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花瞼に心臓  作者:
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03 厨房の陶酔

 クオンの長い睫毛が、その陶器のように白く滑らかな頬に細く震える影を落としていた。その光景を、ひどく美しいとぼんやりした脳内で思う。

「したら、元の時間軸に帰したるよ」

 誰も愛し子が最愛の人を殺したことを知らない、優しくて都合のいい、最愛の人がいない世界に帰したる。調度愛し子がその腕に、喉を貫かれた最愛の人を掻き抱くその瞬間に。

 人は精霊のこの甘やかな声を、甘美な囁きとでも呼ぶのだろうか。一瞬にしてあの時の悲惨な光景が脳内に浮かび上がり思考が真っ白に塗りつぶされたが、その後の復旧は早かった。

 クオンの言葉を要約するならばこういうことだろう。二十歳という余命を取り除きたいならば殿下を殺せ、そうしたら時間逆転をする前に時を戻してやると。

「なら、いい」

 だが、何度でも言わせてもらうが、俺が今ここにいる理由は殿下だ。自分が生きるために殿下を殺すなんていうのは本末転倒。そんなことになるならば、そうなる前に自分の喉をかっ捌いてやろうと思う。

「喜んで死のう」

 意図せず、唇に綺麗な笑みがのった。糸で唇の両端を吊り上げられたかのように、ごく自然と笑っていた。それはおおよそ、五歳児の外見には似つかわしくない歪で不健康な笑顔だったのではないかと思う。しかしクオンは嬉しそうに瞼を閉じ、また「いい子、いい子」と俺の髪の毛をその細い指先で何度も何度も梳くのだ。


 刻々とその内側で数字を刻む痣を丁寧に隠すようにきっちりとアイロンのかけられた洋服を着込み、一息つこうとふかふかのソファに腰掛けた。深紅の座面に沈み込むと屋敷の下に広がる寂しい庭園とも呼べない荒れ野が目に入る。その中央に据えられている豪奢な噴水がもの悲しさを誘い、いてもたってもいられない気持ちにさせられる。

 いや、原因は自分にあるのだが。

「愛し子や、妾はあれじゃ、甘いクッキーが食べとうなってきた」

「残念ながらクッキーはこの部屋には置いてないな」

 すりすりと二の腕に絡みつきながら上目遣いで媚びた声を出すクオンに頭の中でスケジュールを組み立てる。

 寂しい庭園と、クッキー。

 パーティーのために殿下がクロスフォードの屋敷を訪れるまではまだしばらくの時間があるだろう。そして謝罪をする時というのは、それなりの誠意というものを見せる必要がある。

「あぁんクッキークッキー食べるんじゃあ!」

 まるで床を転がり回って駄々を捏ねる子どものように空中を転がるクオンを引っ掴み、自分の肩に乗せる。それでもなお俺の耳朶を引っ張り、耳元でそれしか言葉を知らないかのようにクッキーとひたすら叫んでいるクオンにため息が出る。

 どうして精霊を相手にこんな子供を相手にしているかのような心境にならなきゃいけないんだ。どうして子供が子供の面倒を見ているんだ。ああ、俺が精霊に好かれやすい体質だからか。

「わかった。厨房に寄って庭へ出よう」

 半ば頭を抱えながら腰に愛剣であるデュランダルをさす。俺が生まれたとき、男の子だと分かったと同時に王立騎士団の団長であるお父様が俺に与えたものだった。お母様や使用人には気が早すぎると止められたらしいが、ベビーベッドには赤ん坊の俺の隣にデュランダルも共に寝かせられていたという。

 当然生まれたばかりの赤ん坊や、歩けるようになってから毎日毎日剣の稽古をつけられたといっても、まだ初等部にも通わないような子供にこれを扱える訳もなく。ずっと部屋の目につくところに置いていたといっても今までずっと飾り物と化していた剣だが、以前はずっと俺の腰にあったものだ。この体では思うように扱えないと分かっていてもやはりないと落ち着かない。

「ほぉ、不滅の剣かえ。クロスフォードの家にあったんか」

「いや、確かにお父様はデュランダルとは呼んでいたが真作ではないと思うよ。生まれたばかりの赤ん坊に与えるようなものだ」

「んああ?」

 俺の肩をふわりと跳び、腰にあるデュランダルの柄にぴょんと飛び乗ったクオンは下駄の踵でコンコンと鍔を打つ。

「モノホンやでえ」

 なんてことないように言い放つクオンに思わず絶句。なんてもんを赤ん坊に与えてんだ!

 慣れ親しんでいたはずの腰の重みが唐突に増したような気がした。それは錯覚ではなく、実際にクオンがデュランダルの柄を鉄棒にして大車輪を披露していたからだったのだが、精神的にも実際重くなっている。

「こんなもんをちっこい頃から貰えるなんて、お父上にも愛されとるねえ。いい子じゃ」

「愛されてるという一言で解決させていいものなのか些か疑問だな」

「ええんよ。愛なんて都合のいい言葉は都合のいいように使ったらええの。ところで愛し子や、気が済んだらクッキー」

 早う早うとデュランダルの柄にぶら下がりながら騒ぐクオンをそのままに、俺は開け放たれていた窓を閉じる。その時に前髪が引かれるような違和感。またか、と溜め息をつきながらも腰のあたりで喚いている妖精を黙らせるために静かに自室の扉を開き、廊下の先にある厨房へと向かった。

 厨房は基本的に料理人と使用人以外、言うなれば屋敷の主となる人物は足を踏み入れることはない。俺も五歳児とはいえ、料理人や使用人には仕えられる身だ。厨房に入った瞬間、朝食の準備に使う調味料を求め飛び交う声や忙しなく動いていた人影がぴたりと止まり、もう少し考えるべきだったと後悔をしたがもう遅い。フライパンから立ち上る香ばしい香りがやけに場違いに思えて俺の笑いを誘った。もう一時間もしないうちに朝食の時間だ。

 厨房はまさに戦場だった。

「おはようございますラルフ様」

 下働きを割って進み俺の前に立ち、そう言いながら深く頭を下げたのはお父様が旅先の厨房から引き抜いてきた料理長のカイルだった。それに合わせて料理人も口を揃え深々と頭を下げる。

 お父様がカイルを引き抜いてきたのは俺が生まれて間もなくのことであったから、彼が三十代になりたての時の話だ。当時新進気鋭だったカイルは年齢を感じさせないほどに落ち着き、周りをよく見ていた。そうしてこの見事な昇進ぶりだ。人柄が評価されているゆえにつまらない内部分裂もない。まあ、基本的にここの使用人は皆仲良く働いているように見えるが。

「おはよう。忙しいところを邪魔して悪いんだけれどクッキーを用意してもらいたいんだ。頼めるかな?」

「なるほど。しかし今から生地を捏ねるとなるとそれなりの時間を頂くことになります」

「出来合いのもので構わないから直ぐに出して欲しい」

 カイルは少し考えるような素振りを見せると柔和な微笑みを浮かべた。優しげな目元にうっすらと涙袋ができると年齢以上に若く見えるのがコンプレックスだと聞いた。

「旦那様が前回の領地視察の際にお持ち帰りになった木苺のジャムのクッキーが残っています」

「それでいい」

「畏まりました。紅茶をお入れしましょうか」

「いや、必要ない。庭で食べるから皿やワゴンも用意しなくて大丈夫だ。クッキーだけ出してほしい」

 カイルは一瞬面食らったように目を見開いたが直ぐにクッキーを持ってくるように指示を飛ばした。これが執事長やメイド長が相手になるとはしたないだの朝食前にお菓子を食べるなだのとクッキーを手にするまでに長期戦になるからありがたい。

 先代も長くこのクロスフォード家に仕えていた分まるで孫を見守る祖父母のように俺を扱うのが、俺を思っての言動なだけあり反抗し難いのだ。

「ラルフ様、どうぞ」

 カイルはわざわざ俺と視線を合わせるために軽く腰を折ると下働きから受け取ったクッキーの缶を俺に手渡す。その缶は子供向けのカラフルなものではなくシックな色合いで、洒落た装飾文字で老舗ブランドのロゴが入っていた。

 ちらりとクオンに目をやれば、我慢が出来なかったようでデュランダルの柄を蹴りクッキー缶の上に着地した。その目は待ちきれないとばかりにきらきら輝いている。どうやらお気に召したようだ。

「ありがとう。朝食には戻る」

「畏まりました、楽しんできて下さいね」

「……カイル、何か見えてる?」

 含みをもたせたカイルの言葉に自然と眉が寄る。「んおお?」とクッキー缶にへばりついていたクオンが興味を引かれたようにカイルに目を向けた。

「見ることは出来ませんが、何かがそこにいるということはなんとなく分かります」

 カイルの言葉に、厨房の中にざわめきが広がる。その言葉の意味を理解したものは精霊の姿を一目見れないかと目を凝らしていたクオンもクオンで関心したように、いい目をしたコックじゃねえ、と顎に手をやり何度か頷く。

「ラルフ様は私なんかとは違い、見ることやお話しすることも出来るのでしょうね」

 カイルの視線にはおおよそ三十路過ぎが五歳児に向けるべきではない色が含まれていた。それは周りを取り囲む使用人も同じで、興奮に頬を紅潮させている者もいる。

 後ろの方ではこそこそと「さすがは我がクロスフォード家のご子息様だ」「生まれ持った才能が凡人とは違う」「あれだけの才覚を持ち精霊にまで愛されているのか」と、本人たちは小さな声で囁きあっているつもりなのだろうが丸聞こえだ。 この家の使用人はクロスフォードの人間への愛が行き過ぎて崇拝の域に入っている感が否めない。

「そんなに羨ましがるようなものでもないよ。精霊は気難しいから」

 少しの謙遜と、大部分を占める本音。我が儘だと口から飛び出しそうになったのをなんとかとどめて気難しいという言葉を選んだのは、彼らの精霊に対する夢を壊してはいけないという咄嗟の判断だった。しかし俺が精霊について何かを口にすればその内容がどのようなものでも使用人は感嘆の声をあげる。精霊とはそういう対象にある。

「ラルフ様、精霊はどのような姿をしていらっしゃるのでしょう」

 好奇心を隠しきれない様子で一歩前に踏み出してきたのは年若い女の使用人だった。それを年長の使用人、彼女の教育係なのだろうか。その人が嗜めるように肩を叩くが精霊について聞きたい思いがあるのだろう、視線を時折俺に向ける。

「文献通り、麗しいよ」

 見た目だけはね、とは口に出さないでおくと、わあっと歓声が上がる。そしてそんな俺の本意を知らない使用人たちの質問は俺の回答を皮切りに殺到した。

「どのような声でお話しになるのでしょう!」

「低く、落ち着いている」

「精霊はどのようなことをお話しになりましたか?」

「……ずっと見守っているから好きに生きろと」

 少し考え、場が盛り上がりそうな内容を抜粋した。そして想像通り、そう言えば一段と歓声は大きくなる。それもそうだ。俺だってクロスフォード家にある書斎を網羅したが精霊が見守ってくれるなどという約束をした記述は見たことがない。気紛れに現れては消える。俺もクオンに出会うまでは精霊とはそういうものだと思っていた。

「ラルフ様は精霊魔法が使えるのですか?」

 誰かのその一言で騒がしかった厨房の中は水を打ったように静まり返る。視線は俺に集中していて、ゴクリと自分の喉が鳴るのが分かった。とても居心地が悪い。

「そろそろ朝食の支度に戻らないと時間がないんじゃないか?」

 じゃあクッキーをありがとう、とそう続けて厨房を出ようとした時、視界の隅でクオンの袴の裾が閃く。出血大サービスじゃあー!なんていう、低めの声のせいでテンションが上がっているのをうまく伝えられない声は俺以外には聞こえていないのだろう。

 口元が引き攣ると同時に厨房にあたたかな光の粒子が満ち、ふわりふわりとあたりを浮遊する。根拠もなく幸せな気持ちになるこの感覚は精霊の祝福だとすぐに気がついた。精霊の祝福を受けた者は幸福感を得ると共に、物理的にも幸福が訪れる。

 その効果や持続期間は精霊の力の強さと思いの強さに左右されるという。だから精霊に好かれるということは、その人物の人生を左右するほどに大きな意味を持つ。

 クオンが厨房中をくるくると飛び回り光の粒子を振りまいているうちに、使用人の目の焦点が合わなくなっているのに気がつく。これはまずい。俺には自身に魔力が多くあるせいか祝福にも耐性があるが使用人の中には魔法が全く使えない者もいるし、何よりクオンの場合、力も思いも大きすぎた。

「クオン、やりすぎだ!」

「んあ?」

 俺の前をクオンが通り過ぎようとした時にその体を両手で受け止め動きを止める。するとあたりを漂っていた光が、白熱灯が消えるように息を引き取った。

 さまよっていた使用人たちの焦点も定まり、うっとりとした表情から一変、興奮した様子で俺を見ていた。

「ラルフ様! これが精霊の祝福ですか!?」

「何をしても上手くいきそうな気がする!」

「今度家族に自慢してやろう!」

 鼻息も荒く詰め寄ってくる者もいれば仲間と顔を寄せ合いお互いの興奮を伝えあっている者もいる混沌状態。そんな中で三度手を高らかに打ち鳴らし自分に注目を引きつけたのは逸早く平常心へ戻ったカイルだった。

「では皆さんそのモチベーションを朝食の支度へ! ラルフ様をこれ以上引き止めては迷惑ですよ」

 カイルの言葉に料理人たちは興奮も冷めやらぬままフライパンや包丁を手にする。料理人は料理長の指令通りに興奮を調理にぶつけているようで素晴らしい手さばきである。

 もしかするとこれも精霊の祝福の効果かもしれないが。

「じゃあこれで失礼するよ。朝食、楽しみにしてる」

 これ以上厨房に用事もないので軽い挨拶をして外に出ようと踵を返した時に、そういえばと思い出したことがある。足を止め、自身も作業に戻ろうとしていたカイルを呼び止める。

「朝食が終わるまで誰も庭に出ないように伝えてくれ」

 不思議そうにしながらも、分かりましたとカイルが頷くのを確認して、クッキー缶を手に俺は庭へと向かった。いつの間にかその蓋は開けられていて、頭上からはクッキーを齧る音と屑や欠片が降り注ぐ。

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