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花瞼に心臓  作者:
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06 真綿で殺む

 屋敷の中を満たしていた喧騒が一瞬にして掻き消えた。まるでその部分だけを切り取ったかのように、今日のために呼んだ由緒ある楽団の弦楽器が美しく音を奏でていた。

 振り返ればきっと彼はそこにいるのだろう、現国王の隣りに凛と立ち、真っ直ぐに俺を見ている。コツコツと革靴の踵が床を打ち、段々とこちらに近づいてくるにつれて大きくなる音に、懐かしい姿を脳裏に思い描くだけで、喉が引き攣って口から嗚咽が漏れそうになる。

「ラルフ」

 背後からの呼び掛けは耳に慣れた声よりも、幼い。それでも確かに、はっきりと記憶に残っているあの彼の声だった。声変わりの兆しすらも感じさせない高めの声は、俺と二人きりの時とは違う、公衆の面前に向けての作られた安穏を孕んでいる。

 立ち尽くすことしかできない俺の肩をとんとん、と二度、お父様に叩かれる。挨拶をしなさいと、声にしなくてもその手から言葉が伝わってきた。

 パーティーが始まるまでに、何度も何度も頭の中でシミュレーションを繰り返していた。目を合わせたら、いつものようににこりと笑って、なんでもないようにその名前呼んで挨拶をして上手に振る舞えると確信していた。声も話し方も、頭の中で本物と遜色なくちゃんと想像することが出来ていたし、本物を前にしても取り乱すことはないと思っていた。でもちょっと待ってくれ。

 実際にその声で、温度で呼びかけられるという現実は、俺の脳内だけでただ機械的に繰り返されるということとは訳が違った。今彼の顔を見たら、もしかすると泣いてしまうかもしれないんだ。

「ラルフ?」

 不思議そうに掛けられた殿下の二度目の声に、意を決して唇を引き結び、焦りを悟られないようゆったりと振り返る。それでもその目を見ることはできなくて、そんな自分が不甲斐ない。

 視線は深い赤色のタイに引き付けられたまま、公の場専用の綺麗な笑顔を用意した。殿下はどんな表情をしているのだろう。

「本日はご足労頂きありがとうございます」

「こちらこそ素敵なパーティーにお招きありがとう」

 俺の言葉に、にっこりと笑い言葉を返してくれたのは、殿下に連れ添う国王陛下だった。国王陛下にそっと手を差し伸べられて、短い握手を交わす。

 それでも俺は殿下の目を見ることが出来ないまま、変わらない笑顔で赤のタイを見つめることしかできない。

「アドニス、ご挨拶は?」

 柔らかな陛下の声はいつもと変わらず慈愛にあふれるものだった。しかしそれに対する殿下の返事がない。

「アドニス?」

 不思議に思った陛下が語尾を上げてもう一度殿下の名前を呼ぶが、やはり殿下は陛下の言葉に黙りこくる。こういった公の場では今までありえなかった行為にもしかしてご気分でも優れないのかと心配になってしまう。それだというのにやはり殿下の顔を見てしまっては色々なものが溢れてしまいそうになるので、俺は殿下のタイから顎まで視線を上げては下げてを繰り返す。

 いつまでもこうしている訳にはいかないのだし、そろそろ俺も覚悟を決めようと意を決したとき、殿下の大きな一歩によりぐんと近づいたタイに肩が跳ね上がる。

「顔色が悪い」

 間近で囁かれた言葉に、突然視界に入り込んだ懐かしいその顔に、息が詰まった。心配そうに覗き込む真摯な瞳も、さらりと流れる焦香の髪も、やはり何一つ変わってなんかいない。この世界で守るべきものを、改めて目に映して理解する。

 そんな俺の動揺を知ってか知らずか、殿下はその掌をひたりと俺の額に押し当て、熱は無さそうだなと小さく呟く。殿下は俺の額から手を離すと真っ直ぐに俺のお父様を見上げた。

「公爵。今朝のラルフの件は聞き及んでいます。私が見る限りラルフにはその疲れが残っているようだ。自室で休ませてやることは出来ませんか」

 大凡子供とは思えないようなしっかりとした殿下の言葉に、今度はお父様が俺の顔を覗き込んでくる。

「確かに顔色が優れないようだな。どうするラルフ。今日はもう休むかい?」

「いえ、お父様。今日は──」

 私の誕生日ですから、という言葉は宥めるように背中を叩いた手によって止められてしまう。

「私がラルフに付き添います」

 失礼します、とそう軽く頭を下げて殿下は踵を返した。まるでクロスフォード家を我が家のように網羅している殿下は他所行き用の穏やかな笑みを浮かべながら来客の視線を受け流し、俺の背中を押してホールの外へ追いやるように扉へと向かう。

 ちらりとお父様を振り返るとこちらも微笑みを浮かべて俺を見るのは一瞬で、すぐに国王陛下に向き直り意識はそちらへと向けられた。それは言外に殿下の言う通りにしろと告げられた瞬間だった。

 気遣うように俺の肩を抱きながら長い廊下を闊歩する殿下は、心配そうにわらわらと近付いてくるクロスフォード家のメイド達を片手を払う仕草で下がらせる。そして傍らについていたメイド長に、今はラルフを休ませたいので用があれば呼び鈴を鳴らすからそれまで部屋に人を入れないように、と簡潔に言葉を伝えた。

 殿下の言葉にメイド長が心得たとばかりに丁寧に頭を下げるのを横目に、殿下は颯爽と歩みを進める。その先は当然俺の私室だ。まだどうしても殿下と一対一で会話をする勇気の湧かない意気地なしな俺は、金のドアノブを捻ろうとしていた殿下の手に慌ててその動きを制した。

「ここまで付き添って下さり感謝します殿下。まだパーティーは始まったばかりですので、どうぞごゆるりとお楽しみ下さい」

 上手いこと笑顔を作ることは出来たが、情けないことにいまだ視線は殿下のタイのあたりをふらふらとさまよっている。しかし顔を見なくても殿下が不機嫌だということは雰囲気で感じ取っていた。その証拠に、俺の言葉には返事もせず、まるで殿下の手を引き止める俺の手なんか存在しないかのようにドアノブをそのまま握り込んで俺の部屋の扉を押し開ける。その中に乱雑に俺を押し込むと自身も部屋に身を滑り込ませ、扉を閉めた。

 因みに俺は軽く突き飛ばされたような形になり、ダイナミックにも床に膝から着地。しかしやはり殿下は見向きもしない。バタン、と大きな音に続いてこれまたガチャリと大きな音を立てて掛けられた鍵に、ひやりと冷たい汗が背中を伝うのが分かる。

 基本的に爵位を持つ人間や貴族という人間は、幼い頃よりそれなりのマナーを呼吸をするようにして教え込まれる。そうして習慣になっていった一級品の所作は、場所を選ばすにその人間の動作に生きる。勿論王族である殿下も例に漏れない。鍛え抜かれたその一挙手一投足に一般人では成し得ない優雅さが宿る。それが、だ。扉を閉じる音。鍵を掛ける音。いつになく豪快なそれらが俺に教えてくれるのは一つ。殿下はとても怒っていらっしゃる。

「で、殿下……?」

 なんだか腰が抜けてしまい、尻もちをついたまま下から伺うように殿下に声を掛けるが、殿下は扉の鍵に手を掛けたままでこちらに背を向けている為その表情を知ることは出来ない。もう一度声をかけようかと逡巡した時、背を向けていた殿下がくるりとこちらを向いた。

 思わず「ひぃ」と自分の口から、噛み締められて言葉にもなりきれない悲鳴が小さく漏れるが殿下は気にした様子もなく下に向けていた顔をゆったりと上げた。急ぐ素振りも見せず余裕すら漂わせるしっかりとした足取りで、着実に俺との距離を縮めてくる。そしてそれを目にした俺は尻を床につけたまま必死に足を動かし、出来る限りの速度で後ろへと後退する。

「ちょっ、まっ、落ち着きましょう!」

 そう声に出してから、落ち着くのはお前だと自分にセルフでツッコミを入れる。どこからどう見ても今の殿下は落ち着いていた。表面上は、の話ではあるが。

 再会の感動の涙もどこかへ吹っ飛んでいってしまい、背中がベッドにぶつかったところで別の意味の涙が目に浮かんできた。こちらを真っ直ぐに見ながら迫ってくる殿下の表情はそれはそれは聖母や菩薩のように柔らかな笑みを湛えていて、ああ、感情任せの怒りではなく論理的に相手を追い詰め懇懇と諭すタイプの静かな怒りだと悟る。怒鳴りつけられれば黙って相手の言い分を聞き誠心誠意謝ればなんとかなるものだが、今回の場合そうはいかない。相手が何に対して怒っているのかを理解し、反省の弁と対応策を述べた上で謝罪をしても許してもらえるか分からない。殿下のこういった怒りは長引くのだ。

 ついに殿下が俺の目の前で歩みを止め、座り込んでいる俺の目の前でしゃがみ込む。しっかりと焦香の目と、目があった。懐かしい色にやはり胸に何かが込み上げてきて呼吸が苦しくなり、目線を逸らすためにゆるゆると顔が下を向く。

「ラルフ、俺を見ろ」

 一人称が変わり、公の場用に繕った仮面を脱ぎ捨て本来の殿下に戻ったことを知る。当然殿下の言葉には逆らうということは不敬に値するので不本意ながらも顔を上げるが、目だけはなんとか殿下の顎のあたりを捉えていた。居心地の悪さを感じ目が泳ぎそうになった瞬間、ぐにゃりと右の頬を抓られ肩が跳ね上がる。

 抓ると言っても恋人同士のじゃれ合いのような可愛らしいものではなく、綺麗に切りそろえられた爪が頬に跡を残す程に強い力で。

「俺の言っていることが聞こえないのかお前は!」

 ぐい、と既に力を込められていた指に更に思い切り力を込められ頬を引かれれば怒りに満ち満ちた焦香の目と無理矢理に視線も合う。 思わず呆気にとられ、ぽかんと口を開けてしまったのが更に殿下の怒りを煽ったらしい。

「聞いてるのかと言っているんだ!」

 殿下はまるで幼子に言い聞かせるように一字一字を区切りながらその音に合わせて頬を引っ張る。頬は思うままに引かれてピリピリするし、同い年だというのにまるで年下の手の掛かる弟に接するかのようにそうされて気が立ってしまったのがよくなかった。

「うるさい聞いてる!」

 ぺしりと俺の頬を引っ張っていた手を払い、そう声を荒らげた瞬間に後悔した。俺に振り払われた手を宙でふらふらと漂わせながら、殿下はニコリと笑った。

 やばい、と脳内で警鐘がけたたましく鳴り響くが背中にはベッド目の前には殿下で最早逃げるところなんていうのはどこにもない。絶体絶命というのはまさにこういう状況である。

「……ほう?」

 とん、と先ほど俺が振り払った殿下の左手がベッドの縁を捉える。逃げ場が断たれたと気が付くのと、殿下がすぅっと大きく息を吸ったのは同時だった。

「どの口が言うんだこんの馬鹿が!」

 ぎゅっと目を瞑った瞬間に、頭に全力の拳骨が叩き込まれる。全力とは言ったって、どうせ子供の全力である。たかが知れている。

 そう思った俺はパッチリと閉じていた目を開いて殿下を見た。想像通り、やはりその顔は俺を殴って未だに怒りを湛えていた。恐る恐る、俺は殴られた自分の頭に手を当てる。そして呆然とした。

「痛い!」

「痛くしたんだから当たり前だ!」

 子供とは言っても、生まれつきの才能を持ち毎日剣を振っている子供の拳骨は想像以上に俺にダメージを与え、またしても俺の目にはじんわりと涙が浮かんだ。

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