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92. 本当のこと

 翌朝、ジークは早朝に目が覚めた。

 高熱のため、昨日は夕食も摂らないうちに眠った。そのため、目が覚めるのも早かったようだ。時間的には十分すぎるほど眠ったはずだが、疲れはとれていない。ただ、熱はもう下がっているような気がする。棚に置いてあった体温計に手を伸ばし、脇に挟んで計測を始める。

 コンコン――。

 扉がノックされた。

「はい」

 少し掠れた声で返事をした。声を出したのは随分と久しぶりのような気がした。

「もう起きていたのか」

 そう言いながら入ってきたのは、サイファだった。濃青色の制服を身に着けている。

 ジークは慌てて起き上がった。こんな時間に来るのは先生か看護師だと思い込んでいたので、心の準備が出来ていなかった。

「寝たままでいいよ。ちょっと様子を見に来ただけだから」

 サイファは軽く右手を上げてそう言ったが、ジークは再び身を横たえることはしなかった。上半身を起こし、彼に顔を向ける。

「倒れたって聞いたけど、大丈夫かい?」

「ちょっと熱が出ただけです。もう下がりました」

 そう答えたあと、脇に挟んだ体温計のことを思い出した。そろそろ計測時間の三分だ。そっと取り出し、横に伸びた銀色の棒を目で追う。起き抜けにしてはやや高めだが、平熱といってもいい数値だった。

 サイファもそれを覗き込んだ。そして、にっこりと笑う。

「焦って無理をしては、逆に遠回りになってしまうこともある。先生の言うことは聞いたほうがいいよ」

「はい」

 ジークは素直に答えた。ラウルに説教されると無条件に反発したくなるが、サイファが相手だと従順になることが多い。好き嫌いもあるが、それとは別に、彼には逆らいがたい雰囲気があるのだと思う。

「じゃあな」

 サイファは軽く右手を上げて、踵を返した。

「あ、あの!」

 ジークは身を乗り出して呼び止めた。

 サイファは振り返った。

「何だい?」

 だが、ジークは何も答えられなかった。唇を噛み、うつむいている。何か言いたいことがあるが、切り出せずにいるようだ。サイファにはそれがわかったが、無理に聞き出すことはしなかった。

「あしたまた来るよ」

 にっこりと笑ってそう言い、扉に向かって足を進めようとする。

 ジークはとっさに彼の手首をガシッと掴んだ。かなり強い力だった。

 サイファは驚いた面持ちで振り返った。

「す、すみません」

 ジークは我にかえり、顔を赤らめて謝った。慌てて手を放す。自分でもこんな行動に出てしまったことに驚いた。それほど思い悩んでいたのだろう。

 サイファはわずかに微笑んだ。

「言いたいことがあるんだね」

「……はい」

 ジークは目を伏せ、小さく頷いた。

「あまり時間はとれないんだ。単刀直入に言ってくれるかな」

 そう言ったサイファの声には、普段の柔らかさはなかった。

 ジークは固い表情で話し始めた。

「アンジェリカが俺に会いに来ないのは、そのうち会えなくなるから……みたいなことを言ってたらしいんですけど、それってどういう意味ですか? サイファさん、何か知ってるんですか?」

 冷静にと思っていたが、感情の起伏の激しい彼にとって、それは難しかった。口調が次第にきつくなっていった。顔を上げ、責めるような強い眼差しを向ける。

「ああ、それか」

 サイファは軽い調子で言った。

 やはり知っていた――ジークは頭に血が上っていく。奥歯をぎり、と噛みしめる。

「私もつい先日、ラウルに聞いたばかりなんだけどね」

 ジークとは対照的に、サイファはさらりと話していく。

「どうやらあの子、自分はもうすぐ死ぬと思っているらしいんだ」

「えっ?」

 ジークの目が大きく見開かれた。

「完全な思い違いだよ。自分の髪や瞳が黒いのは、遺伝子に異常があるせいだと考えているようだ」

「あっ……」

 ジークは思わず声を漏らした。

 その話は知っていた。一時期、自分もそれが真実ではないかと思っていたことがある。

「知っていたのか?」

 サイファは驚いたように目を大きくした。

 ジークは申しわけなさそうに身を小さくした。

「リックから聞いたんですけど……確か、四年生になったくらいの頃に、アンジェリカがそう言ってたらしいです。でも、すっかり忘れてて……」

「そうか、そんなに前からか……」

 サイファは腕を組み、難しい顔でうつむいた。軽くため息をつき、窓際へと歩き出す。革靴がタイルの床を打ち鳴らす。無機質な音が病室に響いた。

「何とか誤解を解いてやりたいとは思っているんだけどね。いい手が、思い浮かばないんだ」

 窓枠に左手をおき、ガラス越しの空を見上げた。青色の空に薄いレースのような雲が掛かっている。枯茶色の小さな鳥が二羽、目の前を横切った。

「ジーク、どうしたらいいと思う?」

 ゆっくりと振り返り、薄い笑みを浮かべ、ベッドの上の彼を見つめる。鮮やかな青の瞳が小さく揺れた。

 ジークは何も答えられずに目を伏せた。サイファに思いつかないものを、自分が思いつくとは思えない。自分が考えついた方法はひとつだけ――おそらくサイファもそれはわかっているはずだ。わかっていて尋ねているのだろう。決心がつかないのだ。迷っているのだ。

 そして、それは自分も同じだった。アンジェリカにとって、彼女の家族にとって、それが良い方法なのかわからない。だから、それを口にすることが出来なかった。彼を後押しすることが出来なかった。

 ギュッとシーツを握りしめた。力を込めた手は、わずかに震えていた。体中からじわりと汗が滲んだ。

 沈黙がふたりの間に横たわる。ふたりとも身動きすらしなかった。

 遠くで鳥のさえずりが聞こえた。

 微かな木々のざわめきが聞こえた。

 何も聞こえなくなった。

 何も……。

「本当に、まいるよ」

 サイファが長い静寂を打ち破った。落ち着いた声だった。

 ジークが顔を上げると、彼は寂しげに微笑んでいた。


 アンジェリカはゆっくりと目を開いた。それとともに、意識も現実に引き戻される。

「私、眠っていたのね」

 額に手の甲をのせ、ぼんやりとつぶやく。独り言だ。ここは自分の部屋で、自分のベッドで、自分以外に誰もいないことは知っている。

 布団も掛けていなかったことに気がつく。薄手のネグリジェ一枚で、少し肌寒い。

 昨晩からずっと考えを巡らせていた。ジークのこと、事件のこと、自分のこと、そして、これからのこと――。

 一睡もできないだろうと思っていた。だが、いつのまにか眠ってしまったらしい。自分は思ったよりも図々しく出来ているようだ。

 だが、眠ったおかげで冷静になることができた。頭が冴えた。もういちど考えを巡らせる。


 会わないのはジークのため、そう思っていたのは事実。

 でも、自分が怖れていたことも事実。

 ジークと一緒にいれば、その時間を手放すことに未練が生まれる。きっと死ぬことが怖くなる。恐怖心に対する恐怖を感じていた。だから、そのことから逃げていたのだ。

 それは認めざるをえない。

 だが、自分の気持ちを除外して考えたとしても、やはり会わない方が良いのではないか。

 一緒の時間が幸せであればあるほど、いなくなってからの傷が深くなる。

 今、自分が身を引けば、ジークの傷はまだ浅くてすむ。

 だから……。

 そこで考えが行き詰まる。いや、これが結論なのだろうか。

 目を細め、ベッドの天蓋を見つめる。

 何かが引っかかっている。とても大切な何かが……。見えそうで見えない、手が届きそうで届かない。その何かを掴むように、額にのせていた右手を上方に伸ばした。指先が不安そうに空をさまよう。

『思い出がないことの方が悲しいんじゃないかな?』

 ふいに、ジークの担当医の言葉が脳裏によみがえる。あのとき、激しく揺さぶられた言葉だ。

 思い出がない?

 思い出が、欲しい……?

 思い出……。

 突然、閃光のような何かが頭の中を駆け抜けた。

 はっとして大きく目を見開く。鼓動が跳ね上がる。それを鎮めるかのように、両手を重ねてぎゅっと胸を押さえる。

 そう、だった。

 思い出した。

 曾祖父にジークに会うなと言われたとき、自分はアカデミー卒業まで時間をくれるように懇願した。

 それは、思い出が欲しかったから。

 いつか、それが自分を傷つけることがあったとしても、何もないよりはずっといいと思ったのだ。

 この先、強く生きていくために、必要だと思ったのだ。


 ――私、自分勝手だった。


 大きく瞬きをする。涙が一筋、流れ落ちた。耳を濡らす。髪を濡らす。

 自分は思い出を欲したくせに、ジークには与えようとしなかった。

 彼のためだなんて決めつけて。

 自分が逃げるための口実にして。

 今からでもまだ間に合う。会いに行かなければ――。


 アンジェリカはベッドから飛び降り、ネグリジェを脱ぎ捨てた。


 コンコン――。

 本日二回目のノックだ。

 ジークはパジャマからジャージに着替え終わったところである。これから歩行訓練のため、リハビリ室に向かうつもりだった。

「はい?」

 少し語尾を上げて答える。

 こんなに朝早くに誰だろうと思った。サイファは出て行ったばかりだ。今度こそ担当医か看護師だろうか。

 ガチャ――。

 そろりと遠慮がちに扉が開く。

「えっ……?」

 ジークの動きが止まった。目だけが大きく見開かれていく。

「おはよう」

 少し照れたようにそう言いながら、アンジェリカが開いた扉から入ってきた。ジークに向かってまっすぐに立ち、後ろで手を組みニコリと笑う。

 ジークは弾かれたように身を乗り出した。

「アンジェリカ!!」

「待って!!」

 アンジェリカは開いた両手を前に突き出し、大きな声で制止した。

「逃げないから、落ち着いて」

 ゆっくりとなだめるように言う。

「あ、ああ」

 ジークはまだしっかり歩けもしないのに、ベッドから飛び降りようとしていた。彼女に止められなければ、間違いなく転倒していただろう。

 アンジェリカは扉を閉め、中へと足を進めた。そして、ジークの隣にちょこんと腰掛ける。ベッドのマットがわずかに沈んだ。彼を見上げると、にっこりと笑いかける。

 ジークは動揺した。顔が熱くなるのを感じた。顔だけでなく、頭も沸騰したように熱い。彼女がなぜここへ来たのか、なぜここに座っているのか、なぜ微笑んでいるのか――様々な疑問が浮かぶ。だが、何も考えられない。

「ごめんなさい、ずっとお見舞いに行かなくて」

「あ、いや……」

「今さらかもしれないけれど、これからは毎日、お見舞いに行くから」

 アンジェリカはしっかりとした口調で、明るく歯切れよく言った。屈託のない笑みを見せる。

 しかし、ジークの疑問は解決していない。呆然としながら口を開く。

「どうして急に……」

「迷惑?」

 アンジェリカは首を斜めに傾げて尋ねた。大きな瞳で見つめながら、じっと彼の返事を待つ。

 ジークは慌てて、首をぶんぶんと横に振った。

「良かった」

 アンジェリカは胸に手をあて、ほっと息をつきながら笑った。

 これは、夢だろうか、幻だろうか――ジークは混乱していた。あまりに唐突すぎて、現実だという実感を持てなかった。目の前の少女が実体だという自信がなかった。手を伸ばして、触れて、確かめたかった。だが、近すぎる距離に身じろぎさえ出来ずにいた。

「今日は手ぶらだけど、これからは何か持ってくるわね」

「いいよ、手ぶらで。来てくれるだけで」

 ジークはあやふやな思考にとらわれたまま、ほとんど反射的に答えを返す。

 アンジェリカはくすりと悪戯っぽく笑った。

「手ぶらじゃなくてもいいんでしょう?」

「ああ、まあな……」

 ジークは複雑な表情で彼女を見た。

 まるで夢を見ているようだった。彼女が去ったあの日から、ずっと求めてやまなかった光景が、今、自分の目の前にある。何よりも嬉しいことのはずだった。それなのに、なぜか素直に喜べないでいた。それは、まだ現実としての実感がないから、そして、棘のように引っかかっていることがあるから――。

 彼女は今まで頑として来ようとしなかった。きのうも会うわけにはいかないと言っていたらしい。なのに、今朝になっていきなりこれである。今までの真逆と言ってもいい。

 この一日でいったい何があったのだろうか。どういう心境の変化があったのだろうか。尋ねようとしたが、彼女はそれをはぐらかした。答えたくないということだろう。

 無理に追及すれば、またいなくなってしまうのではないか。そんな不安を感じて、何も訊けなくなってしまった。情けないくらいに臆病になっていた。せっかく戻ってきた彼女を、再び失うことだけは避けたかったのだ。

 アンジェリカはジークの黒いジャージに目を落として口を開いた。

「ジーク、もしかしてこれからリハビリ?」

「まあな。朝食前の自主練」

「車椅子で行くの?」

「ああ」

 その答えを聞くと、アンジェリカは跳ねるように立ち上がり、嬉々として隅に畳んであった車椅子を広げた。やけに手際がいい。ラウルの手伝いで覚えたのだろうか。

「私が押していってあげる」

「いい、自分で行ける」

 ジークは慌てて言った。照れたように頬を赤く染めている。

 アンジェリカはくすりと笑った。

「じゃあ、少しだけお手伝い」

 そう言うと、ジークの前にすっと手を差し延べた。

 ジークは呆然とその手を見つめた。細い指先はきれいに揃えられ、自分の目線よりやや下に留まっている。

 心臓が高鳴った。

 おそるおそる手を伸ばし、その上に自分の手を重ねる。

 その瞬間、何かが体中を駆け抜けた。ゾクリと震えがきた。だが、次の瞬間には、小さく柔らかな手の温もりに、大きな安らぎを感じた。そのとき、初めて、現実なのだと実感した。

「立てないの?」

 アンジェリカが心配そうに顔を傾げて覗き込んだ。

「いや、大丈夫だ」

 ジークはふっと息を漏らして口元を上げると、彼女の手を掴んで立ち上がった。ゆっくりと体の向きを変え、車椅子に腰を落とす。そして、車輪に手を掛け、移動する準備を整えた。

「さあ、行くか」

「行きましょう」

 ふたりは顔を見合わせて小さく笑いあった。


 それから二週間が過ぎた。

 アンジェリカは宣言どおり、毎日、ジークの見舞いに来た。

 そのおかげ、というわけでもないだろうが、ジークの足はみるみる回復していった。走るのはまだ無理があるが、普通に歩けるまでにはなっていた。


「いいお天気!」

 アンジェリカはよく通る声を響かせ、廊下から中庭に飛び出した。高く青い空を仰いで、身軽にくるりとまわる。光を受けた黒髪が煌めきながら舞い上がり、薄地の短いスカートがふわりと風をはらんだ。

「おい、気をつけろよ、転ぶなよ!」

「平気よ!」

 ヒヤヒヤしながら注意したジークの言葉を、彼女は目映い笑顔で受け流す。

 ジークは諦めたようにため息をついた。だが、その表情は柔らかくほころんでいた。彼女のあとに続き、緑の芝生に足を踏み入れる。真上から強い光が降り注いだ。眩しくて目を細める。

 アンジェリカは藤のバスケットを後ろ手に持つと、両足を揃えてジークに向き直り、くすりと笑った。


 そこは病院の中庭だった。鮮やかな緑の木々と、絹のカーテンのような噴水が、心地よい空間を作り出していた。時折、鳥のさえずりも聞こえる。ここだけ時間の流れが違うような、そんな錯覚さえしてしまいそうだ。

 一角には、木製のベンチが置かれていた。三人がけくらいの大きさだろう。

 ふたりはそこに並んで腰を下ろした。

 ジークは背もたれに両肘をかけ、目を細めて空を仰ぎ見る。パジャマでもジャージでもなく、まったくの普段着だった。とても入院患者には見えない。アンジェリカは彼の反対側にバスケットを置き、その横顔を見つめて微笑んだ。


 アンジェリカは毎日のように、ジークをここへ連れ出していた。薬品くさい病室に閉じこもりきりでは、治るものも治らないと思ったのだ。

 ジークも、最初こそ乗り気ではなかったが、実際に来てみると、すっかりこの場所が気に入ってしまった。正確にいえば、この場所でアンジェリカと過ごす時間が気に入っている、ということだが――。

 とはいえ、いつもふたりきり、というわけではなかった。

 偶然、同じ時間に見舞いに来たリック、セリカと一緒のときもあった。もっとも、彼らはそれ以降、アンジェリカとかち合わないように、時間をずらすようになった。ジークに気を遣っているのだろう。

 また、サイファと一緒のときも何度かあった。アンジェリカとサイファに挟まれてベンチに座っていると、ジークは必要以上に緊張してしまった。それを悟られないように、平常を装っているつもりだったが、傍から見れば、ほとんど無駄な努力といってよかった。

 アンジェリカもサイファも、そんなジークの気持ちをわかっていて、反応を楽しんでいるようだった。ジークはますます居たたまれない気持ちになった。だが、嫌ではなかった。そういう時間もいい思い出になるだろうと素直に思えた。


「ジーク、今日ね、私も卒論を提出したわ」

「えっ? まだ出してなかったのかよ」

 ジークは驚いて振り向いた。自分が提出した頃、アンジェリカももうすぐだと聞いていた。あれから二週間以上が過ぎている。もうとっくに提出しているものと思い込んでいた。

 アンジェリカは肩をすくめて笑った。

「早さではジークに負けちゃったから、質で勝負しようと思って、仕上げに時間をかけたの」

「おまえ、どこまで負けず嫌いなんだよ」

 ジークは呆れたように言った。だが、顔はそれほど呆れていない。

「ジークだって負けず嫌いでしょう?」

「おまえほどじゃねぇよ」

「ほら、やっぱり負けず嫌い」

 アンジェリカはくすくす笑って、小さく彼を指さした。

 ジークはぱちくりと大きく瞬きをした。そして、彼女の言うことを理解すると、ばつが悪そうに目をそらせた。ベンチにもたれかかり、耳元を赤らめながら空を見上げる。

「まあ、お互いさま、だな」

「ええ、そうね」

 アンジェリカはにっこりと微笑んだ。


 ジークは横目で彼女の向こう側を盗み見た。

「今日は、何だ?」

「えっ?」

 唐突で言葉足らずなジークの質問に、アンジェリカはとっさに反応できなかった。彼の催促するような視線の先をたどる。そこにあったのは、彼女が持参した藤のバスケットだった。ようやく彼の言いたいことに気がついた。

「ああ、今日はチーズケーキよ」

 そう言うと、チェック柄の布をめくり、中から皿に載せたチーズケーキを取り出した。透明の薄いラップを外し、銀のフォークを添えて差し出す。

「どうぞ」

「悪りぃな」

 言葉とは裏腹に、表情は嬉しそうだった。それを受け取ると、さっそく大きなひとかけらを口に運ぶ。

 アンジェリカは横から覗き込むよう彼を見つめる。

「どう? 美味しい?」

「ああ、うめぇよ」

 ジークはケーキを口に入れたまま、子供みたいに無邪気に答えた。本心からの率直な言葉で、ひいき目やお世辞は抜きである。彼の様子を見ていれば、それを疑う余地はない。

「良かった」

 アンジェリカは安堵の息をつき、幸せそうに顔をほころばせた。


 これは、今日だけではなく、毎日のことだった。

 アンジェリカは差し入れと称し、来るたびに食べるものを作ってきた。クッキー、マドレーヌ、プリンなど、主に菓子類である。サンドイッチだったことも二度ほどあった。

 もちろん、彼女の一方的な押しつけなどではなく、ジークの方もそれを心待ちにしていた。お菓子が食べられることもそうだが、彼女が自分のために作ってくれるということが、何よりも嬉しかった。しかも、それが美味しいのだから申し分がない。


 アンジェリカはゴソゴソと何かをバスケットから取り出した。それは、小さめの水筒と、大きめのマグカップだった。水筒の中には温かいコーヒーが入っている。それをマグカップに注ぎ、チーズケーキを食べ終わったジークに手渡した。代わりに、彼は空になった皿を返した。

 バスケットの中を片付けながら、アンジェリカは尋ねる。

「ジーク、いつ退院できるの? そろそろ?」

「あ、いや、実は、もう退院していいって前から言われてんだ」

 ジークは事も無げに言った。マグカップを傾け、コーヒーを口に流し込む。熱くはないが、ぬるくもない。飲むには適温である。

「え? どういうこと……?」

 アンジェリカは顔を上げ、目をぱちくりさせた。

 ジークは空を見ながら答える。

「退院してもどうせ通院しなきゃなんねぇし、面倒だから完治するまで居座ろうかと思って」

「何よそれ。ジークってそんなに横着者だったの?」

 アンジェリカは呆れたように尋ねかけた。

 ジークは彼女にちらりと視線を投げると、微かに口元を緩めた。

 アンジェリカが見舞いに来てくれるのが嬉しいから、だから、出来ることならまだ退院はしたくない――本音をいえば、その気持ちが大きかったが、そんな馬鹿みたいなことは、口が裂けても言えない。

 だが、彼女はまるで見透かしたかのように言った。

「私なら、ジークの家にだって、毎日お見舞いに行ってもいいんだけど」

「ばっ……お、俺んちは遠いぞ……」

 本当に見透かされたのか、ただの偶然なのか、ジークにはわからなかった。照れ隠しにもならない、意図不明の返答をしてしまい、ますます恥ずかしくなる。顔が熱くなった。

 アンジェリカは隣でくすくす笑っていた。

「ま、居座ってもせいぜいあと一週間ってとこだろうけどな」

 ジークはベンチの背もたれに両肘を掛け、大袈裟に空を仰いだ。風が心地いい。火照った頬の熱をさらっていってくれるかのようだ。

「退院したら、何かしたいことってある?」

「そうだなぁ……全力疾走してぇなぁ」

 緩やかに流れる薄い雲を眺めながら、のんびりと答えた。

 アンジェリカはにっこりと微笑んだ。とてもジークらしい答えだと思った。

「じゃあ、川辺にでも全力疾走しに行く?」

「いいな、それ」

 彼女の提案に、ジークは声を弾ませて同意した。

 川辺と聞いて、いつかの光景を思い出す。煌めく水面、冷たい水、浅く流れる水音、砂利の音、小石の音、沈む夕陽、真っ赤な夕景、細い石段、薄汚れたガードパイプ――それほど昔のことでもないのに、なぜだかとても懐かしい気がした。再び、あの場所にアンジェリカと一緒に行ける。そう思うだけで、胸がこそばゆくなる。

「他には?」

「うーん……今は思いつかねぇな」

 ジークは斜め上に視線を流し、コーヒーを口に運ぶ。考えているような素振りを見せたが、実際のところは、川辺での全力疾走で頭がいっぱいだった。

 アンジェリカは大きな瞳で、じっと彼の横顔を見つめる。

「じゃあ、私の行きたいところへ一緒に行ってくれる?」

「ああ、いいぜ。どこだ?」

 ジークは浮かれた気持ちを抑えようとしたが、あまり効果はなかった。声は素直に弾んでしまった。

「遠いんだけど、海へ行ってみたいの。まだ見たことがなくて、一度、見てみたいって思ってたの。あと、静かできれいな森の湖があるって聞いたから、そこへも行ってみたい。ジークの家でまた星も見たいし……まだまだたくさんあるわ。毎日、出かけても足りないくらいね!」

 アンジェリカははしゃぎながら言った。ジークに負けないくらいだった。無邪気な笑顔を見せている。

 ジークは空に向かって笑いながら答える。

「おまえ、欲張りすぎだって。そんなに急がなくてもいいだろ」

「……どうして?」

 少しうわずった声。それまでの雰囲気とは違う、ためらいがちな、張り詰めたような問いかけである。

 ジークは驚いて振り向いた。

 彼女は目を伏せ、何かに耐えているような顔をしていた。懸命に無表情を取り繕っている。

「おまえ……まさか、まだ、遺伝子の異常だとか思ってんじゃねぇだろうな」

 ジークは眉をひそめて尋ねた。

「思っているわよ」

 アンジェリカは当然のように答えた。今度はしっかりとした声だった。視線をまっすぐ前に向け、何事もなかったかのように、普通の表情に戻っている。

 ジークは顔をしかめた。ほとんど忘れかけていた。彼女が見舞いに来るようになってから、毎日、楽しいことばかりだった。彼女も楽しそうで、気にする素振りなど見せなかった。だから、大切なはずのことなのに、隅に追いやられていた。実際は何も解決していなかったのだ。

「それは違うんだ。おまえの誤解だって」

「いいの、私、もう逃げないから」

「だから、違うって言ってんだろ!」

 いくら違うと言っても、その理由がなければ、納得させることは出来ない。それはわかっていた。だが、自分ではどうしようもないのだ。ただ、違うと言い続けるしかなかった。

「ジークは知っているんでしょう?」

 アンジェリカは目を細めた。ゆっくりジークへと振り向く。微かに潤んだ黒い瞳で、まっすぐ彼を見つめる。黒髪がさらさらと風に揺れた。

「本当のこと、教えてくれる?」

 緩やかな口調で、旋律を奏でるように尋ねかける。

 ジークはどきりとした。鼓動が速くなっていく。ここで言い淀んでは、ますます誤解されてしまう。しかし、焦れば焦るほど言葉が出てこない。唇を噛んだ。

 彼女の思っている本当のことと、自分の知っている本当のことは、違うものだ。だが、それを答えるわけにはいかないのだ。

「あっ……ごめんなさい、困らせるようなことを言って」

 アンジェリカははっとして肩をすくめると、申しわけなさそうに笑った。そして、明るい声で力強く言う。

「私は大丈夫だから」

 ジークは表情を曇らせた。

 彼女が無理をしていることくらいわかる。こんな無理をさせてしまうことが耐えられなかった。何も出来ない自分が歯がゆくて仕方なかった。

 ――サイファさん……。

 助けを求めるように、心の中でその名前を呼んだ。苦い響きが胸に広がった。


 サイファはふたりに気づかれないように、そっとその場を離れた。

 ジークの見舞いに来たのだが、中庭のふたり声を掛けようとしたとき、空気が変わったのを感じ、柱の陰に身を隠したのだ。

 ――本当のこと、教えてくれる?

 その言葉が心をえぐる。

 良い方に向かっているのではないか、このままでいいのではないか、そう思っていた矢先だった。

 だが、アンジェリカは忘れたわけでも納得したわけでもなかった。このままでは、この先ずっと彼女を苦しめることになる。彼女だけではない。ジークまでも苦しめてしまう。

「どうすればいい……」

 ふたりから十分に離れたところで、サイファは足を止めてつぶやいた。

 窓枠に手を掛け、ガラス越しに空を見上げる。無垢な青さが目にしみて痛かった。



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