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花瞼に心臓  作者:
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01 彗星の羽化

 強烈な吐き気で目が覚めた。

 跳ねるようにして上体を起こした瞬間、喉元までせり上がっていた吐き気が嘘だったかのようにすっと消えていく。それでも首や背中をじっとりと濡らしていた嫌な汗は消えることなく、本来さらりと滑るはずであるベッドシーツに指を這わせれば思った通り自身の汗でじんわりと湿っていた。

 さらりと指先に馴染む上質な素材で仕立てられたシーツは多少なりとも汗臭くなってしまったが、使用人が毎日ラルフが外に出ている間に新しいものに取り替えてくれるお陰でいつも通り太陽の匂いをいっぱいに吸い込んでいて心を落ち着けてくれる。

「何時だ……明け方?」

 薄暗さのせいで時計の短針や長針の確認が出来ずにカーテンから溢れるほのかな光で明け方だと判断するが、そこでラルフが起きることはなく二度寝の態勢に入る。規則的に響くかち、こち、と秒針の音が眠気を誘う。何よりも体に渦巻く倦怠感が勝ってしまい、シーツを変えるより先にもう一度体はそのシーツに倒れ込もうと筋肉を緩急させた。……ベッドシーツ?

「……俺の部屋?」

 今ラルフがいるのはラルフ・クロスフォード、つまりラルフ本人の自室であった。

 あまりにラルフにとって馴染みのある場所なので最初に部屋を見回した時には違和感を感じなかったが、改めて考えてみるとどういうことだか分からない。

 まさか敵国の王城で起きたあの悲劇は全部夢だったというのか?自分と殿下が率いた軍が全滅したのも、殿下が、自分の力不足故に死に至ったのも、ただの悪夢だった?夢にしてはリアル過ぎる戦況と錆びた鉄のような血の匂いを思い出すだけで頭痛がしてきたラルフは水を飲もうと、ベッドサイドのワゴンに置いてある水差しとグラスを手に取る。

 夢は深層心理を映し出すとはよく聞くが、あんな縁起の悪い夢を見るなんて俺の深層心理は一体どうなってんだ。まさかこの歳にして鬱病の前触れか。医者を呼べ。

「……ん?」

 水差しもグラスも、いつもとなんの変わりもなくそこにあった。底から三分目くらいにかけて被せ硝子の加工を施されており、淡い青から仄かな紫色にグラデーションしていく水差しはグラスとお揃いのものだ。そしてラルフのお気に入りでもあり、使用人は言いつけられるまでもなく当たり前のように毎晩ラルフのベッドサイドにこの水差しとグラスを用意していた。旅行先の硝子屋に寄った際にラルフの母が「ラルフの目と同じ色ね」と、まだ幼いラルフにお土産として買い与えたものだった。その母の声や眼差しがとても優しいもので、ラルフは自分の目が前よりももっと好きになり、その硝子屋を贔屓にした程だ。

 その水差しの中には水と氷の他に薄切りにされた檸檬が浮かべられており、水差しの中と部屋との気温差のせいでぷつぷつと硝子玉のような汗をかいていた。他の部屋の水差しには檸檬の他にミントが浮いているのだが、あの独特の香りがどうも好きになれないお子様なラルフの舌に合せて抜かれているのもまた、いつも通り。

 それにしても、この水差しとグラスはこんなに大きかったか。そしてここまでの重量があっただろうか?

 というよりも、それらのガラス細工を支えている自分の手が小さい。小さいどころかまるて幼子のように肌は白く、ふくふくとしている。爪も桜貝のようだ。しかし俺の指はもっと節々や骨がしっかりと浮き出ていたし、もっと大きさもあったはずだ。

 いや、僕はもう5歳なんだから、小さくなんかない!おっきくなってる!

 ……僕?そう、僕は5歳だ。だって今日は僕の5歳の誕生日なんだから。

「ちょっと待て」

 一人称が一致せずにこんぐらがった頭を整理しようと、とりあえずグラスに水をどぽどぽと乱雑に注ぎ、一息に飲み干す。勢いが良すぎて軽く噎せてしまったが、逆にそれが寝ぼけていた目を覚まさせてくれた気がする。檸檬の爽やかさがなんとも言えない。

 昨日僕は何をしていた?

 と、ラルフは改めて冷えてきた頭で自問自答を始める。

 何をしていたって、聞くまでもなくいつものように外で元気にアドニスと遊んでいた。大人たちには「元気すぎる」と含みを持たせて言われるがそんなことはラルフもアドニスも知ったことじゃない。だって大人が「子どもは素直と元気が一番」と言うのだから。

 側近や護衛をこれでもかと言う程に沢山引き連れ(ちなみに本人は不本意だそうだ。「友だちの家に遊びに行くのに大袈裟過ぎる!出陣か!」という具合にいつも愚痴をこぼしている)ラルフの家にやってくる。そんなアドニスの憂さを晴らそうと、二人はどちらからともなく手を繋ぎ親や護衛の目を掻い潜ってクロスフォード家自慢の庭に飛び出した。息を殺してアーチを走り抜けて、二人で顔を見合わせた瞬間に達成感とか色んなもので笑いが込み上げた。優雅な曲線を描く噴水の水を中心にして、毎朝庭師のデイジーが丹精込めて手入れをしている薔薇園が広がる広大な庭園は子どもの遊び場にはもってこいだった。特に、魔法を扱い始めたばかりの子どもには。

「見てろよラルフ!」

 この二人をただの、魔法を扱い初めたばかりの子どもで括っていいのかは、些か疑問ではあるが。徐ろに杖を取り出したアドニスは噴水に向けてそれを大きく振るい「ディシペイト・ウォーター!」とまるでお手本のようにはっきりとした発音で呪文を唱える。すると美しい形を作っていた噴水の水は霧のようにあたりに散らばり七色の虹をいくつもつくった。ラルフがそれを見て目を輝かせると、アドニスは誇らしそうに胸を張る。

 それもそのはず、今アドニスが披露してみせた水を操る魔法は、こんな子どもがほいほい扱うには難易度が高過ぎるのだ。普通この年頃の子は砂場で山を作ったり鬼ごっこをしたりと、間違っても魔力を使うような遊びはしない(そもそもこんな高度な魔法を遊びに分類しない。というか杖すら与えられない)のだが、さすがは王族アークライト家が子息、アドニス・アークライトと言ったところだろうか。しかしそれを見せつけられた男児もそこらへんで鼻を垂らして走り回っているガキとはひと味もふた味も違うクロスフォード公爵家が子息、ラルフ・クロスフォードである。同い年の、それも幼馴染みに得意気に魔法を見せ付けられて「わーアドニス君すごーい!」で終わるようなタマではない。

 ラルフもスラックスのポケットに突っ込んでいた杖を取り出すと、杖の先端で円を描くようにくるりと回す。

「ギャザー・フラワー」

 そしてラルフは内緒話でもするかのように小さく呟く。すると薔薇園に咲き誇っていた薔薇の花弁がラルフを中心にしてぶわりと舞い上がった。アドニスは驚いたように目を見張るが、まだこれでは終わらない。遠くでデイジーの叫び声が響きわたったが、そんなの子どもの耳には入らない。今度は杖先を噴水に向けるとラルフは楽しげに声を張り上げた。

「ブルーム!」

 ラルフの呪文と共に噴水の水は薔薇の花弁を巻き込み、クロスフォード家の屋敷の屋根さえも軽々と越えるほどに高い地点まで上昇すると、まるで花火のように大きく咲いた。青い空をバックにしてきらきらと降り注ぐ水と薔薇の花弁に、偶然クロスフォード家の近辺を歩いていた人間は感嘆の声を上げ微笑みを浮かべた。

 しかしまさかこの魔法を使ったのがたった片手の指にも満たないような年齢の子どもだとは誰も考えもしない。

「どうだいアドニス」

 ふふん、といった様子でニヤついているラルフにアドニスが闘争心を燃やさない訳もなく、その挑戦をラルフが受けない訳もなく。そこからは大人も舌を巻くような怒涛の魔法合戦であった。そんな派手な魔法を使えば当然、態々巻いてきた親や護衛にも居場所がバレてしまいそう長い戦いにはならなかったが、しかし。その戦いがどの程度の熾烈を極めたかというと、デイジー自慢の薔薇園が丸々姿を消すくらいとだけ明記しておこう。たかが一介の庭師であるデイジーがまさか雇い主の御子息様と次期国王に文句を言うことも説教をすることも出来るはずがなく、子どもの遊びと涙を飲んで新しい薔薇を注文し地道に復興を目指してはいるらしいがそれも直ぐに子どもの足跡が飾られるだろう。

 そうしておやつを食べる時も何をするにも時も暴れるに暴れ日も暮れてきた頃、漸くラルフもアドニスも満足したのか来た時と同じ大勢の護衛を引き連れてエントランスフロアに立っていた。今日も楽しかったと儀礼的なやり取りをいくつかした後、思い出したようにアドニスが付け加える。

「明日はお前の誕生日だろう?祝いに来てやる」

 ラルフはアドニスの帰り際についでのように告げられた言葉に満面の笑みで頷いた。

 そうして迎えた今日。ラルフ・クロスフォード5歳の誕生日である。昨日の記憶だけでなく、その前の日にアドニスと噴水の中に飛び込んだことも、その前の週に屋敷の中に蛇を放したこともしっかりと覚えているのだ。さすがに産まれた時の記憶まではないが、自我が芽生えてから今まで、このクロスフォード家で育ってきた記憶がしっかりと刻まれている。

 僕は、5歳。

 戦争に行ったこともなければ、殿下の側近に任命されたりもしてない。正式な場を除いてはアドニスを殿下と呼んだこともない。ならばやはり、あれはリアルな夢だったのだろうか。そう結論づけるのは簡単だが、どうやらそうもいかない問題が出てくる。

 まず、就寝前の自分と夢を見た後の自分の語彙や知識の量が違う。どこで知ったのか知らないが、いくつかの禁呪やその手順も頭に入っていた。確かに、殿下の側近として尽くしてきた自分がここに息づいているのだ。

「時間逆転の魔法が、成功した……?」

 まるで取ってつけたような名前と詠唱文しか記されていなかっただけに、どういう状態が成功なのかが分からないが、きっと今、殿下は、アークライト家の屋敷で息をしている。それを成功と呼ばずしてなんと呼ぶか。

 そうと理解すると、5歳の段階の自分がベースとなっていたラルフ・クロスフォードがボロボロと崩れ始め、それを時間を踏み越えてきた俺が色鮮やかに塗り替えていく。俺は今度こそ殿下を守らなくちゃいけない。そんな使命感に駆られた。その為には誰にも負けないほどに強くならなくてはいけない。

 剣も、魔術も、知識も、右に出るものがいないくらいまで極める必要がある。

 先程グラスいっぱいに並々まで注いで一気に飲み切ったせいで、半分ほどまで中身が減っていた水差しに目をやる。杖を取り出すことも、手を動かすことも、詠唱をすることもなく、ただその水差しを見詰める。今の自分にどれほどの力があるのかはなんとなく理解していた。だから、次の瞬間その水差しから冷えた水が溢れ出したことに驚くこともなかった。しかし、今度こそ殿下を守ると心に決めた今、こんなものでは全く足りなかった。まだ、俺には先がある。先に進まなくてはいけない理由がある。

 溢れた水が床に落ち、水溜りを広げていくのをラルフは眺めていた。するといつの間にか、ただの水溜まりはまるで鏡のように部屋中を映し出す。そこにはラルフの姿も映されており、ラルフは自分の姿を目に焼き付けるように見詰めていた。

 母親譲りの金色の髪に、青の目。長い睫毛。世間一般に言う金髪碧眼。そして父親譲りのさらりとした髪質に、幼くても分かる端整な顔立ち。与えられた爵位に見合う、生まれ持った気品。天性の才能。

 紛うことなき、ラルフ自身の姿であった。

 これを余すところなく完全に使いこなし、利用してみせる。

「……エアロ」

 やはり杖も持たずに小さく唱えると、部屋の中を風が渦巻き、ぶわりとラルフの金の髪やパジャマの裾が捲れ上がる。カーテンや天蓋を揺らしながら窓が開け放たれた。その瞬間、バサリと大きくカーテンがはためく。ふらりふらりと窓に近付き、窓枠に手をかけて上半身を外へ向かって乗り出してみる。

 使用人か誰かに見られたら真っ青な顔で悲鳴を上げられてしまいそうだが、今ここにはラルフ以外誰もいない。下を覗き込めば裸になった淋しい薔薇の枝が揺れていた。大人の理性を手に入れた今、ラルフはアドニスを連れて謝りに行くべきだと内心苦笑いを浮かべながら考えていた。

 前を向けば、広大なアークライト家の屋敷が広がっている。アドニスが生活しているであろう屋敷を眺めながら、ラルフは自身の胸のうちに歓喜が湧き上がるのを感じていた。その向こう側には眩しく輝く太陽が昇っていた。朝だ。

 俺がもう一度生まれた朝だ。

 ベッドサイドのワゴンに置かれた水差しと未だに溢れ続ける水は朝日に照らされ、まるでラルフの生誕を祝福するかのようにきらきらと輝いていた。

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