電話番
ある日、一人の青年が電信柱の張り紙を見つけた。初めは迷い犬の周知かと思ったが、そうではない。
Wordで作成された無機質な文章には求人案内が載せられていたのである。
その内容に彼は思わず足を止め、瞠目した。
完全週休二日制、月給三十万円。部屋で電話を待つだけの簡単なお仕事です。経験不問。
青年は、つい先頃仕事を辞めたばかりであり、迷うことなく先方にアポを取ることに決めた。怪しいといえば怪しかったが、貯金もそれほどないため職種を選んでいる場合ではなかったのだ。
「お電話ありがとうございます。涼宮コーポレーションです」
電話口から聞こえたのは、若い女の明瞭な声だった。
青年は気後れしながらも、好印象を残そうと躍起になる。
「突然すみません、張り紙を見たのですが」
「でしたら」
面接場所に指定されたのは、路地に居を構えるくすんだ感じの喫茶店だった。疑惑は深まったが、後戻りはできない。
当日、青年の面接を担当したのは、スーツ姿の二十代の女性だった。取り立てて印象に残らない顔をしていたものの、明るくはきはきとした話し方は、電話の声と同一人物と思われた。
簡単な質疑応答の後、前職を辞めた理由を突っ込んで聞かれた。
彼は医療機器販売メーカーに勤めていたが、飛び込みノルマがきつく、残業が多かった。同期は次々辞めていくし、彼もまた体を壊し、退職を余儀なくされた。
「僕は元々引っ込み思案で、営業に向いてなかったのでしょう」
「それは大変でしたね」
当時を思いだし、うなだれる彼に女性は暖かい言葉をかける。仮に上辺だけの細やかさだったとしても、傷心の彼は勇気づけられた。
「業務内容は広告に記載されたものと同じです。座って電話を待つだけ。但し、電話に出てはいけません」
「それなんですが……」
青年は疑問を口にしていた。当初、クレーム対応か何かだと思っていた。後で契約の食い違いで揉めるのを避けるために質問は欠かせない。
「誰から電話が来るのですか。それに電話に出てはいけないとは?」
女性は困ったような笑みを浮かべた。
「申し訳ありません。その質問にはお答えできかねます」
契約書には、秘密厳守の項目がある。
帰ってから、パソコンで調べると涼宮コーポレーションは、アパートの管理会社だとわかった。
その日のうちに、採用の電話がきた。出勤は次の日の午後十三時ということに決まった。
指定された住所のアパートは、日当たりの悪い位置にあり、築年数もかさんでいる。駐車場もなく、通りからも見えにくい位置にあった。
青年が入るように言われたのは、そこの一階の角部屋だった。管理人室で時代劇を観ていた老人が鍵を渡してくれた。帰る時に戻しに来るように言われる。
鍵を開け中に入ると、六畳のリビングと四畳の和室。備え付けの家具は本棚と、リビングのテーブルと椅子。テーブルの上に黒電話が置かれている。椅子に座って電話を待つ。決して電話に出てはならない。
椅子に座って、五分ほどで飽きが来る。待つだけというのも苦痛である。
動いてはいけないとは言われていないため、 リビングのサッシ窓を開けてみる。アパートの裏手は陰気な墓場で、生温かい風が入ってくる前に窓を急いで閉めた。
七月の日中だったため、湿気と暑さで青年の肌に汗が滴った。悲しいかな冷房はない。念のため背広を着てきて失敗した。
部屋に監視カメラの類があるかもしれないが、背広くらい脱ぐ自由はあるだろう。背広を脱ぐと、和室の本棚に揃えて置いてあるマンガを手に取り、テーブルについた。
そのマンガは何度も読んでいたため、新鮮味は薄かったが、希望を臆面もなく語るそのマンガは色あせることなく彼の関心を奪ってくれた。
壁掛け時計は、十五時を指していた。部屋に入ったのは十三時だったため、ぴったり二時間が経過したことになる。
その時、目前の黒電話がけたたしまく鳴った。
りんぐらんぐりんぐらんぐ
青年はマンガを握りしめたままやり過ごす。どれだけ不可解だろうが、それが業務なのだ。
呼び出しは夏風邪のようにしつこく続く。受話器が落っこちそうになるほどに揺れている。
呼び出し音はきっかり十分間続いた。安心したのも束の間、五分置きに受話器がシェイクした。青年はいつ終わるとも知れぬ電信に生きた心地がしなかった。
十五時五十五分で電話が完全に沈黙するまで、青年は耳を押さえ、机に突っ伏していた。
夕日が部屋に指してきても自分がどこにいるかわからなくなったように眼球をギョロギョロさせていた。
終了時刻の十八時になっても動悸は収まらず、逃げるように部屋を出ると、鍵を管理人室に叩きつけて家に直帰した。
胃は壊れたように揺れる。夕食も食べずに布団を頭から被り震えた。汗をかくほど暑いはずなのに、寒く感じる矛盾。肌は正直だった。
「ですからご質問にはお答えできません」
明くる日、涼宮コーポレートの電話口に出た女性は、じゃっかんうるさそうに対応した。
不安は解消できず、それでもアパートに向かう。
自衛の手段として、ヘッドフォンを持参した。持ち物は特に指定されていない。音楽を聞いてやり過ごせばいい。そう自分に言い聞かせた。
マンガを読む気分ではなかった。ヘヴィメタルの曲を大音量でかけるが、あまり耳に入ってこない。いつ来るかいつ来るかと、時計に神経を集中していた。
りんぐらんぐりんぐらんぐ。
目と鼻の先で震える黒い小箱を存在しないものとして、振る舞えばいい。
金属をしきりに叩くような音が耳を聾する。頭痛と目眩がする。
気を失い、目が覚めたのは、十四時五分前の最後の呼び鈴が鳴った時だった。
息も絶え絶え、鍵を返し青年は帰宅した。
冷蔵庫のトマトを口にし、ベッドに倒れる。
精神的に追いつめられても、この仕事をやめようとは思わない。これまで初志貫徹したことがあっただろうか。前の仕事もそうだ。もし体を壊さなかったら続けられていたのにと、後悔している。
「お願いだから、辞めて」
電話番を始めて一週間後、青年の恋人が苦しげに訴えた。
青年の目は落ちくぼみ、以前退職した時と同じように衰弱していたのだった。
「頑張りすぎだよ。死んじゃう」
「そんなんじゃないよ」
青年はうなだれながら悔しげに首を振る。
「頑張りが足りないから体を壊すんだ。病は気からって言うだろ」
弱々しく笑っても、彼女は取り合わない。
「働くのは義務だと思ってるの? それじゃ前と変わんないよ。もっと自分を大切に」
「悪いか? だって生きるには仕方ないじゃないか……」
青年は声を落とした。彼女の目に涙が光っているのが、哀れだった。
一人になって冷静に考えてみると、仕事にしがみつく理由が見つからなかった。自分の意地で失うものが多すぎると気づいたのだ。仕事は探せる。まだ自分は若いと言い聞かせる。
次の日、執拗な電話の相手は誰なのだろうと疑念を深める。辞意を表明する前にアパートに足を向けた。
好奇心にあらがえなくなり受話器を音を立てないようにそっと上げ、耳に当てた。
息を吸い込む音がして、一言。
「何だ、いるじゃないか。おどかすなよ」
嗄れた男性の非難が、風前の塵のように消えた。それだけだった。電話はそれから全く鳴らなくなった。
外に出ると、蝉時雨に耳を洗われる。久方振りに一息ついた。
「電話に出てしまいましたか」
携帯で辞意を伝える。失望が混じった担当女性の声に、罪悪感を覚えた。
「一体あれは誰なんですか」
少し間を置き、女性は声を絞った。
「オフレコにしてくださいね」
青年は数分前まで自分がいた部屋を見上げる。あの部屋は、いわゆる事故物件という奴だった。
三ヶ月前、独居老人が急性心不全で亡くなった。家族もおらず荼毘に付されて後、新しい入居者が住むことになった。
「それから出るようになったんです」
「え?」
青年は不吉な予感から、足早にその場を離れる最中である。
「老人が電話してくるようになったのです。死亡時刻と目される十五時から十六時の間に」
不思議なことに部屋主が不在の時は電話はかかってこないそうだ。
「老人の霊は自分が亡くなったことを知らず、電話をかけてくると思われます。存在を無視すれば、自縛霊を辞めてくれると、霊能者の先生のアドバイスを頂いています」
まるで幽霊の追い出し部屋である。青年が辞めたことで、また別の誰かを雇って一から我慢比べをすることになるという。
電話を切った後、青年は、名も知らぬ老人の霊が少し羨ましくなった。自分は簡単に仕事を辞められるけれど、霊を簡単に辞めることなどできるのだろうか。執着するからこそ、電話をかけてくるのだ。
そうまでしてしがみつきたい仕事が果たしてこの世にあるだろうか。
ふと腹の底から笑いがこみ上げ、道路の端で下を向く。その時、携帯電話が鳴る。非通知だ。耳に当てると、身知らぬ男の低くうなるような声。
「お仕事おつかれさん。なあ、あんた、これからもよろしくな。話し相手になってくれるんだろ?」




