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91. 自分の足で

「やあ、ラウル」

 サイファは軽く手を挙げながら、ラウルの医務室へ足を踏み入れた。ニコニコと人なつこい笑顔を浮かべている。

 机に向かっていたラウルは、それを一瞥すると、ムッとした表情を見せた。サイファを目にしたときのいつもの反応である。そして、関心がないと云わんばかりに、すぐに手元に視線を戻すと、再びペンを動かし始めた。

「何の用だ」

「ジークの卒業論文を持ってきたよ。提出はおまえのところでいいんだろう?」

 サイファは右脇に携えていた水色のファイルを、表紙を見せるように掲げた。それを机の隅にそっと置く。

 ラウルはその表紙にちらりと目を走らせた。

「ずいぶん早いな。締め切りまでまだ一ヶ月ある」

「頑張ったからね。ジークも私も」

 サイファは腰に手をあて、満足そうに言った。まるで褒められたがっている子供のようだった。もちろん、目の前の先生がそう簡単に優しい言葉を掛けてくれないことは、とてもよく知っている。

 案の定、ラウルは何も言わなかった。無表情でファイルを手に取ると、中央あたりを開いた。目だけを左右に動かし、文字を追っていく。

「なかなか新鮮な体験だったよ。論文など書いたことがなかったからな」

 サイファはそう言いながら、ベッドの端に腰を下ろした。布団に倒れ込みたがっている体を両手で支えると、焦茶色の長髪がかかる広い背中に視線を流す。

 ラウルは何の反応も示さなかった。口を閉ざしたまま論文を読み続ける。

 だが、不意に眉を寄せた。

 パタンとファイルを閉じると、椅子をくるりとまわし、正面からサイファを睨みつけた。

「これはおまえが書いたものだろう」

 手にしていたファイルを掲げ、その表紙をパンと軽く叩いた。

「代筆は認めると言っただろう?」

 サイファは体を起こし、不思議そうに言った。

 ラウルは、彼がとぼけているのだと思った。苛立ちながら言い返す。

「そうではない。この文章はおまえのものだ。ジークの文章はもっと垢抜けない」

 サイファはそれを聞いて、ようやくラウルの言わんとすることがわかった。ふっと笑みを漏らす。そして、ゆっくりと目線を上げると、凛と表情を引き締めた。鮮やかな青い瞳は、まっすぐにラウルの眼差しを捉えている。

「内容については、いっさい口出ししていない。すべてジークが考えたものだ。私は彼の言ったとおり文字を書いたにすぎない」

 彼の言葉には、少しの迷いも揺らぎも窺えない。真剣そのものだった。

 だが、次の瞬間には、一転してカラリとした笑顔を見せた。

「まあ、文章の書き方については、多少アドバイスしたけどね」

 先ほどとはまるで違う、きわめて軽い調子で言い足した。

 ラウルは眉をひそめた。無言で彼を睨みつける。おそらく「多少」ではなく「相当」口を挟んだはずだ。そうでなければ、ここまで急激に文体が変わるはずがない。

「いいだろう? そのくらい」

 サイファはまったく悪びれることなく了解を求めた。

「……まあいいだろう」

 ラウルはため息まじりに言い、ファイルを机の上に置いた。いくらサイファが責任を感じているからといって、ジークの代わりにすべてを引き受けたとは考えにくい。たとえサイファが申し出ても、ジークがそれを許さないはずだ。おそらく、サイファの言うように、文章を書く上でのアドバイスを行っただけなのだろう。サイファには腹が立っていたが、冷静に考えれば許容範囲内である。

「これでひとつ肩の荷がおりたよ」

 サイファは両手を上げて伸びをしながら、そのまま仰向けに倒れ込んだ。パイプベッドが軋み、白いシーツに緩やかな皺が走る。

「二日ほど徹夜でね。そろそろ限界だ。しばらく休ませてくれ」

 そう言うと、寝転んだまま濃青色の上着を脱ぎ始めた。

 ラウルは眉根を寄せ、睨みつける。

「これは病人のためのベッドだ」

「一眠りして病気を未然に防ぐんだよ」

 サイファは涼しい顔で屁理屈を捏ねた。脱いだ上着を隣のベッドに放り出し、革靴を脱ぐと、布団に入って横になった。

「一時間後に起こしてくれ」

「ふざけるな。魔導省の仮眠室へでも行け」

 ラウルは机を叩き付けるようにして立ち上がった。

 だが、サイファの返事はなかった。すでに目は閉じられている。冗談ではなく、本当にここで眠るつもりのようだった。

 ラウルはため息をついた。レイチェル同様、サイファも言い出したら聞かない性格だ。これ以上の応酬も面倒なだけである。もう諦めることにした。ベッドのまわりにクリーム色のカーテンを引き、脱ぎ捨てられた上着をハンガーに掛ける。

「悪いな」

 カーテンの向こうから声が聞こえた。その声はいつもの明瞭さを欠いており、彼が眠りに落ちかけていることを感じさせるものだった。


「ええっ? 卒論、もう出来たの?!」

 リックの素っ頓狂な声が、病室を突き抜けた。間違いなく廊下まで響いただろう。

「声、大きすぎよ」

 隣のセリカが、片眉をひそめながらたしなめた。立てた人差し指を、唇に当てて見せる。

 リックは肩をすくめ、申しわけなさそうに笑った。

「それで、提出はしたの?」

「ああ、ついさっきサイファさんが持っていったところだ」

 ジークは淡々と答えた。パイプベッドの上で、無造作に脚を投げ出して座っている。

 すでに、骨折は治癒していた。だが、入院生活は続いている。リハビリのためだ。右腕のギプスはきのう外されたばかりで、まだしっかりと字は書けない。両足も簡単なリハビリを始めたところで、歩行訓練はこれからである。

「すごいね、きっと一番乗りだよ」

 リックは両手を握りしめ、興奮ぎみに言った。自分のことのように喜んでいる。

 だが、当の本人は醒めたままだった。

「まあ、他にやることなかったしな」

 斜め下に視線を落とし、素っ気なく言う。

「それに、サイファさんの都合もあったんだ。明日からあんまり時間がとれなくなるみたいで、できれば今日までに仕上げたいって急がされたんだよ」

「サイファさんも大変そうだよね」

 リックは微笑んだ。詳しいことを知っているわけではなかったが、ラグランジェ家当主として、魔導省副長官として、また個人としても、他にやらなければならないことがたくさんあるだろうことは想像がついた。

 ジークは真面目な顔で頷いた。

「あの人はホントすげぇよ。忙しいはずなのに、申しわけないくらい、いろいろやってくれるんだ。それも、何もかも早くて的確だしな。曖昧な頼み方をしても、ドンピシャのいい文献を持ってきてくれるし、文章についてのアドバイスまでしてくれたし、清書するのもめちゃくちゃ早かったし……仕事もしてるのに、そんな時間どこにあるのか不思議なんだよな。もしかしたら、あんまり寝てねぇのかも」

「ジークにしたことを思えば、そのくらい当然だわ」

 セリカは腕を組み、刺々しく言った。

 ジークはうんざりして顔をしかめた。

「いつまで根に持ってんだよ。だいたいおまえには関係ねぇだろ」

「ジークが根に持たなさすぎるのよ。自分を殺そうとした人を褒めてどうするわけ?」

「うっせぇな。俺が納得してんだからいいんだよ」

 面倒くさそうに言い捨てる。

 セリカはため息をついた。彼の思考がさっぱりわからなかった。好きな人の父親とは仲良くしておいた方がいいとか、そういう打算ならまだ理解できる。だが、ジークの場合は違う。間違いなく本気で尊敬している。いったいどこまでお人好しなのだろうか。無性に腹立たしくなってくる。

 リックはそんな彼女をなだめるように、背中に優しく手を置いた。

「セリカ、ジークがいいっていうんだからさ」

 彼女はじとりとリックを睨んだ。彼までジークやサイファの味方をしたことが面白くなかった。

「人のこと気にかけてる場合? あなたの卒論はどうなのよ。手伝ってくれる人はいないわよ。私だって手伝ってあげないんだから」

 ツンとして口をとがらせる。ほとんど八つ当たりである。

 だが、リックは笑顔でそれを受け止めた。柔らかい口調で答える。

「大丈夫だよ。締切までには間に合う予定」

「あいつは……ちゃんとやってんのかな」

 ふいに、ジークがつぶやいた。

「ラウルの手伝いで手一杯なんてことはねぇのかな」

 片膝を立て、その上で頬杖をつくと、ぼんやりと窓の外に視線を流す。青い空に、筋状の白い雲がゆっくりと流れている。

 アンジェリカがラウルの手伝いをしていることは、サイファから聞いていた。おそらく例の事故に責任を感じてのことだろう。どんな思いでそれを申し出たのか、どんな思いで往診にまわっているのか、想像すると胸が痛い。

「それは大丈夫だよ。もうすぐ提出できるって言ってた。ラウルの手伝いも、今は週に二回くらいみたいだし」

 リックは努めて明るく言った。

「そうか」

 ジークは小さく安堵の息をつき、表情を緩めた。

 だが、今度はセリカが顔を曇らせた。

「まだ、一度も来てないのね、アンジェリカ」

「来ないって言ったら来ねぇだろ、あいつは」

 ジークはあきらめたような口調で言った。

 セリカには、それがかえって痛々しく感じられた。その気持ちを押し隠し、おどけたように肩をすくめる。

「ホント強情よね。アンジェリカだってジークに会いたいはずなのに」

「さぁ、どうだろうな……そうでもねぇのかもな……」

 ジークはうつむき、寂しげに自嘲の笑みを浮かべた。

 思い返してみれば、いつも自分が勝手に盛り上がっているだけで、アンジェリカはいつも冷静だった。自分にもリックにも、同じように接していた。そして、本人の口から何を聞いたわけでもない。考えれば考えるほど自信がなくなってきた。自分が滑稽に思えてきた。

「大丈夫だよ、信じようよ」

「そうよ、弱気になるなんてジークらしくないわ」

 ふたりは口々に励ました。何の解決にもならない言葉だったが、その気持ちが嬉しかった。

「ああ、そうだな」

 そう答えて、微かな笑顔を見せた。それが、今の彼にできる精一杯の感謝の表現だった。


「一時間、過ぎたぞ」

 ラウルは椅子から立ち上がり、ベッドの方へ歩いていった。薄いクリーム色のカーテンを開く。シャッと軽い音が医務室に響いた。

 サイファは無言で体を起こした。まだ眠そうだ。ぼんやりした表情で腕時計を見る。

「ちょうど一時間だ」

「おまえが一時間で起こせと言った」

「律儀だな」

 笑いを含んだ声で言う。

 ラウルは気色ばんだ。カーテンレールに掛けてあった上着を、ハンガーごと投げつける。

「さっさと仕事に行け」

「その前に、ジークのところへ卒論提出の報告に行ってくるかな」

 サイファは靴を履き、上着を抱えてベッドから立ち上がった。

 ラウルは腕を組み、睨むように彼を見た。

「おまえ、ジークにばかり構っていていいのか」

「それは嫉妬か?」

 サイファは顔を上げ、からかうような挑戦的な笑みを向ける。

 ラウルは眉をしかめ、不快感をあらわにした。苛つきながら口を開く。

「自分の娘のことも気にかけろということだ」

 予想外の言葉に、サイファは驚いて目を見張った。

「めずらしいな、おまえがそんなことを言うなんて」

 上着をばさりと強く振ってから、マントのように背中にまわし、腕を伸ばして袖を通す。

「そういえば、今、おまえの手伝いをやってるんだってな。半端なことはしない子だ。役に立っているだろう?」

「元々ひとりでまわるつもりだった。いなくても困りはしない」

 ラウルは愛想なく答えた。

 サイファはくすりと笑った。素直に答えていないが、否定もしていない。遠まわしに認めているようなものだった。追及して困らせようかとも思ったが、とりあえず今はやめておいた。これ以上、本題から逸れるのは本意ではない。

「アンジェリカのことは、もちろん気にかけているよ。あの事件に責任を感じていることも知っている。だが、あの子はそれを乗り越えようとしているだろう? 自分の意思で、自分の足で立って前に進んでいる。だから、余計なことはせず、見守っているんだよ」

「責任を感じているだけならいいがな」

 何か含みのある言い方だった。

 サイファは手を止めた。合わせようとしていた上着の前がはらりと開く。

「どういう意味だ?」

 だが、ラウルは答えを返さなかった。腕を組んだまま、眉ひとつ動かさない。

「知ってることがあるなら言えよ」

 サイファは険しい表情で詰め寄った。青く燃えるような瞳で、鋭く睨めつける。だが、その奥には不安の影が揺らいでいた。

 ラウルはじっと探るように見つめ返した。

「アンジェリカが言っていたことだが」

 そう前置きをして、静かに話し始める。

 それは、以前アンジェリカがラウルを問いつめたときに語ったものだった。自分は遺伝子の異常を抱えていて、そのせいで髪や瞳の色が黒いのだと。そして、長くは生きられないのだと――。彼女が口にした言葉を、ラウルは漏らさず伝えていく。

 サイファは黙って聞いていた。腕を組み、眉根を寄せる。そして、話が終わると、小さくため息をついた。

「そんなことを考えていたのか……」

 困惑と苦渋を滲ませながら、独り言のようにつぶやく。

「突拍子もないが、筋は通っているな」

 破綻している論理なら簡単に崩せるが、一応、矛盾なく組み立てられているのが厄介だ。しかも、ラウルの口ぶりだと、そうとう強く思い込んでいるらしい。生半可に対峙したのでは、こちらが玉砕しかねない。

 組んだ腕をほどき、両手を腰に置くと、ラウルを見上げて尋ねる。

「それで、おまえはどう対応したんだ?」

「知らんと突っぱねた」

 ラウルは無表情で簡潔に答えた。

 サイファは薄く笑った。

「まあ、そうするしかないよな。それが正解だよ。おまえの下手な嘘では、必ず綻びが出るからな」

「ならば、おまえが上手い嘘をついて何とかしろ」

「難題だね。でも、あんな思い違いをさせたまま、放ってはおけないよな」

 真面目な顔でそう言いながら、手早く上着の前を閉め、詰襟のフックを掛けた。前髪をさらりと掻き揚げる。

「何かいい策がないか考えてみるよ。おまえは知らん振りを通せ」

「言われなくてもそうする」

 ラウルはムッとして言った。

 サイファはふっと表情を緩めると、手を振りながら医務室を出て行った。


 翌日――。

 その日はラウルの往診の日だった。

 本来、ラウルの仕事は医務室での診察のみである。だが、サイファの依頼により、例の事件の被害者を往診することになった。基本的には、入院するほどではない者、退院したが全快していない者をまわる。一回の巡回につき、二、三箇所ほどだ。初めの頃はほぼ毎日まわっていたが、順調に回復した者も多く、今では週に二回ほどになっていた。そろそろ週一回にしても良さそうなくらいだった。

 往診にはアンジェリカが同行した。被害者にはラグランジェの人間も多く、「呪われた子」である彼女には、嫌悪の眼差しを向けられることが度々あった。また、ラグランジェ以外の人間からも、別の理由で嫌悪されることが何度もあった。爆発事故の原因については、魔導の実験中の過失ということになっていたが、それを起こしたのがラグランジェ家であることは本家も認めており、公式発表もされている。被害者の前に姿を現せば、怒りをぶつけられるのは当然のことといえる。

 彼女はどんな目で見られても、どんな罵声を浴びせられても、ただひたすら耐えていた。事件のことを責められれば、頭を下げて謝罪した。すべては自分の責任だと思っているからだろう。そのうち耐え切れなくなり、また長い眠りに陥ってしまうのではないか――ラウルはそう危惧したが、彼女にその兆候は見られなかった。

 往診を続けるうちに変化が現れた。アンジェリカにではなく、周囲の方にである。彼女に対する態度が軟化したのだ。もちろん、そうでない者もいる。だが、半数以上は変わったといってもいい。それは、まぎれもなく彼女の真摯な態度によるものだった。


 コンコン。

 医務室の扉がノックされた。

「入れ」

 ラウルは頬杖をついたまま、無愛想に返事をした。

 ガラガラと扉が開く。

 そこから姿を現したのはアンジェリカだった。往診に同行するために来たのだ。軽い足どりで中に入っていく。

 彼女を一瞥すると、ラウルは机に手をついて立ち上がった。床に置いてあった鞄を手に取り、椅子の上に荒っぽく投げ置いた。机の上にはカルテらしき書類が広げられている。どうやらこれから準備をするようだ。

「来るの、少し早かったかしら」

「座って待っていろ」

「ええ」

 アンジェリカは、壁に立てかけてあったパイプ椅子を広げ、行儀よく座った。両手をきちんと膝の上にのせ、背筋をピンと伸ばし、大きな瞳でラウルを見つめる。

「卒業論文は進んでいるか」

 ラウルは手を動かしたまま、唐突に尋ねた。

「もうすぐ提出できるわ」

 アンジェリカはにっこりと微笑んだ。

「ジークはもう提出したのよね?」

「……誰に聞いた」

 ラウルは手を止めて彼女に振り向いた。まさか、彼女がその話題を振ってくるとは思わなかった。しかも、何の屈託もないように見える。

「リックが教えてくれたの。きのうでしょう? 一番乗り?」

「そうだ」

「すごいわね」

 アンジェリカは嬉しかった。ジークはしっかりと頑張っているのだ。両手両足が不自由な状態で、誰よりも早く仕上げるなど、並大抵のことではない。もちろん、サイファが手伝ったことは知っていたが、それでも彼の努力がなければ叶わなかっただろう。自分も負けてはいられない、頑張らなければ――心の中で決意を新たにした。

「今日はどこへ行くの?」

 機嫌よく弾んだ声に、ラウルは短い返答で応じる。

「病院だ」

「えっ?」

「ジークが今日から本格的にリハビリを始めた。その様子を聞きにいく」

 机の上に広がっていたカルテを、ファイルにまとめて鞄に入れる。

「でも、往診って、病院には行かないんじゃ……」

 アンジェリカはうろたえた。胸を押さえ、顔を曇らせる。

 ラウルは無表情のまま、じろりと冷たい目を向けた。

「何だ?」

「…………」

 アンジェリカは彼の視線から逃げるように背中を丸めた。何も答えられなかった。

「嫌なら帰れ。患者を選り好みする奴に用はない」

 ラウルは凄みのある重低音で突き放した。

 アンジェリカは顔を上げ、強気にキッと睨んだ。

「そんなこと言ってない。行くわ」

 力を込めてそう言うと、椅子から立ち上がる。そして、小さな口をきゅっと結び、まっすぐにラウルを見つめた。意志の強そうな漆黒の瞳には、小さな決意の光が宿っていた。


 リハビリ室は明るかった。大きなガラス窓から自然光を採り込む設計になっている。

 ほとんどずっと病室に縛り付けられていたジークは、その開放感に気分が高揚した。ここなら気持ちよくリハビリに打ち込めるだろうと思った。


「ジーク、調子はどうだい?」

「あ、先生」

 リハビリ室にジークの担当医が入ってきた。清潔感のある短髪に、黒のタートルネック、その上に白衣を身に着け、柔和な笑顔を浮かべている。まだ若い。20代後半くらいだろう。彼もアカデミー出身だと聞いた。そのこともあって、ジークは彼のことを良き先輩のように感じていた。

「頑張ってるね。無理してるんじゃないか?」

「大丈夫です。俺、鍛えてましたから」

 ジークは歩行訓練の足を止め、手すりにつかまったまま元気よく答えた。だが、隣の若いトレーナーは、眉をひそめて口を挟んだ。

「無理しすぎなんですよ。もう二時間ぶっ続けで、休憩さえ取ろうとしない。初日からこれじゃ、体がもちませんよ。僕の言うことは全然聞かないし……先生から何か言ってやってください」

 担当医は、彼をなだめるように笑顔で頷くと、ジークの肩にぽんと手をのせた。

「そんなに焦っちゃいけないよ」

「平気です。俺、一刻も早く、自分の足で歩けるようになりたいんです。走れるようになりたいんです」

 ジークは思いつめたように熱っぽく言葉を重ねていく。

 だが、担当医がそれを遮った。

「ん? ちょっと顔が赤くないか? それに汗も……」

「あ、それは体を動かしたからですよ」

 顔を覗き込んできた担当医を、ジークは上体をひねってかわした。

 そのとき――。

「あっ!!」

 部屋中に響き渡るほどの大声。

 担当医はジークの視線を辿るように振り返った。その目に映ったのは長身の人物――ラウルだった。入口からまっすぐこちらへ足を進めている。

「テメーずいぶん久しぶりだな。二ヶ月もほったらかしかよ」

 ジークは前のめりになりながら、乱暴な言葉で噛みついた。

「おまえの治療はこの病院に任せてある」

 ラウルは事も無げに答えた。

 それを聞いて、ジークはますます頭にきた。

「少しは責任、感じてねぇのかよ。元はといえば全部テメーのせいだろう。サイファさんは、毎日、来てくれてるぜ」

「私の顔など見たくないだろう」

「ああ、見たくねぇよ! けど、そういう問題じゃなくて、気持ちの問題だって言ってんだよ!」

 感情的に捲し立てたせいか、頭がくらくらしてきた。おまけに息苦しい。

「今さら何しに来たんだよ……ったく……」

 疲れた声でぼそりと言うと、頭を押さえ、ふうと息を吐いた。

 そのとき、一瞬、ラウルの後ろに小さな人影が見えた。

 ドクン、と心臓が飛び跳ねる。

 まさか、今の……。

 体を傾け、首を伸ばし、その正体を確かめる。

「久しぶり、ね」

 懐かしい声、夢にまで見た姿――。

 アンジェリカだ。

 彼女は、ばつが悪そうなぎこちない笑顔を浮かべていた。ジークに見つかり観念したのか、ラウルの後ろに隠れるのをやめ、遠慮がちに出てきた。薄いピンク色のブラウスに、紺色のカーディガンを羽織っている。短めの白いスカートがふわりと揺れた。

「あ……アンジェリカ……」

 ジークは頭が真っ白になった。呆然と彼女を見つめる。そして、何かに操られているかのように、手すり伝いに一歩、また一歩とふらふら足を進めていく。

「ちょっ……あの……」

 アンジェリカは困惑して後ずさった。

 ジークは歩みを止めなかった。手すりを放し、心もとない足どりで彼女に向かう。

 だが、彼の足はそれに耐えられるほど回復していなかった。

 床につまづき、膝がガクリと折れた。

 ぐらりと視界が揺れる。

 彼の体は斜めにつんのめった。

「ジーク!」

 アンジェリカはとっさに地面を蹴った。倒れ込むジークの体を受け止める。しかし、その重みに耐えかね、彼を抱えたまま崩れるように床に座り込んだ。

「だ……大丈夫?」

「やっと……つかまえた……」

 ジークは苦しげに、荒い息を吐きながらそう言うと、彼女の背中に腕をまわした。ぎゅっと力を込める。アンジェリカの首筋に、熱い吐息がかかった。

「ジー……ク……?」

 背中の手がだらりと落ちた。頭の重みが肩にのしかかる。

 アンジェリカははっとした。

「意識をなくしてる。それに、すごい熱だわ」

 助けを求めるように、ラウルを見上げた。

 彼は素早くジークを引き離すと、額に大きな手をのせて熱を診た。そして、その体を抱えて立ち上がる。

「病室で休ませる。501号室か?」

「あ、はい、エレベーターで行きましょう」

 担当医はそう返事をすると、すぐに誘導を始めた。

 ジークを抱えたまま、ラウルは彼について歩く。アンジェリカも小走りで、その後を追う。ラウルの腕の中でぐったりするジークを見つめながら、彼女は心配そうに顔を曇らせた。

「大丈夫なの?」

「たいしたことはない」

 ラウルは感情なく言った。

「急激に無理をしたせいで、疲れが出たのだろう。こいつは限度を知らん奴だからな」

「すみません」

 担当医は申しわけなさそうに謝った。少し落ち込んでいるような声だった。


 ラウルはジークをベッドに寝かせ、汗を拭いた。

 ジークの顔はまだ熱を帯びているようだった。息も少し苦しそうだ。ラウルはたいしたことはないと言っていたが、それでもアンジェリカの不安は拭えなかった。祈るように両手を組み合わせる。

「おまえはそいつに付いていろ」

「わかったわ」

 アンジェリカが真剣な顔で頷くと、ラウルは担当医とともに出て行った。リズムの違うふたつの足音が、次第に遠ざかっていく。

 足音が聞こえなくなると、静寂だけが残った。奇妙なくらいに音がしない。この階には他の入院患者はいないのかもしれない。そう思えるくらいだった。

 アンジェリカはベッド脇のパイプ椅子に、音を立てないようそっと腰を下ろした。彼の火照った顔をじっと見つめる。胸がズキリと痛んだ。

 ――ごめんなさい、ジーク。

 心の中で詫びた。ラグランジェの問題に巻き込んでしまったこと、こんな目に遭わせてしまったこと、そして、ずっと会いにいかなかったこと――彼には謝るべきことが山のようにある。いくら謝罪しても足りない。

 だが、どうやって償えばいいかわからなかった。出来ることなら償いたい。だが、自分の命が残り少ないのだとしたら、軽率な行動はすべて彼を傷つけることになる。自分に出来るのは、もう彼に会わないこと。それだけ。そう思っていたのに……。

 彼女は固く口を結び、膝の上にのせた両手をぎゅっと握りしめた。


 それから一時間ほどが過ぎた。

 病室の扉が静かに開き、そこから担当医が入ってきた。振り返ったアンジェリカに、にっこりと微笑んで尋ねかける。

「どう?」

「まだ眠っているわ。だいぶ落ち着いたみたい」

 彼女の言葉どおり、ジークは規則正しい寝息を立てていた。顔はまだ赤かったが、息苦しそうにはしていない。

「ラウルは?」

 今度はアンジェリカが尋ねた。

「ジークの骨折の経過とリハビリの様子を聞いてから帰ったよ。君はジークが落ち着くまで付き添うようにって」

「そう」

 彼女は素っ気なく答えて、立ち上がった。

「もう落ち着いているから、私も行くわ。あとはお願いします」

「起きるまで待っててあげたら?」

 担当医は穏やかに微笑んで言った。

「いえ……」

 アンジェリカはとまどいながら目を伏せた。

「ジークは君に会いたがっていたようだけど」

「……会うわけには、いかないから」

「どうして?」

「中途半端な思い出なら、ない方がいいでしょう?」

 下を向いたままそう言う彼女を、担当医は怪訝に見つめた。

「そうかな?」

 考えを巡らせながら首を傾げ、自分の細い顎に手を添える。

「君たちの事情はよくわからないけれど、思い出がないことの方が悲しいんじゃないかな?」

「見解の相違ですね」

 アンジェリカはそう言って、にっこりと満面の笑顔を作って見せた。緩やかにお辞儀をすると、病室から出て行こうとする。

「逃げているのかい?」

 後ろから投げかけられた担当医の言葉に、彼女の足は止まった。

 ――逃げている? 私が……?

 アンジェリカの鼓動は次第に強くなっていく。胸が壊れそうに痛い。頬を一筋の汗が伝った。

 ――違う、そうじゃない。こうするしかないの。事件の責任は私にあるから。そして、何よりジークを傷つけたくないから……。

 ずっとそう思ってきた。そのつもりだった。

 なのに、たった一言で、こんなにも心が掻き乱されている。

 それは、彼の言ったことが真実だからではないのだろうか?

 本当は、自分が傷つきたくないだけ、怖がっているだけでは――。

「ごめん」

 担当医の謝罪が、彼女を現実に引き戻した。頬の汗を手の甲で拭う。

「ジークのこと、お願いします」

 背中を向けたまま、感情を抑えた声で言った。

 担当医は華奢な後ろ姿を見つめた。

「ジークに伝えることはある?」

「……無理しないで、って」

 アンジェリカはそっと扉を開けると、振り返ることなく出て行った。五歩を歩き、十歩を早足で歩き、そこからは全力で駆け出した。


 ジークは目を覚ました。

「あれ? 俺……」

 状況が把握しようと、ぼんやりとあたりを見まわす。見慣れた天井、見慣れた窓の外の景色、薄汚れた自分の鞄、図書室で借りっ放しの本――。ここが自分の病室であることはわかった。

 少し離れたところに、担当医が足を組んで座っていた。

「目が覚めたかい?」

 人当たりのよい微笑みをジークに向ける。

「熱を出して倒れたんだよ。やっぱり無理しすぎてたね」

 ジークは言われてようやく思い出した。ガバリと勢いよくシーツを捲り上げながら飛び起きる。

「アンジェリカは?!」

「もう帰ったよ。しばらくそこに座って君を看てたんだけどね」

 担当医が指差したのは、ジークのすぐ隣に広げられたパイプ椅子だった。今は誰も座っていない。夢のあとのような空虚な空間。

 だが――。

「夢、じゃない……」

 広げた両の手をじっと見つめる。あのときの感覚が、感触が甦ってくる。この腕で、この体で、確かに抱きしめたのだ。ようやく捕まえた、もう離さない――そう、思った。

 しかし、それはほんの一瞬のことだった。感覚が残っていなければ、ただの幻想と区別できなかったかもしれない。せめて一言、二言でも言葉を交わしたかった。あんなタイミングで意識をなくすなど、自分の情けなさに涙が出そうだ。ギリ、と奥歯を噛みしめる。

「伝言があるよ」

「えっ?」

 ジークの心臓がドクンと強く打った。聞きたいけれど、聞くのが怖いような気がした。

 そんな彼の気持ちを知ってか知らずか、担当医はさらりと言う。

「無理しないでって」

「あ、あぁ……」

 ジークは拍子抜けしたような声で返事をした。

「おまえが逃げるから無理するんじゃねぇか」

 うつむいてシーツを握りしめ、苦笑しながら小さく独り言をつぶやく。

「彼女、ラグランジェ家のお嬢さんだよね? どういう関係?」

 担当医は微笑みを保ったまま、穏やかに尋ねかけた。

「アカデミーのクラスメイトです。……それだけです」

 ジークは低い声で答えた。それ以外に答えようがなかった。

「彼女とはもうすぐ会えなくなるの?」

「えっ?」

 担当医の質問に、きょとんとした顔を上げる。もうすぐ会えなくなる、などというと、まるで今は普通に会っているみたいだ。彼女とは二ヶ月間ずっと会えていなかった。質問と現実がちぐはぐで、頭が混乱した。

 そんな彼を見て、担当医は自分の勘違いだったのかもしれないと思った。自信がなさそうに説明をする。

「彼女がそんなようなことを言ってたから……中途半端な思い出はない方がいい、だから会うわけにはいかない、とか……」

「なんだよ、それ……」

 ジークはそう言ったきり絶句した。膝を立て、頭を抱える。

 彼女の結婚話はなくなったと聞いていた。アカデミー卒業後には会えなくなるというのも、当然それとともに白紙に戻ったはずだ。なのに、なぜ……。

 サイファからは何も聞いていない。隠しごとをされているのだろうか。嘘をつかれているのだろうか――彼に対する不安と疑念が渦巻いた。



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