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85. 最強の敵手

 ジークは革張りのソファに腰を下ろしていた。背筋をピンと伸ばし、軽く握った手を膝の上にのせている。体も表情も緊張でこわばっていた。目だけを動かし、部屋の様子を探る。

 そこは応接間だった。アンジェリカの家と同等に広い。何も物が置かれていない空間が、中央に大きく取られていた。自分の座っている窓際には、レースのカーテン越しに柔らかい自然光が広がっている。全体的に明るい雰囲気だ。調度品は、新しくはないが、どれも上質で、手入れが行き届いているように見えた。

 ガチャ――。

 扉が開き、年配の女性が入ってきた。ティーカップを載せたトレイを手にしている。ジークの元に足を進めると、上品な物腰で紅茶を机に置き、彼へと差し出した。

「どうぞ」

「どうも」

 ジークは小さく頭を下げた。だが、それには手を伸ばそうとしなかった。疑惑の目つきでじっと覗き込むだけである。

「毒なんて入っていませんよ」

 老婦人はくすりと笑ってそう言いながら、部屋をあとにした。

 自分の心を見透かされ、ジークはばつが悪そうにうつむいた。しかし、それでも、その紅茶には手をつけなかった。


 しばらくして、再び扉が開いた。

「待たせたな」

 ルーファスが尊大に低音を響かせながら、ゆったりとした足取りで入ってきた。ジークの向かいに腰を下ろす。ソファが軋み音を立てた。

 ジークは険しい顔で睨みつけた。だが、ルーファスは余裕の表情でそれを受け流した。

「まさか再びここへ乗り込んでくるとは思わなかったな」

 ルーファスは軽く笑いながら、顎で戸口の方を指し示す。

「向こうの台所だ、おまえが壁を壊したのは。覚えているか」

「本題に入ってもいいですか」

 ジークは挑発には乗らなかった。鞄の中から紙束を取り出し、机の上に置いた。表紙がところどころ黒塗りにされている。

「知ってますよね」

 上目遣いに、目の前の男を窺う。

 ルーファスは冷たい目でその紙束を見下ろした。

「サイファから手に入れたのか」

「いや、ヘイリー博士からだ」

 ジークはきっぱりと答えた。

 ルーファスはそれを手にとり、ペラペラとめくった。

「サイファが回収したものと思っていたがな」

 眉ひとつ動かさず、独り言をつぶやく。

「あいつのやり方はぬるくていかん。私なら徹底的にやる。逆らう気など起きぬようにな」

 ジークはごくりと唾を飲んだ。淡々とした言い方だったが、だからこそ真実味があるように感じた。対処したのがサイファで良かったのかもしれない。

 ――ブワッ。

 突然、鈍い音とともに閃光が走った。その一瞬で紙束は灰燼と化し、ルーファスの手から机の上に崩れ落ちた。細かな燃え殻が、埃のように舞い上がる。

「それで?」

 ルーファスは手についた灰を払いながら、涼しい顔で尋ねた。

 ジークは何の前触れもなく起こったことに、目を丸くしていた。紙の焼けた匂いが現実を伝えている。しかし、すぐに気を落ち着け、冷静に口を開いた。

「コピーはとってあるぜ。誰にもわからないところに隠してある」

「ほう、少しは頭が働くようだな」

 ルーファスは冷ややかに言った。少しも動揺している様子はない。ジークはこのとき初めてサイファの忠告に感謝した。あの忠告がなければ、コピーを取ることはなかっただろう。

「頼みがある」

「頼みではなく脅迫ではないのか」

 ルーファスは鼻先で笑いながら言った。

 ジークはぎこちなく口角を吊り上げた。その額には薄く汗が滲んでいる。

「そうとってもらっても構わないぜ。聞き入れてもらえない場合は、さっきの論文を公表するつもりだ」

「何の伝手もない君が、どうやって公表するつもりだ」

「わかりそうな学者や学生に配りまわれば、噂にくらいはなるんじゃねぇか。見る人が見れば、正しいかどうかわかるだろうしな」

 ルーファスは口元に微かな笑みをのせた。

「なるほど、思ったより頭が働くようだ。それで、要求は何だ」

「わかってんだろ。アンジェリカを自由にしろ」

 ジークは昂る感情を抑えながら、低い声で言った。怒りで我を忘れては、以前の二の舞になりかねない。もう同じ過ちを繰り返さないと心に決めている。

「それは無理だ。我々にはあの子が必要でね」

 ルーファスは考える素振りすら見せずに即答した。

 ジークは眉をひそめ、鋭く睨みつけた。

「いくらラグランジェ家を救うためでも、実験台なんて絶対に許さねぇからな」

「何の話だ」

「今さらとぼけるな! あの論文は読んだぜ」

 ルーファスは目を伏せ、ふっと笑った。

「そうか、この論文以外の真実は、何も知らんというわけだ」

 ジークは怪訝な面持ちで首をひねった。

「どういうことだ」

「アンジェリカは実験台などではない。滅びゆく我々の救世主となるべき存在だ」

「救世主?」

 ジークはますます訝った。

「だって、あいつの遺伝子は綻びがきてるんじゃ……」

「逆だ。あの子だけが唯一、正常な血を持っている」

「え? 何で……」

 ルーファスはまっすぐにジークを見据え、今までにない真摯な口調で言う。

「アンジェリカは丁重に扱うと約束しよう。君は黙って手を引けばいい。あの論文を公表すれば、ラグランジェ家の威信は失墜する。サイファもアンジェリカも、皆が不幸になるだけだ」

「このままじゃ、どのみちアンジェリカは不幸だ!」

 ジークはこぶしを机に叩きつけ、勢いよく立ち上がった。再び灰が舞い上がり、静かに落ちていく。

 ルーファスはそれにも動ずることはなかった。

「サイファがついている。不幸になどしないだろう」

「いくら父親がついてるっていっても……」

「夫だ」

「は?」

 ジークはぽかんとした。話の繋がりがわからなかった。

 ルーファスはソファの背もたれに身を預けた。革が摩擦音を立てる。恰幅のいい腹の上で手を組み、悠然とジークを見上げた。

「サイファがアンジェリカの夫となる予定だ」

「……ちょっと待て」

 ジークは額を押さえ、崩れるようにソファに腰を下ろした。頭が混乱して、何がなんだかよくわからない。嫌な汗が体中から滲んでいる。

 ルーファスは淡々と説明を始めた。

「もちろん、表向きには別の夫を用意するがな。事実上の夫はサイファだ。サイファとの子をなし、後継者として育てるのが、アンジェリカの役目だ」

 ジークはうつむいたまま眉根を寄せた。そして、ゆっくり顔を上げると、ルーファスをじっと睨む。

「何もかも間違ってんだろ、それ。だいたいそれじゃ、ますます破滅へ向かうだけじゃねぇか。俺をからかってんのか? バカにしてんのか? 試してんのか?」

「真面目な話だ」

 ルーファスは青い瞳でまっすぐに見つめ返した。

「それで何でラグランジェ家が救われることになるんだよ!」

「心配無用だ。我々は君より多くの事実を知っている」

「説明しろよ!」

 一向に話が見えてこない。ジークは苛立ちを募らせていった。受け答えが感情的になっていく。

 そんな彼を、ルーファスは冷淡に突き放す。

「その義務はない」

 ジークは顔をしかめた。

「アンジェリカは、あいつは承諾してんのかよ」

「近いうちに話をするつもりだ。逆らうことはないだろう。我々に従うと約束したのだからな、君を助けるために」

 ルーファスは嫌みたらしくそう言うと、ニヤリと口元を歪めた。

 ジークは唇を噛み、うつむいた。

 そうだ、俺のせいだ――。

 だからこそ、自分が彼女を救い出さなくてはならない。ラグランジェ家では家の存続がすべてなのだ。そんな捻れた家では、絶対に彼女は幸せになれない。

「大人しく帰れ」

 ルーファスは大きく息をつきながら体を起こした。そして、ジークの前に置かれたティーカップに手を伸ばした。少し灰が浮かんでいたが、気にせず口に運ぶ。

「まだ答えを聞いてねぇ」

 ジークは強気に言った。

「引く気はないようだな」

「当然だ」

「一日だけ時間をくれ」

 ルーファスはティーカップを机の上に置いた。

「私ひとりで決断するわけにはいかんのでな」

「長老会で討議して決めるってわけか」

 ジークは険しい目つきでルーファスを窺った。彼は感情のない視線をジークに向けていた。口を閉ざしたまま、何も答えようとはしない。

「明日のこの時間、答えを聞きに来るぜ」

 ジークはソファから立ち上がった。そして、ルーファスをひと睨みすると、腹立たしげに鞄を引っ掴み、足早に出て行った。


「アルフォンスたちを呼んでくれ」

 ルーファスはソファに身を沈めながら、背後の妻に頼んだ。彼女は胸元で両手を重ね、心配そうに立ち尽くしていた。

「あなた……」

 口をついて出たその声は、か細く弱々しかった。だが、ルーファスの声は、いつもと変わらず力強かった。

「心配はいらん。何もかも上手くいく。何もかも、な」

 ルーファスは目を細め、天井を見つめた。


 ジークは後ろの扉から教室に入った。すでに授業は始まっていた。教壇のラウルは冷たく一瞥しただけで、何事もなかったかのように授業を続けた。

 だが、何人かの生徒は後ろを振り返っていた。その中には、リックとアンジェリカもいた。リックはほっと安堵したような表情を見せていた。しかし、アンジェリカは心配そうに顔を曇らせ、何か言いたげに大きな瞳を潤ませていた。

 ジークはすべての視線を振り切り、無言で席に着いた。


 レイチェルは王妃アルティナの部屋にいた。

 だが、アルティナはここにはいない。彼女は、国王、つまり夫に呼ばれて出て行ったのだ。めずらしいことではなかった。むしろ、よくあることと云ってもいい。つまらないことですぐ呼びつけるのよ、と彼女自身も笑ったり怒ったりしながらよく言っている。つまらないことというのが真実かどうかはわからないが、実際、たいていの場合はすぐに戻ってきていた。

 レイチェルは目の届くところでアルスとルナを遊ばせながら、ひとり紅茶を飲んでいた。

「レイチェルさん」

「はい……?」

 突然の呼びかけに、彼女は少し驚いたように返事をして振り向いた。ティーカップをソーサに戻す。

 声の主は若い衛兵だった。王妃の部屋の前には、必ずふたりの衛兵が常駐している。彼はそのうちのひとりである。開け放たれたままの戸口から、覗き込むように上半身を乗り出していた。

「お父上がいらしています」

「お父さまが?」

 レイチェルはきょとんとして立ち上がった。父親は、退職して以来、ここへ来たことなど一度もない。何か大変なことでも起こったのだろうか――ふとそんな考えが頭をよぎった。不安が膨らみ、小走りで部屋を出た。ほてった桜色の頬に、ひんやりとした空気が触れる。

「お父さま?」

 あたりを見まわしながら声を掛けた。長い金髪が薄暗い廊下で波を打つ。だが、父親の姿は見つからない。

 そのとき、背後から大きな影が彼女に忍び寄った。


 魔導省の塔。その最上階の一室にサイファはいた。今日から彼は副長官となる。そして、ここは彼の新しい個室である。今までより広く、明るい雰囲気だ。引っ越しを済ませたばかりで、机の上もまだきれいに片付いている。だが、すぐに書類の山に覆われることになるだろう。

 ――コンコン。

 扉がノックされた。サイファは書類をめくる手を止め、顔を上げた。

「どうぞ」

 その声と同時に扉が開き、ルーファスが入ってきた。机の前まで足を進め、後ろで手を組むと、座っているサイファを無愛想に見下ろした。

「その若さで副長官とはな。どんな手を使ったのだ」

「真面目に仕事に取り組んだ結果ですよ。ラグランジェの名前の力も大きいでしょうけどね」

 サイファは机の上で手を組み、にっこりと微笑んだ。

「少しは感謝しているようだな」

「価値は適正に評価していますよ。そうでなければ利用することも出来ませんから」

 淡々とそう言うと、面倒くさそうに頬杖をつき、ルーファスを見上げた。

「それで、何の御用ですか。昇進祝いに来たわけではありませんよね。手ぶらですし」

 ルーファスはふっと笑った。

「手ぶらではないぞ」

 その口調はどこか楽しんでいるふうだった。

 サイファは嫌な予感がした。こういうときのルーファスは、何か良からぬことを企んでいることが多い。警戒心をあらわにした厳しいまなざしを彼に向ける。

 ルーファスは上着のポケットに手を入れ、何かを取り出した。そっと机の上に置く。カタン、と小さな音を立てた。

 それは、プラチナの指輪だった。何の飾りもないシンプルなものだ。だが、その内側には、見まがうことのない刻印があった。

 まさか――。

 サイファははっとして、表情をこわばらせた。


「ジーク、どこへ行っていたの? 心配したわよ」

 授業が終わるなり、アンジェリカは一目散にジークに駆け寄った。いったんアカデミーへ来ていたジークが、いつのまにか姿を消していたのだ。何かに巻き込まれたのではないか、危ないことに首を突っ込んでいるのではないかと気が気でならなかった。

 ジークは椅子から立ち上がった。思いつめた顔を彼女に向ける。

「アンジェリカ、俺の家へ来い」

「え? いいけど、いつ?」

 アンジェリカはきょとんとしながら尋ねた。

「あ……そうじゃなくて……」

 ジークは困ったように頭に手をやった。斜め上に視線を流し、考えを巡らせる。そして、再び真剣な顔になると、彼女の細い両肩に手をのせた。

「おまえ、あの家を出て、俺の家に住め」

「えっ……?」

 アンジェリカは大きく目を見張った。

「ジーク、いくらなんでもいきなりすぎ」

 隣で見ていたリックは苦笑した。事情を知らない彼には、ジークの発言は非常識なものとしか思えなかった。

「危ねぇんだよ、おまえの家は」

 ジークはまっすぐに彼女の瞳を覗き込んで言った。

 アンジェリカは怪訝に眉をひそめ、首を傾げた。彼が冗談を言っているようには見えない。いや、そもそもこんな冗談を言う人間ではない。

「わかるように説明してくれる?」

「今は、言えねぇ……けど、俺を信じろ」

 ジークは手に力を込めた。彼女の肩をぐっと掴む。

 アンジェリカは納得のいかない様子だった。不満そうな顔でじっと考え込む。

「……じゃあ、お父さんとお母さんに相談してみる」

「ダメだ!」

 ジークは即座に否定した。

 アンジェリカはむっとして口をとがらせた。

「いったい何なの? そんなの無理に決まってるじゃない。ジーク、おかしいわ」

「俺はおまえを守りたいんだ!」

 ジークは必死だった。できれば、例の論文のことも、サイファのことも知らせないでおきたい。それが彼女のためだと思った。しかし、それを言わなければ危機感を上手く説明できない。伝わらない、伝えられないことがもどかしかった。


「やあ、ジーク君」

 ジークの背筋に冷たいものが走った。何度も聞いて耳に馴染んだ声、そして、今は最も耳にしたくなかった声。なぜこのタイミングで――きゅっと口を結び、振り返る。

 サイファは戸口で愛想良く微笑み、右手を上げていた。軽快な足取りで教室に入り、ジークたちに近づく。いつもと何ら変わったところはない。

「お父さん、今度は何の用なの? 来すぎじゃない?」

 アンジェリカは眉をひそめて尋ねた。彼女の指摘ももっともだった。前回、ここへジークを訪ねて来たのは、ほんの数日前のことである。

「今日は個人的なことでね」

 サイファは受け流すように言うと、引き締まった端整な顔をジークに向けた。深い蒼の瞳が鋭く光る。

「一緒に来てくれるかな」

「俺も話をしたいと思ってたところです」

 ジークは固い声で言った。緊張を滲ませながらも、毅然とした表情で見つめ返す。ふたりの間の空気がピンと張りつめた。

 アンジェリカは息を呑んだ。

「ねぇ、いったいどうしたの?」

 ただならぬ雰囲気に不安を感じ、どちらにともなく尋ねる。

「何でもないよ」

 サイファは柔らかく言った。

「でも……」

「心配性だね、アンジェリカは」

 今度は包み込むように優しく微笑んだ。そして、顔を曇らせる彼女の頬に、そっと手を伸ばす。

 だが、その手が彼女に触れることはなかった。

 ジークが彼の手首を掴んで止めたのだ。必要以上に強い力を込めている。握り潰さんばかりの勢いだ。

 サイファは目を大きくして振り向いた。

「行きましょう」

 ジークは低く抑えた声で言った。表情を隠すためなのか、深くうつむいている。

 サイファはふっと小さく息を漏らした。

「そうだね」

 落ち着いた声で同意する。

 ジークはようやく手を離した。サイファの手首には、薄く指の跡が残っていた。サイファは何も言わず、さり気なく袖を引き下げた。そして、ジークににこりと微笑みかけると、彼の背中に手をまわした。


「どうしたのかしら、やっぱり変だわ」

 アンジェリカは不安を拭えなかった。小さくなるふたりの後ろ姿を、横目でちらりと見る。

「うん、確かに」

 リックも彼らの姿を目で追いながら頷いた。

「ジークとお父さん、喧嘩しているのかしら」

 アンジェリカは口元に手を添えうつむいた。何ともいえない微妙な表情をしている。

「喧嘩っていうより、一方的にジークが反発してるみたいだったけどね」

 リックは冷静に指摘した。そうだとしても、不思議なことには違いなかった。ジークはいつもサイファのことを信用し、慕っているように見えたからだ。それが壊れるような何かがあった、ということなのだろうか。

 アンジェリカも同じことを考えていた。

「なんだか心配。こっそりあとをつけようかしら」

「それはダメだよ」

 リックは優しくたしなめた。

「そうよね」

 アンジェリカは気落ちして、深くため息をついた。ふたりが向かった方に顔を向ける。だが、彼らの姿は昼時の雑踏に掻き消され、もう目にすることは敵わなかった。


 サイファとジークは道場へとやってきた。魔導耐性に優れた、また物理的にも頑丈な建物である。魔導の実戦訓練などを行う場所だが、今はあまり使われていない。

「どうして道場なんですか」

 ジークはサイファの背中に尋ねかけた。

「誰にも邪魔されたくないんでね」

 サイファは鍵を開けながら、素っ気なく答えた。

「それなら別にここでなくても……」

「さあ、入ろう」

 ジークの反論を無視するようにそう言うと、扉を開き、軽やかに中へ入っていった。

 ジークはあとに続けなかった。足が重い。進むことを拒絶しているかのようだった。この捉えどころのない空間が苦手なせいかもしれない。それとも、閉塞した空間でサイファとふたりきりになることに恐怖を感じているせいだろうか。

 しかし、いつまでも入口に突っ立っているわけにはいかない。意を決して足を進めた。

 白い床、白い壁、白い天井――眩しいくらいに真っ白で何の飾りもない部屋。その中央にふたりは立っている。

「まずは君の話を聞こうか」

 サイファは腕を組み、振り返った。無表情でじっとジークを見つめる。

 ジークは少し怯んだが、負けじと強い視線を返した。そして、率直に尋ねる。

「サイファさんが、アンジェリカの事実上の夫になるって本当ですか」

 サイファはふっと表情を和らげた。

「やはりその話を聞いたんだね。さっきの君の態度から、そうじゃないかと思ったよ」

 ジークは奥歯を噛みしめた。彼が否定してくれることを期待していた。だが、その淡い期待は脆くも崩れ去った。どうしようもなく頭に来た。

「それで本当にアンジェリカを幸せに出来ると思ってるんですか。そんな歪んだ環境じゃ、誰も幸せになんてなれない。だいたいレイチェルさんはどうするんですか!」

 怒りまかせに一気に捲し立てる。

 サイファは曖昧に笑った。

「君の言うとおりだ。君は正しい。うらやましいよ、まっすぐに物事を考えられる君が」

「皮肉ですか」

 ジークは気色ばんだ。

「本心だよ」

 サイファは真顔で言った。

「だから、君に託したんだ、私たちの未来を。君なら、私たちを、アンジェリカを解き放ってくれるのではないかと期待していた」

 ジークははっとした。サイファのこれまでの言動が、次々と頭を駆け巡った。自分を導いてくれた、道を示してくれた、現実の厳しさを教えてくれた。もし、本当にアンジェリカの夫になるつもりでいるのなら、こんなことをする必要などない。ラグランジェ家の当主という立場から、拒否することが出来ずにいただけかもしれない。

「サイファさん、俺……」

「だが、君は期待に応えてくれなかった。いや、私の落ち度かな」

 サイファは何もかもあきらめたように言った。憂いを含んだ顔でうつむく。横髪がはらりと頬にかかった。

 ジークは慌てて食い下がる。

「まだ終わってません! 結果が出るのはこれからです!」

「残念だが、もう終わるんだよ」

 サイファはゆっくりと視線を流した。白い空間の中で、鮮やかに蒼が光る。

「君は、ここで死ぬ」

「……え?」

 呆然としているジークの前で、サイファの魔導力が一気に高まる。彼の周囲に竜巻のような風が起こった。


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