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83. 優しい研究者

「ごめんなさい、待った? だいぶ遅れちゃった」

 セリカは小走りで駆け寄ると、申しわけなさそうに両手を合わせた。

「いや、呼び出したのは俺の方だし」

 ジークは椅子に座ったまま、淡々と答えた。


 そこはアカデミーの食堂だった。全面ガラス張りの窓から柔らかい光が降り注ぎ、白いテーブルを眩しく照らしている。終業後のため、それほど人も多くなく、落ち着いたざわめきが穏やかに広がっている。


 セリカはジークの向かいに座った。膝の上に鞄を載せると、上目遣いに彼を見た。視線を落としたまま、じっと何かを考え込んでいるように見える。何となく、声を掛けるのが躊躇われた。沈黙が続き、気まずい空気がのしかかる。

 ジークは突然、立ち上がった。

「何か飲むか? 奢る」

 ちらりと彼女に視線を流し、無愛想に尋ねる。

「あ……じゃあ、コーヒー」

「わかった。待ってろ」

 そう言うと、ジーンズのポケットに右手を突っ込み、カウンターへと向かった。

 セリカは身を乗り出して振り返り、訝しげに彼の後ろ姿を眺めた。


 しばらくして、ジークは紙コップをふたつ手にして戻ってきた。ひとつをセリカの前に置き、席に着く。

「リックには内緒にしてきたか?」

「ええ……でも、なんだか悪いことしているようで落ち着かないわ。何なの?」

 セリカは眉をひそめて尋ねた。

「心配かけたくねぇだけだ」

 ジークは素っ気なく答えた。しかし、それは彼女が聞きたかった答えではなかった。不満そうなまなざしを彼に向ける。

 ジークはコーヒーを口に運び、一息つくと話を続けた。

「おまえ、医学科だろ? 遺伝学とかそっち方面に詳しい人を知ってたら、紹介してほしいんだ」

「それって、アンジェリカの関係で?」

 セリカは身を乗り出し、声を低くして尋ねた。

「ああ、少しでも手がかりを見つけねぇと」

 ジークは眉根を寄せうつむいた。そのままじっと考え込む。

 セリカはわずかに顔を曇らせた。

「言っても無駄でしょうけど、あまり深入りしない方が……」

「あいつは自分の人生を懸けて俺を救ってくれたんだ。今度は俺があいつを救う番だ」

 ジークは机の上で手を組み、思いつめたように言った。怖いくらい真剣な顔だった。

 セリカは何か言いたげに彼を見つめていたが、やがてあきらめたように小さく息をついた。

「わかったわ。じゃあ、私の元担任の先生に連絡をとってみる」

「元担任? 医学科は持ち上がりじゃねぇのか?」

 ジークは不思議そうに尋ねた。アカデミーでは4年間ずっと同じ先生がひとつのクラスを受け持つものと思っていた。少なくとも魔導全科ではそうである。

「基本はそうだけど、先生の都合でね。本業の研究が忙しくなって、辞めてしまったの」

「自分勝手なヤツだな」

「仕方ないわよ。予定が変わっちゃうことだってあるでしょう?」

 セリカは肩をすくめた。

「そいつが遺伝の研究をしてるんだな」

 ジークは本題に戻り、念押しした。セリカはこくりと頷いた。

「ええ、第一人者らしいわよ」

「頼む」

 ジークは頭を下げた。セリカは驚いて目を見開いた。彼が自分に頭を下げるなど、想像もしなかった。それだけ必死であるということだろう。

「任せて」

 彼女は力強く答えると、にっこりと笑って見せた。

「それじゃ、また連絡するわね」

「ちょっと待ってくれ」

 立ち上がろうとしたセリカを、ジークが慌てて引き止めた。

「何? まだ何かあるの?」

「ラグランジェ家について聞きてぇんだ」

「そういうことなら、包帯の子に聞いた方がいいんじゃないの?」

 セリカはさらりと言った。

 ジークはぴくりと眉を動かした。ユールベルのことはおそらくリックに聞いたのだろう。どの程度、知っているのかわからなかったが、それを尋ねようとは思わなかった。

「必要ならあいつにも聞く。今はおまえに聞いてるんだ」

 ぶっきらぼうにそう言うと、腕を組み、椅子にもたれかかった。

 セリカは彼の態度に困惑した。何が彼の気に障ったのかわからなかった。少しびくつきながら答える。

「え、ええ、わかったわ。でも、ここじゃちょっと……」

「外、歩きながらならいいか?」

 ジークは親指で窓の外を指し示した。仏頂面はまだ崩れていない。

「ええ」

 セリカは神妙にこくりと頷いた。

 ジークは残りのコーヒーを一気に流し込み、立ち上がった。


 王宮の外れにある小さな森。緩やかな風が枝葉を揺らし、ざわざわと音を立てている。ふたりはその下の小径を並んで歩いていた。近くに他の人影は見えない。セリカは彼の横顔に視線を流すと、話を切り出した。

「それで、何が聞きたいの?」

「何でもいいんだ。知っていることがあれば、どんなことでも教えてほしい」

 ジークは真摯に尋ねた。まっすぐなまなざしを彼女に向ける。セリカはどぎまぎしながら目をそらした。

「そう言われても困るんだけど……」

 口ごもりながら後ろで手を組み、小さく息をつく。

「だいたい私だって、そんなに詳しいわけじゃないのよ。確かに祖父はラグランジェの人だったけど、そのこともあまり口外してはいけないことになってたし、ましてやラグランジェの内情なんて……。ラグランジェ家を出るとき、誓約書まで書かされたそうよ」

「は? 誓約書?」

 ジークは面食らい、大きく語尾を上げて聞き返した。

「ええ、みんながみんな、ラグランジェの人間どうしで結婚するわけじゃなくてね。祖父のように外部の人間と結婚する人もいるわけ。そのときに、ラグランジェの名を捨てることと、ラグランジェの内情について口外しないことを、誓約書に書かされるのよ。血判まで捺したらしいわよ」

 そう言って、彼女は人差し指を立てて見せた。

「こういうことも、本当は言ってはいけないんだけど」

「そのわりにはペラペラしゃべってんな、おまえ」

 ジークは呆れたように言った。その途端、セリカはカッと顔を上気させた。

「ジークが教えろって言うからじゃない! せっかく力になろうと思ってたのに、もういいわよ、言わないから!」

 逆上して感情的に喚き立てると、ぷいと背を向けアカデミーに戻ろうとした。

 ジークは焦った。何気なく言ったことが、彼女の逆鱗に触れることになるとは思わなかった。今の自分にとって、彼女は唯一の糸口である。失うわけにはいかない。慌てて肩を掴み、引き止める。

「悪い、すまねぇ、悪気はなかったんだ、機嫌直せよ」

 何とかなだめようと、思いつく限りの言葉を並べた。

 セリカは口をとがらせ、ジークの手をじっと睨んだ。彼の手は意外と大きかった。その大きな手を広げ、がっちりと自分の肩を掴んでいる。

「わかったわよ」

 彼女はため息まじりにそう言うと、肩の手を払いのけた。

「それで、何の話だったかしら」

 ジークはほっと息をついた。右手で額の汗を拭いながら、元の話を再開した。

「ラグランジェを出るときの話だ。名を捨てるって言ってただろ。あれ、どういうことだ?」

 セリカは歩きながら、きびきびと答える。

「ラグランジェを名乗ってはいけないってこと。つまり、男性女性にかかわらず、ラグランジェではなく、相手の姓になるわけ」

「そういや、おまえのところもそうだな」

 ジークはぽつりと言った。セリカは前を向いたまま頷いた。

「ええ、だからラグランジェの名を持つ者は、みんな純血ってことになるわね」

「なるほどな」

 ジークは難しい顔で、ジーンズのポケットに手を突っ込んだ。今までぼんやりと理解していたものの輪郭が、はっきりと見えてきたように感じた。

「それだけじゃないの。ラグランジェ家の人間だと吹聴してもいけないし、そのことを利用して商売をしてもいけない。家系図も決してラグランジェ家に繋げてはいけないそうよ」

 セリカは人差し指を立てて、口に当てた。

「ラグランジェであることを隠せとまでは言われないけど、結構それに近いものがあるみたい」

「厳しいな」

 短く落とされたジークの声は固かった。セリカはちらりと彼を見た。

「そうでもしないと、ラグランジェの名と血を守ってこられなかったでしょうね。だからこそ、二千年近く経った今でも、名門として絶大な力を持っているってわけ」

 ジークはごくりと唾を飲み込んだ。

「もしかして、怖じ気づいたのかしら?」

 セリカは悪戯っぽい目を彼に向け、くすりと笑った。

「バカやろう! んなわけねぇだろ!」

 ジークは顔を真っ赤にして言い返した。


 次の休日、ジークはマーティン=ヘイリーの自宅に向かっていた。セリカが紹介してくれた遺伝学の研究者である。彼女に会う約束を取りつけてもらったのだ。ジークはひとりで行くつもりだったが、なぜか彼女もついてきた。

「別におまえまで来ることねぇのに」

「いいじゃない。君もおいでって先生に言われたし、私も久しぶりに先生に会いたかったし」

 セリカは弾んだ声を上げた。青い空を見上げて、にっこりと笑う。

 ジークは疑わしげな視線を彼女に向けた。

「やけに嬉しそうだな」

「え? ちょっと、勘違いしないでよ! お世話になった先生ってだけなんだから」

 セリカは大慌てで弁明した。ジークは面倒くさそうにため息をついた。

「それよりこれ、どっち行けばいいんだよ」

 彼が指差した正面は行き止まりで、道は左右に分かれていた。セリカはハンドバッグから小さな紙切れを取り出した。それを広げ、何度か回しながら眺める。

「えーと、この道の突き当たりね」

 彼女は左の道を指差した。その指を追いかけるように、ジークは左側に目を向ける。そして、その先を見て唖然とした。

「突き当たりって、あれか?」

「……あれみたい、ね」

 そこに建っていたのは、個人の邸宅とは思えないほど立派なものだった。建物は左右に分かれており、向かって右側は角張った小さな平屋、左側は緩やかな曲面で覆われた、ガラス張りの大きな二階建てである。その洗練された近代的な外観には、まるで生活感がない。ふたつの建物は、渡り廊下で繋がっていた。

「研究業って儲かるのか?」

「さぁ……」

 セリカも驚いているようだった。とまどいながら、門柱のボタンを押す。遠くでチャイムが鳴った。

 すぐに小さな建物の方の扉が開いた。白衣を着たひょろりとした男性が、中から姿を現した。まだ二十代後半くらいに見える。助手だろうか、とジークは思った。

「お久しぶりです、先生」

 セリカはその男性ににっこりと微笑みかけた。

「よく来てくれたね」

 男性も門を開きながら微笑み返した。

 どうやら彼がマーティン=ヘンリー本人のようだ。ジークは驚き、まじまじとその男を見た。白衣はくたびれ、くすんだ茶色の髪は、くせ毛なのか寝癖なのか、ところどころ大きくはねている。この冴えない男が名の通った研究者とは、にわかには信じがたい。

「先生のご自宅があまりに立派なので驚きました」

 セリカは感情を込めて言った。

「研究所も兼ねてるんだよ」

 男は照れくさそうにはにかんだ。

「あ、そうだわ。先生、こちらが先輩のジーク=セドラックです」

 セリカは思い出したようにジークを紹介した。ジークは先輩という言葉に違和感を覚えたが、一応、彼女の二学年上なので間違ってはいない。何かむずがゆかったが、あえて否定はしなかった。無言でその先生に一礼する。

「マーティン=ヘイリーです。よろしく」

 男は丁寧な口調で名乗り、痩せて骨張った右手を差し出した。ジークも右手を差し出し、ふたりは軽く握手を交わした。

「さあ、上がって」

 マーティンはにっこり笑って、ふたりを小さい方の建物へ招き入れた。


 三人は応接間に向かっていた。マーティンとセリカが並んで歩き、ジークはその一歩後ろをついていく。セリカはマーティンと思い出話に花を咲かせていた。というよりも、ほとんどセリカが一方的にしゃべっている状態だった。マーティンはにこにこしながら彼女の話を聞き、時折、相槌を打っていた。

 ジークは何気なく窓の外に目を向けた。その途端、目つきを険しくし、足を止めた。

「あっちは研究施設ですか?」

 前を歩くマーティンに、窓の外を指差して尋ねた。その指の先には大きい方の建物があった。

「そうだよ。私たちは研究棟と呼んでいる」

 マーティンは振り返って答えた。ジークは顎を引き、もういちどその建物を窺った。

「……見せて、もらえませんか」

「いいよ」

 マーティンはあっさり承諾した。力んでいたジークは拍子抜けした。絶対に渋られると思った。あの建物から感じたものは気のせいだったのか――? 釈然としない思考を抱えながら、しかめ面で腕を組んだ。

 一方、セリカは顔を輝かせ、無邪気に喜んでいた。

「わぁ、見せてもらえるんですか?」

 胸元で両手を組み、声を弾ませる。

 マーティンは目を細め微笑むと、研究棟へと繋がる廊下に案内した。


「すごい設備! アカデミー以上だわ」

 研究棟に入るなり、セリカは感嘆の声を上げた。くるりと一回転しながら、全体を見渡す。正面には大きな機械、小さな機械、反対側には器具や薬品を収納した棚、実験用と思われる小動物の飼育棚などが並んでいる。そのどれもが真新しい。彼女はマーティンに説明を求めながら、ひとつひとつじっくりと見てまわった。

「先生はおひとりで研究なさってるんですか?」

 彼女は大きな機械を覗き込みながら、背後のマーティンに尋ねかけた。

「まさか、助手をふたり雇ってるよ。今日は休日だからいないけどね」

「どうりできれいに片付いていると思いました」

「相変わらずきついなぁ、君は」

 マーティンは笑いながら言った。セリカも肩をすくめて笑った。だが、ジークはひとり険しい顔でうつむいていた。

「どうしたの? ジーク」

 その様子を目にしたセリカは、気遣わしげに声を掛けた。

「何でもねぇよ」

 ジークはぶっきらぼうに答えた。ポケットに手を突っ込み、取り留めなく歩きまわる。ここへ来たいと言い出したのは彼だが、あまり楽しんでいるふうには見えない。セリカには、彼の考えていることがさっぱりわからなかった。


 一通り研究棟をまわった後、三人は小さい方の建物に戻り、応接間へとやってきた。マーティンはお茶を用意すると言って、隣の台所へ入っていった。残されたふたりは、狭いソファに並んで座り、彼が戻ってくるのを待った。互いに前を向いたまま口を開こうとはしない。重苦しい沈黙が流れる。

「ビンゴかもしれねぇな」

「え?」

 ジークはぽつりと言葉を落としたあと、再び黙り込んでしまった。セリカは不安そうに彼の横顔を窺った。

「たいしたおもてなしは出来ないけど」

 マーティンがマグカップを三つ持って戻ってきた。三つとも形も柄も大きさも違う。それらを机の上に置き、ジークたちの向かいに腰を下ろした。

「お構いなく」

 ジークは素っ気なく言った。

「いただきます」

 セリカはにっこりと微笑んで、マグカップを口に運んだ。中は紅茶だった。濃すぎて少し渋いくらいに感じた。

「それで、私に何が聞きたいんだ? ジーク君」

 マーティンはマグカップ片手に尋ねた。ジークはまっすぐ彼を見据えた。

「どんな研究をしているか教えてもらえますか」

「遺伝関係なら何でも。今はゲノム塩基配列の解読と平行して、遺伝子疾患についての研究をしている」

 マーティンはさらりと答えた。難しい専門用語が並び、ジークにはよくわからなかったが、顔には出さないようにした。

「この分野の研究は、最近ようやく本格的に始まったばかりでね。専門で研究しているのは、今のところ、私を含めて三人だけだ。それだけ未開拓で研究のしがいがあるよ。何かと風当たりは強いけどね」

「風当たりって?」

 セリカは両手でマグカップを持ったまま尋ねた。

「倫理的な問題だ。神の領域だから踏み入るべきでないと主張する人は多い」

 マーティンは感情のない声で答えた。これまでとは違う客観的な口調だった。ジークはそのとき初めて、彼が研究者であることを実感した。

「それでも先生は、医学の発展のために頑張ってるんですよね」

 セリカはにっこりと微笑みかけた。マーティンは薄く笑みを浮かべ、目を伏せた。

「そんなにかっこいいものじゃないよ。ただの知的好奇心かな。だから、研究さえ続けられれば、それでいいんだ」

「そういえば、あの研究はどうなりました?」

 セリカは身を乗り出して尋ねた。

「ほらあれ、えっと、何でしたっけ。アカデミーを辞める前に言ってましたよね。もうすぐ論文が完成するって」

「ああ、あれね……あれは、駄目になったよ」

 マーティンはうつむき、曖昧に笑った。

「え? もう出来かけていたんじゃ……」

「上手くいかないこともあるよ」

「もしかして、圧力をかけられたんですか?」

 突然、ジークが口を挟んだ。

 マーティンははっとして顔を上げた。血の気の失せたその表情からは、あからさまな動揺が見て取れた。

「い……いや、違う。そうじゃない。失敗しただけだ」

「この家、まだ新しいようですけど、いつ建てられたんですか」

 ジークはさらに質問を畳み掛けた。マーティンは眉をひそめた。

「……何が言いたいんだ」

 ジークは答えの代わりに、じっと視線を送った。マーティンの額にじわりと汗がにじんだ。

「まさか君たちは彼らの手のものか? 何を探りにきた?! 私は何も……!」

 机に手をついて身を乗り出し、早口で捲し立てる。額から頬に、汗が伝って落ちた。

「先生? どうしたの? 彼らって……?」

 セリカは困惑し、怪訝に顔を曇らせながら尋ねた。

 彼女の声を耳にし、マーティンははたと我にかえった。肩を上下させ大きく息を吐くと、ソファの背もたれに身を預けた。吹き出た汗を、白衣の袖で拭う。

「すまない、ちょっとした勘違いだ。忘れてくれ……お茶のおかわりを持ってくるよ」

 そう言ってぎこちなく笑いながら、自分の飲んでいたマグカップを掲げて見せた。まだ中身は半分ほど残っていた。


 ジークは、台所に向かうマーティンの背中をじっと見つめた。そして、彼の姿が見えなくなると、隣のセリカにこっそりと耳打ちした。

「おまえ、10分ほどあいつを外に連れ出してくれ」

「え? どういうこと?」

 セリカはジークに振り向いた。だが、顔の近さに驚き、慌てて前に向き直った。

「気になることがあるんだ。調べたい」

 ジークの声は真剣だった。

「気になることって?」

 セリカも声を小さくした。少しうつむき、彼の方に視線を流す。

「研究棟の方に結界を張ってあったところがあっただろ」

「そうなの?」

「……おまえ、魔導の感覚が鈍ってるだろ」

 ジークは呆れたように、冷めた目を向けた。セリカは頬を赤く染めながら、眉をしかめた。

「だって仕方ないじゃない。それで? それが何?」

「怪しいだろ、結界まで張るなんて」

 ジークは当然のように言った。しかし、セリカは首を傾げた。

「研究者だもの。それくらいのもの、あるんじゃない? 未発表の研究に関するものとか。怪しいだなんて決めつけたら、先生に失礼だわ」

「だから、調べてみるって言ってんだよ。さっきのあいつの態度も気になるしな。何もなければそれでいい。だから頼む、10分だけ」

 ジークは思いつめたようにセリカに詰め寄った。すでに近かった顔が、さらに近くなる。

「そんなこと言われたって……」

 セリカは彼から逃げるように顔をそらすと、困ったように口を閉ざし、目を伏せた。


「すまなかったね」

 マーティンはにこやかに戻ってきた。右手のマグカップからは、白い湯気が立ちのぼり、甘い匂いがあたりに広がった。今度はココアだった。ソファに腰を下ろすと、それをひとくち飲んで息をついた。

 セリカは不意にすくっと立ち上がった。

「どうしたんだい?」

 マーティンはマグカップを机に置き、驚いたように彼女を見上げた。

 セリカはとびきりの笑顔を作って見せた。

「素敵なお庭ですね」

 明るい声でそう言うと、窓の方へと小走りで駆けていった。

「そうかい? 何も手入れしてないけど……」

 窓の外の庭は、雑草が伸び放題になっていた。

「あ、えっと……私、人工的な庭より、こういう野性的な方が好きなんですっ」

 セリカは懸命に取り繕った。ジークは無関心を装い、素知らぬ顔で紅茶を口に運んでいたが、内心はヒヤヒヤしていた。ただひたすら上手くいくことを祈っていた。

「ね、先生。いっしょにお庭を歩きませんか?」

 セリカは小首を傾げ、じっと彼の目を見つめて問いかけた。

 マーティンは答えに詰まっていた。複雑な面持ちで目を泳がせる。

「ね? いいでしょう?」

 セリカは少し甘えるように、もう一押しした。

 マーティンはふっと息を漏らした。

「わかったよ」

 そう言って優しく微笑み、腰を上げる。それから、ふと思い出したようにジークに振り向いた。

「あ、君もいっしょに……」

「俺はいいです。草にかぶれやすいんで」

 ジークはマーティンを遮って言った。

 真顔でスケールの小さな嘘をつく彼の姿がおかしくて、セリカは思わず吹き出しそうになった。慌てて下を向き、口元を手で押さえる。

 ジークは本棚を指差した。

「あの辺の本とか、貸してもらえますか? ここで読んでます」

「ああ……」

 マーティンは怪訝な表情を浮かべながらも、言われたとおり本棚から冊子をふたつ取り出し、ジークに手渡した。

「行きましょう、先生」

 セリカは飛びつくように彼の腕をとり、外へと急かした。部屋を出る間際、彼女はちらりと振り返り、こっそりジークにウインクした。


 空の青は濃く、降り注ぐ光は痛いくらいに強かった。むっとする草いきれの中を、ふたりは並んで歩いていた。踏みしめられた雑草が、カサカサパキパキと軽い音を立てている。

 セリカは後ろで手を組み、空を見上げていた。すらりとした細い脚に、細身の白いパンツがよく似合っている。ショートカットの明るい栗毛は、陽の光を受け鮮やかに輝き、長めの前髪は、風になびき微かに揺れている。

 そんな彼女を見て、マーティンは眩しそうに目を細めた。

「いいのかい、彼氏を放っておいて」

「彼氏? 違いますよ。ただの知り合いです」

「ずいぶん親しげに見えたけど……」

「先生、観察力が足りないんじゃないですか?」

 セリカは彼に振り向き、くすりと笑った。マーティンもつられて笑った。

「勉強、頑張っているかい」

「ええ、もちろん」

 セリカは胸を張って答えた。

「すまないね」

「え?」

 マーティンは申しわけなさそうな、儚い笑顔を浮かべた。

「途中で君たちを放り出してしまった」

「仕方ないですよ。研究が忙しくなったんですものね」

 セリカは優しく微笑んだ。

 マーティンは白衣のポケットに手を突っ込み、顔を曇らせうつむいた。

「私がアカデミーの教師を引き受けたのは研究費のため、ただそれだけだったんだ。ひどい話だろう?」

「辞めたのは研究費を調達する目処が立ったから、ですか?」

「ああ、ある人が私の研究を支援したいと申し出てくれてね。この家もその人に建ててもらったんだよ」

「良かったですね」

 セリカは屈託のない笑顔を見せた。マーティンは目を細めた。

「優しいね、君は、本当に……」

 そう言いながら、彼女に振り向く。そのとき、ふと、あることに気がついた。

「あれ、彼がいない」

 セリカの背後はちょうど応接間になっていた。窓ガラス越しに見える部屋の中には、どこにもジークの姿がなかった。机の上には無造作に冊子が置かれている。マーティンは応接間の方へと足を向ける。

「きっとお手洗いに行ってるんですよ」

 セリカは焦った。ちらりと腕時計を見る。まだ5分しか経っていない。

「でも、場所がわからないんじゃ……」

 マーティンは窓ガラスに手をつき、もういちど部屋の中を覗き込む。

「いいじゃないですか、ジークのことなんて」

「しかし……」

「先生!」

 セリカは後ろから抱きついた。

「セリカ……」

「私、先生のことが好きなんです!」

 なんとか引き止めようと、ついそんなことを口走ってしまった。しかし、これで少し持たせられるかもしれない。先生ならきっと、傷つけないように断ろうとするだろう。自分が食い下がれば、5分くらいは――セリカはそう思った。

「本当なのか?」

「え、ええ……」

「夢が叶った」

「え?」

 予想と違う反応に、彼女は狼狽した。彼の体にまわしていた手を放し、一歩、二歩、後ずさる。

 マーティンは背を向けたまま、抑えた声で噛みしめるように言った。

「私も、ずっと、君のことが好きだった」

 う、うそっ――。

 セリカは目を大きく見開き、呆然とした。頭の中がぐらぐらと揺れる。嘘をついて騙した罪悪感、泣きたいほどの謝罪の気持ち、この場から逃れたいという無責任な願い、あと5分の約束――。どう行動すればいいのか、答えは出ない。

「セリカ……」

 マーティンはまっすぐ彼女に向き直ると、優しくその名を呼んだ。そして、肩にそっと手をのせ、濃い蒼色の瞳をじっと覗き込んだ。


 ジークは応接間を抜け出し、研究棟へ来ていた。脇目も振らず、目をつけてあった場所へと向かう。そこはフロアの隅だった。取り立てて何かがあるようには見えない。だが、魔導を使える人間ならば、床の表面に張られた不可視の結界に気付くだろう。

 床には金属がふたつ、並んではめ込まれていた。それらの間に一本、そして、囲むように四方に切れ目が入っていた。金属は引き出すと把手になり、床が開くようになっているものと思われる。中は収納、もしくは地下室といったところだろうか。

 ジークはまず結界を解除することにした。そうしないと、把手に触れることもできない。彼にとっては難しい結界ではなかった。小さく呪文を唱え、そっと結界に手を触れる。その瞬間――。


 ドン!!


 マーティンははっとして振り返った。研究棟の方から、灰白色の煙が薄く上がっていた。ここからは何が起こったのか、確認することができない。彼はセリカを放し、険しい表情で駆け出した。

「あ……待って!」

 セリカは呆然としていたが、我にかえると、慌ててそのあとを追いかけた。走っているうちに、次第に頭が冴えてきた。

 まさか――。

 鼓動が速く強くなっていく。湧き上がる嫌な予感を払うように、きゅっと目をつむり、頭を横に振った。


 ふたりは研究棟へ駆け込んだ。爆発は奥の方で起こったようだ。天井とガラス窓が一部、崩れ落ちている。広い机や大きな機械の陰になっていて、爆発が起こったと思われる部分はよく見えない。急ぎ足で近づく。

 黒く焦げた瓦礫とガラスの破片が、小さな山となっている。その脇で、体を丸めながら倒れている人影が見えた。

「ジーク!!」

 セリカが悲鳴のような声を上げた。駆け寄って抱き起こそうとした。しかし、彼はそれを制止し、自力で起き上がった。

「大丈夫だ。とっさに結界、張ったから」

 彼の体に大きな傷は見当たらなかった。顔と手にいくつかかすり傷がある程度である。セリカはほっと安堵の息をついた。

「トラップか?」

 ジークは少し離れて立っているマーティンに尋ねた。彼は固い顔で頷いた。

「ああ、防犯システムを切らずに結界を解除すると、爆発する仕組みになっている」

「危なすぎるだろ! 死ぬところだったぞ!」

「君はやはり彼らの手のものだったんだな!」

 マーティンはジークを睨んだ。だが、その瞳には怯えの色が浮かんでいた。

 ジークは落ち着いた声で尋ねた。

「彼らってラグランジェ家ってことか?」

「何をとぼけている」

 マーティンは眉をひそめた。額にうっすらと汗が滲んでいる。

「とぼけてねぇよ。俺はそのラグランジェ家のことを調べてるんだ。おまえはラグランジェ家とどんな関係があるんだ」

「か……関係などない」

「おまえこそ、今さら何とぼけてんだよ」

 ジークはマーティンのまわりに結界を張った。四角く、薄青色の光が浮かび上がる。マーティンは驚いてそれに手を伸ばした。だが、光が壁となり通り抜けることは出来なかった。

「何のつもりだ」

「そこで大人しくしてろ。この地下室にあるんだろ、その証拠が」

 ジークは爆発で大きく崩れた穴から、下の地下室に飛び降りた。


 そのフロアには、セリカとマーティンがふたりきりで残された。マーティンはため息をつき、床に座り込んだ。

「先生……あの……」

 セリカは泣きそうな顔で立ち尽くしていた。マーティンはうなだれたまま、寂しそうに笑った。

「私を足止めするための嘘だったんだろう」

「ごめんなさい……」

 セリカはそれ以外の言葉を見つけられなかった。何を言っても、自分を正当化するための言い訳にしかならない。うつむいて唇を噛みしめる。

「馬鹿みたいだったね、ひとりで舞い上がって」

 マーティンはぼそりと言った。そして、視線を上げると、微かに口元を緩めた。

「でも、いい思い出ができたよ。君が忘れるのは自由だが、私に忘れろとは言わないでくれよ」

「先生……」

 セリカは口元に手を添え、目を閉じた。目蓋の内側が熱くなった。


「これだな」

 ジークはクリップで止められたいくつもの紙束を抱えて、地下室から戻ってきた。その表紙は、タイトルと日付が入っていたと思われる部分が黒塗りにされていた。地下室に置いてあったそれらしきものは、これだけだった。他は、埃を被った机や椅子などの大きな家具ばかりである。

「ラグランジェの圧力を受けて、この論文の公表を取りやめた。そして、その代わりに研究の金銭的援助をしてもらうことにした。違うか?」

 ジークは紙束のひとつを掲げて尋ねた。

 マーティンは床に座り込んだまま彼を一瞥すると、小さく笑い、肩をすくめた。

「論文とそれに関係する一切の物は、彼らに渡したことになっている。それらと引き換えに援助をしてくれることになったんでね。だから、それがここにあると知れたら、私は研究を続けられなくなる」

「ジーク……」

 セリカはすがるようにジークを見た。だが、ジークは彼女を相手にしなかった。まっすぐマーティンだけを見据え、質問を続ける。

「この研究とアンジェリカとは、どういう関係があるんですか」

「アンジェリカ? 誰だそれは」

 マーティンは無表情で尋ね返した。ジークは眉をひそめた。

「本当に知らないのか?」

「私は自分の研究をしただけだ。たまたまそれがラグランジェ家にとって都合が悪かった、というだけだろう」

 マーティンは淡々と言った。嘘をついているようには思えない。ジークは難しい顔でうつむくと、じっと考え込んだ。

「悪いですけど、これは借りていきます」

 低く抑えた声でそう言い、紙束を脇に抱える。

「俺、ラグランジェ本家の当主と知り合いなんで、今度はそっちから支援してもらえるように頼んでみます。了承してもらえるかわかりませんけど、ルーファスよりは話せる人だと思うんで……」

「何を言ってるんだ、君は」

 マーティンは奇妙な面持ちでジークを見上げた。

「本当です。ジークはラグランジェ家の当主と知り合いです」

 セリカが援護した。しかし、マーティンの表情は変わらなかった。

「そうじゃない。私の論文を揉み消し、取引を持ちかけてきたのが、そのラグランジェ本家の当主なんだが」

「え?」

 ジークとセリカが同時に声を上げた。マーティンは静かに付け加える。

「サイファ=ヴァルデ=ラグランジェだよ」

 ジークは大きく目を見開いた。抱えていた紙束が、バサバサと床に滑り落ちた。


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