Ayaki
とある青年がその場所から逃げ出そうとした。
その場所は泥臭いうえに線香臭い、ろくでもない場所だった。たまに腐った花の匂いが充満することもあった。
もう耐えられない。そう思って、必死に外の世界に手を伸ばした。
その腕を、誰かに掴まれた。
「誰だっ――」
振りほどこうと足掻いたが、機械にでも挟まれたみたいにびくともしない。どんな怪力男に掴まれたのかと思って顔を上げる。しかし、青年の予想に反して、青年の腕を掴んでいたのはどう見ても十代半ばのほっそりした少女だった。ただ、その視線はひどく冷たく、とても年相応のものとは思えなかった。
「……誰だ、君は」
青年は先ほどと同じ問いを繰り返した。しかし少女は青年の身体を通り越してどこか遠くの空間を見つめているようで、目線すら合わない。
無視されたように感じて、青年は少しむっとして抗議した。
「君、人の話を」
「聞こえてはいる。ただ、聴く価値が無いんだ」
青年の言葉を遮って、少女が低い声で答えた。男の問いに対する返答にはなっていないが。
「価値が無いだと?」
「無い。なぜなら私が何者であろうと貴方には関係ないし貴方の行きつく先も変わらないからだ」
少女は平坦な口調でそう言って、唐突に青年の身体をぶん投げた。青年は抗う間もなくもと来たほうへ放り出されて、元の場所――青年の名前が刻まれた直方体の無骨な石塊の中に押し戻された。
再度抗議の声を上げようとしたときには、既に青年の意識は石塊の下の空間に縛り付けられていた。
「死んだのだから、そこでおとなしくしていろ」
少女は表情を一ミリも動かさずに吐き捨てて、青年の墓石の上で足を組んだ。
少女の名は彩希といった。
少女の背は高い。でも厚底のブーツなので実際は見た目より五センチ低い。
無造作に伸ばされた少女の髪は灰色を帯びた茶色。緩い曲線を描いて腰の下まで垂れている。
少女の仕事は墓守。ただし、「墓を守る」のではなく、墓場を脱走しようとする魂から「墓場の外の世界を守る」のである。言わば、幽霊が観念して成仏するまでの間、墓場に縛り付けておく仕事と言っていい。
この少女を理解するには、たったこれきりの表現で十分すぎるくらいだった。
青年の名は聖といった。
青年は大学に入学して三年目の夏に死んだ。死んだときの記憶はひどく曖昧で、ただ一つ覚えているのはあまり幸せな死に方ではなかったということだけだった。
この青年を理解するには、この数万倍の言葉を尽くしても不十分だろう。
「君さ、」
「彩希」
「彩希ってさ、どうして墓守なんてしてるの?」
何回目かの脱走に失敗したとき、青年は少女に問うてみた。どう見ても自分より年下の少女が一日の大半を墓場で過ごしているのだから、当然の疑問だった。
「どうして……って。仕事だからだ」
少女は青年の方を見向きもせずに答えた。
「もう少し具体的に」
「……先代の墓守と私の父が知り合いだった。で、私は生まれつき霊感が強かったから」
「から?」
「これ以上教える義理は無い」
少女は強引に話を切って、青年の身体を墓石の中に投げ込んだ。この少女には死者を労わろうという意志が欠片ほども無いらしい。
「乱暴だなあ」
「もう死んでるんだから気を遣う必要が感じられない」
一度墓石の下から恨めしくぼやいてみたが、少女はやはり顔色一つ変えずに青年を一蹴した。
少女は毎日夕方に墓場にやってきて、次の日の正午まで墓場の隅で膝を抱えてうずくまっている。
青年が初めてこの墓場にやってきたときには、既に彼女はここにいた。初めはただの家出少女かと思って気にも留めなかった。少女がただ者でないことに気が付いたのは、青年が初めてこの場所を逃げ出そうとした時だった。ちなみに少女が不在の時間帯は何やら結界めいたものが貼られていて、結局脱走できなかった。
あのころに比べれば、いくらかまともに会話が成立するようになってきたと思う。
「聖」
頭上から突然少女の声が降ってきた。あまりにも唐突すぎて、自分が呼ばれたのだと気が付くまでに数秒を要した。
「……え、俺?」
「この墓所に他に聖って人はいない」
いやそういう問題じゃなくて、と内心で突っ込みを入れる。
「いや、彩希の方から話しかけてきたの初めてだったから」
「聖は、どうしてここから出ようとするの?」
「どうして、って」
「貴方ほど頻繁に脱走する人も珍しい」
「あ、そうなの?」
「そう。普通は百回くらいで諦めて成仏する」
「俺今何回目だっけ?」
「四百七十四回目。ここが嫌いなの?」
「うーん。好きではないかな」
というか墓場が好きな奴とかそうそういないぞ。
「じゃあ、ここを逃げ出してどこに行くつもり?」
「それは……うーん。やっぱり自分の家、とか」
「ふうん」
「何だよふうんって」
「別に」
前言撤回。やはり彼女とは会話が成立しない。
その日、少女がそれ以上話しかけてくることはなかった。
その日以降、青年が脱走しようとするたびに(当然のごとく脱走は実力行使で阻止されるが)、少女は青年と少しの間言葉を交わすようになった。というかほとんど聖の方から一方的に話しかけていた。少女にしてみれば迷惑な話だったかもしれないが、やはり話し相手がいるのは嬉しいものだった。
少女は青年の質問に答えたり答えなかったりした。ごくまれに何かを問い返してくることもあった。
脱走回数が千回に達したころ、青年の中に小さな疑問が芽生えた。
「なあ、どうして俺は成仏できないんだと思う?」
そのささやかな疑問を少女にぶつけた瞬間、少女の顔色がさっと変わった。彼女の顔色が変わるのを初めて見た。
「どうしてそんなことを訊く?」
「え。いや、大した意味はないけど。素朴な疑問。俺って諦めが悪いのかな」
青年がこの墓場に来てから、もう何人もの人間が成仏していくのを見た。青年より後に死んだ人間でさえ、青年を置いて成仏していった。
こんなことをこぼしたところでどうせいつも通り一蹴されるだけだろうと思っていた。
しかし少女は青年の墓石の上であぐらを組んだまま、難しい顔で黙り込んでしまった。
何かまずいことを言っただろうかと悶々としていると、ようやく少女が口を開いた。青年の質問からたっぷり一時間は経っていた。
「人が成仏できない原因は、何だと思う?」
あまりにも前触れ無く哲学的な質問が降ってきたので、青年の答えは少し遅れた。
「え、えー…。未練、とか?」
「おおむね正解。ここからは私の予想だけど、貴方は自分が死んだときのことを覚えていないのでは?」
「あ、うん。よくわかったな」
「恐らく成仏できないのはそのせい。貴方の魂はいまだに自分が死んだことを理解できていない」
「へえー。俺は理解してるんだけどな、一応」
「それは事象として『知って』いるだけ。『理解』からはほど遠い」
「じゃあさ、その時のことを思い出せたら俺は成仏するわけか?」
「…………理論的にはそうなる。そして、私には本来その手助けをする義務がある」
「え、そうなの?じゃあ…」
「でも、しない」
「何でだよ」
「この話終わり」
少女は半ば強引に話を打ち切ると、青年の首根っこを掴んでその身体を墓石の下に押し込んだ。
「相変わらず乱暴な」
もう何度目になるかわからない恨み言をこぼしてみたが、少女の反応は無かった。しかし、今日はもう取り合ってもらえないだろうと思っておとなしく引き下がろうとしたとき、再び少女が声を発した。
「聖」
「え、何?」
「ごめん」
少女が発したその言葉の意味は、まるで理解できなかった。
その日を境に、少女は青年と一言たりとも口を利いてくれなくなった。最初はただの気まぐれだろうと思っていたが、さすがに一週間も続くと寂しいものがあった。何しろここには少女以外の話し相手がいないのだ。
少女が口を閉ざしてから十日目の朝、青年は思い切って切り出した。
「彩希」
「……」
「どうして黙ってるの?」
「……どうしてそんなことを訊く?」
久しぶりに聞いた少女の声は、出会った当初と同じぐらい冷めきったものだった。
「いや、俺何か嫌なこと言ったのかなって」
「言っていない」
「じゃあどうして」
「どうして私が貴方の話し相手をしなくてはいけない?」
「え……」
「私の仕事はここの墓守であって貴方のお守りではない。したがって貴方の話し相手になる必要はない」
「いや、それはそうかもしれないけど……寂しいだろ。それじゃ」
「それは、貴方が、でしょ?」
少女の温度の無い言葉に、脳天を殴られたような衝撃を受けた。
「貴方が私と話したいと思うのは勝手だけど。その逆を要求しないで」
「……でも、今までは普通に話してたじゃんか」
「だから?それが何?」
「いや……」
青年は返す言葉が無くなり、がっくりとうなだれた。少女が少しでも自分との会話を楽しんでくれていると思ったのはただの錯覚だったのだろうか。
その時だった。記憶の端に何か引っかかるものがあった。
前にも一度、全く同じ道をたどった気がする。
「俺、前にも君に同じようなこと言った……?」
思ったままを口にすると、少女はわずかに目を見開いた。その反応は、青年の感覚が正しいことを裏付けていた。
「言ったんだね」
「……」
少女は聞こえよがしに舌打ちをすると、スカートのポケットから銀のカッターナイフを取り出した。
「もういい。そこまで来たら思い出すのも時間の問題だから」
「え」
少女は一瞬で青年の懐に入り込み、躊躇いなく青年の胸を刺し貫いた。
もう死んでいるのだからどうにもなるはずはないのに、不思議と青年の胸からは血が溢れ出していた。というか痛い。
全身から力が抜けて、青年は少女の足元に崩れ落ちた。
「なん、で」
「……」
「なんで、こんなこと」
「……二回も言わせる気?」
そうだった。前にも同じ状況で同じ質問をしたんだ。
青年の通う大学の裏には、こじんまりした墓地があった。それ自体は特に気に留めるようなことではなかったのだが、青年が三回生に上がってすぐのころ、その墓地にいつも同じ少女がいることに気が付いた。講義室から何気なく外を見下ろした時に、墓地の隅で膝を抱えている少女の姿が目に入ったのだ。
なんとなく気がかりで、その日の帰りに墓地に寄った。
少女は講義室から見た時と全く同じ場所に、全く同じ姿勢で座り込んでいた。
家出少女だろうと思い、声をかけた。
「君さ、」
「彩希」
「え?」
「名前。彩希」
「ああ、彩希ちゃんって」
「彩希」
えーと。
「彩希ちゃ……彩希ってさ」
「……」
良いんだよな?呼び捨てで。
「彩希ってさ、どうしてこんなところにいるの?」
「仕事だから」
「は?」
予想の斜め上を行く答えに、つい裏返った声を上げてしまった。どう考えても十代半ばに見える少女が、墓地で仕事?
「仕事って何?」
「墓守」
「ああ、うん。そう。あまり遅くならないうちに帰りなよ……?」
どうリアクションしたらいいものかわからずに、結局どこかずれているとしか思えないことを言ってその日は帰った。
その日から、学校帰りに墓地に寄るのが日課になった。
少女は毎日変わらず墓地にいる。「仕事」というのも本当なのかもしれない。十代半ば特有の妄想にしてはいくらなんでも度が過ぎている。
少女の方から話しかけてくることは滅多になかった。その代わりというわけではないが、青年は少女にいろいろと質問をするようになった。
ある日、何故それまで訊かなかったのだろうというくらい初歩的なことを訊いてみた。
「彩希ってさ、どうして墓守なんてしてるの?」
「どうして……って。仕事だからだ」
少女は青年の方を見向きもせずに答えた。
「もう少し具体的に」
「……先代の墓守と私の父が知り合いだった。で、私は生まれつき霊感が強かったから」
「から?」
「これ以上教える義理は無い」
少女はそれ以上話を続ける気はないようで、そっぽを向いてしまった。
その日、青年が墓地を離れようとしたとき、入れ違いに墓地に向かう男がいた。
よれたシャツに薄汚れたジャージを穿いて、フケだらけの頭をばりばりと掻き毟りながら墓地に向かうその姿は、少なくとも墓参りに来たようには見えなかった。すれ違った瞬間、煙草と加齢臭を混ぜ合わせて熟成させたような強烈な臭いが鼻を突いた。何となくその違和感が引っかかって、青年は男の後に続く形で墓地に引き返した。
その男は、立ち並ぶ墓石群には目もくれずに、まっすぐに少女の方へ向かっていった。
男の姿を見ると、少女はひどくだるそうに立ち上がった。
青年は反射的に墓石の陰に身を隠した。何か、見てはいけないものを見てしまっている気がしたからだ。
「彩希」
男が少女の名を口にする。
「ちゃんとやってるか?」
「……」
「答えろ」
「……」
「おい」
「答える義理は無い」
少女が答えた瞬間、鈍い打撲音が夜更けの墓地に響いた。青年は何が起きたのかと墓石の脇から顔を出した。
どうやら、男が少女を殴ったらしい。少女がお腹を押さえてうずくまっている。
「何してるんですかっ」
咄嗟に立ち上がって叫んだ。
男はぼりぼりと腹を掻きながら、緩慢な動作で振り返った。
「……なんだお前」
「俺は、その子の……」
「へーえ」
青年が答えないうちに、男は醜悪な笑みを浮かべて少女の髪の毛を掴んだ。
「彩希お前、仕事もしないで男作ってたのかよ」
「……」
少女は肯定も否定もせずに、ただ男の顔を睨みつけていた。
男は「気味悪いガキだな」と吐き捨てて少女の髪を離し、青年を押しのけて墓地を出て行った。
男の足音が聞こえなくなってから、少女に手を差し伸べた。
少女は青年の手を借りることなく立ち上がり、スカートに付いた土汚れを払い落とした。
「さっきの、誰?」
青年は恐る恐るという感じで問うてみた。あまり深いりしてはいけないような気がしたが、訊かずにはいられなかった。
少女は視線を斜め下に固定したまま、至極どうでもよさそうに答えた。
「父親」
「え」
どこからどう見ても親子には見えなかったので、驚いた。
「何でお父さんがあんなこと……」
「私を売ったから」
「……は?」
「さっきの話の続き。先代の墓守と私の父が知り合いで、私は生まれつき霊感が強かったから。先代の墓守は余命わずかで、早急に後継者を欲しがっていたから。父親は借金まみれだったから」
「から…?」
「利害の一致。父は私を墓守に売った」
明日の天気の話でもするみたいに、少女は淡々と話した。
何か、この少女のためにできることはないだろうかと考えを巡らせた。しかし青年は所詮一介の大学生で、彼女をどうにかすることなんてできるはずもなかった。
だからせめて、自分だけは彼女の味方でいようと思った。
それからも毎日、青年は墓地に通い続けた。せめて、彼女の孤独が少しでも紛れるように。
夏が来た。
季節の変わり目に弱い青年は、案の定今年も夏風邪をひいた。四十度近い熱が下がらず、外に出られない日が三日続いた。
体調が回復して真っ先に向かったのは、大学ではなく墓地だった。三日間も彼女を放置してしまった。
熱が下がったのを確認するやいなや自転車をとばして墓地に向かった。三日間ずっと横になっていたので少々ふらついたが、構わずにペダルを踏み込んだ。
墓地につくと、自転車の鍵をかけるのも忘れて少女のいる場所へ駆けつけた。少女はいつもの場所で膝を抱えて、足と体の間に頭をうずめていた。
「彩希!」
青年が名前を呼ぶと、少女はゆっくりと顔を上げた。
「ごめん、ちょっと風邪ひいて、しばらく来れなくて」
青年は息を整えながら少女に詫びた。しかし少女は本当に何を言っているのかわからないという顔で、
「何で謝る?」
とだけ言った。
「何でって……来れなかったから」
「それが?」
「いや、その……」
「別に約束したわけではないのだから。謝る理由がわからない」
少女は、青年が来ることなど欠片も望んでいなかったような口調で言い放った。来ないならそれはそれでいいやというような口調で。
「……それは、そうだけど」
少女の言い分は正しい。それなのになぜか納得いかなくて、青年は不満げに口を尖らせた。
少女はそれには構わず、また膝の間に頭をうずめた。
その日から、少女の元に行くのが少し億劫になった。
毎日欠かさずに通っていたのが数日おきになり、やがて週に一回になった。
青年が前ほど頻繁に来なくなったことに関して、少女は何も言わなかった。そのことが、自分の行動が少女にとって何の救いにもなっていないことの証明のような気がして、青年の足はますます重くなっていった。
そうこうしているうちに、大学の夏休みが迫ってきた。
夏休み前最後の試験の日、青年は墓地に寄った。
少女はやはりいつも通りの場所で座り込んでいた。最近は日傘を差している。
「彩希」
名前を呼ぶと、少女は日傘を少しずらして青年の顔を見上げ、ああお前かという感じで視線を元に戻した。
「彩希、一つ訊いていい?」
「何」
青年は意を決して、ここ数週間の間抱え続けていた疑問をぶつけた。
「彩希は、俺のことどう思ってる?」
「どうって?」
「少しはさ、彩希の力になれてる?」
少女はすぐには答えず、日傘を閉じた。そして、至極純粋な口調で問い返してきた。
「私の力ってなんだ?」
「え……だから、その、少しは助けになれてるのかなって」
「……」
少女は全く感情を読み取らせない目線で青年を見上げた。内面を見透かされているような気がして咄嗟に視線を逸らそうとしたが、ここで目を逸らせば何かに負けるような気がして、青年も少女の目を見つめ返した。少女は一つ大きな溜息をついて、いつもより大きめの声を出した。
「私に助けが必要なんて、いつ言った?」
「それは、」
「私は何もいらない」
「でも、彩希はここで一人で」
「だから?」
「だから、俺が」
「一人は不幸せ?」
「……寂しいだろ」
「誰が決めた?」
「……」
「一人が寂しいなんて誰が決めた?」
「いや、決めるも何も普通に考えたらさ、」
「普通って何だ?」
「それ、は」
「私に助けが必要なのも、一人が寂しいのも、貴方の決めたことだ。私は知らない」
少女は何かもともとある文章を読み上げるみたいにすらすらと言って、再度溜息をついた。青年は目を合わせていられなくなり、視線を地面に落とした。
しかし、あまりにも頑なな少女の態度に、青年はつい反論してしまった。
「……何で、そんな意地張るんだよ」
「意地?」
「そんな一人で頑張らなくていいだろ。ちょっと弱音吐くぐらいしてもいいだろ」
「弱音?」
「……俺じゃ力になれないのか?」
青年はゆっくりと顔を上げた。少女の顔が、みるみる歪んでいく。彼女の顔に感情が現れるのを初めて見た気がする。
彼女の顔に浮かんだのは――凍り付くほど恐ろしい、苛立ちの色。
「……馬鹿にしてるのか?」
地鳴りのような低い声で、少女が言う。
「私が誰かに頼らないと生きられないとでも?」
「そんなことは言ってな」
「言ってる」
「俺はただ、君の助けに」
「違う。貴方が望んでいるのは『自分がいないと生きていけない誰か』だ」
「え…」
「私が不幸に見えたか?かわいそうな境遇の少女を見つけてどう思った?自分の出番だと思ったか?俺が守ってやらないといけない?笑わせるなよ」
「そんなこと考えてないって!」
「私は父に売られたときからもう一人で生きることを決めている。それを悔やんだことは一度も無い」
「だから……なんでそう決め付けるんだよ。なんで一人で片付けようとするんだよ」
「ほら」
「え?」
「貴方の望みは、『自分がいないと生きていけない誰か』だ」
「違う」
「違わない。何を望もうが勝手だが、それに私を巻き込むな。求められることを求めるな」
「巻き込んでなんか…俺はただ君を」
「貴方の理想で、私の生き方を否定するなっ」
少女が、スカートのポケットから銀色に光る何かを引き抜いて立ち上がり、それを青年の胸に突き立てた。
「……あ、え?」
恐る恐る、青年は自分の胸元に視線を落とした。
白いシャツの胸元が、みるみるうちに紅く染め上げられていく。喉の奥から生臭い何かがせり上がってきて、たまらず咳き込むと口からも鮮血が溢れ出した。
全身から力が抜けて、青年は少女の足元に崩れ落ちた。少女の白く細い腕が伸びてきて、青年の胸に突き立ったものを乱雑に引き抜いた。飾り気のない銀のカッターナイフだった。
「なんで、こんなこと…」
消え入りそうな意識をどうにか繋ぎ止めながら、少女に問う。
少女はカッターナイフについた血を手で拭いながら、出来の悪い学生を見る教授のような目で吐き捨てた。
「貴方が私のそばにいたからよ」
少女の手が青年の胸元に伸びてきて、銀のカッターナイフを引き抜いた。
青年は上体を起こして、恐る恐る自分の胸元に視線を落とした。血なんて出ていない。そもそもすでに死んでいるのだから痛いはずもなかった。
目の前には記憶の中と寸分たがわぬ表情の少女が立っている。
「思い出した?」
「……ああ」
「あの後、先代の墓守が事件を揉み消しにかかった。たぶんこんなことで貴重な後継者を失いたくなかったんだと思う」
「…そう」
今一つ気の利いた反応が思い浮かばす、青年は頭半分で返事をした。少女は青年の前にしゃがみ込んで、青年にカッターナイフを差し出した。
「さて、私は私の仕事をしなければ」
「え?」
「私は墓守で、貴方はここの幽霊。私には貴方を成仏させる義務がある。でもそもそも貴方を殺したのは私」
「……」
「殺された人間は、自分を殺した人間が死ぬまで成仏できない」
「え」
「もう言いたいことはわかるでしょう。私を殺せ」
少女は一方的に言うと、青年の手にカッターナイフを握らせた。
冷たい金属の感触に、手のひらが凍るような錯覚を受けた。
「む、無理だ。できない」
「できるかできないかは論じてない。やれ。躊躇うことはない。貴方を殺した相手だ」
「復讐しろって言うのか!?」
「復讐じゃない。私の墓守としての仕事を全うするために協力してくれと言ってる」
「そんなことしたら君が死ぬだろ!」
「だから?」
少女は青年の言いたいことがまるで理解できないという顔で、自分の命を小銭か何か程度にしか思っていない口調で、平然と答えた。
「私の命だ。どう使おうが私の自由だ」
「馬鹿かお前は!」
青年は思わず声を張り上げた。しかし少女は全く動じない。
「馬鹿は貴方だ。自分の仇を討てるんだ。いい機会じゃないか」
「ふざけるな!」
青年はカッターナイフを投げ捨てた。カッターナイフは青年自身の墓石に当たり、乾いた音を立てて地面に転がり落ちた。
少女はそのカッターナイフを拾い上げ、チキチキと刃を出しながら薄く笑った。彼女が笑うのを初めて見た。
「そうか、できないか」
「当たり前だろ…」
「私のせいで貴方は全部失くしたのに、随分とお人好しだな。私を許すのか?」
「……許せるって言ったら、それは嘘になるけどさ」
「だろうな。じゃあどうして殺せないか教えてやろうか」
「え?」
「ここで私を殺したら、貴方は独りになってしまうからだ。何、その心配はいらない。私を殺したらあなたは成仏できるのだから」
「そういう問題じゃない!」
「そういう問題なんだ。貴方が心配しているのは私の命じゃない。私が死んだ後に自分が独りになるのではないかということだ。そしてその心配はいらない。墓守として保証する」
「……違う。俺は」
「今口ごもったな。図星か」
「っ……」
「さようなら」
少女は迷いのない動作で、カッターナイフを自身の喉に突き立てた。
地面に倒れ伏した少女の死体を挟んで、青年は少女と向かい合う。
青年の身体は徐々に光の粒子に変わりつつあった。これが成仏というやつらしい。
青年は、生前と全く変わらぬ無表情で突っ立っている少女に問うた。
「どうして、こんなことを――」
少女は青年の問いには答えず、人を小馬鹿にしたような薄笑いを浮かべた。
「最期までつくづく嫌な奴だな。貴方はいつも自分の寂しさを人に転嫁する」
「そんなことは…」
「しているんだよ。一人が不幸せなのはいつだって貴方の方だ」
「……」
「そんな人が、いつまでもこんなところにいるものではない。さっさと行け」
少女は厄介払いをするように青年に向けてひらひらと手を振った。
青年は、たぶん答えてくれないだろうと思いながらも、もう一度同じ問いを繰り返した。
「どうして、こんなことを?」
少女は以外にも答える気になったようで、自分の死体を見下ろしながら腕を組んだ。
そして、「そうだな」と小さく呟いてから答えてくれた。
「誰かさんに同情されるような生き方をしてしまったからよ」
少女の言葉が終わるのとほぼ同時に、青年の意識は急速に世界から遠のいていった。
最後に、少女の口が動くのが見えた。声は聞こえなかったが、何を言ったのかはわかってしまった。
――さようなら、偽善者。