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Ayaki  作者: 桐澤 明
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Yuuki

 悠希が妹の通う小学校に初めて足を踏み入れたのは、高校入試を間近に控えた中学三年生の冬のことだった。

 家に帰ると、いつもなら自分より先に戻っているはずの妹の姿が無かった。おおかた委員会活動か何かだろうと思い、さほど気に留めていなかったのだが、さすがにいつもの帰宅時間を一時間以上も過ぎたころには心配になってきた。

 探しに行くべきだろうかと考え始めた時、家の固定電話が鳴った。

「伊勢彩希さんのお父様でしょうか?」

 妹の担任教師を名乗る女性は、どこか疲れ果てたような声で切り出した。

「・・・いえ。兄ですけど」

「あの、お父様はおられますか?」

「いいえ」

「何時ごろに戻られるかわかりますか?」

「・・・わかりません」

 電話口の向こうで担任教師が困り果てているのが目に浮かんだ。これ以上困らせるのも申し訳ないと思い、こちらから話を進めてみた。

「どうかされたんですか?」

「・・・失礼ですが、お兄さんはおいくつですか」

「十五です」

「そう・・・ですか」

 十五歳という年齢はそれなりに大人と認められたのか、それとも苦肉の策か、妹の担任教師はひどく話しづらそうにしつつも、事情を教えてくれた。

 早い話が、妹が同じクラスの女の子数人をぼこぼこにしたらしい。

 で、不幸中の災いとでも言おうか、そのぼこぼこにされた女の子のうちの一人が雑誌モデルをしている、言わば顔が売り物の子だったらしく、当然のごとくその母親が激怒して「伊勢彩希の保護者を出せ」と学校に乗り込んできているらしい。

 胃が痛いなあと思いながら、冬の冷たい空気の中を自転車を走らせて小学校に向かった。


 今の家に引っ越してきたのは、三年近く前。悠希が中学に上がってすぐのころだった。その時、彩希は小学一年生だった。

 そんなわけで、この日まで、悠希は彩希の通う小学校に行ったことがなかった。


 妹のクラスである三年二組は三階の突き当たりにあった。

 既に外は真っ暗で、窓に廊下を歩く自分の顔が映る。

 三年二組と書かれたプレートを見つけて立ち止まり、教室の引き戸の前で一つ深呼吸をした。立てつけの悪い扉を開けると、そこには顔を腫らした女の子とその隣で怒りの形相を隠しもせずに椅子にふんぞり返っている母親らしき人、そしてすっかり青ざめてしまった担任教師と思しき人物がいた。

「あ、すみません。お待たせしました。伊勢彩希の兄の伊勢悠希です」 

 三人の視線を一手に受けて、少々上ずった声が出てしまった。女の子の顔の状態が想像以上に酷くて、もはや断頭台にでものぼらされるような気分だった。文字通りぼこぼこじゃないか。

 そして、この状況を生み出した張本人の姿が見えないことに気が付いた。

「あの、彩希は?」

 心持ち小さな声で担任教師の方に尋ねてみる。担任教師は母親の方をちらちらと窺いつつ、「あの、あちらです」と教室の後方を指した。

 担任教師の指さした先を目線で追って、初めて教室の惨状に目がいった。

 いくつかの机が横倒しになり、その中身を床にぶちまけている。掃除道具入れも同様に倒されていて、箒やモップが散乱していた。とどめは教室後方の扉で、扉の上半分にはめ込まれた擦りガラスの窓に大穴が開いていた。ガムテープで応急的な処置をした後が見られる。

 そして件の妹はというと、横倒しになった掃除道具入れと壁の間の、本当に人一人はいるのがやっとの隙間で、膝を抱えて座り込んでいた。

 被害者の女の子はもちろんのこと、担任も妹を呼び寄せようとはしない。冷たいなと思って「こっち来ないの?」と聞いてみたが、妹は首を横に振るだけだった。

 悠希は妹を呼び寄せるのを諦めて、相手の保護者の向かいに腰を下ろした。小学生用の椅子なので足の長さが余る。

「あなた、あの子のお兄さんですって?」

 担任が何かを言おうとするのを押しのけて、被害者の母親が口を開いた。怒りで爆発寸前なのが目に見えてわかる。妹のことでさえなければもう帰りたい。

「はい」

「なんでお兄さんが来たの?」

「・・・母はいませんので」

「お父様は?」

「・・・今日は帰りません」

「・・・そう」

 母親は、それについては深く追及してこなかった。そして、その代わりというように、妹を激しく糾弾し始めた。

「で、あなたの妹さんのことなんだけど」

「はい」

「事情は聞いたの?」

「簡単には」

「うちの子が、彩希ちゃんを遊びに誘ったそうなのよ。彩希ちゃんいっつも一人で可哀相だからって。そうしたら彩希ちゃん、それを断ったんですって。それでもう一度誘ったら、急に殴りかかってきたそうよ」

 母親は一息でまくし立てて、最後に「恐ろしい子」と小さく付け加えた。たぶん、わざと、彩希にも聞こえるくらいの声で。

「本当に、どうやったらそんな酷いことができるのかしら。ねえ」


 結局それから小一時間母親の説教を受け続け、ようやく解放されたときには夜の七時を回っていた。

 とりあえず、話し合いは、相手の治療費とガラスの修理代をこちらが全額出すことで決着した。当然と言えば当然の処置なのだが、決して安くはないそのお金をどうやって工面しようかと考えると頭が痛くなってきた。


 小学校からの帰り道は、妹に合わせて自転車を押して帰った。手でも繋いでやるべきかと思ったが、何となく嫌がられそうな気がしてやめた。

 その代わり、話をすることにした。

「彩希」

「何」

「どうして友達を叩いたの?」

「・・・友達じゃない」

「またそういうことを言う」

「・・・友達じゃないから。今日初めて話した」

「あ、そうなの?じゃあなおさら」

「先生がね、」

「あ、うん」

「先生が、藤木に、『伊勢さんはいつも一人でいて可哀相だから藤木さんが仲間に入れてあげて』って言ってた。だから藤木、私のところに来た」

 妹は小さな、でもしっかりと芯のある声でそう言うと、立ち止まって俯いた。藤木というのは彩希にぼこぼこにされたあの子の名字だ。悠希は、ああそういうことかと妙に納得した。

「私、可哀相なんかじゃない」

 妹は絞り出すように言って、再び歩き出した。その目尻から一筋涙が流れていたが、あえて見ないふりをした。


 彩希は、憐れまれるのが何より嫌いなのだ。




 家に戻ると、玄関に見慣れない靴があった。というかこの靴を見慣れてないというのがもう既におかしいのだが、それは父親の靴だった。

 今日はとことん厄日だなと思いつつ、靴を脱いで家に入る。家の奥から足音が聞こえた。父親だろう。

 彩希の耳元で「先奥行ってな」と囁いて、その背中を軽く押した。彩希は何か言いたげな表情ではあったが、悠希の言うとおりさっさと子供部屋に入って扉を閉めた。

 子供部屋の扉が閉まるのとほぼ同時に、父親が姿を現した。

 相変わらずよれたシャツに薄汚れたズボンというだらしない恰好で、ろくに手入れもせず伸び放題の髪と髭がみっともなさに拍車をかけていた。

「・・・こんな時間まで何してたんだ、悠希」

 一週間に一回くらいしか家にいない人間が何を偉そうに、と思わずにはいられなかったが、それは顔に出さずに答えた。この男に刃向かうことにあまり意義は無いので。

「・・・彩希を迎えに」

「迎え?六年生にもなってか」

 彩希はまだ三年生だこのクソ親父。

「・・・お前も受験生だろう。そんなことしている暇があったら勉強したらどうだ」

「・・・そうだね。ごめん」

 素直に謝ると、父親は興ざめしたみたいにそっぽを向いて、奥の自室に引き返そうとした。

 そこで、お金のことを話しそびれたのに気が付いた。

「あ、父さん」

「何だ」

「あの、ちょっと頼みがあるんだけど」

「・・・・・・」

 父親は無言で悠希の顔を睨みつけた。話だけは聞いてやる、といったところか。

「お金、貸してほしいんだ」

「金え?」

「今度彩希の修学旅行があるからさ、その参加費」

 本当は修学旅行なんて一年前に終わっている。ちょうどその時全く父親が家にいなくて、結局お金の払いようが無くて彩希は旅行に行けなかった。だが、どうせ子供のことには全く関心の無い父親だ。ばれることはないだろう。

 悠希の読み通り、修学旅行の旅費だということは疑われなかった。しかし、父親は全く別の方向から攻めてきた。

「旅行だあ?」

「うん」

「お前、そんなものに行かせてやってる余裕があると思ってんのか?なあ?」

 いや、たぶんうちの家で一番お金を使ってるのは仕事もせずに遊びまわってるあんただ。

「でも、父さ」

「うるさい。飯食わせてやってんだからそれだけで満足してろっ」

 父親は大声で喚き散らして、今度こそ自分の部屋に引っ込もうとした。反射的に父親のシャツの袖を掴んでしまい、しまったと思った時には悠希の身体は廊下に横たわっていた。

 殴られたのだということを理解するのに数秒を要した。頬が熱い。

「うるさいっ、うるさいっ、しつこいんだよ!」

 父親は、殴っただけでは足りなかったのか、悠希の腹に蹴りを入れてから去っていった。

 しばらく痛みで動く気になれず、廊下で芋虫みたいにごろごろと転がっていた。

 その間頭に浮かんでいたのは、不思議なことに、父親の理不尽な仕打ちへの怒りではなく、お金どうしようという実に現実的な悩みだった。

 いい加減起き上がらないと風邪をひきそうだなと思ったとき、子供部屋の扉が開いた。九十度傾いた視界に彩希の姿が映る。

「やあ」

 寝転がったまま、至極間抜けな挨拶をしてみる。

 彩希は父親の暴行に腹を立てるでもなく、かといって悠希の心配をするでもなく、いたって平坦な声で問うてきた。

「・・・悠希、何してるの?」

 兄を呼び捨てか、妹よ。

「あー、何って。てか聞こえてた?もしかして」

「聞こえてた」

「そっか」

「お金のことなら、私から正直に話すよ」

「やめとけって。こうなるぞ」

「なるかな」

「なるだろ」

「なるよね。でもいいよ。私のしたことだから」

「うーん。こういう時くらい兄に良い役やらせてくれないかな」

「やだ」

「ですよね」

 なんだかあまりにも状況にそぐわない淡々とした会話に、笑いが込み上げてきた。本当にどうしようもない兄妹だ。

「じゃあ、彩希に任すよ。ただし危ないことはしないこと」

「わかった」

 彩希は、いまだ倒れたままの悠希に手を貸すこともなく、さっさと部屋の扉を閉めてしまった。

 全くドライだなあと苦笑しながら、痛む腹を押さえて起き上がった。



 妹は、とにかくドライだった。

 ただ、単に冷たいのではないということは重々理解していた。


 憐れまれるのが何より嫌いな妹は、自らが誰かを憐れむことも忌避していた。


 そして、その考え方は、彩希ほど徹底されてはいないものの、悠希自身の中にも少なからず存在しているものだった。




 原因はだいたいわかる。あの父親を見てきたからだ。

 父親は別にもともとあんな人間だったわけではない。三年前までは、妻を愛する良き父親だった。それなりに裕福で、悠希もかなり大切にされて育った。

 三年前までは。

 三年前の春の、雨の日。母親は歩道橋の階段で足を滑らせて、一番上の段から歩道まで転がり落ちて死んだ。

 当然悲しかった。当時一年生だった彩希ですら、棺に収められた母親の顔を見て大泣きしていた。

 でも、一番悲しんだのは父親だった。


 父親は、妻を愛する良き父親だった。でも、彼が愛せたのはあくまでも妻だけで、しかもその愛情は依存に限りなく近いものだった。


 依りかかる対象を失って、父は壊れた。

 最初は夜通し酒を飲んでは泣いて、やがて仕事に行かなくなって、子供に手を上げるようになった。「お前たちは美咲じゃない」というのが酔った時の父の口癖だった。美咲というのは母の名前だ。

 正直、自分の置かれた境遇を悲嘆することもあったが、妹を置いて逃げ出す気にはならなかった。それに、誰かに縋って生きるのは危険すぎるということを父の姿から学んだ気がした。そしてそれは彩希も例外ではなく、彼女は徹底的に一人で生きる術を求め始めた。その反動で、自分に救いの手を差し伸べる者を片っ端から排除し始めたのは考え物だが。


 そして何より滑稽なのは、悠希も、そしてたぶん彩希も、父親のことを憎いと思う感情だけは持たなかったということだ。


 分岐点は、その翌日に訪れた。


 その日は土曜日だったので、久しぶりに七時まで寝た。父親に何か文句を言われるだろうかという考えが一瞬頭をよぎったが、あの夜型人間が午前中に起きてくるはずもなく、部屋の前を通りかかったときには扉の奥からいびきが聞こえてきた。

 ほっと胸を撫で下ろして、冷蔵庫にあったものをてきとうに見繕って朝食を済ませた。彩希はもうとっくに起きているようで、流し台の水切り籠に彼女の食器が綺麗に並べられていた。

 彩希はどこだろうと思って家の中を見回すと、彼女は玄関先で何かを熱心に読んでいた。

「おはよう」

 後ろから声をかけると、彩希の小さな方が微かに跳ねた。驚かせたらしい。

「おはよう」

「何見てるの」

「求人誌」

 求人誌を熱心に読む小学三年生。末恐ろしい。

「あのさ、彩希」

「何」

「小学生は雇ってくれないよ」

「知ってる」

「じゃあどうして?」

「年齢ごまかす方法を考えてた」

「・・・・・・」

 苦笑いを浮かべつつ、彩希の隣に腰を下ろす。

「うーん。さすがに今回ばかりは父さんに頼んだ方がいいんじゃないかな」

「嫌だ」

「嫌だって言っても」

「頼りたくない」

「子供だから、それぐらいはいいんじゃない?」

「じゃあ子供を辞めるよ」

 彩希が答えたのと同時に、インターフォンのチャイムの音が鳴り響いた。

 こんな時間から誰だろうかと怪訝に思いながら戸を開けると、そこには見知らぬ中年の男が立っていた。

「ええと、どちら様でしょうか・・・?」

「君は、悠希君、かな?」

「・・・はい」

「じゃあ、そっちが彩希ちゃん」

「・・・」

 彩希はうんともすんとも言わずに、突然の来訪者を無表情で一瞥した。来訪者は肩をすくめて、悠希に向き直った。

「悪いんだけど、君たちのお父さんを呼んでもらってもいいかな」


 来訪者の男は、吉野と名乗った。本人曰く、父親の昔の友人らしい。

 睡眠を妨げられた父親は当然のごとく不機嫌になったが、来訪者の名前を告げるや否や、急に上機嫌になって身支度を始めた。どうやら友人というのは本当らしい。

 父親と吉野はリビングに籠ってしまい、そのまま一時間以上出てこなかった。時々話し声が漏れてくるが、何を言っているのかまではわからなかった。ただ、父親の笑い声が聞こえてきたことに驚きを隠せなかった。ここ三年間、一度も笑顔など見せたことはなかったのに。何か良いことでもあったのだろうか。

 彩希と一緒にリビングのドアにへばりついて様子をうかがっていると、急にドアが内側から開かれた。そこに立っていたのは父親だった。聞き耳を立てていたことがばれて怒られるだろうかと思ったが、意外にも父は笑顔で「入りなさい」と言っただけだった。笑顔で、だ。

 父に招かれるままリビングに入り、彩希とともに吉野の向かいに座った。漠然と、何か良い話なのだろうと期待した。

 その期待は、吉野の話を聞いたとたんに打ち砕かれた。

 吉野の話はこうだった。

 自分は、墓守を仕事にしている。しかし数年前に医師から余命宣告を受け、急遽後継者を探さなくてはならなくなった。しかしそんな異様な職に就きたがる若者などそういない。そんな時、子供の買い手を探している男に出会った。それは中学の頃の同級生だった。その男はとにかく金に困っていて、金のためなら自分の子供でも差し出すとふれて回っていた。吉野はあまり期待せずにその男の家のことを秘密裏に調べてみた。すると、遺伝的な観点から、その男の子供が間違いなく墓守としての素質を持っているという結論に至り、吉野は二人の子供のうちのどちらかを買い取ることを提案した――

「ふざけるなよ・・・」

 吉野の話が終わらないうちに、悠希は立ち上がっていた。初めて、父親に対して憎いという感情を持ったように思う。

「父さん、家に帰らずにそんなことしてたわけ?初めから俺たちを売るつもりで?」

 自分のものとは思えないほどの低い声が出る。しかし父親は悠希のことなど視界に入っていない様子で、吉野から受け取った札束をうっとりと眺めている。もう金まで受け取ったのかこいつは。

「父さんっ」

「ああ、何だ」

「何だじゃなくて」

「話、聞いただろ。あとはお前たちで決めなさい」

「決めるって、何をさ」

「だから、どっちが吉野さんのところに行くかだよ」

「――!」

 そのために、俺たち二人をわざわざ呼んだのか。

 悠希は、どんなに荒れていようが、父親のことを嫌いにはなれなかった。何度も罵倒されていながら、何度も殴られていながら、それでもどうしても嫌いにはなれなかった。そしてそれこそが自分たち親子の繋がりなのだと思って、その一線だけは守らなければいけないと思っていた。

 父さんも、そう思ってくれていると信じていた。否、信じたかった。

 いつの間にか力強く握りしめていた拳を緩める。自分の爪が突き刺さって、手のひらに血が滲んでいた。

「・・・父さん」

 再びお札観賞に没頭し始めた父親に呼びかける。

「何だ」

「父さんにとって、俺たちは何?」

「・・・・・・」

「俺はさ、はっきり言って父さんのこと嫌いじゃないんだよ。何回も酷いことされたけどさ、・・・・・・好きなんだよ、それでも」

「・・・・・・」

「父さんは、違ったの?」

 父親は答えなかった。

 答えに悩んでいるというよりは何を訊かれているのか理解できないという表情で見上げられ、そのことが自分が愛されていないことの証明のような気がして、それ以上何も言えなくなった。

 その沈黙を破ったのは、この部屋に入ってから一言も喋っていなかった彩希だった。

「私、行きます」

 それまでの話の繋がりを完全に無視した妹の発言を理解するのに少々手間取り、それが妹自身を売り渡す宣言であると察した瞬間に、悠希は彩希の肩を掴んだ。

「彩希!」

「何」

「なんで、そんなこと言うんだよ」

「なんでって。それでお金が手に入るんでしょ?一番早いじゃない」

「だからって彩希が行くことないだろ!」

「じゃあ、悠希が行くの?」

 純粋な口調で問い返されて、悠希は言葉に詰まった。それを予想していたように、彩希は余裕のある笑みを浮かべた。そして、やはり感情の乗らない口調で畳みかけてきた。

「・・・悠希がこの家を出たくない理由、わかる?」

「・・・?」

「悠希はね、お父さんや私のために生きたいんだよ」

「え」

 吉野の話を聞いた時の比ではない、その日一番の衝撃が悠希を貫いた。

「どういう、意味さ」

「私と悠希って、似てると思う?」

「・・・似てる、だろ」

「私はね、似てないと思うんだ」

「・・・どこがさ」

「確かに似てるところはあるよ?私も悠希もね、誰にも頼らずに生きていけるの。でも悠希はね、誰かのためにしか生きられない人なんだよ」

「何を、勝手に」

「私は自分が一番大事だけど、悠希は、自分を大切にできないの。だから自分のためには生きられない。それが私との最大の違い」

「・・・・・・そんなことは・・・」

 反論しようとして、何も反論できないことに気が付いた。


 初めて父親に殴られた日、家を出なかったのは妹を置いていけないと思ったからだ。正確には、「妹を守るために家に残る選択をした自分」なら好きになれそうな気がしたからだ。

 父親が家に帰らなくなっても父親を見捨てる気にならなかったのは、父親に愛されていると信じていたからだ。正確には、「こんな状況になっても父親のことを信じ続けられる自分」なら好きになれそうな気がしたからだ。

 自分と彩希が似ていると思ったのは、自分を彼女と同類だと思えば、自分は自分のためにしか生きていないのだと言い張れば、浅はかな現実逃避が許されるような気がしたからだ。


 悠希は、いつの間にか下を向いていた顔を上げて、妹の目をまっすぐに見た。

「彩希」

「何」

「ごめん」

「何が」

「・・・何でもないよ」


 結局、妹と話したのはそれが最後だった。

 危うく妹のために生きそうになった自分に、妹を止める資格は無かった。


 


 彩希が家を出てから一ヶ月後、彼女から宅配物が届いた。

 小さな段ボール箱に詰まっていたのは、彼女が吉野の元に行くときに持って行ったはずのランドセルだった。ランドセルの中には便箋が入っていて、彩希の字で、「小学校には行かないことになりました」とだけ書いてあった。

 父親は全く無関心で、さっさと部屋に引き籠もってしまった。

 悠希は相変わらずの父親の態度に腹を立てつつ、ランドセルを自分の部屋に持って行った。その時、ランドセルの中に、先ほどの便箋とは別に茶封筒が入っていたことに気が付いた。

 何だろうと思って開けてみると、中身は何枚もの万札だった。その金額を数えてみて、その意味するところを悟った。

 茶封筒に入っていたお金の総額は、藤木さんの治療費と教室の窓の修理代の合計金額と全く同じだった。それ以上でも以下でもないところが彩希らしい。本当に自分で何とかしてしまった。

 

 ただ、わざわざランドセルを送ってきた理由だけはどんなに考えてもわからなかった。


















 彩希の死を告げられたのは、彩希が家を出てから六年目のことだった。


 大まかな状況は、突如訪ねてきた吉野から聞かされた。

 自らの喉をカッターナイフで刺して自殺した、とのことだった。

 ついでに、彩希が、墓場の近くの大学に通う男子学生を刺殺していたという事実も聞かされた。


 ただ、話を聞いても今一つ実感が湧かずに、大学の講義の合間を縫って、ただなんとなく、彩希が墓守として働いていたという墓地に向かった。墓地の場所は、吉野を問い詰めて半ば強制的に吐かせた。

 墓地に踏み入ると、なるほど墓守の素質とはこういうことかと納得がいくくらいには、何かの存在を感じることができた。たぶん、幽霊という奴だろう。自分に霊感があるなんて吉野に言われるまで気づきもしなかったが。

 こぢんまりした墓地を、ただぼんやりと歩く。本当に狭いところなので、気が付いた時には同じところを何回もぐるぐると回っていた。

 その間、何人かの霊に出会った。彼らは悠希に話しかけるでもなく、ただただ未練がましそうな顔で墓石の陰からこちらを窺っていた。まあ、実際未練があるからこんなところに居座っているんだろうけど。

 そうこうしているうちに、いつの間にか自分が彩希を探していることに気が付いた。でも、彼女の姿は見当たらなかった。


「未練とか無いのかよ」


 墓地の入り口付近の岩に腰掛けて、誰もいない空間に向かって悪態をついてみた。


 彼女が、未練を残した状態で自殺するはずなんてないから、当たり前と言えば当たり前だった。

 しかし、どうして生きてくれなかったのかという思いは拭えなかった。

 

 誰かのために生きられないことは、そんなに悪いことなのだろうか。

 誰かに救いを求められないことは、そんなに許されないことなのだろうか。

 一人で生きようと足掻いた結果は、これしかなかったのか。


 無意識に、空に向かって手を伸ばした。


 どうして、俺たちはこんなに下手糞な生き方しかできないんだろう。


 伸ばした手で誰かの腕を引きたかったのか、それとも誰かに手を引いてほしかったのかはわからない。ただ、悠希の手は宙を掻いて、ただ虚しく落ちていった。

 

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