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88. 白い世界

「ホントに何なの?! この寒さっ!!」

 レイラはソファで膝を抱え、頭から毛布を被り、歯を鳴らしながら震えていた。

「だから帰れって言っただろ」

 ジークはベッドの上から、呆れたような声を投げた。彼にも数枚の毛布が上乗せされている。寒いのは彼も同じだったが、情けない母親の姿を見ていたら、寒いと言葉にするのもバカらしくなった。

「帰っても寒いのは変わんないわよ!」

 レイラは噛みつくように言った。


 ジークはため息をつきながら、窓の外に目を向けた。鈍色の空から、絶え間なく白いものが舞い降りてくる。体が起こせないので空しか見えないが、街中、白くなっているのだろうと思った。薄暗いにもかかわらず、どことなく眩しさを感じる。白という色がなせる業に違いない。


 ここは負傷したジークが搬送された医療施設である。王宮の敷地内にあるらしい。母親のレイラは、昨晩、ここへやってきた。ジークが入院したとの連絡を受け、取るものも取りあえず、バイクを飛ばしたのだ。

 サイファは彼女に事の顛末を説明した。ジークは事故ということにしてもいいと思ったが、サイファは正直に話すことを選んだ。弁解も正当化もせず、淡々と事実のみを告げていた。一部の事柄については、敢えて触れなかったが、それは保身とは無関係のものである。

 レイラは黙って聞いていた。感情を抑えるように、口を固く結んでいた。

 サイファが話し終えると、彼女は無言で目を伏せた。じっと何かを考え込んでいるようだった。そして、ふいに顔を上げると、大きく腕を振り上げ、彼の頬を平手で打った。

 バチンと大きな音がした。

 サイファの顔は、横向きのまま動きを止めた。打たれた左頬は、じわりと赤みを増していった。

「これで、許すわ」

 レイラは噛みしめるように言った。

「死んでたらどうしたかわからないけど、生きてるし、ちゃんと治るっていうし……」

 微かに震える涙声で続ける。しかし、表情はしっかりとしていた。わずかに潤んだ瞳でサイファを見つめ、少し疲れたように微笑した。

「あなたも、つらかったわね」

 いたわるような、優しい口調だった。

 サイファは黙って深く頭を下げた。長い間、そうしていた。ジークには、彼の背中が泣いているように見えた。


 その後、サイファは、早く帰るようにとレイラに忠告した。次第に冷え込み、雪が降ってくるだろう、というのがその理由だった。

 つまり、この国を守る結界に異常があるということだ。

 この国は一年を通して過ごしやすく、それほど大きな気温の変動はない。氷点下にまでなるのは、結界に何らかの異常があるときのみである。滅多に起こることではない。通常、人の一生のうちで一度あるかないかだろう。

 だが、前回からわずか三年で、今回の異常が起きた。また、今までのほとんどは四大結界師の死亡、すなわち結界のバランスを欠いたことに起因するものだったが、今回はもっと直接的なことが原因である。レイチェルの魔導の暴発で、結界が損傷したのだ。天高く走った魔導の力が、結界を突き抜けたらしい。

 このようなことは今までになかった。そのため、まだ影響の予測はついていない。

 ジークは慄然とした。その威力をあらためて思い知らされた。レイチェルにそんな魔導力があるとは信じがたい気持ちだった。小柄な彼女の柔らかい微笑みと、国防をも脅かすほどの強大な魔導力が、どうしても結びつかなかった。

 だが、レイラには実感のない話だったようだ。きちんと理解したのは、寒くなり雪が降るということだけである。いや、それだけで十分だった。帰らなければならない理由は伝わったのだ。ジークも同様に、帰ることを勧めた。ここにいても、できることは何もない。

 しかし、彼女はふたりの忠告を聞こうとはしなかった。今晩くらいはジークのそばにいたいと言い張った。それは、母親として当然の思いかもしれない。

 サイファは強くは言わなかった。そもそも、強く言える立場にはなかった。彼女のために毛布とソファを用意すると、ふたりを残して部屋を出た。


 そして、翌朝。彼が言ったとおりのこの寒さ、というわけである。


「もう帰った方がいいんじゃねぇのか? そのうちホントに帰れなくなるぞ」

 途切れる気配のない雪を見ながら、ジークは心配そうに言った。

「うーん、そうね……あんたも元気そうだし……」

 レイラは窓の外を眺め、それからジークの様子を窺った。体に重傷を負っているものの、表情や声の調子は普段と少しも変わらない。むしろ、何かすっきりしているように思える。心にまで傷を負ったわけではなさそうだ。

「わかった、今日は帰るわ」

 ソファから立ち上がり、被っていた毛布をそこに置く。途端に寒さが沁み入ってきた。ゾクッと身震いする。だが、毛布を被ったまま帰るわけにもいかない。帰るまでの我慢だ。動いてさえいれば、なんとか大丈夫だろうと思った。

「また来るわね」

「無理して来なくてもいいからな」

 一人前に気遣いする息子を見て、ふとレイラの悪戯心が顔を出した。ニッと笑って振り向く。

「アンジェリカとふたりっきりになれないから?」

「ばっ……バカ言ってんじゃねぇよ!」

 ジークは顔を真っ赤にして反論した。本当にそんなつもりはなかったのだが、これではまるで図星を指されたかのようだ。ますます焦ってしまう。しかし、おかしそうに声を殺して笑う母親を見て、からかわれているのだと悟った。相手の期待どおりの反応をしてしまう自分が恨めしい。

「ったく、早く帰れよ! バイクは押してけよな」

「わかってるって」

 レイラはからりと笑って、ひらひらと手を振った。そして、寒そうに肩をすくませながら、小走りで部屋を出て行った。


 軽い足音が遠ざかり、あたりは急に静かになった。不安になるほどの静けさだった。この世界にひとり取り残されたかのような錯覚すら覚える。ありえないことはわかっている。だが、頭とは別のところで感情が生まれていた。これほど臆病になったことは、かつてなかった。


 ガラガラガラ――。

 耳障りな濁った音によって、静寂は打ち破られた。

 扉が開き、そこからラウルが入ってきた。普段とまったく変わりのない格好だった。右手には小さな薬箱を下げている。

 ジークはほっと安堵した。知った人間を目にして、根拠のない不安はたちまち消え去った。ラウルを見て嬉しく思ったのは、これが初めてかもしれない。

「おまえ、寒くねぇのか?」

「耐えられないほどではない」

 ラウルは素っ気なく答えると、ベッド脇にパイプ椅子を広げて座った。ジークの左腕を毛布から出し、手早く固定具と包帯を外す。左腕は、骨折だけでなく、裂傷も負っていた。その部分の消毒を行い、薬の塗布をする。あいかわらずの手際良さだ。

 ジークは彼の横顔をじっと見つめた。

 ――こいつが……。

 きのうの話が無表情な横顔に重なる。信じたくなくても、それが真実である。それは受け止めている。しかし、いったいなぜ、いったい何が――そんなことを考えているうち、次第に苛立ちが募っていった。

「聞いたぜ、本当の話」

 ジークは重々しく口を切った。どうしても黙っていられなくなった。

 ラウルは無言のままだった。新しい包帯を巻き、固定具を取りつけていく。焦った様子は見られない。その余裕の態度が、ジークにはたまらなく腹立たしかった。

「言い訳のひとつでもしてみろよ」

 睨みつけながら、責めるように言う。

 しかし、ラウルがしおらしさを見せることはなかった。凍りつくようなまなざしで、冷たくじろりと睨み返す。

「何を聞いたかは知らんが、少なくともおまえに言い訳をすることなど何もない」

 その声は、静かではあったが、凄まじい迫力を秘めていた。

 一瞬、ジークはたじろいだ。だが、引くつもりはなかった。臆することなく強気に言い返す。

「俺は無関係だっていうのか?」

「関わるなと忠告したはずだ」

 逃げ口上としか思えないその言葉に、カッと頭に血がのぼる。

「答えになってねぇよ!」

「無関係だ。おまえは他人だ」

 ラウルは厳然と答えた。

 ジークは面食らった。あまりにもはっきりと言われ、返す言葉をなくしてしまった。言われてみれば、確かに他人だ。自分が立ち入っていい問題ではないかもしれないと思えてきた。ぐっと唇を噛みしめる。

 ラウルは包帯や薬を片付け始めた。

「私はこれからアカデミーへ行く。何かあったら看護師を呼べ」

「アカデミー……」

 ジークは忘れていた現実を思い出した。

「俺、卒業できるのかな」

 顔を曇らせ、弱気につぶやく。彼にとっては重要な問題だった。卒業できなければ、せっかく決まった就職もふいになってしまう。

「卒業論文の評価次第だ」

 ラウルは振り向きもせず、無愛想に答えた。

 もうすぐアカデミーの授業は終了し、その後、各自卒業論文に取りかかる予定になっている。そのことはジークも聞いていた。だが――。

「この腕じゃ、書けねぇよな……」

「特別扱いはしない」

「だろうな」

 ジークはため息まじりに同調した。ラウルならそう言うだろうと思った。期待など微塵も持っていなかったはずだが、それを聞いた途端、闇に閉ざされたような絶望的な気持ちになった。

「その腕を折った張本人に何とかしてもらえ」

 ラウルは薬箱の蓋をバタンと閉めた。

 ジークは怪訝に片眉をしかめる。

「何とかって、何だよ」

「自分で考えろ」

 ラウルは突き放すようにそう言うと、椅子から立ち上がった。長い焦茶色の髪が大きく揺れた。

「待てよ!」

 ジークは慌てて呼び止めた。

 ラウルはわずかに振り向き、睨むように彼を見下ろした。

「外……見てぇんだけど……」

 ジークは遠慮がちに言った。少し恥ずかしそうに、薄く耳元を赤らめる。

「体に障る」

 ラウルは素気無くはねつけた。

 だが、ジークはあきらめなかった。

「構わねぇ。それでも見ておきたいんだ」

 起こせない体で首だけを伸ばし、必死に食らいつく。

 ラウルは、ジークと視線を絡めた。その瞳を探るように見つめる。強く率直なまなざし。簡単に引きそうもない。あきらめたように小さくため息をつくと、面倒くさそうに薬箱を置いた。ベッドの半分に角度をつけて固定し、ジークの上半身を起こしてやる。

「す、げぇ……」

 ジークの視界に、一面の銀世界が広がった。その眩しさに、思わず目を細める。主要な道路以外はほとんど白で覆われているといっても過言ではない。その上に、さらに粉雪が降り積もっていく。まるで、世界を塗り替えようとしているようだ。美しいような、恐ろしいような光景――。

「脆弱な世界だな」

 思いがけず、ラウルが口を開いた。背筋を伸ばして腕を組み、まっすぐ外を見ている。

「人の手で創り出したものは、人の手でしか維持できない」

「……俺に、守れるかな」

 ジークは外を見つめたまま、ぽつりと言った。

 ラウルは冷ややかな視線を彼に流した。

「世界を守る前に、すべきことがあるだろう」

「……ああ」

 ジークは白い息を吐きながら、天井に向き直った。


 アンジェリカは純白の平原を眺めていた。

 きのうまでは家が立ち並んでいたはずだが、今は大きく視界が開けている。瓦礫も土台も地面も、すべてが白い雪に覆い隠され、そこに何があるのかわからない。目に入るのは、白くなめらかに波打つ表面だけである。その周囲には、立入禁止と書かれた黄色のテープが緩やかに渡されていた。

 ――これは、私のせいで起こったこと。

 眉根を寄せ、顔を大きく上げる。灰色の空から、絶え間なく降り注ぐ白い雪。それを眺めていると、空に吸い込まれそうになる。ふわふわの綿雪が、頬をくすぐるようにそっと舞い降りた。体温がそれを融かし、雫へと変えていく。

 サイファから何が起こったかを聞いた。彼は、アンジェリカには責任はないときっぱり断言した。レイチェルに聞いても、ジークに聞いても、きっと同じことを言うだろう。しかし、アンジェリカには、そうは思えなかった。

 ――私の存在が起こしたこと。

 まぶたを震わせながら目を閉じる。

 呪われた子、不吉な子、穢れた血――頭の中でたくさんの声が鳴り響く。畳み込むように追い詰めてくる。忘れていた、忘れようとしていた闇が押し寄せてきた。さらわれ、呑み込まれそうになる。息ができない。

 ――怖い、助けて、誰か……!

 はっとして目を開いた。その瞳に映ったものは、暗い闇ではなく、白い世界。そのまぶしさに、一瞬、目まいを覚えた。胸に手を当て、深呼吸する。

 目を閉じても開いても、つらいものしか見えない。

 ふいに、頬を伝って透明な雫が落ちた。涙ではなく、融けた雪だった。その道筋を手の甲でそっと拭う。


 これから、私、どうやって生きていけばいいの?

 生きていていいの?

 生きていかなければならないの?


 アンジェリカは、もういちど、鉛色の空を仰いだ。苦しげに目を細める。そして、汚れのない雪を踏みしめながら、その場をあとにした。


「ジーク」

 アンジェリカは、半開きの扉からひょっこり顔を覗かせて、ベッドの上の彼に声を掛けた。しかし、返事はない。

「ジーク、寝てるの?」

 もういちど声を掛けた。やはり返事はない。不安そうに顔を曇らせながら、電灯が消されたままの薄暗い部屋へ入っていった。

 彼は眠っていた。真上を向いたまま目を閉じ、微かな寝息を立てている。

 アンジェリカはほっと胸を撫で下ろした。ベッド脇に立てかけてあったパイプ椅子を広げて座る。

 ――ジークも、ひどい目にあわせてしまったわね。

 そう心の中でつぶやきながら、安らかな寝顔を見つめた。

 彼は自分自身のためだと言った。きっと本気でそう思っているのだろう。だが、そもそも自分とジークが出会っていなければ、こんなことにはならなかったはずだ。自分の存在がすべての元凶なのだ。

 ――本当に、どうしたらいいの? 私……。

 昨晩から一睡もせずに考えていた。しかし、何の結論も導き出せなかった。同じことをぐるぐると悩み続けるだけである。頭も心も、すでに疲弊しきっていた。

 アンジェリカは大きく息をつくと、ベッドの端に、こてん、と倒れ込むように頭をのせた。毛布があたたかく心地いい。凍えた頬が、混乱した頭が、ゆっくりと融けていくように感じる。そのまま、包み込まれるように眠りに落ちていった。


 窓からの雪明かりが、ふたりをほのかに照らしている。

 しかし、その光は、ふたりを温めてはくれない。

 部屋は冷たさを増していた。


 ジークは目を覚ました。象牙色の天井をぼんやりと目に映す。考え事をしているうちに、いつのまにか眠ってしまったらしい。昨晩、ほとんど眠れなかったせいかもしれない。

 ふと、毛布が引っ張られているように感じ、何気なく横を見た。

「えっ……?!」

 自分の肩のすぐ横にあったのは、アンジェリカの頭だった。ここから見えるのは後頭部だけで、顔までは見られないが、間違いなく彼女であると断言できる。小さな背中は規則正しく上下していた。どうやら眠っているようだ。

 ジークは申しわけなく思った。自分が寝ていたせいで、待ちくたびれてしまったのだろう。声を掛けようか迷ったが、起こすのも悪いような気がしてやめた。きっと彼女も昨晩は眠れなかったに違いない。

 しかし、この状態のままというのも落ち着かない。無性にそわそわする。少し動くだけで触れるくらい近いところに彼女が眠っているのだ。おまけに、微かな甘い匂いが鼻をくすぐってくる。なのに、自分はまるで身動きがとれない。これでは逃れることもできない。ただ、心拍を早くしたまま、状況が変わるのを待つだけだった。


 いくつもの白い結晶が、窓の外を緩やかに通り過ぎる。

 まだ止む気配はない。


「……ん……?」

 アンジェリカは小さく声を漏らし、目を開いた。ぼんやりと顔を上げる。一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。あたりを見まわし、ジークの姿を目にすると、ようやくそれを思い出した。はっとして、少し慌てたように口を開く。

「あ、ごめんなさい、いつのまにか寝てしまって……」

「いや、俺の方こそ悪かった。せっかく来てくれたのに、寝てたみたいで」

 ジークは胸の奥がふわりと温かくなった。彼女とこんな何気ない会話をしたのは、ずいぶん久しぶりのように感じた。

 アンジェリカは小さく肩をすくめて笑った。

「寒いだろ。この毛布、掛けてろよ」

 ジークは自分の上にのっている毛布を、顎で指し示した。彼女の格好は、普段と比べればかなりの厚着だが、それでもまだ寒そうに見えた。

「大丈夫、平気よ」

「俺は暑いくらいだから遠慮すんな」

「本当に大丈夫、寒くないから」

 アンジェリカはにっこりと微笑み、下がっていたジークの毛布を掛け直した。

「ジーク、何か私に出来ることはある?」

「いてくれるだけでいいよ」

 それは、ジークの本音だった。そして、一番の願いだった。それを阻むものはもう何もない。少なくとも、このときのジークにはそう思えた。

 アンジェリカは少しとまどったように、薄くはにかんだ。


 ふたりの間に沈黙が流れた。

 ふたりそれぞれが考えに耽っていた。


 外は、白い世界が作る、深い静寂。

 雪の積もりゆく音さえ聞こえそうだ。


「……なあ」

 ジークは天井を見つめて切り出した。そして、大きく深呼吸をすると、ゆっくりとアンジェリカに顔を向けた。とても真剣な顔だった。まっすぐ射抜くように彼女の瞳を見ている。

 彼女はきょとんとして、小首を傾げた。

「なに?」

「俺は、おまえが好きだ」

 ジークは目をそらさず、はっきりと言った。この気持ちは、何を言われても、どんな事実を聞かされても、揺らぐことはなかった。これからも決して変わることはない――その自信があった。

「……うん」

 アンジェリカは小さく相槌を打った。

「だから、伝えておきたいことがある。こんな動けない状態でってのも情けないけど……どうしても、今、伝えておきたいんだ」

 ジークは言葉を選びながら、ゆっくりと続けた。穏やかだが、少し固い声だった。微かな緊張が、その声から伝わってくる。

「返事は、今じゃなくていい。ただ、聞いてくれればそれでいい」

 アンジェリカは訝しげに顔を曇らせた。彼は何を言おうとしているのだろう。返事とは何なのだろう。話が見えない。落ち着かない。次第に鼓動が早くなる。

 ジークは真摯に彼女を見つめた。

「俺は、おまえを幸せにしたい」

「えっ?」

 アンジェリカは大きく目を見開いた。

 ジークはさらに畳み掛ける。

「ずっと一緒に生きていきたいと思ってる」

「あ……」

 アンジェリカは微かな声を漏らすと、口をきゅっと結び、うつむいた。黒髪がはらりと頬にかかる。手は膝の上に置いたままだった。スカートを掻き寄せるように掴む。薄い布地に、ひび割れのような深いしわが、放射状にいくつも走った。

 ジークは彼女の変化に気づく余裕などなかった。懸命に話を続ける。

「だから、今すぐってわけじゃねぇけど、そのうち、おまえにはラグランジェ家を出てほしいんだ」

 そこでいったん切り、小さく呼吸をする。

「そして、俺と……」

「やめて」

 震える小さな声。

「え?」

 予想外の反応に、ジークはうろたえた。

 そのとき、初めて彼女の異変に気がついた。声だけではない。肩も腕も震えていた。そして、顔を隠すように深くうつむいている。

「そんなの、駄目、無理……」

 さらに小さく、消え入りそうな声。

「なん、で……」

 ジークは混乱した頭で、ようやくそれだけの言葉を口にした。

 彼女は何も答えなかった。

「アンジェリカ……?」

 とまどいがちに名前を呼びかける。

 それでも返事はなかった。

 ジークは焦った。頭は燃えるように熱く、背筋は凍りつくように冷たくなった。

「アンジェリカ、顔を上げろ、俺を見ろ」

「ごめんなさい」

 それが最後の言葉だった。

 アンジェリカは口元を押さえて立ち上がり、彼には目を向けず、逃げるように部屋から駆け出していった。

「アンジェリカ!!」

 ジークは声の限りに叫んだ。しかし、彼女の足は止まらなかった。この体では追いかけることも出来ない。ただ、離れていく足音を聞くしかなかった。

 ――どうして……。

 ジークは愕然とした。いったい何が彼女を傷つけたのかわからなかった。混沌とした頭で必死に考えようとする。だが、まるで思考が働かない。はっきりしない後悔と自責の念に、押しつぶされそうになっていた。


 窓の外では、いまだ雪が降りしきっていた。

 木の枝にのしかかった冷たい綿帽子が、ばさりと音を立てて崩れ落ちた。



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