右足はほとんど動かせなくなった。治すにしても莫大な手術代が必要で、それを払えるだけの力は山下家にも吉野家にも無かった。

 当然だが、彼はすぐにバスケットボール部を退部した。


 吉野はというと、部活を続けた。「お前のせいで」と言われることは多々あったし、嫌がらせも毎日のように受けた。先輩に呼び出されて退部届を突き付けられることもあった。それでも部活を辞めなかったのは、それでも部活を辞めないことが自分への罰になるような気がしたからだ。

 一方の山下翔太は、部活を辞める前と全く変わらない態度で吉野に接してきた。

 何度謝っても、「お前のせいじゃない」の一点張りだった。いっそめちゃくちゃに罵ってくれた方が楽になるんじゃないかと思えた。いっそ喧嘩別れした方がいいんじゃないかとも思えた。

 そんな生活が続いて一年生の終わりが近づいたころ、部活終わりに先輩と口論になった。正確には、先輩に一方的に罵倒された。内容はもちろん山下翔太のことだ。

 吉野は何一つ弁明をしなかった。する気もなかった。罵られて当然のことをしたのだから、それが正しいと思った。

 去り際に、先輩に殴られた。しかも顔。明日学校なのにな、と少しだけ思ったが、口には出さなかった。

 翌朝、吉野の頬に出来た痣を見て、山下翔太は松葉づえをつきながらも駆け寄ってきた。

「吉野、顔どした?」

「あ、これ?親父に張り倒された」

 咄嗟に下手糞な言い訳をした。本当のことを話して、彼に責任感など感じさせてしまったら本末転倒だ。

 しかし、彼は即座にこう切り返してきた。

「吉野、お前さ。もう部活辞めろよ」

「え・・・?」

「それ、どうせ部員にやられたんだろ」

 あまりにも的確に指摘されて、つい上ずった声が出てしまう。

「な、何言ってんだよ。お前バスケ部員疑うのか?」

「疑うも何も・・・なんでお前さ、そんなにしてまであの部に残るの?」

「なんで、って」

「もともと俺が強引に誘っちゃったんだしさ。無理して続けることないだろ。それに、その・・・・・・居心地悪いだろ?」

 なんで、自分はこいつに心配されているんだろう。

 心配されるようなことなんて何も無い。今自分があの部に残っているのも、そこで嫌がらせを受け続けているのも、全てこいつに大けがを負わせた罰なのに。

「俺さ、何度も言ってるけど、この怪我のこと、吉野に責任感じてほしくないんだよ」

「でも、俺のせいで」

「じゃあ言うけどな、俺にとってはさ、お前がそうやっていつまでも引きずってんのが一番辛いよ」

「辛い・・・?」

「もう、終わりにしよう。俺はお前のこと、怒ってないから」

 それだけ言うと、彼はこの話をさっさと終わりにしたいという様子で席に着いた。

 吉野は、しばらくその場に立ち尽くした後、半ば放心状態のまま自分の席に向かった。


 赦された。

 赦されて、しまった。

 赦されてしまったら、もう何もできない。

 山下翔太は自分を責めないし、あの部に残って責められることすら許されない。

 罰を受ける以外の生き方が、もう思い出せない。


 じゃあ、もう、自分で自分を罰するしかないじゃないか。 


 ペンケースから、愛用のシャーペンを取り出した。

 芯は出さず、逆手に持って、そのまま左腕に向かって振り下ろした。

 何度も何度も、周りの席のクラスメイトが止めに入るまで、何度も何度も振り下ろした。そうすれば、何かに赦されるような気がした。


 それから何度か同じことを繰り返して、そのたびに病院やカウンセラーの間をたらい回しにされた。馬鹿なことをしているのはわかっていたが、左腕の傷が治るたびにどうしようもない不安に苛まれた。傷の無い、何不自由なく動く自分の身体が恨めしく思えて、気が付いた時にはシャーペンを握り締めているのだった。


 そんなことが続いて、ほとんど学校に行かなくなったある日、母親の知り合いだという女性が家に尋ねてきた。その女性はなんでも墓守をしているそうで、吉野の墓守としての素質を見込んで、後継者にならないかという誘いを持ち掛けてきた。

 母親に詳しく訊いてみると、ずいぶん昔から吉野を墓守の後継者にしたいという話は上がっていたらしい。ただ、一度墓守になればほとんど家に帰れなくなることと、どうしてもあまり明るい仕事ではないことから、母が断り続けていたそうだ。

 ただ、状況が変わった。

 息子の今の現状を見た母親は、山下翔太の足さえ治れば息子は救われるのではないかと考えたのだ。つまり、墓守という仕事はかなり儲かるので、息子が墓守になってそこで稼いだお金で山下翔太を救えれば、今の状況を脱せれるのではないかと考えたわけだ。

 吉野は、その話に乗った。

 今のままではいけないという思いもあったし、何より、いくら自分を傷つけても山下翔太が救われるわけではないことは吉野自身が一番よく理解していた。


 


 山下翔太は、交通事故死だった。

 踏切を渡っていたところ、松葉杖の先が線路の隙間に挟まって転倒し、そのまま電車に撥ねられた。即死だった。

 彼の姉、山下由紀はどうにかしてそのことを吉野に知らせようとしてくれたらしい。ただ、裏の仕事と言っても差し支えない墓守である吉野の連絡先を調べるのに四苦八苦し、一週間経った今日、ようやく連絡が付いたというわけだった。

 彼の姉もまた、彼と同様に、吉野を全く責めなかった。その代わりに、彼が書き溜めていたという手紙を渡してくれた。

「これは?」

「弟が、時々あなたに手紙を書いていたんです。もちろん宛先もわからないので出すことはできなかったんですが――良ければ、読んでやってください」

 喪服の由紀に見送られて山下家を後にし、家に着いたのは空が白み始めたころだった。まだ少女は墓地で仕事中だろう。台所に入り、湯を沸かしながら手紙の束を紐解いた。

 懐かしい、山下翔太の字だった。

 内容は、多少の違いはあるものの、どれも「責任を感じないでくれ」ということだった。

 俺が怪我をしたのはあくまでも自分の不注意のせいなのだから、そのことで吉野が悩まないでほしい。吉野は吉野の好きに生きてほしい。早く吉野自身を赦してやってほしい。

 そういうことが、ただひたすら綴られていた。吉野は、時間を忘れてただひたすら彼の文字を追い続けた。

「赦す・・・って、なんなんだろうなあ」

 手紙を繰る手を止めて、誰もいない台所で、ぼそっと呟く。呟いた声は白い息に変わって空中に霧散していく。

 結局のところ彼の一件で自分を責めたのは、直接彼には関係の無い人間ばかりで、当の本人やその家族は吉野のことを一欠片ほども責めなかった。

 シャツの左袖をまくる。そこには醜い傷跡が無数に走っている。それでもこの腕が動かなくなるほどの傷ではなく、どんなに深いものでも半月ほどで塞がった。

 もう、山下翔太はいない。

 吉野は、間に合わなかったのだ。

 墓守になれば安易に稼げると思っていた吉野の目算は甘かった。

 言ってしまえば、吉野の墓守としての才能はあまり芳しくなかったのだ。出来高制に近いこの仕事では、才能の有無は給金の額に直結した。その上に後継者探しの問題も絡んできて、彩希という少女を手に入れるためにさらなる出費を重ねてしまった。その結果がこれだった。

 彩希を責める気にはならなかった。彼女にしてみれば単にいきなり買われたわけで、こっちの事情なんて欠片ほども知らなかったのだから。

「何やってんだろな、俺」

 もう一言呟いてから、台所の戸棚に手を伸ばした。観音開きの戸を開くと、戸の内側に立てかけられた包丁に視線が吸い寄せられた。

 これぐらい大きな刃物で切ったら、後遺症の一つでも残るだろうか。

 そんなことを考えながら、戸棚の中に手を伸ばした時だった。

「穂積」

 いきなり名前を呼ばれ、心臓が跳ね上がった。

 勢いよく振り向くと、台所の入り口に少女が立っていた。いつの間にか時計は正午過ぎを指している。彼女が仕事から戻ってくる時間だった。

 彼女はここ数年間で驚くほど背が伸びた。最初に出会った時は、小学三年生にしてはかなり小柄な印象だったのだが、今では十四歳とは思えないほどの長身になっている。もう少しで危うく吉野の方が低くなりそうだ。赤いリボンは相変わらず使っている。

「あ、ああ、お帰り。どうだった?」

「別に何も無かった」

「いや、そうじゃなくて。一人で行かせたの初めてだからさ。大丈夫だった?」

「問題ない」

 彼女はあまり可愛げのないコートを脱ぐと、黙々と一人分のコーヒーを淹れ始めた。いつだって彼女は自分の分しか淹れない。

 しかし、驚いたことに彼女は手元のコーヒーを吉野に差し出した。

「え」

「何」

「彩希」

「だから何」

「お前頭でも打ったのか?」

「なんでそうなる」

「いや」

「私のコーヒーが飲めないのか」

 それは普通お酒に使う表現ですよお嬢さん。

「いや、そういうわけじゃ」

「じゃあ、はい」

「・・・ありがとうございます」

 ぎこちなく礼を言って、彼女の手からマグカップを受け取り、椅子に座った。いつの間にか冷え切っていた手のひらにじわじわと熱が伝わってくる。

 少女はその後自分用のコーヒーを淹れて、吉野の向かいに腰を下ろした。テーブルの上にさっきまで読んでいた手紙を置きっぱなしにしていたのに気が付いたのはその時だった。

「で、穂積」

 反射的に手紙を隠そうとしたとき、間髪入れずに彼女の声が割って入った。

「あ、はい。何すか」

「さっき、何してた?」

「さっき?何もしてない」

「嘘だ」

「嘘じゃない」

「ふうん」

 意外とあっさり諦めたなと気を抜いた瞬間、彼女の腕が吉野の左腕に伸びてきた。しまった。袖まくりしたままだった。

「じゃあ、これ、何」

 少女は吉野の左手首を掴んで、空いた方の手で傷跡を指さして訊いた。

「・・・別に、なんでもない」

「黒鉛の痕だ」

「はい?」

 何を言い出したのかと思うと、彼女は吉野の傷跡の、黒ずんだ部分を指さして薄く笑った。場違いかもしれないが、彼女が笑ったことに驚いた。

「これ、黒い」

「だから?」

「鉛筆とか、シャーペンの芯とかで怪我したでしょ。これ、たぶんその色が染みついてる」

 淡々と解説して、彼女は吉野の手首を解放した。どうやら彼女に隠し事はできないらしいと悟り、吉野は自嘲的な笑みを浮かべる。

「で?これで誰か救われた?」

 彼女は相変わらずというか、全くオブラートに包まずにずけずけとした質問を繰り出してきた。

「救う?」

「あ、違う?じゃあ、これで誰か赦された?」

 鋭い。

 彼女の慧眼に舌を巻きつつ、自分でも驚くくらい素直に問い返してみる。

「・・・これで誰かに赦してもらえると思う?」

「思わない」

 ばっさり切り捨てて、彼女はコーヒーに口を付けた。しかしまだ熱かったのか、わずかに顔をしかめてカップをテーブルの上に下ろした。最近気が付いたのだが、彼女はかなりの猫舌らしい。

 少女はそれを隠すように口元に手を当てて、こう続けた。

「ここからは私の憶測だが」

「?」

「被害者も、加害者も、罪人もいないんじゃないのか?」

「・・・どういうこと?」

 急に哲学的になった彼女の話に、吉野は素直に疑問を呈した。

「・・・私は、穂積とその手紙の差出人の間に何があったのかなんて知らないけど。どっちかが悪かったの?どっちかが被害者なの?どっちかが加害者なの?」

「それは、・・・違うと思う、けど」

「じゃあ、どうして穂積は赦しを求めるの?その手紙の人は赦してくれてるのに、まだ何か欲しいの?」

「・・・・・・いくら、言葉で赦してくれたって、俺のしたことが消えるわけじゃないだろ」

「そう。消えたりなんかしない」

「だから・・・」

「だから?残りの人生全部相手のために捧げれば赦されると思った?」

 いつの間にか、彼女の視線が冷たいものになっていた。十四歳とは思えない気迫に、吉野は思わずたじろいだ。

「穂積のそれは、贖罪じゃない。甘えだ」

「・・・・・・甘え?」

「穂積はその手紙の相手のことなんて思っていない。穂積が欲してるそれは自己満足だ」

「違う。俺はただ翔太に」

 がたん、と音を立てて少女が身を乗り出した。テーブルを挟んで、吉野の顔を至近距離から睨みつける。

「穂積」

「お、おう」

「他人のために生きるな。他人を生きる理由に使うな。その行為は他人のためじゃない。他人に尽くしている自分なら愛せるかもしれないと期待しているからだ。自分を貶める自分なら赦されるかもしれないと期待しているからだ」

 彼女が、こんなに長く話したのを初めて聞いたかもしれない。そして、聞き覚えのある言葉だなとふと思った。

 どこで聞いたのかはすぐに思い出せた。

「彩希、前にお兄さんにも同じこと言ってたね」

「いつだっけ」

「俺が彩希を買った時」

「・・・ああ」 

 どうやら思い出したようで、少女は小さく頷いた。吉野が彼女を伊勢家から連れてきた日、彼女は彼女の兄である伊勢悠希にもよく似たことを言っていた。

 他人のために生きるな――自分のためだけに生きろ、か。

 それができたら苦労はしないんだよなあと苦笑しながら、吉野はコーヒーを呷った。いったいどれだけ砂糖をぶち込んだらこうなるのかというくらい甘ったるくて、一瞬意識が遠のいた。

「ちょ、彩希。これ、甘」

「ん?」

 吉野が顔を上げた時には、少女は無表情で自分のコーヒーを飲み干していた。

 彼女が甘党なのにはこの日気が付いた。


 彼女はさっさと自分のカップだけを洗って台所を去っていった。

 再び一人になった台所で、山下翔太の手紙の束をまとめ始めた。


 もう、終わっていいのかな。


 心の中だけで、亡き友人に問うてみる。よくよく考えてみれば実に単純なことで、あの友人が「責任取って俺のために生きろ」なんて気色悪いことを考え付くような奴ではないことは自分が一番よく分かっているはずだった。

 なにやってたんだか。

 小さく嘆息して、残りのコーヒーを一気に飲み干す。

 吐き気をもよおすほど甘ったるい液体の後味はやっぱり甘ったるくて、苦いものが欲しくなって二杯目のコーヒーを淹れた。今度はブラックだ。

 

 もう何も教えることねえなあ、と、少女の去っていった方向を見てぼやいた。マグカップから立ち上った湯気は、天井付近までまっすぐに白い筋を引いていた。










 その一年後に、彼女は人を殺した。

 そしてそのさらに半年後に、彼女は自らの命を絶った。

 理由は今もわからない。











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