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79. それぞれの覚悟

「おはよう」

 アンジェリカは校門前のジークとリックに駆け寄ると、いつものようににっこりと挨拶をした。だが、ふたりの反応はいつもとは違った。リックは目をぱちくりさせて尋ねた。

「家出でもするの?」

「違うわよ!」

 アンジェリカは肩をいからせて言い返した。

「少し大きな荷物を持っているだけで、どうしてすぐに家出って思われてしまうのかしら」

 腕を組み、不満げに眉根を寄せる。その背中には大きなリュックサックが負われていた。少しどころではなく、かなり大きい。彼女自身がすっぽり入ってしまうくらいだ。どう考えても、アカデミー通学には相応しくない鞄である。

「リック、この前はどうして来てくれなかったの? 楽しみにしていたのに」

 彼女は顔を上げ、思い出したように言った。彼女が言っているのは、ジークの家で手料理を作ったときのことだ。それが一昨日で、きのうも休日だったため、リックと顔を会わせるのは、その後、初めてである。

「ごめんね、急に用事が出来ちゃって」

 リックは申しわけなさそうに微笑んだ。詳しい内容は言わなかった。

「もしかして、セリカに関係があるの?」

 アンジェリカはそんな気がして、何となく尋ねた。別に、だからどうというつもりもなかった。だが、リックはそれに答えようとはしなかった。

「ごめんね」

 にっこりと謝るだけで、肯定も否定もしなかった。

「まあ、いいけど」

 アンジェリカは、彼の態度に引っかかるものを感じながらも、おとなしく引き下がった。これ以上の追求は無駄だと悟ったのだ。セリカに気を遣っているのだろう、そう思うことにした。


 ジークは心配そうに彼女を見つめていた。

 あの夜、アンジェリカは屋根の上で意識をなくした。そして、そのまま翌日の昼過ぎまで眠り続けた。だが、目を覚ましたときには、すっかり元気を取り戻していた。

「起こしてくれればよかったのに。だいぶ寝過ごしちゃった」

 小さく肩をすくめ、笑いながらそんなことを言っていた。

 結局、何が原因なのか、何が起こったのか、ジークにはわからないままだった。ただ、あの夜の彼女の状態は、普通ではなかった。確かなことはそれだけだ。

 サイファにはまだ言っていない。その機会がなかったからだ。だが、言うべきかどうかも迷っていた。今の彼女を見ていると、あのときはただ疲れていただけかもしれない、そう思えてくる。それでも一応、知らせておいた方がいいのだろうか――。


「それで、その荷物は何なの?」

 リックは非常識なリュックサックを指さして尋ねた。アンジェリカはにこにこして答えた。

「今日はユールベルのところへ行くのよ」

「本気か?!」

 今まで黙り込んでいたジークが、突然、大声で割り込んできた。リックを押しのけ、慌てた様子で詰め寄る。しかし、彼女は嬉しそうに、明るく声を弾ませた。

「ええ、料理も作るの。楽しみだわ」

「ダメだ!」

 ジークは強く言った。だが、彼女は涼しい顔で切り返した。

「もう約束したもの」

「どうしてもっていうなら、俺も一緒に行く」

 ジークは負けじと食らいついた。

「私はユールベルとふたりきりで話がしたいの」

 アンジェリカは口をとがらせた。

「ダメだ!」

 あんなことがあったすぐ後だ。何がなんでも止めなければならない。ユールベルとふたりきりなんて――。ジークは必死だった。

 アンジェリカはますます不機嫌になった。眉根を寄せ、ジークを睨みつける。

「どうしてジークにそんなことを言われなければならないの? お父さんとお母さんの許可は取ったのに」

「え……」

 ジークは何も言えなくなった。まさか、両親の許可を取っているとは思わなかった。ユールベルとふたりきりなんて、よく許したものだ。心配ではないのだろうか。ジークは不思議でならなかった。

「行ってもいいのね?」

 アンジェリカは下から覗き込んで尋ねた。

「あ、ああ、まあ……」

 ジークは困り顔で口ごもった。

 アンジェリカはにっこりと満面の笑みを浮かべた。

「良かった」

 そう言うと、重そうなリュックサックを揺らしながら、軽い足どりで校舎へと駆けていった。

 ジークとリックも、彼女を追って駆け出した。


 キーン、コーン――。

 何ごともなく夕方になり、終業のチャイムが鳴った。

「今日はここまでだ」

 ラウルは教本を閉じ、授業を切り上げた。彼の授業は、どんなにきりが悪くても、必ずチャイムとともに終わる。このことに関しては、クラスの誰もが好評価をしていた。彼は無造作に教本と抱えると、焦茶色の長髪を揺らし、大きな足どりで出ていった。そのとたん、教室は賑やかになった。いつもと変わらない日常の光景だ。

 アンジェリカは嬉しそうに、大きなリュックサックを背中に担いだ。

「じゃあね。私はユールベルの家に行くから」

「ああ、無理すんなよ」

 ジークは鞄に教本を投げ込みながら、素っ気なく答えた。だが、それは繕ったもので、本当は心配で胃に穴が開きそうだった。

 アンジェリカはにっこり微笑むと、手を振って教室を出ていった。彼女の大きなリュックサックは、常にまわりの注目を集めていたが、彼女自身はまるで気づいていない様子だった。

「行かせてよかったの?」

 リックは鞄を肩に掛けながら、ジークの席へやってきた。

「仕方ねぇだろ」

 ジークはため息まじりに答えた。そして、鞄を掴み、立ち上がった。

「リック、おまえは先に帰ってろ」

「どこへ行くの?」

 リックは不安を顔いっぱいに広げた。まさか、こっそりとユールベルの家に行って、覗きや盗み聞きをするつもりでは――。思いつめた今のジークならやりかねない。疑惑の目で彼を見る。

「おまえ、何か勘違いしてねぇか?」

 ジークは眉をひそめて振り返った。

「サイファさんのところだよ」

 そう言って、王宮の方向を指さした。


「君の方から会いに来てくれるなんて、嬉しいよ」

 サイファは椅子から立ち上がり、机の上に散乱した書類を片づけ始めた。ここは魔導省の塔、その最上階にあるサイファの個室である。彼の背後の大きなガラス窓には、青い空と赤い空、それらを繋ぐグラデーション、そして、傾きかけた太陽が映し出されていた。

「アンジェリカの手料理はどうだった?」

 サイファは手を止めずに尋ねた。

「あ、はい、おいしかったです」

 ジークは不意の質問に少し慌てた。答えてしまってから、もっと感情のこもった言い方は出来なかったものかと後悔した。

 しかし、サイファはその答えで十分に満足しているようだった。

「そうだろう」

 声を弾ませ、満面の笑みをたたえた。

「それで、何の話だい? あ、座っていいよ」

「はい」

 ジークは示されたパイプ椅子にゆっくりと座った。気をつけたつもりだったが、それでもギギッという耳障りな軋み音は止められなかった。

 机の上は大雑把に片づいた。サイファはようやく手を止め、大きな椅子に腰を下ろした。ひじを机につき、両手を組むと、深い蒼色の瞳をまっすぐジークに向けた。

 ジークはびくりとした。心の中を探られているかのように感じた。

「アンジェリカのことなんですけど」

 少し早口でそう切り出した。サイファはじっと彼を見つめたまま、無言で次の言葉を待った。

「その、料理を作りに来た夜、話している途中で眠るように意識をなくしたんです。次の日にはちゃんと、ていうか昼頃に目を覚ましたんですけど……。疲れていただけかもしれませんが、少し気になって……」

 ジークはそこまで一気に話すと、心配そうに顔を曇らせた。膝にのせた手を握りしめる。

 サイファはわずかに目つきを険しくした。

「そのとき、何の話をしていたんだ?」

「えっと……確か、就職の話だったと思います」

 ジークは考えながら答えた。

「そうか」

 サイファは小さく息をつき、革の背もたれに身を預けた。ゆっくりと顔を上げ、目線を天井に向ける。

 ジークはそれを見て、不安が湧き上がった。

「あの……」

「教えてくれてありがとう。大丈夫だとは思うが、気をつけて様子を見るよ」

 サイファは体を起こし、にっこりと笑いかけた。だが、ジークは笑顔を返せなかった。責めるように尋ねる。

「心配じゃないんですか。そんな状態でユールベルのところへ行かせて」

「何かあれば、彼女が連絡をくれるだろう」

 サイファは冷静に答えた。

 ジークは難しい顔で、目を伏せた。サイファがそこまでユールベルを信用していることが意外だった。いや、いつまでも過去のことにこだわっている自分の方がおかしいのかもしれない。今のユールベルは、確かにもう危険ではないと思う。だが、アンジェリカとふたりきりにするには、やはり抵抗がある。ジークはそんな考えの間で揺れていた。

「そうだ、ジーク、今からうちに来ないか?」

 サイファは突然、思いついたように言った。ジークはきょとんとした。

「実は、既にひとり来ることになっていてね。君が来てくれると、彼も喜ぶだろう」

「彼?」

 怪訝に尋ね返す。

 サイファは口元に笑みをのせ、椅子から立ち上がった。

「ちょうど来たようだ」

 タタタ……と軽快な足音が、遠くから近づいてきた。ジークもつられて腰を上げ、音のする方を振り返った。それとほぼ同時に、ガシャンと弾けるように扉が開く。

「こんにちは!」

 溌溂とした元気の良い挨拶とともに、金髪の少年が飛び込んできた。

 ジークはその少年を指さし、記憶をたどりつつ口を開いた。

「おまえは確か……」

「あれ? ジークさん?」

 少年はくりっとした青い目をぱちくりさせた。


「こんにちは」

 戸口で出迎えたユールベルに、アンジェリカはにこやかに挨拶をした。ユールベルは、包帯で覆われていない方の目で、彼女の背負っているものをじっと見つめた。

「あなた、家出してきたなんてことは……」

「違うわよ!」

 アンジェリカは思いきり頬を膨らませた。そして、むすっとしたまま、無遠慮にすたすたと中に進んだ。ここへは一度、遊びに来たことがあるので、間取りは知っている。ユールベルの案内は不要だった。

 リビングルームに入ると、アンジェリカはリュックサックを下ろした。

「これは、今日の夕食の材料とお泊りに必要なものよ」

 ファスナーを開け、中を覗き込み、両手を突っ込む。

「あと、これ……」

 そう言いながら、上目遣いでユールベルを見ると、そこからガラスの瓶を取り出して掲げた。赤みがかった黒色のボトルに、金と銀で箔押しされた、上品な薄赤色のラベルが貼られている。

「それ、お酒?」

 ユールベルはぽつりと尋ねた。アンジェリカはにっこり微笑んだ。

「どれが美味しいかわからなかったから、適当に持ってきちゃった」

 ユールベルはため息をついた。

「おじさまは知っているの?」

「まさか。告げ口する?」

「わざわざそんなことしないわ。でも、聞かれたら正直に答えるわよ」

「ええ」

 アンジェリカは肩をすくめながら、ボトルを机の上に置いた。

「弟はいないって言っていたけど、どうしたの?」

 ユールベルはソファに腰かけた。

「おじさまのところへ行っているわ。つまり、人質ってことね」

 感情のない声で、淡々と答える。アンジェリカは腰に手をあて、軽くため息をついた。

「素直じゃないわね。お父さんのことは、信頼しているんでしょう?」

「ええ、でも、おじさまは私のことを信用していないのよ」

 ユールベルはまっすぐ前を向いて言った。

「勘違いしないで。悲観しているわけじゃないし、責めているわけでもない。おじさまがそうするのは当然だと思っているわ」

 アンジェリカの顔がわずかに翳った。

「そんなつもり、ないと思うけど……」

 そこでいったん言葉を切ると、軽く息をつき、腕を組んだ。

「まあいいわ。どちらにしろ、何も起こりはしないもの、ね」

「ええ、そうね」

 ユールベルは無愛想に答えた。

 アンジェリカは気を取り直し、笑顔を作った。

「それじゃ、さっそく夕食を作るわね。作るっていっても、お手軽なパスタなんだけど」

 そう言いながら、フリルのついた淡いピンクのエプロンを身につけた。そして、重いリュックサックを抱え、パタパタと台所へ向かった。


「お帰りなさい」

 レイチェルはリビングルームから姿を現すと、高く澄んだ声で出迎えた。いつものようにロングドレスを身にまとっている。ウェストがきつく締められ、スカートが腰から丸く膨らんだ形のものだ。

「ただいま」

 サイファは優しい笑顔で応えた。

「あら、ジークさん?」

 レイチェルは大きく瞬きをし、少し語尾を上げて言った。サイファの後ろには、ジークとアンソニーが立っていた。アンソニーが来ることは聞いていたが、ジークのことは知らなかった。

 ジークはぺこりと頭を下げた。動作がややぎこちなかった。サイファとはよく会っていたが、レイチェルとはしばらくぶりに顔を会わせる。そのため緊張していたのだ。

「いらっしゃい」

 レイチェルは華やかに微笑みかけた。

 ジークは微かに頬を染めながら、引き寄せられるように彼女を見つめた。

 ――ドクン。

 彼の鼓動は強く打った。

 澄んだ大きな瞳、意志の強そうな目元、柔らかそうな頬、小さな口――。

 そのどれもが、アンジェリカとよく似ていると感じたのだ。レイチェルは変わっていない。アンジェリカがレイチェルに似てきたのだろう。それだけアンジェリカが成長したということかもしれない。もっとも、まだまだ成長の追いついていない部分もあるが――。

「ジークさん?」

 レイチェルは小首を傾げて、尋ねるように呼びかけた。

 ジークははっとして我にかえった。

「あ、いえ、よろしくお願いします」

 慌てふためいて耳元を真っ赤にしながら、もういちど頭を下げた。

「僕、夕食の準備をしにいっていいですか?」

 隣のアンソニーが、落ち着きなく尋ねた。待ちきれないといった様子である。

「どうぞ」

 レイチェルは笑いながら答えた。

 ジークは驚いてアンソニーに振り向いた。

「おまえが作るのか?」

「ジークさんの分もちゃんと作ります」

 人なつこい笑顔でそう言い残し、台所へと駆けていった。

 ジークは小さく息をついた。彼の料理好きは知っていたが、まさかここに来てまで作るとは思わなかった。

「大丈夫だよ。彼はなかなかいい腕をしているから」

 サイファはそう言いながら、濃紺色のコートを脱いだ。レイチェルはそれを受け取ろうと手を伸ばした。そのとき――。

 グイッ。

 サイファはその手を強く引いた。長い金色の髪がふわりと揺れる。彼女は倒れこむように彼の胸に寄りかかった。彼女はきょとんとしていたが、サイファは何の説明もせず、彼女の細い腰に手をまわしてぐっと引き寄せた。そして、顎を軽く持ち上げると、小さな唇に口づけをした。ふたりの足元に、ばさりとコートが落ちた。

 ジークは棒立ちのまま固まった。あまりに突然のことに面くらった。どうすればいいのかわからなかった。目のやり場に困ったが、あからさまに逸らすことも出来なかった。

 サイファはゆっくり顔を離すと、彼女の肩に手をのせた。大きな蒼い瞳を見つめたまま、流れるような横髪を撫で、愛おしげに微笑みかける。レイチェルも彼から目を逸らすことなく、にっこりと微笑み返した。

 サイファは床に落ちたコートを拾い上げ、無言でレイチェルに手渡した。そして、踵を返すと、足早にリビングルームへ向かっていった。彼の端整な横顔はきりりと引き締まっていた。そこから彼の思考を読み取ることはできなかった。

「ごめんなさい、驚かれたでしょう?」

 レイチェルは肩をすくめて、くすりと笑った。

「いえ……」

 ジークはきまり悪そうに答えた。だが、話しかけてくれて少しほっとしていた。

 レイチェルはそっと彼に歩み寄り、顔を近づけた。

「サイファ、子供みたいなところがあるの」

 声をひそめてそう言うと、立てた人差し指を唇に当て、片目を瞑って見せた。

 ジーク頬を赤らめながら、少し体を反らした。冷静に頭を働かせることができなかったせいか、彼女の言わんとするところがさっぱりわからなかった。


「お待たせ」

 アンジェリカはふたり分のパスタとサラダを机に並べると、ユールベルの隣に腰を下ろした。柔らかいソファは大きく沈み、彼女をふんわり包み込むように支えた。

「いよいよね」

 嬉しそうに声を弾ませると、家から持参したワインのボトルを手にとった。コルク栓を抜くところは何度も見たことがあったが、実際にやるのは初めてだった。コルク抜きをねじ込み、力を込めて引っ張る。見よう見まねだったが、なんとか抜くことができた。多少、不格好だったものの、特に問題はない。

 グラスを近くに引き寄せ、ワインを注いでいく。ワイングラスはなかったので、ユールベルがいつも使っているストレートのグラスである。

「きれいな色……」

 ユールベルはようやく口を開いた。グラスに注がれた液体は、赤寄りのピンク色をしていた。見事なくらい透きとおっている。緩やかに揺れる表面は、電灯の光を受け、きらきらと輝きを放っていた。まるで宝石のようだ。

「乾杯しましょう」

 アンジェリカはユールベルにグラスのひとつを手渡した。彼女は無表情で受け取った。

「それじゃ、乾杯」

 アンジェリカはにっこり微笑んだ。自分のグラスを、ユールベルのグラスに重ねる。カン、と短い音が、鈍く響いた。

 ユールベルはひとくち流し込むと、グラスを置いた。フォークを手に取り、パスタの皿を引き寄せる。茄子のトマトソーススパゲティだった。トマトの鮮やかな色が、食欲を刺激する。彼女は少しづつフォークに巻きつけ、口に運んだ。茹で加減も、味の濃さもちょうど良かった。アンジェリカが夕食を作ると言い出したときには、まともなものが作れるのか疑っていたが、出されたものは意外にもまともすぎるくらいのものだった。少し見直した――そう思って、隣の彼女に目を向けた。

 アンジェリカはグラスの中の液体を覗き込んでいた。固い表情だった。ワインには、まだ口をつけていないようだ。しかし、覚悟を決めたように頷くと、ぐいっとグラスを傾けた。

 ごくり。

 喉が小さく動き、ワインを飲み込んだ。

 彼女は次第になんともいえない表情になり、首を傾げて口を開いた。

「……思っていたのとまるで違う味……甘くないのね」

 眉根を寄せ、じっとグラスを見つめる。

「麻酔薬にお酢と唐辛子を入れたみたいな感じ」

「あなた、味覚は大丈夫?」

 ユールベルは半ばあきれたように、半ば心配そうに尋ねた。アンジェリカの言葉は、ワインの味を表現したものとはとても思えなかった。第一、麻酔薬を飲んだことなどあるのだろうか。

「喉が焼けるように熱いわ。舌もしびれてきたみたい」

 アンジェリカは胸元を押さえ、顔をしかめた。

「無理することはないわ。やめた方がいいわよ」

 ユールベルはワインを口に運びながら、淡々と忠告した。

 アンジェリカは挑発されたように感じた。ムッとして強気な表情になる。

「平気よ、グラスに注いだ分くらい、きちんと飲みきるわ」

 力をこめてそう言うと、もういちど口をつけた。だが、彼女のグラスの中身は、ほとんど減っていなかった。


 ユールベルはパスタを食べ終わり、ソファにもたれかかりながら、のんびりとワインを飲んでいた。二杯目である。一方、アンジェリカはまだ一杯目と格闘していた。少しづつ口に運び、ようやく半分くらいになったところだ。

「何か、話があるんでしょう?」

 ユールベルはグラスを机に置き、そう切り出した。そもそも、アンジェリカの当初の目的は、料理でもワインでもなく、話をするため、だったはずだ。

「えっ? あ、そうだったわ」

 彼女は一瞬、きょとんとした表情を見せたが、すぐにユールベルの言葉を飲み込んだ。グラスをそっと机に置くと、ソファの背もたれに身を預け、まっすぐ前を見つめた。そして、小さな口を開き、凛とした声で言った。

「私、ラグランジェの本家を継ぐことになったの」

 ユールベルは右目を大きく見開いた。アンジェリカは天井を仰ぎ、静かに畳み掛ける。

「ラグランジェの誰かと結婚して、新しい後継者を産んで、育てるの」

「ジークは知っているの?」

 ユールベルは感情を抑え、冷静に尋ねかけた。

 アンジェリカは首を横に振った。

「まだ言っていないわ」

「いつ言うつもりなの」

 ユールベルの口調が少しきつくなった。アンジェリカは儚い笑顔を浮かべた。

「私が自由でいられるのは、アカデミー卒業までなの。だから、卒業式の日に言おうかなって」

「それでいいの? いえ、あなたが良くてもジークが良くないわ」

 ユールベルの口調はますますきつくなった。責めているかのようだった。

 アンジェリカは視線を落とした。

「そうね、きっとジークを怒らせることになるわね。嫌われるかもしれない。でも、いっそ、その方がいいのかも……」

「あなたのことを嫌いになれれば、ジークも楽でしょうけど」

 ユールベルは腹立たしげに、突き放すように言った。

 アンジェリカは困惑して顔を曇らせた。

「一生、会えないってわけじゃないのよ。ジークは王宮で働くことになると思うし……」

 ユールベルは鋭く睨んだ。

「一生、会えないよりも、余程つらい目を見るわよ」

「えっ?」

 アンジェリカは目を大きくして、不思議そうな顔をした。

 ユールベルはため息をつきながらうつむき、額を押さえた。

「ごめんなさい、わかっているわ。あなたがこうするしかなかったってこと」

 わずかに頭を振りながら、沈んだ声を落とす。後頭部で結んだ白い包帯が、小さく揺れた。

「でも、どうして私にこんな話をするの?」

 ゆっくりと顔を上げ、険しい視線をアンジェリカに向ける。

「まさか、ジークを譲るなんて言い出すつもりじゃないでしょうね」

「ジークは物じゃないわ。譲るも譲らないもない」

 アンジェリカは真面目な顔で彼女を見つめ、落ち着いた声で言った。

 今度はユールベルが顔を曇らせた。確か、アンジェリカには以前にも同じようなことを言われた。そう、自分はこういう発想しかできない、とても浅ましい人間なのだ。しかし、それはずっと前から気がついていたこと。ユールベルはうつむき、自嘲ぎみに笑った。

「私の結婚相手、まだ決まっていないみたいなの」

 アンジェリカは話を本筋に戻した。

「レオナルド……かもしれない」

 ぽつりと落とされたその名前を聞いて、ユールベルは大きく目を見開いた。何も言葉が出てこなかった。

「可能性としては、いちばん高いと思うの。年齢的に合う人って、他に思い浮かばないし、レオナルドは過去にも候補に挙がったことがあるもの」

 アンジェリカはまるで他人事のように、推論を披露する。

「どうなるかわからないけれど、あなたにはあらかじめ言っておいた方がいいと思って」

「そう……」

 ユールベルはやっとのことで相槌を打った。

「もしかしたら、あなたにとってはその方が都合がいいかしら」

 アンジェリカは口元に人差し指を添え、斜め上に視線を流した。ユールベルは怪訝に眉をひそめたが、アンジェリカは真顔で彼女に振り向いた。

「あなた、レオナルドと一緒にいても、少しも幸せそうじゃないもの。嫌なら嫌って言った方がいいわよ」

 ユールベルはうつむいて目を閉じた。

「怖いのよ」

 アンジェリカは不思議そうに首を傾げた。

「レオナルドが?」

「ひとりになることが、よ」

 ユールベルは顔を上げ、目を細めた。

「私のことを見てくれるのは、レオナルドだけだもの」

「そんなことないんじゃない? お父さんだって、ラウルだって、あなたのことを気に掛けているわ」

 アンジェリカは即座に反論した。ユールベルはゆっくりと首を横に振った。

「そうじゃないの。あなたにわかるように説明できないけれど……」

「どういうこと?」

 アンジェリカは覗き込むようにして尋ねた。ユールベルは遠くに目を向けて答える。

「私は、あなたほど純粋じゃないもの」

「なにそれ、バカにしているの?」

 アンジェリカはムッとして、強い口調で問いただした。しかし、ユールベルはふっと寂しげに笑っただけで、何も答えなかった。

 アンジェリカはますます頭に来た。完全にバカにされていると思った。何もわからないことが腹立たしさを倍増させる。腹立ちまぎれに、半分ほど残っていたワインを一気に飲み干した。ガン、と叩きつけるように、空になったグラスを机に戻す。

「それで、レオナルドと私が結婚することになったら、あなたどうするの?」

 アンジェリカは喧嘩腰で詰問した。

「どうもしないわ。どうしようもないでしょう」

 ユールベルは抑揚なく答えた。

 アンジェリカはソファに手をついて身を乗り出し、彼女にぐいっと顔を近づけた。真剣な面持ちで、囁くように尋ねる。

「祝福してくれる?」

「してほしいの?」

「ええ、どうせなら」

 アンジェリカはにっこりと頷いた。

「変わっているわね、あなた」

 ユールベルはあきれたように言った。ため息をつき、グラスを手にとろうとする。

 そのとき、ふいに肩に重みがかかった。

 驚いて振り向くと、アンジェリカがくてんと倒れるように寄りかかっていた。

「酔ったの?」

 ユールベルは彼女の様子を窺った。その視線は、何もない空間に向けられていた。焦点が定まらないというわけではない。目に見えない何かを見据えているようだった。

「せめて、あなたとは、ずっと友達でいたいわ」

 彼女の大きな瞳から、一筋の涙が頬を伝って落ちた。


 今ごろあいつ、どうしてるかな――。

 ジークはベッドにごろんと寝転がり、ぼんやりとそんなことを考えていた。

 ここはラグランジェ家のゲストルームである。夕食をごちそうになり、その後すぐに帰ろうとしたが、サイファに強く引き止められ、断りきれず泊まっていくことになったのだ。


 ――コンコン。

 扉が小さくノックされた。

「はい」

 ジークは慌てて起き上がり、姿勢を正した。

「ジークさん」

 扉がガチャリと開き、アンソニーが入ってきた。人なつこい笑顔を見せている。

「なんだおまえか」

 ジークはふうと息を吐き、体から力を抜いた。

 アンソニーはにこにこしながら、ジークの隣にちょこんと腰かけた。

「僕のパスタ、おいしかったですか?」

「ああ、うまかったよ」

 ジークはぶっきらぼうに答えた。

「今度はもっと手の込んだものを作りますね」

 アンソニーは屈託なく言った。だが、今度といっても当てはない。

「何しに来たんだよ、おまえ」

 ジークはため息まじりで尋ねた。背中を丸め、面倒くさそうに頬杖をつく。

 アンソニーはにっこりと微笑んだ。

「僕たちの将来について話し合うためです」

「はぁ?」

 ジークは素頓狂な声を上げた。

「今日ここで会えたのも、天のお導きです」

 アンソニーは両手を組んで、うっとりと顔を上げた。ジークはぽかんと口を開けた。

「……おまえ、アタマ大丈夫か?」

 アンソニーは途端に真面目な顔になり、ジークに振り向いた。

「僕のお兄さんになってください」

「何だよそれ」

「つまり、姉さんをお願いしますってことです。姉さんと結婚すれば、ジークさんは僕のお兄さんです」

 人差し指を立て、なぜか得意げに説明する。

 ジークは額を押さえ、大きくうなだれた。頭痛がしてきた。

「レオナルドなんかじゃダメなんです。一緒にいても、姉さん、少しも幸せそうじゃないし。姉さんにはきっとジークさんみたいな人がいいんです」

 アンソニーは力説した。ジークは疲れたようにため息をついた。

「あのな、そういうことは他人が頼むようなことじゃねぇだろ」

「他人じゃなくて、きょうだいです」

「本人じゃねぇって意味だよ」

「姉さんは奥ゆかしい人だから、僕が頑張らないと幸せになれないと思うんです」

 アンソニーは次々と淀みなく言い返してきた。

 ジークは奥ゆかしいという形容に疑問を感じたが、あえて反論はしなかった。アンソニーに背を向け、ごろんと寝転がった。ベッドのスプリングが微かに軋んだ。

「いくら頼まれても俺は無理だからな。他を当たれ」

 突き放すように言い放つ。

 アンソニーは困ったように顔を曇らせた。

「どうして? 姉さんのこと、嫌いですか?」

 ジークは背を向けたまま、ゆっくりと口を開いた。

「……俺にはいるんだ、大切な奴が。何があっても、そいつとずっと一緒にいるって、そう決めたんだ」

 訥々と言葉を落としていく。その声は静かだったが、内に秘めた強い決意がにじんでいた。

「姉さんには、少しの望みもないんですか?」

「ない」

 アンソニーの質問に、ジークは迷いなくきっぱりと答えた。

 アンソニーは一瞬うろたえた。軽く握った右手を口元に当てると、じっと考え込んだ。沈黙が続く。やがて、ふっと表情を緩め、にっこりと微笑んだ。

「わかりました。仕方ないですよね」

 物わかりの良い態度に、ジークは安堵した。彼としても、これ以上きついことは言いたくなかった。

「じゃあ、せめて誰だか教えてください。ジークさんが心に決めた人」

 アンソニーはニコニコして尋ねた。ジークを覗き込もうと首を伸ばす。

「何でおまえにそんなことまで言わなきゃなんねぇんだよ」

 ジークは顔を隠すように、背中を丸めた。

 アンソニーはわずかに首を傾げた。

「アンジェリカ、ですか?」

「……知ってんなら聞くなよ」

 ジークは少し頬を赤らめ、ぼそりと言った。誰に教えたわけでもないのに、なぜか知られているという状況にも、いいかげん慣れてきた。

「言ってみただけです。他に思い当たる人がいなかったから」

 アンソニーはあっけらかんと言った。そして、人差し指を口元に当てると、考えを巡らせながら視線を上に向けた。

「でも、アンジェリカは本家の後継ぎですよね?」

「……わかってる」

 ジークは下唇を噛み、白いシーツをぎゅっと握りしめた。まっさらなシーツに深い放射状のしわが刻まれる。

「でも、俺が何とかしてみせる……絶対に……あきらめたりなんか、しない……」

 力のこもった低い声で唸る。それは、自分自身に対する決意の言葉だった。


 サイファは寝室の扉を開け、静かに足を進めた。中にはレイチェルがいた。鏡に向かい、ブラシで長い金髪をとかしている。サイファに気がつくと、にこりと笑いかけた。サイファも笑顔を返し、ベッドに腰を掛けた。

「ジークと話をしようと思ったんだが、先客がいてね」

「もう機嫌は直ったの?」

 レイチェルは鏡に向かったまま、悪戯っぽく尋ねた。サイファは小さく肩をすくめた。

「少し、大人げなかったね」

「ええ」

 レイチェルは彼に振り返り、にっこりと笑った。

「こんなにむきになったのも久しぶりだな」

 サイファは頭に手をやると、小さくため息をついた。

 レイチェルは鏡に向き直り、再び髪をとかし始めた。

「ジークさんだから、かしら」

 ちらりとサイファに視線を流して言う。

「かもしれない」

 サイファは目を伏せ、ふっと笑った。背中を丸め、膝に両腕をのせると、重々しく口を開いた。

「彼は覚悟を決めている」

 レイチェルは手を止め、ゆっくりと振り返った。サイファは真剣なまなざしを向けていた。固い表情で話を続ける。

「君は反対するかもしれないけれど、私はできるだけのことはしてやりたいと思っている」

「反対なんてしないわ」

 レイチェルは即答した。

「それが最良と思うなら、そのように行動して」

 瞬きもせずサイファを見つめ、凛とした声ではっきりと言った。

「君につらい思いをさせるかもしれない」

 サイファは険しい表情を見せた。

「私はサイファに従うわ。この指輪を嵌めたときに、覚悟は決めたもの」

 レイチェルは左手の薬指に嵌められた細い銀の指輪を、右手でそっと包み込んだ。彼女の透き通った深い蒼色の瞳は、まっすぐにサイファを捉えていた。それが彼女の答えだった。


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