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84. 遠くの空と冷たい床

「ここだと思ったわ」

 突然、頭上から降ってきた声に、ジークは驚いて顔を上げた。

 そこにはセリカが立っていた。にっこりと微笑み、ジークの向かいに座る。

「おまえ、何しに来たんだよ」

 ジークは彼女を睨み、広い机の上に散乱した本や書類を掻き寄せた。山となったそれらを隠すように、両腕で覆う。

 セリカはその様子を見て、寂しげに笑った。

「手伝うわ、それを読むの」

「帰れよ」

 ジークは冷たく撥ねつけた。

「きっと役に立てるわ」

「なんでそうおせっかいなんだよ。いらねぇって言ってんだろ」

「だって、知ってしまったんだもの。こんな中途半端なところで引けない。それに……」

 セリカは一瞬、躊躇した様子を見せたが、すぐに強い語調で言った。

「あなたのためじゃない、アンジェリカのためよ」

 真剣なまなざしを、まっすぐ彼に向ける。

「少しは罪滅ぼしさせて」

 ジークは怪訝に眉をひそめた。彼女の言う罪滅ぼしとは、アンジェリカを刺したことに対するものに違いない。なぜいきなりその話を持ち出してきたのだろうか。本気でそう思っているのだろうか。それとも、こう言えば断られないと思ってのことだろうか――。彼女の本心はわからない。だが、少なくとも軽い気持ちでないだろうことは、その表情から察しがついた。

 ジークはしばらく迷っていたが、気難しげにため息をつくと、書類から腕をどけ、椅子の背もたれに身を預けた。そして、腕を組みながら、タイトルを黒塗りにされた表紙を目線で指し示した。

「それ、読めよ」

 セリカは安堵したように息をつき、こくりと頷いた。


 そこはアカデミーの図書室だった。休日の午前という時間のためか、人の姿はほとんどなく閑散としている。あたりはとても静かだった。耳につくのは、ときおり聞こえる廊下を行き交う靴音くらいである。

 マーティンから手に入れた論文を読むために、ジークは早朝からここへ来ていた。関連書を片っ端から調べつつ解読しようとしていたが、思うように進まなかった。ただでさえ最先端の研究である。医学などかじったことすらない彼にとっては、無謀な挑戦と言わざるを得ない。なので、実際のところ、彼女の申し出はありがたかった。ただ、サイファが関わっていると聞き、反射的に誰にも知られてはならないと意固地になっていたのだ。無意識に彼を庇おうとしたのかもしれない。


 セリカは論文を手にとると、無言で読み進めた。何時間も休むことなく、ひたすら読み続けた。昼食すらとっていない。ジークも目を通してはいたが、彼女ほど集中力が持続しなかった。魔導書であればいくらでも読み続けられるが、専門外のものでは行き詰まってばかりで疲れ方が違う。休憩をとらずにはいられなかった。何度となく窓の外を眺めたり、本を探すふりをして歩きまわったりした。


「なるほどね」

 セリカは唐突にそうつぶやくと、ため息をつきながら論文を閉じた。

「確かにこれは都合が悪いわ。隠蔽するのも無理ないかも」

「わかったのか? 書いてあること」

 ジークははっとして身を乗り出すと、早口でせっつくように尋ねた。

「大まかにはね」

「もったいつけてねぇで教えろよ」

 セリカは表情を引き締めた。そして、まっすぐに彼を見据えると、しっかりとした口調で話し始めた。

「簡単にいえば、近親者どうしでの婚姻を繰り返すと、遺伝子疾患を起こしやすくなるってことね」

「それって、ラグランジェ家……」

 ジークは眉根を寄せ、つぶやくように言った。

 セリカは彼から目をそらさず、小さく頷いた。

「そう、この論文は、ラグランジェ家があと数世代のうちに滅びる可能性を示唆しているのよ」

「でも、ラグランジェ家がそうやってきたのは、強い魔導力を維持するためだったんだろ?」

 ジークは釈然としない顔で、首を捻りながら尋ねた。

「だから、彼らのやってきたことが否定されてるってわけ。確かに、魔導力のことだけを考えるならば、優秀なラグランジェ家どうしで子孫を作っていくのは間違いじゃないけど、生物学的には良いことではなかったのよ」

 セリカはうつむき加減に頬杖をつき、小さくため息をついた。浮かない様子でひとり物思いに耽っている。だが、ジークの理解は追いつかなかった。少しきまり悪そうに頼む。

「もう少しわかるように説明してくれねぇか」

「あ、ええ……」

 セリカは頬杖を外し、思考を巡らせた。そして、軽く握った手を口元に添えると、ゆっくりと話し始めた。

「つまりね……一族の中だけで婚姻を繰り返すと、みんな遺伝子的に似てくるのよ。強いところはより強くなるけれど、弱い部分はより弱っていくの。ラグランジェ家は二千年近く続けてきたんだから、そうとう遺伝子に綻びがきているはず」

 ジークは机にひじを立て、額を掴むように押さえた。苦しげに顔をしかめる。

「その綻びが表面に現れたのが、アンジェリカなのか」

「そうかもしれない。そういう例は書かれていないけど……」

 セリカは顔を曇らせ、控えめに言った。

「あいつら……ラグランジェの奴らは、アンジェリカを必要だって言ってたぜ。遺伝子の病気とかだったら必要なわけねぇだろ」

 ジークは必死に反論した。

 セリカは下を向いた。困ったように眉根を寄せる。考えついたことを言うべきかどうか迷っていた。ジークの神経を逆なでするだけかもしれない。でも、自分では正しい可能性の方が高いと思っている。だったら、やはり言った方がいいのではないか。いや、言うべきだ――。ためらいつつも、小さな声で言う。

「治療方法を見つけるための実験台にするつもりかも……」

 冷静な推論だった。だが、ジークにとっては冷酷すぎる話だった。呆然と目を見開いたまま、固まっている。

「……ジーク?」

 セリカが心配そうに呼びかけると、彼は弾けるように立ち上がった。机に散乱した書類を掻き集め、鞄の中に放り込む。そして、その鞄を乱暴に引っ掴み、戸口へ向かって早足で歩き始めた。

「待って!」

 セリカは机に手をついて立ち上がり、慌てて呼び止めた。

「おまえはもう帰れ」

 ジークは背を向けたまま、つれない言葉を返した。しかし、彼女は引かなかった。

「私も行くわ。ここまで付き合ったんだもの」

「ここからは俺ひとりでやらせてくれ。頼む」

 ジークは低く押し込めた声で懇願した。その声には激しい感情と強い決意が滲んでいた。

 セリカは何も言えなくなった。きゅっと口を結び、目を伏せた。

「……今までいろいろ助かった。いつか、礼はする」

 ジークは振り返らずにぼそりと言った。

「楽しみにしているわ」

 セリカは、彼の背中に、精一杯の笑顔と明るい声を送った。


「アルティナはいないのか」

「すぐに戻ってくるわ。待っていてくれる?」

 レイチェルはにっこり微笑みかけた。ラウルは短く「ああ」と答え、腕を組んだ。

 少し離れたところで、アルスとルナは積み木で遊んでいた。ふたりはまるで兄妹のように見えた。実際、アルスは彼女の面倒をよく見ていた。手がかからなくていいわ、と、アルティナはよく笑いながら言っている。

「お茶を淹れるわね」

「いや、いい」

 レイチェルはラウルの横顔をじっと見上げた。彼は無表情だった。どこか遠くを見ているようで、何も見ていないような目をしている。

「ベランダに出ましょうか」

 レイチェルは柔らかく声を掛けた。そして、大きな両開きのガラス扉を押し開けると、光の射すベランダへと足を進めた。緩やかな風が、彼女の細い髪をさらさらと揺らした。朱く色づいた光を浴び、きらきらと煌めく様は、まるでプラチナのようだった。

 ラウルはわずかに目を細めた。

 レイチェルはくるりと振り返った。ボリュームのあるドレスが、大きく波を打って揺れる。

「何か、言いたいことがあるんじゃない?」

 鈴を鳴らしたような声でそう問いかけると、まばゆい光を背に受けながら、部屋の中のラウルににっこりと微笑みかけた。

「なぜだ」

「そんな顔をしているから」

 彼女は子供の頃から勘が良かった。いつもそうやって無邪気に人の心を見透かす。人の気も知らずに――ラウルはため息をついた。彼女の隣へと足を進める。眼前には、朱色に染まった空が一面に広がっていた。

「ずっと、迷っていた」

「ラウルでも迷うことなんてあるのね」

 レイチェルはにっこりと微笑んだ。

「重要なことだからだ。だが、今、決めた」

 ラウルはほとんど表情を動かさずに言った。レイチェルは不思議そうに彼の横顔を見つめた。

「……一緒に、行かないか」

「どこへ?」

 ラウルは顔を上げ、遠くの空を見上げた。風が吹き、焦茶色の長髪が大きくなびいた。

「ラグランジェの名が意味を成さないところだ」

「そんなところ、あるのかしら」

 レイチェルは笑いながら言った。しかし、ラウルは無表情のままだった。

「この国が世界のすべてではない」

 深く静かに言葉を落とす。そして、ゆっくりと振り向くと、大きな蒼色の瞳をじっと覗き込むように見つめた。

 レイチェルはきょとんとした。だが、自分に向けられた黒い瞳を見ているうちに、不意に彼の意図を理解した。それは、受け入れられることではなかった。曖昧に笑いながらうつむくと、小さく首を横に振った。

「私と同じ時を生きられるとしても、答えは変わらないか」

「えっ?」

 小さな口を開いて顔を上げた彼女に、ラウルは真剣なまなざしを送った。

「私の国に来れば、おそらくおまえの時の流れは私と同じになる」

 レイチェルは混乱した。次から次へと疑問が頭に浮かんだ。だが、何も尋ねはしなかった。ただ無言で首を横に振った。

「ここにおまえの未来はない。おまえはまだ知らないだけだ。サイファが何を考えているのかを」

 ラウルの声は、彼にしてはめずらしく熱を帯びていた。

 レイチェルは笑顔を作って見せた。

「私はサイファについていくと決めたのよ」

「あいつがおまえを裏切るとしてもか」

 ラウルは低い声で問いつめた。

「ええ、それでも」

 レイチェルは微笑みを保ったまま、躊躇いなく答えた。

 沈みかけた太陽は、向かい合うふたりを強く照らし、冷たくなった風は、顔から熱を奪っていく。

「愚かな女だ」

 ラウルは、彼女を見つめたまま、静かに言った。レイチェルはくすりと笑った。

「久しぶりにその言葉を聞いたわ」

「おまえは少しも変わっていない」

 ラウルは手を伸ばした。ゆっくりと彼女に向かう。指先が頬に触れようかという、そのとき――。

「ひとの妻に向かって、愚かな女とはひどいんじゃないかな」

 部屋の方から声が聞こえた。はっとして振り向く。

 そこにいたのはサイファだった。彼は腕を組み、扉近くの柱にもたれかかっていた。顎を引き、横目でラウルを見ると、ニヤリと挑戦的に笑った。

 ラウルは眉をしかめた。

「いつからそこにいた」

「10秒ほど前かな。子供たちから目を離すなんて感心しないな」

 サイファはそう言いながら、近くで遊んでいたルナを抱き上げた。

「おい、おっさん!!」

 隣でアルスが騒いでいたが、意に介さなかった。

「大きくなったね」

 真正面からルナを見て話しかける。ルナは大きな目をさらに大きくして、びっくりしていた。

「汚い手で触るな」

 ラウルは肩をいからせながら歩み寄り、ルナを奪い返そうと手を伸ばす。だが、サイファはそれを阻んだ。彼の手首をがっしりと掴み、指が食い込むほどに強く力を込める。

「その言葉、そのままおまえに返すよ」

 抑えた声で淡々と言う。だが、その声とは裏腹に、手首を掴む力はますます強くなっていた。ラウルを見上げた彼の瞳は、激しく燃える青い炎のようだった。ラウルも負けずに、強く鋭い視線をぶつけた。

 レイチェルは困惑しながらふたりを見ていた。

「こら! あんたたち!!」

 威勢のいい声と同時に、パコンパコンという軽い音が部屋に響いた。

 その声の主は王妃アルティナだった。手には丸めた薄い冊子が握られている。これでふたりの頭を叩いたのだ。たいして痛いものでもないだろう。

「私の部屋まで来て喧嘩しないでよね! ルナも驚いちゃってるじゃない」

 彼女はサイファの腕からルナを奪うと笑顔であやした。ルナもほっとしたように顔をほころばせた。何が起こっているかは理解していなかったが、緊迫した空気は感じていたようだ。

「まったく、男っていつまでたっても子供のままなのよね。嫌になるわ」

 面倒くさそうに文句を言うアルティナを見て、ふたりの男たちは毒気をなくした。このふたりに遠慮なくこういうことを言うのは彼女くらいである。彼女が王妃だからではない。元来、そういう性格なのだ。誰に対しても、媚びることも、気後れすることもない。

「それで、サイファ、あんたは何の用なの? 仕事中じゃないの?」

「ええ、その仕事がやっかいでね。行き詰まってしまったんですよ」

「へぇ、めずらしい。それで息抜きってわけ?」

 アルティナは少し驚いたように言った。彼の仕事に関する弱音を聞いたのは、初めてかもしれない。

 レイチェルは大きく瞬きをした。

「もしかして、そのお仕事って……」

「私の手には負えないから、ラウルの力を借りようと思ってね」

 サイファは彼女の言葉をさえぎって言った。微かに笑みを浮かべながら、人差し指を口に当て、こっそりとウインクする。レイチェルはくすりと笑った。

「断る」

 ラウルは苛立たしげに一蹴した。

「それは困ったな」

 サイファは軽い口調で言った。困っているようにはとても聞こえない。だが、レイチェルとアルティナは口々に彼を援護した。

「ラウル、サイファを手伝ってあげて。本当に困っていると思うの」

「ラウル、行ってあげたら? ルナならちゃんと預かっててあげるわよ」

 ラウルは思いきりサイファを睨んだ。


 ふたりは魔導省の塔へと来ていた。最上階の廊下を並んで歩いている。下の階は活気にあふれているが、最上階は人も少なく、いつも静かである。今もふたりの靴音が響いているだけだった。

「どうやらわかっていないようだから、もういちど言っておくが」

 サイファは前を向いたまま切り出した。

「レイチェルは決して私を裏切らないよ」

「そう思うなら、私が何をしようと放っておけばいいだろう」

 ラウルは冷静に言い返した。

「無駄な努力をするおまえを哀れに思って、忠告してやっているのさ」

 サイファは涼しい顔で言った。ラウルはその挑発には乗らなかった。

「おまえにしては下手な嘘だな」

「じゃあ、本音を言おうか」

 サイファはズボンのポケットに手を入れ、軽く息を吸い込みながら顔を上げた。

「レイチェルのことは信じている。心配などしていない。ただ、面白くないんだよ、勝手なことをされては」

 ラウルはそれでも無表情だった。サイファは小さく息をつき、目を閉じた。

「私からレイチェルを説得してやろうか」

「何をだ」

 ラウルはようやくサイファに目を向けた。サイファは微かに笑った。

「連れて行きたいんだろう? おまえの故郷へ」

「……どういうつもりだ」

 ラウルは眉をひそめて睨みつけた。

「それで彼女が救われるなら、それもひとつの方法だということさ。ただし条件がある」

 サイファは真剣な顔でラウルの瞳を見つめた。

「そのときは私も一緒だ」

 ラウルはじっと彼を見つめ返した。

「おまえは誤解をしているようだが、私と同じ時を生きられるのはレイチェルだからであって、おまえではそうならない」

 サイファはラウルを睨み上げた。

「私を連れていきたくないから、つまらない嘘を言っているんじゃないだろうな」

「そう思いたければ好きにしろ」

 ラウルは素っ気なく突き放した。サイファはうつむき、眉根を寄せじっと考え込んだ。

「……魔導力の差か?」

「私の推論だがな」

 ラウルは遠くに目をやり、腕を組んだ。

「とことん私は除け者というわけか」

 サイファはため息をついた。

「馬鹿な男だよ、おまえは。騙して連れていって、寿命が尽きるのを待っていれば良かったんだ」

「レイチェルが苦しむことになる」

 ラウルは無表情で切り返した。サイファは彼を一瞥し、薄く笑みを浮かべた。

「……嘘だよ、全部」

 ぽつりと言葉を落とす。

「彼女を説得することなんて、私にも出来ないさ。あれでそうとう頑固だからな。おまえの反応が見たかっただけさ」

 淡々とそう言うと、ラウルの表情をちらりと窺った。だが、そのときの彼の意識は他に向いていた。

「いつからそこにいた」

 鋭く切りつけるように詰問する。

 サイファは彼の視線を追った。その先にいたのはジークだった。少し離れたところで立ち尽くしてこちらを見ている。

「い……今さっき来たところだ」

 彼は怯みながらも、精一杯の虚勢を張った。いつものようにラウルを睨もうとする。だが、あからさまに目は泳いでいた。

 ラウルは醒めた顔を向けた。

「その答えは当てにならない。人によっては10秒がずいぶん長いらしいからな」

「彼は悪くないだろう。悪いのは往来で聞かれたくない話をしていた私たちの方だ」

 サイファの擁護に、ジークはほっと胸を撫で下ろした。このふたりをそろって敵にまわしたくはない。

「あの、サイファさん、今日は少し訊きたいことがあって……」

 安心したところで、遠慮がちに本題を切り出す。

「ちょうど良かった」

「え?」

 サイファは人なつこい満面の笑顔をジークに向けた。


 ガチャ――。

 サイファは自室の鍵を開け、扉を押し開いた。

「どうしたんですか、これ……」

 ジークは目の前の光景に唖然とした。

 部屋の中はまるで荒らされたかのように乱雑だった。あちらこちらに段ボール箱が散在している。どれも中途半端に物が入っていて、何が目的なのかわからない。他にも、本や書類がそこかしこに積み上げられていた。無造作で崩れているものも多い。

「引っ越しをするんだ。といっても、数十メートル先の部屋だけどね」

「これはおまえの仕業か」

 ラウルは部屋を見渡しつつ、冷ややかに尋ねた。

「ひとりでやろうと思ったんだが、なかなか難しいものだな」

 サイファは真顔で答えた。

 ラウルは無表情のまま呆れ返った。レイチェルが懇願した理由がわかった。彼女は知っていたに違いない。引っ越しのことも、サイファがそれを苦手とすることも。

 サイファは笑顔でジークに振り向いた。

「ジーク、君も手伝ってくれるか?」

「あ、はい」

 ジークは素直に了承した。この状況ではとりあえず手伝うしかないだろうと思った。


 三人はそれぞれ段ボール箱を抱えて廊下に出た。サイファが先頭を行き、ラウルとジークはその後ろをついて歩く。いくつかの部屋の前を通り過ぎた。

「さ、ここだよ」

 サイファが示した扉には、他と同じように金属製のプレートが掛かっていた。

「魔導省副長官……」

 ジークは目を大きくして、呆然と読み上げた。魔導省長官に次ぐ役職である。もちろん、その役職名の下にはサイファの名前が刻まれている。

「正式には明日からだよ」

 サイファは軽い調子で言った。

「これでもまだルーファスの影響力には及ばないけどね」

 ジークは固い表情で目を伏せた。だから、サイファは逆らおうとしないのだろうか。そして、暗に自分のことを当てにするなといっているのだろうか――。さまざまな疑問と憶測が頭に浮かぶ。だが、尋ねることはできなかった。

 サイファは扉を開いた。

 中は広かった。今までの部屋の倍ほどはある。机と本棚は備えつけられていたが、それ以外の物は何もなく、殺風景な印象だった。正面は、以前と同じように一面ガラス窓になっている。

 サイファは机の上に段ボール箱を下ろした。にっこりとして、後ろのふたりに振り返る。

「さ、どんどん運んでくれ」

「おまえは命令するだけか」

 ラウルは呆れたような目を向けた。

「私はここで運び込まれたものを片付けていくんだよ。作業は分担しないとな」

 サイファは当然のように言った。


 ラウルとジークは乱雑な部屋に戻って来た。正面の大きなガラス窓には、紺とオレンジのグラデーションが映し出されている。部屋の中とは対照的に、すっきりとした空模様である。

 ふたりはどちらともなく互いに別々の方を向き、背中合わせで作業を始めた。ラウルは机の上の書類を、ジークは床に散らばった本を片付けている。

「おまえは何をしに来た。深入りするなと忠告したはずだ」

 ラウルは背を向けたまま、責めるように言った。手際よく段ボール箱に詰めていく。

「ヤバいことはわかった。でも、引くつもりはねぇよ」

 ジークはぶっきらぼうに答えた。小さくため息をつくと、面倒くさそうに前髪を掻きあげた。

「ラウル、おまえ全部、知ってたんだな。サイファさんと親しいし、それに医者だし」

 ラウルは何も答えず、黙々と作業を続けた。ジークはそれを肯定と受け取った。さらに一方的に質問を浴びせる。

「さっきの話、何だったんだよ。レイチェルさんに何かさせようとしてたのか? サイファさんが除け者ってどういうことだ?」

「おまえには関係ない」

 ラウルは冷淡に突き放した。ジークはむっとして顔をしかめた。本を持った手が止まる。

「じゃあ、俺のこともテメーには関係ねぇだろ」

「おまえが動くと、事態がよけいにややこしくなる」

「なんだと?!」

 カッとして噛みつきながら、勢いよく振り返る。だがその瞬間、はっとして動きを止めた。

「もしかして……おまえも救いたいのか? サイファさんやレイチェルさんを」

「サイファなどどうでもいい」

 ラウルは抑揚のない声で言った。手は休むことなく動き続けている。

「レイチェルさんは……?」

 その質問には何も答えなかった。

 ジークは一筋の光明を見いだしたと思った。立ち上がって彼に振り向くと、熱っぽく問いかける。

「もし、俺と目的が同じなら、一緒にやらねぇか? 方法はこれから考えるところだけど、おまえと一緒ならきっと……」

「やりたければひとりでやれ。私はこの国に関わるつもりはない」

「は? さんざん関わってんじゃねぇかよ」

「そうだ、関わりすぎた。関わるべきではなかった」

 ラウルは独り言のように言った。ジークは怪訝に眉をひそめる。

「わけわかんねぇ」

「おまえに理解されようとは思っていない」

「ああそうかよ」

 ラウルの受け答えを聞いていると、次第に頭に血が上っていく。

「おまえなんかに頼もうとした俺がどうかしてたぜ」

 嫌悪感をあらわにし、吐き捨てるように言う。そして、重い段ボール箱を抱え上げ、広い背中を睨みつけた。

「俺は逃げねぇ、絶対にな」

 毅然とそう宣言すると、大股で部屋を出て行った。


 部屋には蛍光灯の明かりが満ちていた。眩しさを感じるくらいだった。一方、窓の外は薄暗くなっていた。すでに陽は落ち、あとは急速に光を失っていくだけである。

「これで最後です」

 ジークは段ボール箱を抱えて入ってきた。彼の言葉どおり、これが最後の一箱だった。ラウルと何度も往復をして、ようやく運び終えることができたのだ。力仕事は苦手ではなかったが、これだけ重いものばかりが続くと、さすがに疲労感を覚える。大きく息を吐きながら、部屋の中央に段ボール箱を下ろした。

「ご苦労さま」

 サイファは笑顔でねぎらった。部屋の片付けの方もだいぶ進んでいるようだ。ラウルはこちらを手伝っていた。運ぶ荷物が少なくなってきたところで、サイファに指示されたのだ。あいかわらず無言で作業を進めている。

「ロッカーの中も運んでくれたか?」

「え? あの開かないロッカーですか?」

「そうだ、鍵を掛けっ放しだったな」

 サイファはズボンのポケットから小さな鍵を取り出し、ジークに投げてよこした。空中に弧を描き、慌てて差し出した彼の手にすっぽりと収まる。

「中のものを持ってきてもらえるかな」

「はい」

 ジークは素直に従った。鍵を握りしめ、部屋を後にする。

「サイファ、おまえどういうつもりだ」

 ラウルは手を止め、睨みつけた。

 サイファは腰に手をあて、反り返るくらいに背筋を伸ばしながら、ゆっくりと振り返った。

「彼と話をしてくるよ。邪魔をするなよ」

 そう言って、ニッと不敵な笑みを浮かべた。


 サイファの個室だったその部屋は、もう以前の面影はなかった。すっかり荷物が運び出され、がらんとしている。薄暗さも手伝って、どことなくもの寂しさが漂っている。

 ジークは渡された鍵で、古びたロッカーを開けた。中には段ボール箱がひとつあった。紙束が山のように詰め込まれている。詰め込まれているというよりも、無造作に放り込まれているという方が近い。彼はそれを抱え上げると、何気なく視線を落とした。

 ――これは!

 はっとして段ボール箱を床に置き、しゃがみ込むと、その中のひとつを手にとった。そして、部屋の隅に置いてあった自分の鞄を引っ掴み、中から紙束を取り出した。マーティンのところから持ってきた論文のひとつである。ふたつの表紙はまったく同じに見えた。黒塗りにされている部分も寸分違わない。一枚、二枚、三枚――ふたつを同時にめくって見比べていく。やはり同じものだった。

 これがここにあるということは、やはり――。

「それは、ヘイリー博士のところで手に入れたのかい?」

 ジークはぎくりとして振り返った。そこにはサイファが立っていた。開け放たれた戸口に寄りかかり、微かな笑みを浮かべながら見下ろしている。

「あ……」

 ジークはまともな返事ができなかった。額から汗が吹き出した。膝をつき、口を半開きにしたまま、呆然とサイファを見上げている。

「ヘイリー博士がコピーを隠し持っていることは、薄々、勘づいていたよ」

 サイファはそう言いながら、静かに扉を閉めた。廊下からの明かりが遮断され、部屋はますます暗くなった。窓の外はほぼ紺色が支配していた。

 ジークの恐怖心はますます募った。逃げ道を塞がれたかのように感じた。サイファはなぜ扉を閉めたのだろうか。聞かれたくない話であることは確かだが――。

 サイファは話の続きを始めた。

「だが、それを使ってどうこうするつもりはなく、単に自分の研究の成果を手元に置いておきたかっただけなのだろう。金にも名声にも興味を示さない人だからね。だから、見逃したのさ」

「やはり、サイファさんが揉み消したんですか?」

 ジークは眉根を寄せた。額から頬に汗が伝い、床に落ちる。

「非難している顔だね。だが、これは正当な取引だったんだよ。彼にとっても悪い話ではない。金銭面での心配をせずに、好きな研究に打ち込めるんだからね」

 サイファは少しも悪びれず、平然と言った。

 そう言われてみれば、確かにそうかもしれない。だが――。

 そこまで考えて、ジークは複雑な顔でうつむいた。とっくにわかっていることだった。正しいことかどうかなど、サイファにとってはさして重要ではない。彼は別の基準で動いている。今さら反論など無意味だ。

 代わりに、もうひとつ気になっていたことを、質問としてぶつけてみた。

「彼への支援は、打ち切るつもりですか」

「いや、続けるよ」

 サイファはさらりと答えた。

「我々の未来のためには、彼の研究が不可欠だからね」

 ジークは眉根を寄せた。サイファは無表情で彼を見下ろした。

「その論文は読んだか」

「はい」

「ならば、私の言ったことの意味はわかるね」

 ジークは顔を上げた。思いつめた声で尋ねる。

「あの、アンジェリカはこの論文とどう関係するんですか? 教えてください、アンジェリカは……」

「質問は受け付けない」

 サイファは彼の言葉を遮り、冷たく拒絶した。

 ジークは唇を噛んだ。力が抜けたようにうなだれる。

「君はそんなことを訊くためにここへ来たのか? 大事な手がかりを持って、のこのこと」

 サイファは後ろ手で、がちゃりと鍵をかけた。

「……え?」

 ジークはきょとんとして顔を上げた。そのとき――。

 ガシャン!!

 ロッカーが派手な音を立てた。それは、ジークが打ちつけられた音だった。サイファが彼の右手首を掴み、後方のロッカーに押しつけた、いや、叩きつけたのだ。ジークは仰向けにひっくり返った。腕と頭を強く打ち、その痛みに顔をしかめた。

 サイファは倒れたジークにまたがり、覆いかぶさるように顔を近づけた。

「私がその気になれば、一瞬でこの論文は灰になる」

「なっ……」

 ジークの顔から血の気が引いた。ようやく手に入れた大切な証拠だ。ルーファスと対峙するためには、これがなければ話にならない。必死に精一杯の抵抗をする。だが、サイファは意外と力が強かった。体勢の違いもあるだろうが、ジークがどれだけ力をこめてもびくともしなかった。右手はロッカーに、左手は床に押しつけられている。それでも、右手に握っている論文は手放さなかった。

「わかっていただろう、それは私にとって都合の悪いものだということを。もう少し警戒心を持つべきだったな」

 サイファの顔に冷たい笑みが浮かんだ。端整な顔立ちだけに迫力がある。ジークは背筋が凍りついた。言い知れぬ恐怖を感じた。畏怖といってもいいかもしれない。息が止まり、うめき声すら出ない。

 ガシャン!!

 鍵を閉めたはずの扉が、激しい音を立てて開いた。ラウルが蹴り開けたのだ。扉は原形を留めていたが、鍵の部分は破壊されている。

「何をしている」

「おまえなぁ、少しは扉を壊すことに躊躇いを持てよ」

 サイファは呆れたようにため息をついた。ラウルは無表情で腕を組む。

「鍵を掛けるおまえが悪い」

「邪魔するなと言っただろう。せっかく面白いところだったのに」

 サイファは文句を言いながら立ち上がった。

 ジークは呆然としていた。起き上がる気力もなく、床に体を投げ出したまま、天井を見つめている。不意に思い出したように右手の論文の感触を確かめた。まだ灰にはなっていないようだ。

「忠告だよ」

 サイファは笑って言った。ジークの手を取り、体を引っ張り起こす。彼の背中は埃にまみれていた。髪にもゴミが絡まっている。しかし、彼にはそんなことを気に掛ける余裕などなかった。何がなんだかわからないといった顔で、サイファを見上げた。

 サイファは真面目な顔になった。

「君の行動の甘さと判断の遅さは、いつか命取りになる。身をもって実感しただろう」

 ジークはぐっと強く口を結び、うつむいた。返す言葉もなかった。

「ルーファスは手強いよ。それだけは言っておく」

 サイファは段ボール箱を抱え上げた。

「あとは私たちだけでやるから、君はもう帰っていいよ。ありがとう、助かった」

「あの、これ……」

 背を向けたサイファに、ジークはとまどいがちに声を掛けた。右手の論文を掲げる。

 サイファは鋭い視線を流した。

「切り札は慎重に扱え」

「公表することになるかもしれません」

 ジークは表情を引き締めた。

 サイファはふっと小さく息を漏らした。

「よく考えたうえで、君が最善と思う行動をとればいいさ。基本的に君の行動は阻害しない。だが、許容範囲を超えた場合は全力で阻む。それだけだ」

 ジークは息を呑んだ。

「行くぞ、ラウル」

 サイファは戸口のラウルに横柄に声を掛けると、颯爽とした足取りで部屋を出て行った。

 ラウルは冷たくジークを見下ろした。何か言いたげだったが、何も言わずに部屋を出て行った。鍵の壊れた扉は、開け放たれたままだった。

 ジークはすっかり暗くなった部屋にひとり残された。冷たい床に座り込んだまま、手にした論文を握りしめる。

 ――俺は、逃げない。

 奥歯を噛みしめ、自らを鼓舞するように、心の中で強くつぶやいた。


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