One hour 「Chemistry」
ーー昼休み開始の
チャイムの音が遠く響く、その少し前から駆け出していた。
うちの教室から購買までは近く。4時限目の世界史、テキトーな先生で助かった。早々に切り上げてくれるから目的のパンを買いそびれることはまずほとんどない。タイミングがいい。
今日はタイミングがいい。
左手に購買の袋、右胸に教科書とノートを抱えて、廊下の人気のない方へ進んだ。吹き抜けの階段、木漏れ日に照らされる私の茶の髪は今、頼りなげな仔鹿の模様のようにでもなっているのだろうか。足取り軽く、跳ねるような仕草も合間って。
光がほとんど届かない程奥まっている、じめっとしててきっと誰も好まないであろうその場所で立ち止まった。トントン、と一応、鳴らしてから開いた。
ガラッ
「こんにちは。今日もお願いします」
ああ…間の抜けた声と共に振り返った眠そうな顔。その人を呼んだ。
ーー先生。
白髪混じりの髪、締まりのない笑顔、ヨレヨレの白衣がトレードマーク。残念ながらお世辞にも格好がいいなどとは言えない、ナイスミドルの渋さなんかも程遠い。“気弱な中年男性”と題を出されたなら、私もこんな風に描きそうだ。
この間なんて鼻毛がはみ出してましたよ?息する度に出たり入ったり…あれですか。パーティとかお祭りとかでよく見る『ピロピロ笛』を模したものですか、それは。みんな笑いを堪えていたの、結局最後まで気付いていませんでしたね。
化学準備室。ここでまた始まる時間。
薄暗くってじめっと湿度の高いところ。更に薬品臭い。食事の場になんてきっと適さない。だけど。
陽なんかほとんど届いていないはずなのに何故か温かいんですよ。
温かいんですよ、先生。
何故でしょう。
Lesson.1【炎色反応】
「君は真面目だね、自ら補習に来るなんて」
すでに買ってあったのであろうサンドイッチを口に運びながらその人は言う。薄いフレームの眼鏡の奥が下向きに細まっている。
「化学は手を抜きたくないですから」
両手で握ったコロッケパンにぱくつきながら私は返す。
「だけど君の将来の夢って、確か…」
「イラストレーターです」
「化学関係ないじゃない」
そう、おっしゃる通り。ほぼほぼ無関係と言えるでしょう。ここを出たら進む専門学校だってもう決めてある。推薦もらえればすんなりいけるはず。
ハハ…という笑い声をそのまま顔に映したみたいな、八の字の眉でまだ笑ってる。楽しそうで何よりです、先生。
「だけどさ、友達との時間も大切だよ?昼休みにいつも居ないんじゃあクラスから浮いちゃうよ?」
「ごはんの後に補習に行くなら同じことですよ。そう言ってあるし…」
心配そうに首を傾げるその人に私は続ける。
「そもそも友達とか。あのクラスにはいませんよ。一年のときの人、ほとんどいないし」
『炎色反応』
アルカリ金属や銅、塩なんかを炎の中に入れると金属元素特有の色を示します。
浮いてしまう?何を今更。私は元々こんなんですよ。どんな色をしてるんだかわかりませんが、大多数の炎の中で私の存在は異色なんですよ、気付いてます。
そう、どうせならスズや鉛がいいですね。薄青〜紫…あの色が好きです。
「クールだね、佐伯は。そんなこと言って…」
本当に、いいの?
ちら、と上目で伺って、そんな一言を付け加えたその人。わざと?ねぇ、わざとですか?私の喉はごく、と鳴る。だいぶ遅れてから言った。思わずうつむいて。
「…いいんです」
覚悟したように言ってみた。相変わらず気付かないその人は、困ったね…なんてこぼしてまた笑う。私は憮然として、思う。
クールとは誰のことですか、何を言いますか。青くたって炎は炎、化学教師の貴方がよもや知らない訳もないでしょう?
困っているのはこっちです、先生。
Lesson.2【共有結合】
「ノート、見てもいいかい?」
「はい、どうぞ」
先に食べ終えたその人に私は手渡した。パラパラめくっていくうちに、ほぉ…とため息のような声が聞こえた。
「相変わらず綺麗なノートだね。卒業したら譲っておくれよ」
嬉しそうな顔をぱっと上げる先生。
「いいですけど、どうする気ですか?」
ぱっと下を向く私。
空になったコロッケパンの袋を細くして縛り、今度は菓子パンを取り出して開ける。パリッと弾ける音が鳴る。
佐伯…
呼ぶ声に、ん、と見上げた。呆れ顔が目の前にあった。
「いつもいつもパンばかり…とりあえず何でも野菜ジュースを付けておけばいい、とか思っていないかい?」
ご名答です。だって満たしたいのは消化器官ではないですから。やはり気付きませんか。“らしい”ですね。
すまして言ってみせたのに、まだ感じる視線の気配。案じる眼差しだって、見なくてもわかる。案じてるって…私を。
『共有結合』
2つの原子が電子を共有し合うことによって成り立ちます。非常に強い結合だそうですね。いつか先生の書いた図解を見たとき、お互いがお互いの一部を自分の一部として受け入れているように見えました。
共有。ここへ通ううちに、その響きが大きくなっていきました。補習という名目の時間の共有…もうどれくらいになりますかね?
ついには固まってしまいましたよ。この奥で、硬く、キラキラと輝く何かになりました。キラキラ。それは一筋の光が当たったときにだけ見えるんです。
「咀嚼を怠ってはいけないよ、佐伯。野菜もちゃんと食べなさい」
免疫が落ちてしまう…と言うその人。私はもそもそとかじりながらくぐもった声で、はい、とだけ返す。じんわり広がる甘い味。
成り立ってしまった結晶。こんな陽の当たらない場所ではなく、ひっそりとではなく、もっと広いところで堂々と公にできたなら、一体どれ程輝けるのだろうか。
ちらり、と見上げた。コーヒーを飲んでる。熱かったのかな?ちょっと顔をしかめている。
それからゆっくりこちらへ向いた眼鏡の奥がまた柔らかく、細くなる。パンが詰まりそうになる。慌てて野菜ジュースを流し込む。速攻でむせた。
「おいおい、大丈夫かい、佐伯」
前かがみでゲホゲホ続ける私へ伸びてきた大きな手が、あっという間に背中まで辿り着いてさする。悶絶。そんなことをされてはまたいろいろと浮かんできてしまいますよ、先生。
共有そして結合。
結合…
駄目だ、妄想はここまでに。
Lesson.3【溶解度】
「ノートを譲ってくれとさっき言ってましたが…」
やっと喉の痛みが落ち着いた、残りの野菜ジュースで潤しながら私は切り出す。
「一体どうするつもりなんです?」
ああ、と呟いて顔を上げた、その人にまた笑顔が咲く。“枯れている”…私たちくらいの年頃ならそう言って小馬鹿にする者だっていそうなくらい落ち着ききったものなのに。
眩しいです、何故か。
「下級生たちの参考書にしたいんだよね。いや、僕の参考でもある」
「先生の?」
不思議に思って聞き返すと、うん、と頷いたその人。コーヒーの香りが漂うその口から告げられた。
「僕は何でも自分の頭の中で処理してきたからね、説明とか図解とか、本当は苦手なんだ」
「天才肌じゃないですか」
「そんなたいそうなものじゃないよ」
へへ…と漏らして照れている。だらしないですよ、先生。ただでさえ威厳ないんですから。
こうして冷めた目線で冷めた分析をしているはずなのに、困ったものです。今もなお熱は上昇を続けているんですよ。だらしない、ですよね。私も。
『溶解度』
ある溶質が一定の量の溶媒に溶ける限界量。温度によってもまた変わってくるそうですね。私はふと胸元を握る。こんなに高温ならば…
「それで佐伯、何処がわからないんだい?」
「…何処でしたっけね」
こんなに高温ならば。
「どうした、まだ苦しいのかい?」
えぇ、苦しいです。もはや原型がなくなってしまいそうですよ、先生。
視線を送った。乱雑に書類やら本やらが散らばったデスクへ。ちんまりと置かれたデジタル時計。順調に進んでいきますね。
「補習の必要なんてないでしょ。佐伯は化学得意なんだから…」
「要りますよ」
私はかぶりを振る。乱れた髪を耳にかける。あえて反対側の手を使って。
「数式は苦手です。私の数学の成績、知ってるでしょう?」
「いやいや、理数系というじゃないか。その気になればできるはずだよ」
そう…ですかね。でも認めてあげませんよ。だって終わらせたくないですからね。
その気になれば…そうかも知れませんね。本当は少し納得しています。もし一定の条件を満たしたなら違っていたかも知れません。
貴方が数学教師だったなら
すんなり“とけた”のかも知れません。
遠く鳴ったチャイムの音。終わりを告げているデジタル時計。
時間だ、なんてわかりきったことをその人は言う。いちいちやめて下さい。寂しくなります。
「結局できなかったね、補習」
「そうですね」
必要ないですから、本当は。
「佐伯はのんびり屋さんだから、ゆっくり食べたいでしょ。ここじゃなくても…」
「大丈夫です」
それは必要です。強い眼差しで見上げた私は繰り返す。
「大丈夫ですよ、先生」
私ならいいのに、と最後までは言えず。
「次の授業は何だい?」
「体育です」
「いいねぇ、羨ましいよ。よく体を動かしてくるといい」
次の授業に備えて。書類をまとめ始めているその人に私は何も返せなかった。横目で冷ややかに見るだけで。
こんな感覚を残したまま体ばかり動かしたって虚しいだけですよ。知らないんですね、気付かないんですね、こんな目つきをしてみせても、同じようには返してくれないんですね、先生。
大人を気取った視線、仕草。所詮は見よう見まね。私が子どもだからですか?
「ごはん、それで足りたのかい?」
「満たされましたよ、ある程度は」
「心配だね…」
八の字の間に皺を寄せて、笑う。やめて下さい。溶けます。
抜け殻だけになった袋は丸めて、教科書とノートを小脇に抱えて、引き戸を開ける、その直前。
「ノート大切に取っておいてよ、佐伯」
僕が貰うんだから。
トクン、と高鳴る。また聞き捨てならない一言を付け足してきた、だからそれはわざとですか?
はい、と言って振り返った。ヘラヘラと締まりのないその人へ、真顔で真っ直ぐ告げた。
「いいですよ、あげます」
ーー貴方に。
また最後までは言えず。
読者様へ。お読み頂きありがとうございます。珍しく学生の恋愛モノを書いてみました。相手は教師ですけどね。
何を隠そうこの私、化学の先生が好きだったのですよ。昔々の思い出です。ある体質上、全部の授業をみっちりとは受けられませんでしたが、他の授業に当てる時間を削ってでもこれだけは頑張っていました。
なので割と得意教科でした。補習の必要なんてなかったけど、佐伯と同じように通っていたんです、化学準備室。まさに二人っきりの時間。
ですが。ご期待(?)に添えずすみません。特に何もありませんでした。いや、あったら大問題ですが。
だけど一つ、私はささやかな問題を残していってしまいました。
「ノートを譲ってくれ」私も言われていました。忘れませんでした。卒業式の後、ちゃんと届けに行ったんです。
最後のページに先生のお顔のイラストと、メッセージを添えたものを。
何を書いたか、それは内緒です☆
と、言うより私ももうろくに覚えちゃいません。ただ、何となく覚えているのは…
あんなのを書かれたらもはや参考書になんてできなかったかも知れませんね。ひっそりと破棄してくれていることを願います。それとも意味に気付かず寄せ書きの色紙感覚で取っておいたりしてるんでしょうか。
先に生徒に発見されて冷やかされまくった可能性も否めませんが。
だとしたら先生、何と言いますか、もう、すみませんの一言に尽きます。
若気の至り、恐ろしや。
七瀬渚