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78. ずっと忘れない

「こんにちは」

 アンジェリカはにっこりと挨拶をした。戸口で出迎えたジークは、呆然と彼女を見つめた。

「家出でもしてきたのか? その荷物……」

「違うわよ」

 アンジェリカは口をとがらせた。

「材料とか、調味料とか、準備するものがたくさんあるの」

「言ってくれれば迎えに行ったのに」

 ジークはあきれたように言いながら、彼女がリュックサックを下ろすのを手伝った。そのリュックサックは、彼女が中にすっぽり入るくらいの大きなものだった。しかも、ずっしりと重い。

「こんなものを担いで、よくここまで歩いてきたな」

「日頃から鍛えているもの」

 身軽になったアンジェリカは、腰に手をあて、ふうと大きく息をついた。そして、ぐるりと部屋の中を見まわした。

「リックはまだなの?」

 彼女はジークに振り返って尋ねた。ジークはぎくりとした。頭に手をやり、片目を細めながら答える。

「ああ、あいつな……。なんか用が出来たみたいで来られねぇって」

「そう」

 アンジェリカは沈んだ声を落とした。

 ジークの胸にずきりと痛みが走った。リックが来なかったのは、おそらく自分に気を遣ってのことだろう。もちろん、そんなことを頼みはしない。だいたいリックが遠慮したところで、アンジェリカとふたりきりになれるわけではない。そう、ここには他にもうひとりいるのだ。遠慮のかけらもない人間が――。

「いらっしゃい、アンジェリカ!」

 不必要に大きな声が耳をつんざいた。そのもうひとり、母親のレイラである。ジークはうんざりしてため息をついた。

「すごーく楽しみにしてたのよ。おいしい手料理、期待してるわ」

 レイラは満面の笑顔で声を弾ませた。

「任せてください」

 アンジェリカはにっこり笑い、両方のこぶしをぎゅっと握ってみせた。

「それじゃ、全部お任せしちゃうわね。台所はもうホント好きなように使っていいから」

 レイラは左手を大きく開き、腕を勢いよく伸ばすと、狭い台所をオーバーに示した。まるで舞台上の司会者のようだった。


 アンジェリカはさっそく料理に取りかかった。フリルのついた淡いピンク色のエプロンを身につけると、リュックサックから材料を取り出し、丁寧に並べていく。ジークは背後からその様子をじっと見ていた。

「何を作るんだ?」

「シチューよ」

 アンジェリカは流し台に向かったまま答えた。

「シチューか……」

 ジークは難しい顔で腕を組んだ。前にセリカが作ったものと同じである。比べたくはないが、無意識に比べてしまいそうで怖い。それでも、自分は心の中に留めるつもりだ。しかし、母親は危険である。なにせ、考えなしに思ったことをすぐ口に出すのだ。そのせいで幾度、肝を冷やしたか知れない。

「何か問題?」

 アンジェリカは包丁を手に振り返り、眉をひそめた。

 ジークは鈍く光る刃を見て、顔から血の気が引いた。慌ててぶるぶると首を横に振った。


「俺も何か手伝うよ」

「今日はひとりで作るって決めたの」

 アンジェリカは、腕まくりをするジークを制止した。ジークはまくった袖を下ろし、後ろから見守ることにした。強情な彼女のことだ。ひとりでやると決めたのなら、必ずそれを貫くだろう。他の人がどういう提案をしようと、簡単にそれを受け入れるはずがない。

 アンジェリカは野菜を洗い、包丁で皮を剥き、一口大に切っていった。手つきは悪くなかった。丁寧にそつなくこなしていく。動きも計算されているようで無駄がない。ただ、あまりにも真剣な顔つきのせいか、きっちりしすぎているせいか、家庭的な雰囲気は微塵も感じられず、まるで化学実験でもしているかのようだった。

 ひととおり材料を炒め、水を加えると、エプロンのポケットからストップウォッチを取り出した。それを首に掛け、親指でボタンをカチカチと押す。

「しばらく休憩」

 アンジェリカはくるりと振り返り、ようやく表情を和らげた。


「ねぇ、料理と魔導って似ていると思わない?」

 アンジェリカは両手で頬杖をついて尋ねた。

「は? どこが?」

 ジークは椅子に腰掛けながら、不思議そうに彼女を見た。

「プリミティブなものを組み合わせて高度なものを構成していくところとか、応用次第で無限のバリエーションを創り出せるところとか。レシピどおりに作っても個性が出ちゃうのも似てるわね」

 アンジェリカはニコニコしながら答えた。ジークは腕を組み、首をひねって考え込んだ。

「まあ、なんとなくわかるような気もするけどな」

「でしょう?」

 アンジェリカは嬉しそうに身を乗り出した。しかし、視線を斜め上に流すと、少し不満げに付け加えた。

「ただ、料理の場合は手続きを短縮できないのがもどかしいわね」

 そう言いながら、首に掛けたストップウォッチの紐を、くるくると指に巻きつけたり、ほどいたりした。せっかちな彼女には、そのことがいちばんの問題だった。こういう待ち時間がじれったいのだ。

 それは、ジークも同じだった。彼もときどき簡単な料理を作るが、待ち時間を待ちきれず、苛ついていることが多い。だが、今日の待ち時間はまったく苦にならなかった。彼はちらりとアンジェリカを盗み見た。


 ピピッ。

 短く電子音が鳴った。アンジェリカはストップウォッチの表示を確認して立ち上がった。

「あと少しよ。待っててね」

 にっこり笑ってそう言うと、短いスカートをひらめかせ、パタパタと鍋の方へ駆けていった。ジークは椅子に座ったまま、彼女を目で追った。


 やがて、台所からシチューらしい匂いが漂ってきた。ジークはそわそわした。

「お、そろそろかな?」

 匂いにつられ、レイラも再び居間へやってきた。ジークの隣に座り、頬杖をついた。そして、優しく目を細め、アンジェリカの後ろ姿に視線を投げた。

「一生懸命でホント可愛いわよねぇ。ねぇ、ジーク」

「ん……ああ、まあ……」

 ジークは口ごもりながら曖昧に返事をした。


「お待たせ」

 アンジェリカはシチューをトレイに載せて運んできた。レイラ、ジーク、そして自分の席へ、順に配っていく。

 ジークは目の前に置かれた皿の中をじっと覗き込んだ。とりあえず、見た目は普通のクリームシチューだ。どこもおかしなところはない。匂いも普通に美味しそうだ。

 レイラは息子の頭を小突いた。

「そんなにジロジロ見ないの」

 アンジェリカはくすりと笑った。そして、ロールパンが山盛りになったバスケットを、テーブルの中央にどんと置いた。

「パンは時間がかかるから、家で焼いてきたの」

「焼いたって、まさか、おまえが作ったのか?」

 ジークはパンを指さしながら顔を上げた。アンジェリカはエプロンを外しながら、むっとして口をとがらせた。

「そうよ、疑っているの?」

「いや、驚いただけだ」

 ジークはまじまじとパンの山を見つめた。味はまだわからないが、少なくとも見た目は、市販のものと比べても遜色ない。

「さ、それじゃ、食べましょうか」

 レイラは明るく声を張ると、両手を合わせた。

「いただきまーす」

「いただきます」

 レイラのあとに続いて、ジークとアンジェリカも手を合わせて言った。

 ジークはシチューをスプーンですくい、口に運ぼうとした。だが、その手が途中で止まった。軽くため息をつきながら、ゆっくりと顔を上げる。

「あのな、そんなに見られてたら食えねぇって」

「だって、ジークの反応が気になるんだもの」

 アンジェリカは真面目な顔で、黒い大きな瞳をまっすぐ彼に向けていた。彼女だけでなく、なぜか母親もじっと彼の方を見ていた。

 ジークはもう一度ため息をつくと、覚悟を決めて、山盛りのスプーンにぱくりと食らいついた。

「どう?」

「……うまい」

 口をもぐもぐと動かしながら答える。

「本当?」

 アンジェリカは疑わしげに下から覗き込んだ。

「ああ、本当にうまいって」

 どんなふうに表現すればいいかわからなかったが、お世辞ではなく本当に美味しかった。ひいき目もあるかもしれないが、セリカのよりも美味しいとジークは思った。手を止めることなく、ガツガツと頬張っていく。

 彼のいつも通りの豪快な食べっぷりを見て、アンジェリカはようやく安堵し、顔をほころばせた。


「ごちそうさま! 本当においしかったわ。想像以上よ」

 レイラは陽気に笑いながら、歯切れよく言った。それが本心だということは、少なくともジークにとっては一目瞭然だった。もっとも、彼女がどんなものを想像をしていたのかはわからないし、聞かない方がいいだろうと思った。

「俺も、ごちそうさま」

 ジークは椅子にもたれかかり、満足そうに腹に手を置いた。多めに作ったシチューも、山のようにあったパンも、すべてなくなった。ほとんど彼が平らげたようなものだ。

 アンジェリカは本当に嬉しそうだった。笑顔をあふれさせている。そんな彼女を見て、ジークも嬉しくなった。


「置いとけよ。あとで俺がやっとく」

 後片づけを始めたアンジェリカに、ジークは後ろから声を掛けた。

「ダメよ。後片づけまでが料理だって、うちのシェフも言っていたもの」

 彼女は皿を洗う手を止めずに言った。ジークは腕を組み、柱に寄りかかった。そして、口元を緩め、小さな後ろ姿を見つめた。

「やっぱすげぇよ、おまえ」

「ありがとう」

 アンジェリカはちらりと振り返り、くすりと笑った。


「お茶、入ってるわよ!」

 後片づけを終えたアンジェリカに、レイラは大声で呼びかけた。

「ありがとうございます」

 アンジェリカは台所からパタパタと駆けてきて、席についた。ジークもその後ろからのんびり戻ってくると、彼女の隣に座った。

 レイラは紅茶をふたりに差し出した。そして、興味津々に身を乗り出すと、アンジェリカに尋ねかけた。

「それにしても、料理に興味を持つなんて、どういう心境の変化?」

 アンジェリカは両手でティーカップを持ち、にこやかに微笑んだ。

「自立することに憧れていたの」

 そう言って、熱い紅茶をひとくち流し込むと、小さく息をついた。

「本当は、料理も掃除も出来なくたって、何の不自由もないんだけど」

「でも、他へお嫁に行ったら、そういうわけにもいかないでしょ?」

 アンジェリカはきょとんとした。だが、すぐににっこりすると「ええ」と答えた。

 ジークは耳元を赤くしながら、横目で母親を睨みつけた。自分をからかっているに違いない。いや、自分だけならいい。だが、アンジェリカを巻き込むのはやめてほしいと思った。変なふうに思われていないだろうか――。心配だが、尋ねることもできない。下を向いて額を押さえると、大きくため息をついた。

「どうしたの? ジーク」

 アンジェリカは首を傾げ、覗き込んだ。

「そろそろ帰るだろ、送ってく」

 ジークは腕時計を見て立ち上がった。アンジェリカの家はここから遠い。のんびりしていたら、真夜中になってしまう。

 アンジェリカは座ったままで、目をぱちくりさせた。

「今日はここに泊まっていくのよ。言ってなかったかしら」

「な、なに言ってんだよ、おまえ」

 ジークの声はうわずっていた。しかし、アンジェリカは真顔だった。大きな瞳でじっとジークを見つめる。

「お父さんとお母さんの許可はちゃんと取ったわよ」

「えっ……」

 パコン。

 レイラが丸めた新聞紙でジークの頭を叩いた。

「あんたなに顔を赤らめてんのよ。アンジェリカは私の部屋で寝るの。あったりまえでしょう?」

 思いきり冷たい目を息子に向ける。ジークは一気に上気し、激しく狼狽した。

「わっ……わかってるよ!!」

 本当はわかっていなかったが、そう言うしかなかった。きまり悪そうに顔を背けながら、しかめ面で舌打ちをした。そして、ふいに何かを思いついた様子ではたと動きを止めると、唐突にアンジェリカの腕を引いた。

「上へ行こう」

「え? ええ」

 彼女はとまどいながらも、手を引かれるまま彼についていった。

 ジークは、彼の部屋がある二階を通り過ぎ、さらに上へ向かった。

 三階は屋根裏部屋だった。そこは物置きとして使われているようだ。埃っぽく、段ボール箱が無造作に積まれている。天井は低く、屋根の形そのままに斜めになっていた。電灯はなかった。天窓から射し込む月明かりだけが、ぼんやりとその部屋を照らしていた。

 ジークはその天窓を開け、スチールの梯子を掛けた。彼自身には必要ない。アンジェリカのためである。

「屋根の上に出るの?」

「ああ、気をつけろよ」

 アンジェリカは不安そうに怖々と梯子を上っていった。

「わぁ……」

 屋根の上に立つと、彼女の顔がぱっと晴れていった。澄み渡った濃紺の空には、たくさんの星が瞬いていた。今にも頭上から降り注いできそうだった。夜の冴えた風は、頬を心地よく刺激し、さらさらと黒髪をなびかせた。

 ジークは天窓から顔を出し、彼女を見上げると、ふっと表情を緩めた。母親から逃げたい一心の思いつきだったが、ここに来て本当に良かったと思った。

「上ばっか見てると、よろけて落ちるぞ。座れよ」

「うん」

 アンジェリカは緩やかな傾斜に腰を下ろした。ジークも天窓から屋根に出ると、彼女の隣に脚を投げ出して座った。

「ねぇ、星って何だと思う?」

 アンジェリカは膝を抱えて、真上を見上げた。

「太陽の小さいやつだろ? 小さい光球」

「いったい何の意味があるのかしら」

「さぁ……」

 ジークは眉根を寄せた。正しい答えはわからないし、気の利いた答えも思い浮かばない。

「おまえはどう思うんだよ」

 逆にアンジェリカに聞き返してみた。彼女を空を見上げたまま、真顔で答えた。

「空に開いた穴じゃないかしら」

「は?」

「穴から光が漏れているのが星なの」

 今までに聞いたこともないような突飛な意見だったが、それを否定するほどの知識もジークにはなかった。

「じゃあ、おまえのいう“空”って何だよ」

「結界かしら。この国を維持しているのは四大結界師でしょう?」

 アンジェリカは小さく人差し指を立てた。

「きっと、空の向こう側には別の国があって、そこから守るために結界を張っているのよ」

「なるほどな……」

 ジークは後ろに手をつき、空を見上げて目を細めた。一応、筋は通っている。

「ただの想像だけど」

 アンジェリカは笑って肩をすくめた。そして、ジークに振り向くと、無邪気に声を弾ませる。

「もし、ジークが四大結界師になったら、こっそり教えてくれないかしら。この国を維持する仕組み」

 ジークは苦笑いした。

「それ、きっと国家機密だぜ」

「誰にも言わないわ、ね?」

 アンジェリカは口元で両手を合わせ、ぐいっと顔を近づけた。

「まぁ、覚えてたらな……」

 ジークはどぎまぎしながら、曖昧な返事でごまかそうとした。

「じゃあ、約束」

 アンジェリカはにっこり笑って小指を立てた。

「二十年先か、三十年先かわかんねぇぞ」

「だから、忘れないように指きりするの」

 軽く口をとがらせそう言うと、ジークの小指に自分の小指を絡ませ、勝手に指きりをした。

「……ねぇ、ジーク」

 少しの沈黙のあと、ためらいがちに呼びかけた。その声には微かに翳りのようなものが感じられた。ジークははっとして振り向いた。

「就職のこと、決めたの?」

 彼女は膝を抱えうつむき、ぽつりと尋ねた。

 ジークは表情を引き締め、はっきりとした声で答えた。

「魔導省に行くことにした」

「そう」

 アンジェリカは複雑な面持ちで相槌を打った。

「俺さぁ」

 ジークは頭の後ろで手を組み、仰向けに寝転がった。

「アカデミーに入る前まで、あんまり怖いものなんてなかったんだ。自分がいちばんすごいんだって本気で思ってた。今にして思えばバカみたいだけどな」

 そこで言葉を切ると、遠くを見つめ、ふっと笑った。

「それが、アカデミー入学試験から、いきなりおまえに負けるしよ。王宮にはラウルとかサイファさんとか、すごい人がごろごろしてる。今はびびってばっかりだ」

「ラウルのことを認めるなんて、どうしちゃったの?」

 アンジェリカは膝の上に頬をのせ、いたずらっぽく笑った。ジークは真面目な顔で答えた。

「だんだん、相手の力量が感じられるようになってきたんだ」

 それは、紛れもなくアカデミーで学んだ成果である。その方法を教わるわけではないが、魔導について学び、鍛錬していくうちに、副次的に身についていくのだ。

「ラウルは底知れねぇな。好きにはなれねぇけど、魔導に関してはすごいヤツだと思う」

「私は先生としても立派だと思うけど」

 アンジェリカは笑って付け加えた。

 ジークは顎を引き、彼女の背中をじっと見つめた。ラウルだけではない。彼女にも底知れないものを感じていた。深く探ろうとすれば、体の芯から凍りつきそうになる。だが、そのことは口には出さなかった。

「だから、魔導省へ行くの?」

 アンジェリカは前を向いたまま、落ち着いた声で尋ねた。

「ああ、そういうすごい人たちの中で働いてみたいんだ」

 ジークは淡々と、しかし、迷いなく答えた。

 アンジェリカもジークの隣で仰向けになった。星空が視界一面に広がった。他に見えるものは何もない。遠近感が掴めなくなり、少し目眩がして、空に落ちていきそうな錯覚を起こした。

 ジークはすぐ横に彼女がいるのを感じ、心拍が上昇した。

「おまえはあの研究所か?」

 少し早口で尋ねる。

 アンジェリカは胸元で手を組み、ゆっくりと目を閉じた。

「そうね、行けたらいいわね」

 小さくつぶやくように答える。

「なんだよ、めずらしく弱気だな」

 ジークは驚いて、アンジェリカに顔を向けた。彼女は目をつむったままだった。前髪が、かすかに風に揺れた。

「ねぇ、ジーク」

 小さな唇が、小さく動いた。

「ん?」

「今日はありがとう」

「礼を言うのは俺の方だ」

 ジークは柔らかく微笑んだ。

「今日のことは、ずっと忘れないから」

 アンジェリカは囁くように言った。

「大袈裟だな、おまえ。こんなこと、またいつでも出来るだろ。今度こそリックも呼ぼうぜ、な」

 ジークは明るく言った。だが、アンジェリカの返事はなかった。仰向けで目を閉じたまま、人形のように動かない。ジークの心臓がドクンと強く打った。弾けるように起き上がると、彼女を覗き込んだ。

「アンジェリカ? おい、アンジェリカ!」

 何度も肩を揺すりながら、必死に呼び掛ける。

 アンジェリカはうっすら目を開いた。ぼんやりとジークの顔を見る。

「……あんまり心地いいから、つい眠っちゃった」

 ジークは安堵した。全身から力が抜け、へたり込んだ。

「張り切りすぎて疲れたんだろ。降りようぜ」

「もう少し、ここにいたいな」

 アンジェリカは潤んだ黒い瞳に、星空を映しながら言った。

「また寝ちまうかもしれねぇだろ。ここ屋根の上だぜ? 危ねぇって」

「ジークがいてくれるでしょう?」

 そう尋ねかけると、にっこりと微笑んだ。ジークはわざと大きくため息をついた。

「……ったく、あと少しだけだぞ」

「ありがとう」

 アンジェリカはしばらくの間、無言で星空を眺めていた。しかし、それは長く続かなかった。やがて、目蓋が落ちていき、静かに寝息を立て始めた。

 ジークは片膝を立て、彼女の様子をじっと見守っていた。

 ふいに風が冷えてきたのを感じた。自分の上着を脱ぎ、彼女の上にそっと掛け置いた。

 そのとき、彼はどきりとした。近くで見た彼女の寝顔が、やけに白いような気がしたのだ。月明かりのみが頼りのこの場所では、正確な顔色などわかりようがない。ただ、重なって見えた。一ヶ月もの間、目を覚まさなかったあのときと――。自分の許容以上のことがなだれ込んだとき、自衛のため脳が活動を停止する、つまり、眠ったまま起きないことがある。サイファはそう言っていた。

 ――違う、ただ疲れて眠っているだけだ。

 ジークは自分に言い聞かせるように、心の中で強くつぶやいた。アンジェリカが現実から目を背けたくなるほどの出来事など、最近は起こっていないはずだ。……いや。もしかしたら、曾祖父に怯えているのかもしれない。彼女は大丈夫だと言っていたが、根拠は何もない。まわりに心配を掛けないように明るく振る舞っていただけかもしれない。

「……アンジェリカ?」

 おそるおそる声を掛け、手の甲でそっと頬に触れた。しかし、彼女は目を覚まさない。ジークは不安そうに目を細めた。鼓動は早く強くなっていく。

 もういちど呼び掛けようか迷った。もし、眠っている原因が精神的なものだとしたら、無理に起こしてはいけないらしい。結論が出ないまま、じっと彼女を覗き込み、手のひらで柔らかい頬を包み込んだ。

 アンジェリカのまつげが小刻みに震えた。彼女はゆっくりと目を開いた。目の前をぼうっと見つめる。次第に焦点が合っていき、ぼやけた輪郭がはっきりしていった。そこには、思いつめたジークの顔があった。頬には彼の手が置かれている。そこだけ、とてもあたたかい。

「だいぶ、寝てた……?」

「いいよ、寝てろよ」

 ジークは優しく言った。

「ダメ……だって、夢を見たいわけじゃないもの……」

 彼女は手をつき、懸命に起き上がろうとした。だが、崩れるように再び意識を失った。ジークは、それを予期していたかのように、しっかりと抱きとめた。無言で手に力を込めた。そして、そのまま彼女を抱えて立ち上がると、天窓の梯子を降りていった。


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