prologue-2
ぎり、と地面を引っ掻くように拳を作れば大理石と噛み合わず爪の間に土が溜まりその不快感に目を覚まされる。
両腕に力を入れてうつ伏せていた体を無理矢理起こそうとすると、上体が数センチ浮き上がったところで力が抜け顎から地面に落ちた。
殿下の俺の名前を叫ぶ声が聞こえた気がした。
こんなところで倒れている訳にはいかないのにこれでもかというほどに痛めつけられた体はちっとも言うことを聞きしない。それでもなんとか顔だけは正面を向け、殿下に刃を向ける化物を真っ向から睨み付ける。するとその化物は面白そうに声を上げて笑うと、まるでお遊びでもしているかのようにその刃を殿下の頬や鎖骨に這わせ浅く傷を付けていく。所々深く抉られた部分からは赤い血がぷくりと玉のように膨れ上がり、弾けると、たらりと垂れ始める。
頭に血が上る思いだった。
本気でコイツをこの手で殺してやろうと思った。それなのにどうしてこの体は動かない。化物はさ迷わせていた刃を殿下の喉笛にもう一度宛てがった。醜く裂けた口がニヤリと大きく歪む。きらりと、鈍くシャンデリアの光を反射していた刃が終わりを告げるように鋭く閃いた。
「やめろ、やめろ、殿下……」
化物から目をそらさず、瞼を落とすこともなく、真っ直ぐに見つめ返す殿下の唇はきつく結ばれていて。それがまるで覚悟を決めた英雄のように見えて、花が萎れるように垂れていく首を俺はなんとか持ち上げた。まるで見世物かのように化物が高々と剣を振り上げた瞬間、獣のような怒りが自分の中でギラギラ光り、弾けた。
「やめろ、やめろ、やめろ!」
ざくり、と、なんとも呆気ない。
首の真ん中に突っ込まれた剣は殿下の白い首をあっさりと貫通して、その先端は大理石を砕き白亜の破片に埋もれていた。ぐちゅぐちゅと、殿下の喉に刺さっている剣が、まるで子どもが面白半分で動物の解剖でもしているかのように揺さぶられ、捻られ、傷口が広がる。
気道が抉られそこから吸い込もうにも息が漏れてしまうのだろうか、苦しそうに口を大きく開いた殿下の目だけが、ぎょろりと俺を捉えた。その目は俺に何を訴えたかったのか、分からなかったのはこれが初めてかもしれない。
何も言えなかった。最愛の人が死に向かうのを目の前に、一人何を出来るわけでもなくただ迷子の子どものように狼狽えていた。ああ、あんなに血が出て痛いだろうに、苦しいだろうに。殿下は昔から血や痛いことが苦手だから、今すぐにでも変わって差し上げたい。そう切望しても何も状況を変えられぬまま。ふ、と殿下の目に宿っていた力が抜けるのが分かった。そしてそれを理解した時には殿下の襟元を掴みその上半身を宙ぶらりんにしていた化物の手がぱっと放される。大理石の床から首を通り斜めに立っていた剣を、滑り台でも滑り落ちるかのように血塗れの殿下の首が落ちていった。ごん、と大理石と重い頭部がぶつかり合った鈍い音に、胃から熱いものが食道を込み上げてくる。剣によって、殿下の首が大理石に縫い付けられているようだった。
「あ……あぁ、」
穢らしい化物の悲鳴じみた愉悦の咆哮を聞きながら頭の中に咄嗟に描いたのは人間の蘇生術。
しかし人を生き返らせるなんて自然の摂理に真っ向から逆らうような芸当は健常な人間を何人も何十人も柱に立て、国の頂点にあるような魔導師をこぞって集め事に当たったとしても成功率なんていうのは雀の涙ほどだ。多くの犠牲を出してやっとこさ生み出せたものが奇形であったり、中身を伴っていなかったりなんていうのはざらにある話である。そんな一見メリットなど何もないように思える蘇生術が何故こうも行われているかというと、人は大切な人の死を受け容れるには、あまりに弱くつくられたからだ。富裕層は大金をはたき、死刑囚を買う。爵位があればコネを利かせ腕の立つ魔導師を呼ぶ。
以前兄を亡くした妹が人柱も何も用意せずに蘇生術を行い、命を落としたということもあった。後に残ったのは兄の器のみ。中身は入っていなかった。妹はその時弱冠9歳。生まれつき魔力が強かったらしく、その一族きっての天才だと持て囃され育った。皮肉にも蘇生術が発動したが故に起きた事故だ。俺も国内最高峰の魔導師として現場検証に呼ばれたが悲惨なものだった。俺が着いた時に調度、両親が出来損ないの兄をその手で処分していた。母は長く艶やかな髪を振り乱し、泣き崩れていた。父は唇の色が無くなるほどきつく噛み締め、顔を歪めていた。
今蘇生術を行ったとして、もしも失敗してしまったら、俺はこの手で殿下の出来損ないを処分することは出来るのか。そこまで考え至って頭を振るう。もっと望みのある方法は無いのか。殿下を助けるもっと確率の高い方法は。
空回る頭で殿下との距離を縮めようと必死に匍匐前進を試みるが腕にもどこにも力が入らず化物と目が合う。殺されるのだと、そう思った。
自分が死ぬぶんには一向に構わない。殿下がこの世を去った今、俺の存在価値は最早ゼロに等しい。今後どうやって生きていけばいいのかも分からない。しかし俺はまだ死んでいないし、生前殿下に「まるで底なしだな」と笑われた魔力だって残っている。殿下を助けられるかもしれない可能性が残っている。
俺を横目で捉え裂けた口だけで歪に笑った化物は、もう動くことのない殿下の頭の上までその頑強な足を持ち上げると、一息に踏み付けぐりぐりと力を込めた。
「気分はどうだ?」とでも問うようにちらりとこちらの様子を窺う。そうして俺の表情を見てもう一度満足げに口元を曲げると、この王城に入ってきた時に消えた魔力と同じように、靄や霧のように掻き消えた。耳を劈くような笑い声と頭部が大理石に埋まった殿下だけを残して。殺す価値もないということなのか。それとも殺すまでもなくそのうち死ぬとみなされたのか。
もうなんだっていい。後方で山になっている沢山の仲間たちの屍には目もくれずにただひたすらに殿下を目指して身を捩る。早く殿下を大理石に縫いとめているあの剣を抜いてあげなくては。
痛いに決まっている。きっと殿下は泣いている。
悲鳴を上げる体に鞭を打ち、意識が飛びそうになれば残る魔力で軽い電流を自身に流して意識を保った。そうして時間を掛けて殿下に寄り添った時には、もう首筋を流れる血も流れきっておりその体もまるで死体のように冷えきっていた。まずは首を貫く剣を抜こうとその柄を掴み渾身の力を込めるが、ぴくりとも動かない。大理石に埋まった剣一つ抜くことが出来ないほどに、体は限界を迎えていた。殿下を助けられなかったことがもどかしい。この忌々しい剣を抜いてやることさえも出来ないなんて、俺はなんの為に今まで。半ばやけになりながら柄を引っ張るが、それでもやはり抜けない。
「くそッ、なんで抜けねぇんだよ……!」
無理だとどこかで悟ってしまった。
最早剣を引っ張るような体力さえも残ってはおらず、もう上下すらしてくれない殿下の肺の上に崩れ落ちた。
「……なんで」
悟ってしまえば今更になって涙なんか流れてきやがる。血と涙と汗とが混ざり合っていま自分の顔はどれだけ汚くなっているのだろうか。半ば大理石に埋もれてしまっている殿下の顔を見ると、落ち着いてきていた心がまたしても暴れ出す。この場に殿下はまだいるんだから、なんとか出来るのではないかと自分の中の獣が吼える。
蘇生術は望みがない。ならば。
「我、花を手折り、水を飲む者なり。色彩を踏み越え、時空を揺らす者なり」
意識せずとも口は歌い慣れた歌詞を紡ぎ出すかのようにその魔法の詠唱を開始していた。ふわりと、空気中を漂っていたありとあらゆる属性の魔力が舞い上がると同時に体中の骨が砕けるような音がした。反動がきた。
家の書斎の本を読み漁るのが趣味だった俺が、16歳の夏に見つけた埃まみれの魔術書の隅の隅に誰かの直筆によって記載されていた魔法。数ある書物を読んできた俺が初めて見る魔法だった。しかしその魔法の成功例、反動はどれほどのものかは一切の記述がなかった。ただ、その魔法に名付けられた「時間逆転」という名前と、詠唱文のみが乱雑に書かれていた。
その本は誰に見せることもなく、俺の自室に置いてある机の鍵が掛けられた引き出しの奥に仕舞い込んである。
「万物に流る調和を穿ち将に再構築せんとす魔導の徒在り」
この世には沢山の魔法があり、その魔法の数だけ詠唱文が存在するが、ここまで長い詠唱文というのも珍しい。
「右方に誠実なる御霊、左方に清廉なる御心を持ち此処に精霊と契りを交わす」
まさか自分が一度も使ったことのない魔法の詠唱文をここまではっきりと覚えていたなんて、それこそ今この時のための運命だろうか。
「大いなる時の精霊よ、恩顧を授け給え。誤謬を正し給え。その炯眼に慥かな光を映し我を導き給え」
声が分子を震わせ、魔力に伝わる。詠唱を終えると同時に指を打ち鳴らすと身体中の魔力がこぞって空間に吸い取られていくような感覚がした。
空気中をふわふわと所在無く漂っていた魔力も殿下の肺の上に集まり、普段の淡い輝きは何処へやら、確かに目に見えるほどに鋭く発光していた。仲間たちの屍の山に目をやれば、魔力を取り尽くされたそれらはミイラのように干涸らび見る影すらない。殿下の魔力だけは一向に減る様子が見られないのは魔法を発動したのが俺だからか。しかしまだ契約を完了するには魔力が足りない。バカみたいな魔力をもつ、俺の力を持ってしても。
震える両手を殿下の肺の上にかたまっている光の玉に翳し、骨の髄まで魔力を振り絞る。顔を上げていることが億劫で下を向くと、もう何度目か分からない嘔吐と共に何やら短い金の糸のようなものがきらきらとそこかしこに落ちていて一体なんだろうと凝視すると視界の隅にまた一本その金の糸がはらりと落ち、それがなんなのか理解する。よく殿下が「俺よりもよっぽど王子らしい」と自身の優しげな焦香の髪と見比べつつ指先で弄んでいた俺の金髪が白亜の大理石に抜け落ちていた。
「はは、いいよ、全部持ってけよ」
なんだってくれてやるから、この人を返してくれ。
精霊魔法とはよく言ったもので魔導師になることを夢見る子ども達の憧れだ。扱える人間が少ない故に魔導師を目指すものは精霊と心を通わせることで自在に扱うことが出来る精霊魔法の習得を夢見る。目の前で簡単な精霊魔法を発動してやれば子ども達は目を輝かせてその光に手を伸ばした。しかし俺は思う。精霊魔法なんて愛らしい名前こそついているが、通常魔法より強力な精霊魔法の反動を受ける度に、これは精霊なんかじゃなく悪魔との契約により成り立っているんじゃないかと。
「戻れ、戻れ戻れ戻れ」
血の一滴、脳味噌の一欠片、筋肉の一筋だって余すところなくお前ら精霊に捧げてやるから、頼むから時間よ巻き戻れ。翳していた両手の爪と指の間から血が滴り、ぽとりと人差し指の爪が剥がれ落ちたのを皮切りに小指、薬指と爪が転がる。何が切れているのか分からないが頭の中でぶちぶちと何かがちぎれる音がした。
汗だかなんだか分からない自分の体液が綺麗な大理石を汚していく様が酷く滑稽だった。
「戻ってくれ」
これまでのものとは比にならない程の吐き気の波が押し寄せて思わず殿下から顔を背け胃の中身を吐き出した瞬間、重度の貧血にも似たようなぐらりと世界が遠退く感覚。顔面からさあっと血が引いていき、指先が冷たくなる。もう胃の中は空っぽで胃液だけが床にばら撒かれていた。ちかちかと激しく点滅を始めた視界に、不安が押し寄せる。
「アドニス!」
最早名前を呼ぶことを咎める者はいないし、もしかすれば幼馴染みのあの日のようにこの名を呼べるのはこれが最後かもしれない。その思いを噛み締めながら二人きりの時だけと自分の中で決めていた、殿下ではなく俺の幼馴染みの名前を呼ぶ。
身体が捩じ切られるような感覚にどこかに吹き飛ばされるんじゃないかと手探りで殿下、アドニスの服を両手で掴みその体の上に覆い被さる。耳にひんやりとした剣の冷たさが触れた。それを合図にしたかのようにぐわりと一気に天井と床がひっくり返り、それが連続して何度も何度も繰り返される。錯覚かも分からないが、まるでミキサーにかけられているようだと離れ離れにならないようアドニスをしっかりと抱えながらもなんとか意識を保っていると、またしても吐き気がきた。そしてここで吐いたら意識が飛ぶとも直感した。
しかし世界の点滅は激しさを増す一方で、もう世界が回っているのか自分が回っているのかも分からないような状態。気が付けば自分とアドニスを中心にして暴力的なまでに膨大な魔力が渦巻いているのが分かった。やはり精霊魔法なんかじゃなくて、悪魔魔法とかのが適切だろと場違いなことを考えながら俺はその魔力に飲まれ、胃液を吐き出し、そのまま意識を手放した。
アドニスの二十歳の誕生日。最後に感じたのは、手のひらを擽る誕生日の彼の柔らかな髪の感触だった。