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90. 責務

「アンジェリカ!!」

 ジークは声の限りに叫んだ。しかし、彼女を止めることは出来ない。次第に遠ざかっていく足音が、棘のように心に突き刺さる――。


 あれから一週間が過ぎた。

 ジークはまだ病院のベッドに縛り付けられたままだった。比較的、軽い骨折だった左腕は、まもなく器具が外される予定だと聞いた。だが、右手は当分ギプスのままで、両足も固定され動かすことを禁止されている。完治までにはほど遠い。

 何もすることが出来ない今の状態では、母親やリックの見舞いが唯一の楽しみだった。ひとりでいると、どうしても暗い思考に陥ってしまう。誰かとたわいのない話をしている間だけは、気を紛らわすことができた。


「すまないな、あまり顔を出せなくて」

 サイファは魔導省の制服のまま、ジークの病室にやってきた。仕事の合間に抜けてきたようだ。いつものように、ベッド脇にパイプ椅子を広げて座る。正面のカーテンは開けられており、少し汚れたガラス越しに、鈍色の空が広がっていた。その厚い雲の切れ目からは、わずかに太陽が顔を覗かせている。

「いえ」

 ジークはベッドの上に横たわったまま返事をした。目線だけを彼に向ける。

 あまり顔を出せなくて――などと言っているが、サイファは一日一回、必ずこうやって顔を見せに来ていた。彼なりに責任を感じているのだろう。もっとも、仕事が忙しいらしく、二、三の言葉を交わすだけで終わることが多かった。もちろん、ジークにそれを責めるつもりは微塵もない。むしろ、多忙な状況にもかかわらず、自分のことを気に掛けてくれることが嬉しかった。

「後始末も落ち着いてきたから、これからは時間が取れそうだよ」

「後始末……?」

 あまり穏やかではない言葉の響きに、ジークはおずおずと聞き返した。

 サイファは小さくくすりと笑った。ジークの反応が無性に可笑しかった。自分はよほど信用されていないらしい。彼にしたことを思えば、それも当然のことだろう。

「結界の修復、被害者への補償、その他事後処理などだね」

 軽くそう答えると、膝の上で手を組み合わせた。続けて説明をする。

「結界は修復の目処が立ったよ。応急処置は完了している。これから一ヶ月かけて、徐々に元の強度へ戻していくことになった。あと、被害者との話し合いもほぼ終わった。ラグランジェ家の人間、つまり身内が多いから、あまりややこしいことにはならずに済みそうだよ。不幸中の幸いといったところかな」

「そうですか」

 ジークは安堵の息をついた。サイファの後始末の内容は、いたって正当なものだった。不穏なことを考えそうになっていた自分を反省した。

 サイファは軽い調子で話を続ける。

「この一週間、寝る間もないほど忙殺されていてね。家にもほとんど帰っていないんだ。アンジェリカの顔も、もう三日も見ていないよ。あの子は元気にしているか?」

「あ……」

 ジークは沈んだ声を落とし、表情を曇らせた。眉根を寄せて顔をそらす。

 サイファは驚いたように、目を少し大きくした。

「どうした?」

「来て、ないです、一週間……」

 ジークは訥々と答えた。

 隣のレイチェルのところへは、何度か見舞いに行っているようだった。話の内容まではわからないが、薄い壁を通して彼女の声が微かに聞こえた。たまに笑い声も混じっていた。

 そのたびに、こちらにも来てくれるのではないかと、無駄な期待をしてしまう自分がいた。病室の前の軽い足音に、痛いくらいに胸を高鳴らせていた。だが、それはいつも通り過ぎるだけで、決して扉を越えてくることはなかった。

「喧嘩でもしたのか?」

「いえ、喧嘩じゃ……なくて……」

 ジークは眉間に皺を寄せた。どう説明しようかと頭を巡らせた。

「言いたくなければ聞かないよ」

 サイファは安心させるように、柔らかく微笑みかけた。気にはなったが、無理に問いつめるのも不憫だと思った。何か言いにくい事情があるのだろう。ぽん、と彼の肩に手を置く。

 ジークは彼を見上げた。その手から温もりが沁みてきた。不意に胸が締めつけられ、泣きたいような気持ちになった。

「俺……ダメです……ひとりでバカみたいに焦って、勝手なことばかり言って、自分の気持ちを押しつけて……」

「プロポーズでもしたのかい」

 サイファは笑いながら言った。重い空気を払拭しようと、軽くからかってみたつもりだった。

 しかし、ジークの反応は予想外のものだった。

「どうしてわかったんですか?」

 目を見開き、きょとんとして尋ね返す。それは、肯定の返事でもあった。

 今度はサイファの方が驚いた。

「本当なのか?」

 ジークがこんな嘘や冗談を言う人間でないことはわかっているはずだった。それでも、確認せずにはいられなかった。それほど動揺したのだろう。彼がこのために頑張ってきたということは理解していたが、アンジェリカはまだ13歳である。いきなりそうくるとは思わなかった。

 ジークは視線を落とし、自嘲の笑みを浮かべた。

「最後まで聞いてもらえませんでしたけど……」

「そうか……」

 サイファは大きく息をついた。アンジェリカの考えはおおよそ理解できた。彼女はこの事件に責任を感じている。自分だけ幸せにはなれないと思ったのだろう。昨日の今日では無理からぬことだ。

 だが、ジークの気持ちもわからないではなかった。

「焦るのは仕方ないよ。殺されかけたうえに、あんな話まで聞かされたんだからな。すべて私のせいだ、すまなかった」

「違います。俺が悪いんです。俺が、アンジェリカの気持ちをわかってやれなかったから……。それどころか、ぜんぶ終わったと思って、ひとり浮かれてた……最低だ……」

 ジークは苦しげに胸の内を吐き出した。少し涙目になっていた。それを隠すように、顔をそむける。そして、小さくすすり上げると、弱々しい声で続けた。

「きっとアンジェリカには、俺なんかより、サイファさんの方が……」

 サイファは大きく目を見開いた。そして、少し呆れたように言う。

「まだあの話を気にしているのか」

 あの話とは、サイファがアンジェリカの夫になるという話である。彼自身が望んだことではない。ラグランジェ家の存続と繁栄のために、長老会が決定したことだった。ルーファス亡き今、その話も白紙に戻った。いや、戻したのだ。ジークにはまだ伝えていなかったが、ラグランジェ家どうしでの婚姻しか認めないという規則も撤廃していくつもりだった。

 ジークは顔をそむけたまま、拗ねたように口をとがらせた。

「そういうわけじゃ……ただ、サイファさんの方がアンジェリカを幸せにできるんじゃないかって思っただけです」

「幸せにするよ」

 サイファはさらりと言った。息を呑んで振り返ったジークを、真顔で見つめて付言する。

「ただし、父親としてね」

「あ……」

 ジークの口から、はっとしたような安堵したような声が漏れた。

 サイファは真剣な表情のまま、厳しい口調で問いかける。

「君はあきらめるのか? どれだけ忠告しても引かなかったあの気概はどこへ行ったんだ」

「すみません……」

 ジークは目を伏せ、消え入りそうに謝った。

 サイファは小さくため息をついた。彼を奮起させようとしたが、失敗に終わってしまった。方法を誤ったのかもしれない。彼には時間が必要なのだろう。もうしばらくは、そっとしておくことにした。

「アンジェリカに伝えることはあるか?」

「……わかりません」

 ジークはゆっくりと首を横に振った。伝えたい気持ちは山ほどあるが、自分には何も言う資格はないような気がした。何を言っても説得力がないように思えた。

「伝言役はいつでも務めるよ。ゆっくり頭の中を整理するといい」

 サイファは優しく言った。

 ジークは胸が熱くなった。彼の穏やかな微笑みを見上げながら、わずかにこくりと頷いた。

「さあ、本題に入ろうか」

 サイファは体を起こして背筋を伸ばし、気持ちを切り替えるように声を張った。

「本題?」

 ジークは何気なく聞き返した。

 サイファはズボンのポケットから手帳を取り出しながら答えた。

「そう、今日は君の卒業論文について聞きにきたんだ。テーマは決めたか?」

「あ、いえ……」

 ジークは沈んだ声で返事をした。右手は完治までに二ヶ月ほどかかると聞いている。脚の方は、リハビリもあるため、もう少しかかるらしい。論文の締切がいつなのか詳しくは知らないが、確か三ヶ月後くらいのはずだ。とても間に合うとは思えなかった。

「私の予定もあるから、早めに取り掛かってもらわないとな」

 サイファは手帳に目を落としつつ、ページを繰りながら淡々と言う。

「サイファさんの予定……?」

「なんだ、ラウルに聞いてないのか?」

 本気でわかってなさそうなジークの顔を見て、サイファは少し驚いたように言った。

「私が君の論文の手伝いをするんだよ。今の君の状態では、文献を探しにいくどころか、読むこともままならないだろう。念のため、ラウルには代筆の許可ももらってある」

「え、でも……」

「もちろん、内容を考えるのは君だよ。私は君の手足になるだけだ」

「そ、そこまで迷惑は掛けられません!」

 ジークはあわてて断った。手足と聞いてたじろいだ。相手はラグランジェ家当主であり、魔導省副長官である。そんな人を手足として使うなど、一介の学生にすぎない自分には出来ない。とんでもないことだ。

 そんなジークの様子を見て、サイファは悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「君をこんな状態にしたのは誰だったかな?」

「それは……」

 ジークは言葉に詰まった。難しい顔で考え込む。眉間には皺が刻まれていた。

 サイファは、そんな彼を後押しするように畳み掛ける。

「君には卒業してもらわないと困るんだ。魔導省の内定のことを忘れたわけではないだろう?」

「でも……」

「互いのためだよ。遠慮など不要だ」

「そう、ですね」

 ジークも卒業したくないわけではない。いや、卒業できなければ、彼自身も困ってしまうだろう。だからといって、リックに頼むのも気が引ける。彼にもジークと同じように卒業論文があるからだ。こうなったら、腹を括ってサイファの申し出を受けるしかない。

「よろしくお願いします」

 ジークはやや気後れしながら言った。その声には、まだ少しの迷いが含まれていた。

 サイファはにっこりと微笑みを返した。


 ――コンコン。

 不意に扉がノックされた。

 母親ではないだろう。彼女ならノックなどせずに飛び込んでくるからだ。この時間だとアカデミーに行っているはずのリックでもない。当然、アンジェリカであるはずはない。

「はい」

 誰だろうと思いながら、ジークは返事をした。

 それを待っていたように、静かに扉が引き開けられる。そこから姿を現したのは、レイチェルだった。寝衣ではなく、きっちりとドレスを着込んでいる。可憐な微笑みをたたえながら、軽く頭を下げた。

「早かったね」

 サイファは椅子から立ち上がり、彼女へと足を進めた。細い髪を指で梳くように撫でる。

「もう準備はできたのかい?」

「ええ、荷物は部屋の前にまとめてあるわ」

 レイチェルは彼を見上げ、にっこりと返事をした。そして、少し真面目な顔になると、サイファの手から離れ、ジークに向き直った。ゆっくりと一歩前に歩み出る。

「ジークさん、私、今日で退院することになりました」

「良かったですね」

 ジークは微かに表情を緩めて答えた。サイファとの会話から、退院することは察しがついていた。彼女は怪我をしているわけではなく、魔導力の消耗による衰弱だけだった。回復までにそう時間がかかるものではない。

 ただ、精神的に大きなショックを受け、寝込んでいると聞いていた。自分の魔導力により、あんな事故が起こってしまったのだ。そのせいで父親まで亡くなっているのだ。無理もないだろう。だが、先ほどの彼女の様子を見る限り、少なくとも表面上は元気を取り戻したようだ。

「いろいろと、申しわけありませんでした」

 レイチェルはきゅっと表情を引き締めると、厳粛な声で謝罪の言葉を口にした。

「ジークさんには随分とご迷惑をお掛けしました。……お聞きになったのですよね?」

「……はい」

 ジークにはそれだけしか言えなかった。複雑な表情で目を伏せる。

「言い訳はしません。すべて私の行動が起こした結果です。本当に申しわけありませんでした」

 レイチェルは真摯にそう言うと、深々と頭を下げた。長い髪がさらさらと肩から滑り落ちていく。

「俺は……」

 ジークは低い声でためらいがちに切り出すと、顔をそむけ、視線を窓の外に流した。軽く息を吸い、ゆっくりと言葉を繋げていく。

「俺は、アンジェリカに会えたから、だから……」

 そこまで言うのが精一杯だった。それ以上は声にできそうもなかった。言おうとしていることは嘘ではない。だが、心の中にさまざまな葛藤があった。サイファへの遠慮もあった。口を結び、眉間に力を入れる。

「良かった……」

 背後からの吐息まじりの声。ジークは驚いて振り向く。

「良かった、あの子のことを否定しないでくれて」

 レイチェルは微笑んで言った。儚い微笑みだった。だが、声には安堵したような響きがあった。

「それだけが心配だったから……ありがとうございます」

 彼女は胸に手をあて、もういちど頭を下げた。

 ジークは何か言わなければと思いつつ、言葉が出てこなかった。もどかしさに眉をしかめる。顔を上げた彼女と目が合うと、ぎこちない微笑みを見せた。


「レイチェル、そろそろ行こうか」

 壁に寄りかかっていたサイファが、タイミングを見計らって口を開いた。後ろから彼女の腰に手をまわすと、寄り添いながら病室を出て行った。戸口でちらりとジークに視線を流し、軽く手を挙げる。そして、後ろ手でそっと扉を閉めた。

 ジークは小さく息をついた。少し疲れてしまったようだ。目を細め、象牙色の天井を見つめる。

 そのとき、ふいに、扉の向こうの会話が耳に入った。

「家まで歩ける?」

「ええ」

「じゃあ、一緒に歩いて帰ろうか」

「お仕事はいいの?」

「少しくらい抜けても平気だよ」

「また部下の子に怒られるわよ」

 くすくすと笑い声が混じる。

 それは、本当に仲の良さを感じさせるものだった。穏やかであたたかい空気が流れている。おそらくさまざまなことを乗り越えてきたのだろう。そのうえに彼らの今があるのだ。

 自分は……自分たちは、この状況を乗り越えられるのだろうか――。

 ジークはガラス越しの空を見上げて、深くため息をついた。わずかに覗いていた太陽は、いつのまにか再び厚い雲に隠されていた。


 リックたち最終学年生にとっては、今日がアカデミー最後の授業だった。これからは授業はなく、各自卒業論文に取りかかることになっている。

「アンジェリカ、これからジークのお見舞いに行くんだけど、一緒に行かない?」

 リックはアンジェリカの席に歩み寄り、覗き込むようにして声を掛けた。

 彼女は帰り支度の手を止めると、にっこりと笑顔を作って彼を見上げた。

「ごめんなさい。今日は行くところがあるから」

「今日はじゃなくて、今日もでしょう?」

 リックの反対側から聞こえた、不機嫌そうな女性の声。それは、セリカのものだった。彼女はリックとともにジークの見舞いに行くことが多い。今日もそのために来ているのだろう。

「ええ、そうね」

 アンジェリカは彼女に振り向くこともなく、素っ気なく答えた。まともに相手をするつもりはなさそうだった。

 セリカはムッとして何かを言い返そうとしたが、リックが無言でそれを制した。そして、アンジェリカに向き直り、穏やかに尋ね掛ける。

「ジークのお見舞い、行ってる?」

 もしかしたら、彼女は自分たちと一緒に行くより、ひとりで行きたいと思ってるのかもしれない。ひとりで行っているのなら、それはそれでいい。そうであってほしい――その期待を込めての質問だった。

 だが、アンジェリカの返答は、期待とは逆のものだった。口を閉ざしたまま、首を横に振った。

 それを見て、セリカは逆上した。

「どういうつもりなの? 何があったか知らないけど、あんまりじゃない?」

「セリカ、僕らが口を出すことじゃないよ」

 リックは落ち着いた口調でたしなめた。

 だが、セリカの気持ちはおさまらなかった。かえって昂っていった。

「だって、こんなのひどすぎるわ!ジークはずっとずっと頑張ってきた。すごく頑張ってきた。全部あなたのためなのよ? あなたのために、あんな大怪我まで負ったのよ? 下手すれば死んでた。しかも、それをやったのはあなたの父親っていうじゃない。少しは申しわけないと思わないの?! 自分が自由になったら、ジークはもう用なし?! 利用してただけ?!」

 激情に突き動かされるままに、一気に捲し立てて非難した。

 アンジェリカはずっと無表情でそれを聞いていた。セリカが言い終わると、鞄を閉め、椅子から立ち上がった。うつむいたまま机に手をつき、ぽつりと言葉を落とす。

「わかっているわ。私がひどい人間だってことくらい」

「どうして反論しないの?!」

「そのとおりだからよ」

「ちゃんとこっちを見て言って!」

 セリカはアンジェリカの華奢な肩を引いた。

 だが、アンジェリカは振り向かず、その手を払いのけた。そして、鞄を手にとると、自分からセリカに向かい合った。真剣な表情で、背の高い彼女を見上げる。

「私は、もうジークに会うつもりはない」

 きっぱりとした口調だった。迷いなど感じられなかった。

 セリカは小さなアンジェリカに圧倒された。彼女を説得することは不可能に思えた。何を言っても自分の意志を曲げることはないだろう。彼女の強情さは以前から知っている。おそらく、自分にはどうすることもできない。だったら、せめて――。

「……理由くらい聞かせて」

 かぼそい声だった。瞳も悲しげに揺らいでいる。

 だが、アンジェリカの漆黒の瞳は、強い光をたたえていた。まっすぐにセリカを見つめて言う。

「私がそう決めたからよ」

「理由になってない!」

 セリカは泣きそうになりながら叫んだ。

 それでも、アンジェリカの心が揺さぶられることはなかった。

「何とでも言えばいい。気の済むまで罵倒すればいい」

 そう言って、セリカの横をすり抜け、教室から出ていこうとした。

「アンジェリカ!」

 リックの呼び声に、アンジェリカの足が止まった。ほとんど無意識だった。条件反射のようなものだったかもしれない。

「ジークは、きっと、いつまでも待ってるよ」

 背後から聞こえたその声は、とても優しかったが、どこか寂しげだった。

 アンジェリカは胸がズキリと痛んだ。顎を引き、ぎゅっと目をつぶる。そして、その痛みを振り払うかのように駆け出すと、教室から走り去っていった。


 小さくなる彼女の足音を聞きながら、セリカは額を押さえてうなだれた。

「私、随分ひどいこと言っちゃった」

「そうだね、ちょっとひどかったね」

 リックは微笑みながら応じた。小さく肩をすくめて見せる。

 セリカはうつむいたまま、顔中に後悔を広げた。

「あそこまで言うつもりじゃなかったのに、止まらなくなっちゃって……」

 そこで言葉を詰まらせると、泣きそうに瞳を潤ませた。それでも、涙を零さないよう精一杯こらえた。自分は泣く立場にはない。

「多分、アンジェリカも苦しんでるんだと思うよ」

 リックは冷静に言った。

 セリカは神妙にこくりと頷いた。彼女もアンジェリカの言葉がそのまま本心だとは思っていない。きっと何か理由があるはずだ。目尻を拭い、顔を上げる。

「私たちに何か出来ることはないの?」

「うーん、難しいね……」

 リックは腕を組み、首を傾げて考え込んだ。

「ずっとふたりと友達でいること、くらいかな?」

 そう言って、にっこりと微笑みかける。

「……ええ、そうよね」

 セリカはうつむいて、わずかに表情を緩めた。きっと、自分たちに出来ることはそのくらいしかない。しかし、それはとても大切なこと――。

「行こうか、お見舞い」

「ええ」

 リックは包み込むように彼女の手をとると、病院に向かって歩き出した。


 ――コンコン。

 アンジェリカは緊張した面持ちで、医務室の扉をノックした。

「開いている」

 すぐに、中から声が聞こえた。

 アンジェリカはぐっと表情を引き締めた。そっと引き戸を開け、中へ入る。

「何の用だ」

 机に向かっていたラウルは、冷たく彼女を一瞥して言った。

「聞きたいことがあるの」

「何だ」

 アンジェリカはきゅっと口を結び、彼の横顔を見つめた。そして、小さく息を吸い、意を決したように口を開く。

「私の髪と瞳が黒い理由。知っているんでしょう?」

「知らんな」

 ラウルの返答は少しのためらいもなかった。そして、取りつく島もないくらいに素っ気ないものだった。

 だが、アンジェリカは挫けなかった。そのくらいのことは想定済みである。すぐに答えてもらえるなどとは、初めから思っていない。今日は粘れるだけ粘るつもりで来たのだ。

「これが事件の始まりなんでしょう? お父さんは隠しているけど、そのくらいわかるわ」

「ならば、サイファに聞け」

「お父さんは無理よ……ラウルなら嘘をつかないと思ったから」

「知らんと言っている。それを信じたらいいだろう」

 ラウルは振り向くこともなく淡々と答えた。机に向かったまま、ペンを持つ手を動かし続けている。

 アンジェリカはじっと彼を見据えた。

「ラウルは医者だから知っているはずだわ。いえ、きっとラウルが突き止めたんだわ。私がまだ赤ん坊だった頃に」

 ラウルは一瞬、手を止めた。だが、すぐに筆記を再開する。

 アンジェリカはうつむき、胸元をぐっと押さえた。

「私、遺伝子の異常なの? 長くは生きられないの?」

 落ち着いた静かな声。だが、その中に微かな震えがあった。

 再び、ラウルの手が止まった。今度は一瞬ではなかった。カタンとペンを置き、椅子をまわして彼女に向かい合った。その不安そうな顔を、険しい表情で見つめる。

「誰がそんなことを言った」

「そうとしか思えないもの。呪われているなんて非科学的なことを除外すれば、これくらいしか思い当たることがない。ひいおじいさまが事を急いたのは、私の先が短いことを知ったからよ。私が死んでしまう前に、私の魔導力を子孫に受け継がせたかったんだわ。お父さんとお母さんが、私の婚約者を決めなかったのも、私をこんなに自由にさせてくれているのも、きっと長く生きられないことを知っていたからね」

 アンジェリカはほとんど確信しているような口調で言った。そして、心の中で付け加える。

 ――ジークだって、あんなに急いでいたし。

 まだ13歳の自分にあんなことを言うのは、きっと、自分の先が短いことを知ったからに違いない。そう考えれば辻褄が合う。

 ジークの気持ちは嬉しかった。しかし、自分だけ幸せになることなど許されない。自分の存在が、多くの人を不幸にしてきたのである。そして、ジークさえも不幸にしてしまう。一緒にいられる時間は長くないのだろう。だったら、もう会わない方がいい。

「何を勝手な推測ばかりしている」

 ラウルは眉をしかめて言った。

「私は本当のことが知りたいの。ユールベルのときみたいに、私だけ何も知らないなんて、そんなの許されないわ。もう小さな子供じゃない。私のせいで起こったことなら、その原因を知らなければならないのよ」

 アンジェリカは一歩踏み出し、胸に手をあて、必死に訴えかけた。まっすぐ彼を見つめ続ける。

 だが、不意にその瞳が揺らいだ。

 きっと、生まれてしまったことが罪――。

 優しい両親は、それが事実であっても、絶対にそうは言わないだろう。だから、自分も絶対に口には出さないと決めた。だが、こんな子だと知っていれば、生まなかったに違いない。そのことを思うと、胸が押しつぶされそうになる。

 ラウルは腕を組み、ため息をついた。

「おまえの言っていることが的外れだということだけは、はっきりと言える」

「的外れ……ってことは、本当のことを知っているのね?!」

 アンジェリカは目を見開いて身を乗り出した。

「そうではない。おまえの遺伝子に異常などない、それがわかっているというだけだ」

 ラウルは面倒くさそうに答えた。くるりと椅子をまわし、机に向かう。

 だが、アンジェリカはその答えに納得しなかった。両手を祈るように組み合わせ、ラウルの横顔に懇願する。

「お願い、ラウル。私、聞いたことは誰にも言わない。もちろん、お父さんにもお母さんにも。自分の胸だけに留めておくわ。だから……」

「知らんと言っている。信じるも信じないもおまえの勝手だ。これ以上おまえに言うことはない」

 ラウルは、鞄に書類を投げ込みながら、苛ついた口調で突き放した。

 アンジェリカは暗く表情を沈ませた。眉根を寄せながら目を伏せる。こうなってしまっては、もう何を聞いても答えてはくれないだろう。これが、最後の望みだったのに――。

「もう出ろ。私はこれから往診に行く」

「往診? もしかして、あの事件の……?」

「そうだ」

 ラウルは鞄の口を閉めて立ち上がった。

 アンジェリカははっとして、彼の袖を掴んだ。思いつめたような表情で見上げる。

「私も連れていって、手伝わせて!」

「断る。とっとと帰れ」

 ラウルは冷たく言い捨てた。鞄を取り、医務室を出ようとする。

 だが、アンジェリカは手を離さなかった。袖を掴んだまま、彼を見上げ、懸命に訴えかける。

「私のせいなのよ? 何か出来ることがあれば、少しでも償えるなら……」

「おまえに責任などひとつもない」

「私の存在のせいで起こったのは事実でしょう?」

 ラウルは迫力のある眼差しで、ギロリと睨み下ろした。

「迷惑だ、帰れ」

 凄みをきかせた低音で唸るように言う。

「これは人の命を預かる仕事だ。思いつきの自己満足などに付き合ってられん」

 それは、反論しようのない正論だった。アンジェリカの表情が翳った。

「確かに思いつきだし、自己満足かもしれない……」

 そう言いよどみながら、ゆっくりと視線を落とした。黒い髪がはらりと頬にかかり、横髪が表情を隠していく。

「……でも!」

 体の奥から絞り出したような声。

 彼女は勢いよく顔を上げた。そこにあったのは、迷いを払拭した真摯な双眸だった。

「私、一生懸命に、真剣にやるわ。半端な気持ちなんかじゃない」

 ひたむきに力説しながら、袖を掴む手に力を込めた。白い布に深い皺が刻まれる。

 だが、ラウルは表情を凍らせたまま、ますます冷酷に拒絶する。

「医学の知識どころか、用具や薬品の名前すらわからない素人など役に立たん。足手まといだ」

「勉強するわ! 役に立てるよう努力するから」

 アンジェリカはしつこく食い下がった。口をきゅっと結び、大きな瞳で訴えかける。

 ラウルは眉をしかめた。彼女は何を言っても引き下がる気配がない。こうなったら行動で示すしかないだろう。この小さな手を振り払って、完全に無視をしてしまえば――。

 だが、体が動かなかった。なぜか実行することが出来なかった。いや、「なぜか」ではない。その理由は自分でもわかっていた。深くため息をつく。

「……明日からだ。今日は帰って勉強しろ」

 疲れたようにそう言うと、本棚に手を伸ばして一冊の本を取り、アンジェリカに投げるように渡した。それは、看護技術の本だった。

「最低限のことは覚えてこい。使えないとわかれば、いつでも切る。いいな」

「わかったわ」

 アンジェリカはその本をぎゅっと抱えた。そして、時間が惜しいとばかりに、急いで戸口に向かった。そこでくるりと振り返ると、真剣な表情でラウルを見つめた。口元にわずかな笑みをのせる。

「ありがとう、ラウル。チャンスをくれて」

 そう言うと、スカートをひらめかせながら、駆け足で医務室を出ていった。

 ――今は、自分の出来ることをするだけ。

 本当のことは聞けなかったが、果たすべき務めが見つかった。ラウルの言うように、自己満足なのかもしれない。自責の念から逃れるための行動なのかもしれない。それでも、少しでも役に立てるのならば、行動を起こす価値はあるはず――彼女はそう信じていた。

 アカデミーの外に出ても、足を止めることなく走り続けていく。頬を打つ風はまだ冷たかったが、今の彼女には心地よいくらいだった。



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