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77. 難しい選択

「あの、これからどこへ行くんですか」

 ジークは、サイファの半歩後ろを歩きながら尋ねた。サイファは彼を一瞥すると、淡々と答えた。

「さっきのアンジェリカとの話は聞いてなかったのか? 私の上司のところだよ」

「あ……」

 ジークは返事に困った。その話は聞いていた。だが、あくまでアンジェリカを説得するための話で、本当にそうだとは思わなかった。疑ってしまったことがばれただろうかと、少しびくついた。


 ふたりは魔導省の塔へやってきた。

 ジークは目の前にそびえ立つその塔を仰いだ。これほど間近で見たのは初めてだった。ずいぶん大きく、高い。思わず、はぁと感嘆の息を漏らした。

 サイファは微笑みながら、彼の背中に手を置いた。ジークは促されるまま、中に入った。煌々と灯りのついた廊下。その両側にオフィスが広がっていた。オフィスは廊下よりもさらに明るかった。たくさんの机が整然と並び、座って仕事をこなしている人、その間を足早に歩きまわっている人などであふれ、活気に満ちていた。

 サイファは立ち止まることなく廊下を進み、突き当たりの小さな四角い部屋に入っていった。部屋というにはあまりにも小さい。五、六人がやっと入るくらいの広さである。無機質で何の装飾もなく、ただの箱のようだ。

 ジークも、少しためらいながら、そのあとに続いた。

 サイファは彼が入ったのを確認すると、入口の横にあるパネルのボタンをいくつか押した。厚い扉がゆっくりとスライドして閉まった。

 ジークは漠然とした不安を感じ、何となく天井を見上げた。その直後、突き上げるような強い力が足にかかった。どうやらその小さな部屋が急上昇しているようだ。しかし、長くは続かなかった。驚いているうちに止まり、ゆっくりと扉が開いた。目の前には、先ほどとは違う光景が広がった。

「最上階だよ」

 サイファはにっこり笑って振り向いた。

 ジークは外に出ると、落ち着きなくあたりを見まわした。目の届く範囲に窓がないため、どのくらいの高さなのかはわからなかった。

 サイファは颯爽と歩き出した。ジークもそのあとについて歩いた。片側にはずらりと部屋が並んでいた。ガラス張りの下とは違い、中の様子は窺えない。窓もないため、廊下から見えるのは扉だけである。音もなく、静寂があたりを包んでいる。息が詰まるような、閉塞的な雰囲気だ。

「ここが私の部屋だ」

 サイファは足を止め、扉のひとつを示した。扉にはプレートが掛かっていた。金属製で、名前と所属が彫り込まれているものだ。上品な光沢で、高級感がある。ジークの目は釘付けになった。この年齢で最上階に個室をもらえるなんて、やはりすごい人なんだ――あらためてそう思った。

 サイファは自室には寄らず、再び歩き出した。分岐した廊下を細い方へ曲がり、奥まったところに入っていく。その行き止まりに、他とは違う重厚な造りの扉があった。だが、他と同じように名前のプレートが掛かっている。

「ここだ。私の上司、魔導省長官の部屋だよ」

「長官……」

 ジークはぼんやりした声で繰り返した。

「わかりやすくいうと、魔導省でいちばん偉い人ってことだね」

 サイファのその説明は、彼にとってさらなる重圧となった。表情がこわばる。そんな人が、自分なんかに何の用があるというのだろうか――。

 サイファは扉をノックした。

「サイファです。ジークを連れてきました」

「入れ」

 中から低い声が聞こえた。サイファは扉を開け、ジークを促しつつ、一緒に中へ入った。そこは個室とは思えないほどの広さがあった。天井も高い。全体的に物は少ないようだ。目立ったものといえば、両脇の本棚と、奥の大きな机くらいである。贅沢な空間の使い方だ。

「よく来たな、ジーク=セドラック」

 奥に座っていた男が、低音を響かせた。おそらくこの男が長官だろう。サイファと同じ濃青色の制服を身に着けている。年はサイファよりもずいぶん上のようだ。ジークは怪訝に会釈をした。だが、長官は無表情のままだった。目線だけをサイファに動かし、悠然と命令する。

「サイファ、君は下がっていたまえ」

「はい」

 ジークはその答えにうろたえ、サイファに振り向いた。守ってくれるはずでは……。そう思ったが、そんな情けないことを口に出すわけにはいかない。ぐっとこらえ、口を固く結ぶ。

「ジーク、終わったら私の部屋へ来てくれるか?」

 サイファはにっこり笑いかけた。

「あ、はい……」

 ジークは心細そうに返事をした。そして、部屋から出て行くサイファの背中を、目で追いすがった。


「掛けたまえ」

 長官は、ジークのために用意したと思われる椅子を示した。ジークは素直に座った。長官の真正面だった。座り心地は良かったが、居心地は悪かった。

「あの……」

「そんな顔をするな。取って食いはしない」

 そう言われても、何もわからないこの状況で、落ち着けるはずがない。ジークは膝にのせた手を握りしめた。

「俺に、何の用ですか」

 長官はふっと笑った。

「ラグランジェ家に喧嘩を売った、無謀な学生に興味があってね」

 ジークの眉がぴくりと動いた。

「喧嘩を売ったつもりはありません」

 不愉快さを押し隠しながら、きっぱりと言う。

 長官は口の端を吊り上げた。挑むように笑いかける。

「つもりはなくても売っているぞ。現実として」

 ジークは言葉につまった。

「君のことは調べさせてもらった」

 長官は机にひじをつき、両手を組んだ。

「どこかで聞いたような名前だと思ったが、まさかあのリューク=セドラックの息子だったとはな」

「…………?」

 ジークは眉をひそめ、訝しげに首を傾げた。

「彼は幼い頃、魔導の天才児として注目されていてね。だが、あるとき、ぱたりと魔導を使うことをやめてしまったんだ。まわりがどれだけ説得しても、頑として使おうとはしなかった。我々の間では、ある意味、有名人だった」

 長官は淡々と語った。

 ジークは奇妙な顔で眉根を寄せた。いきなりそんな話をされても、何の実感も湧かない。

「それ、誰か他の人と間違ってませんか」

 長官は目を閉じ、ふっと口元を緩めた。

「君は彼の才能を受け継いだというわけだ。だが、君は彼と違って魔導が好きだ」

 腹の底に響くような重い声でそう言うと、鋭い視線をジークに向けた。ジークはたじろいだ。瞳の奥まで探られるように感じた。椅子に座ったままわずかに身を引き、ごくりと唾を飲み込んだ。

 長官は組んだ手を机の上に下ろし、背筋を伸ばした。

「君の進路希望先は魔導省となっていたが、それは今も変わらんか?」

「はい、一応……」

 ジークは歯切れ悪く答えた。魔導不正使用などという事件を起こした以上、いくら採用試験を頑張っても受かることはないだろう――その考えが彼を萎縮させた。

「君を採用する」

 長官は厳かに言った。

「……は?」

 突然のことに、ジークの思考は混乱したまま停止した。

「君を採用する、と言ったんだ」

 長官はもう一度、ゆっくりと丁寧に言った。

「どういうことですか」

 ジークの額にうっすらと汗がにじんだ。自分の鼓動がやけに大きく聞こえる。

「年にひとりくらいなら、私の裁量で採用してもいいことになっている。暗黙の了解というやつだがね」

「どうして俺なんですか」

 気持ちを立て直し、まっすぐ長官を見据える。長官はかすかな笑みを口元にのせた。

「君が優秀だからだ。父親から受け継いだ才能は確かなものだ。アカデミーの成績も申し分ない。民間へやるには惜しい人材だよ」

 ジークはひざの上のこぶしを強く握りしめた。自分でも理由はわからなかったが、長官の返答に不快感を覚えた。表情に出ないよう必死にこらえたが、まぶたは微かに痙攣していた。

「俺は、試験を受けて自分の力で入ります」

 低く抑えた声で、毅然と言った。真剣な表情で、長官を睨むように見据える。

 だが長官は、鼻先で笑って受け流した。

「それは無理だな。魔導で問題を起こした人間を採ると思うかね」

 ジークは目を伏せ、表情を曇らせた。何も言い返すことができない。

「つまらない意地やプライドは、捨てた方が身のためだ。それで君の希望が叶うのだ」

 長官は声を張り、尊大に言った。

 ジークは眉をひそめ、唇を噛み締めた。


 ――コンコン。

 ジークはサイファの部屋の扉をノックした。

「どうぞ」

 中から歯切れの良い声が聞こえた。ジークは緊張しながら、そろそろと扉を開けた。そこは、長官の部屋の半分ほどの広さだった。天井も高くない。両脇には本棚やロッカーが並び、奥にはスチール机が置かれていた。机の上には、乱雑な書類の山がいくつもできている。サイファはその紙束に囲まれるようにして座っていた。背後は一面ガラス窓になっており、青空と薄い筋状の雲が映し出されていた。

「今、きりが悪くてね」

 サイファはにっこり笑ってペンを掲げた。

「もう少し待ってもらってもいいかな」

「はい」

「椅子はそこにあるから」

 そう言いながら、壁に立てかけられたパイプ椅子を指さした。

「部屋の中は自由に見ていいからね」

「はい」

 ジークはあらためてぐるりと部屋を見まわした。そして、本棚へと足を進めた。上から下へ、ざっと目を走らせる。並んでいるのは主に魔導書のようだ。隅にはひっそりと医学書も置いてあった。ジークはそのうちの一冊に目を奪われた。難しい医学用語が並ぶ背表紙に「遺伝子」という単語が見えた。

 遺伝子の異常――アンジェリカが言ったというその言葉が頭をよぎった。まさか、本当に? いや、ただの偶然だ。ジークはそう思おうとした。しかし、偶然にしては出来すぎている気がしてならない。なぜサイファはこの本を持っているのだろうか。読んでみたいという衝動に駆られた。だが、この状況では断念せざるをえないと判断した。今、サイファがこちらを見ているわけではないが、いつ顔を上げないとも限らない。なぜその本を手に取ったのかを尋ねられては、返答に窮する。

 代わりに魔導の本を一冊、本棚から抜いた。立ったままパラパラとめくりながら、横目でサイファの様子を窺った。彼は真面目な顔で書類に向かい、何かを書きつけているようだった。

「もう少しだよ」

 突然、彼は顔を上げ、にっこり微笑んだ。

「え、あ、はい」

 ジークはどきりとして、しどろもどろに返事をした。持っていた本を落としそうになった。ふうと小さく息を吐き、心を鎮めると、本に集中することにした。だが、どうしてもサイファのことが気にかかり、文字を追うだけで内容が頭に入ってこなかった。

「お待たせ」

 サイファはペンを置いて顔を上げた。ジークはほっとして本を閉じ、元の場所に戻した。

「君は行儀がいいね」

 サイファは頬杖をつき、ニッと笑った。

 ジークはとまどった。彼の真意が読めなかった。ただ、なんとなく褒められたようには思えなかった。

「部屋の中を引っかきまわせば、面白いものが見つかったかもしれないのに」

「面白いものって……?」

「さあ、私が面白いと思うものと、君が面白いと思うものは違うからね」

 自分は試されているのだろうか、とジークは思った。何を、というのはわからない。奇妙な面持ちで口をつぐんだ。

「こっちへおいで」

 サイファは立ち上がり、大きなガラス窓に向かうと、後ろで手を組んだ。ジークは言われるがまま、彼の隣に並んだ。

「いい景色だろう」

 ガラス窓の向こうには、青空が大きく広がっていた。濃い青色にかかった薄い雲が、ゆっくりと流れていく。そして、下方には小さく森や街が見えた。行き交う人々は、かろうじて点として認識できるくらいだった。ジークは足がすくんだ。これほど高いところに立つのは初めてだった。

 サイファはそんな彼を見て、満足そうに微笑んだ。

「長官の話は何だったんだい?」

 ジークは現実に引き戻された。サイファに振り向き、とまどいがちに答える。

「俺を、採用するって……」

「やはり、その話だったんだな。良かったじゃないか」

 サイファは明るく言って、ジークの肩に手を置いた。だが、ジークは難しい顔でうつむいた。

「前にも言ったと思うが」

 サイファはそう前置きしながら、腕を組み、ガラス越しに空を見上げた。

「君は、君のいる場所に見合う実力をつければいいだけのことだ。プライドのために好機を棒に振る選択は、愚かだと思うよ」

「……はい」

 以前にその話を聞いたときは納得した。今も間違っているとは思わない。しかし、今回はなぜかすっきりしない。迷いが拭えない。

「もうすぐお昼だな」

 サイファは腕時計を見て言った。

「一緒に食べようか。もちろん私のおごりだよ」

 彼はにっこりとして、ジークの背中をぽんと叩いた。


「サイファさん、あの……」

 ジークは少し言いにくそうに切り出した。隣を歩くサイファは、にこやかに振り向いた。

「何だい?」

「父のこと、ご存知でしたか?」

「君の父親か?」

 サイファは不思議そうに尋ね返した。ジークは頷いて話を続けた。

「さっき長官が言ってたんですけど、俺の父親、子供の頃は魔導の天才児だったって……」

 サイファは興味深げに目を見開いた。

「子供の頃?」

「あるとき急に使わなくなったらしいんです。それで、長官たちの間では有名だったとか」

 ジークは下を向き、言葉を切った。

「いや、私は知らなかったよ」

 サイファは前を見て、真面目な顔で言った。それからジークに振り向き、にっこりと笑った。

「君のお父さんが子供の頃は、私も子供だからね」

「あっ……」

 ジークは小さく声を漏らした。そう言われてみれば、確かにそうだ。サイファは父親より若い。まだ生まれていなかった可能性もある。

 サイファは再び前を向いた。

「でも、たまにそういう子はいるよ。魔導を使える子が、みんな魔導が好きというわけではないからね」

 ジークは長官の話を思い出した。父親は魔導が好きではなかった――やはり、そういうことなのだろうか。もしそうなら、嬉々として魔導を使っていた息子のことを、どう思っていたのだろうか。訊きたくても、もう本人はいない。

 サイファは淡々と話を続ける。

「それでもたいていはまわりの期待に応え、魔導の道へ進む。よほど意志が強くないと、魔導を封印し続けることはできないよ。天才児となれば、なおさらね。」

 サイファはジークに微笑みかけた。

「君のお父さんは、自分の意志をしっかり持った人だったんだね」

 ジークは顔を上げることができなかった。悩んで流されてばかりの自分が、とても情けなく思えた。


「やあ、ラウル」

 サイファはにこやかに右手を上げた。その視線の先には、無表情のラウルがいた。脇に教本を抱えている。ジークは話に夢中で気がつかなかったが、そこはラウルの医務室の前だった。授業を終え、戻ってきたところのようだ。

「一緒にお昼を食べよう」

 サイファは朗らかに言った。ジークはぎょっとして彼に振り向いた。まさかラウルを誘うとは思わなかった。誘うためにわざわざここへ来たのだろうか。

「断る」

 ラウルはムッとして答えた。背を向け医務室の鍵を開ける。

「私のおごりだぞ」

「いらん」

「受け持ちの生徒の進路についての話もあるんだがね」

 サイファは軽い調子で言った。ラウルは扉に手を掛けたまま、肩ごしに彼を睨みつけた。そして、その鋭い視線を、隣のジークにも向けた。ジークはびくりとした。

「待っていろ」

 ラウルは低い声でそう言うと、乱暴に医務室の扉を開け入っていった。

「早くな」

 サイファはにこやかに見送った。


 三人は王宮内の喫茶店に入った。内装は上品なアンティーク調で統一されている。静かで落ち着いた店だ。ジークは以前にもここでサイファと昼食をともにしたことがあった。

 サイファは窓際に席をとった。その隣にジーク、向かいにラウルが座った。

 ジークは落ち着かなかった。メニューを見ていたが、どうにも視点が定まらない。手のひらは次第に汗ばんできた。サイファだけでも緊張するのに、ラウルまで一緒である。昼食など、もうどうでもよかった。一刻も早く帰りたかった。

「ジーク、決まったか」

「あ、はい、カレーライスを」

 とっさに目についたメニューを答えた。サイファはにっこりとした。

「いいね。ここのカレーは美味しいんだ。私もカレーにするよ。ラウルは決まったか?」

 ラウルはメニューを見ようともせず、腕を組み、不機嫌な顔で目を閉じていた。

「何でもいい。おまえが決めろ」

「好き嫌いくらい、あるんだろう」

「ない」

 サイファは頬杖をつき、ふっと笑った。

「程度の多少はあれ、好き嫌いがない人間なんていないと思うけどね」

 ラウルは眉をひそめ、サイファを睨んだ。サイファは窓の外に視線を流した。

「好き嫌いがないという人は、それを見せないように振る舞っているだけだ。しかし、人である以上、完璧には振る舞えないものさ」

「何がいいたい」

 ラウルは低く唸るように言った。

「一般論だよ」

 サイファは外を向いたまま、無表情で答えた。

 ジークは何ともいえない張りつめた空気を感じ、いたたまれない気持ちでコップの水をじっと見つめた。


 サイファはウェイトレスを呼び、注文を告げた。

「カレーライスをふたつ、それとお子さまランチを」

 ジークは飲みかけの水を吹きそうになった。ラウルはものすごい形相でサイファを睨んだ。

「あの、お子さまランチは取り扱っておりませんが……」

 ウェイトレスは困惑して言った。サイファは彼女に振り向き、にっこりと微笑んだ。

「そう、じゃあカレーライスを三つ」

「かしこまりました」

 ウェイトレスは愛想よく微笑み返した。


「サイファ、おまえ……」

 ラウルの低い声は、怒りで震えていた。

「何でもいいと言ったのはおまえだろう」

 サイファは事も無げに言った。ラウルは刺すように鋭く睨みつけた。

「ラウルはね、都合が悪くなると、いつもこうやって睨むんだ」

 サイファはカラッと笑いながら、ジークに言った。

「からかいすぎるととんでもない行動に出ることがあるからね。適度なところで引くといいよ」

「はぁ……」

 ジークは曖昧に返事をした。忠告されなくても、ラウルをからかうこと自体、ジークには無理な芸当だった。いや、ジークだけでなく、ほとんどの人間には無理だろう。

「サイファさんの家庭教師はラウルだったって聞いたんですけど、本当ですか?」

 ジークは気になっていた話をぶつけてみた。先日アンジェリカから聞いた話である。

「本当だよ」

 サイファはさらりと答えた。

「子供の頃の話だけどね。それ以来のつきあいだから、ラウルとは長いな。いや、ラウルからすれば短いのかな」

 含みのある笑みをラウルに向ける。彼は不機嫌にため息をついた。

「くだらないことばかり言ってないで、本題に入ったらどうだ」

「ああ、ジークの進路の話だね」

 ジークは緊張して体をこわばらせた。視線を落としたまま、背筋を伸ばし、手を膝の上にのせる。

 サイファはそんな彼を見て微笑むと、ラウルに向き直った。

「魔導省に採用されることが決まったそうだ。おまえの生徒で内定第一号じゃないか? 良かったな」

 サイファは明るく言った。ラウルは冷ややかな目を向けた。

「おまえ……また余計なことをしたな」

「私は今回は無関係だよ。長官の独断だ」

 サイファはにこやかに反論した。だが、ラウルは信じなかった。

「おまえがそう仕向けたのだろう」

「まさか」

 サイファは笑った。

「私はとことん信用されてないらしい」

 そう言いながらジークに振り向くと、大袈裟に肩をすくめて見せた。

「お待たせしました」

 会話の切れ目のちょうどいいタイミングで、ウェイトレスが三人分のカレーライスを運んできた。湯気とともに、スパイスの刺激的な香りが漂う。ジークは思い出したかのように、急に空腹を感じた。


 その後、三人はほとんど無言で昼食を食べた。たまにサイファが口を開き、ジークが相槌を入れるくらいだった。そして、食べ終わるとすぐに店を出た。

「それじゃ、またな」

 サイファは軽く右手を上げ、塔の方へ戻っていった。

 ラウルとジークは方向が同じだったので、何となく並んで歩いた。ふたりとも無言のままだった。ジークはこの気まずさに必死に耐えていた。

「奴らの言いなりになってもいいのか」

 ラウルがふいに口を切った。ジークは驚いて彼を見上げた。奴らとは長官やサイファのことだろうか――。

「魔導省にこだわらなければ、就職はできるはずだ。前にも言ったが、そもそもおまえは役人に向いていない」

 ラウルは前を向いたまま、はっきりした口調で言った。ジークは言い返すことなく、ただ黙って目を伏せた。

「今ならまだ断れる。逆にいえば、断ることができるのは今だけだ。よく考えるんだな」

 そこまで言うと、ラウルは足を止めた。医務室の前だった。一度ジークに視線を投げると、長い髪を揺らしながら、さっと医務室へ入っていった。


 ジークはひとり教室へと向かった。まだ昼休みは続いている。アカデミーはとても賑やかだった。だが、ジークの耳にはほとんど何も入ってこない。彼は思考を巡らせていた。ラウルの言葉、サイファの言葉、長官の言葉――それぞれを何度も反芻しながら歩いた。


「ジーク!」

 教室に入ると、アンジェリカとリックが心配そうに駆け寄ってきた。

「何の用だったの?」

 アンジェリカは早口で尋ねた。

「あ、ああ……何か、俺を魔導省に採用するって」

 ジークは何でもないふうを装って答えた。

 アンジェリカは黒い瞳を大きく見開いた。そして、表情をけわしくすると、床を蹴り駆け出した。ジークは慌てて腕を掴み、引き止めた。

「どこ行くんだよ」

「お父さんに文句を言ってくるわ!」

 アンジェリカは勢いよく振り返り、怒りまかせに大声で言った。ジークはまっすぐ彼女を見つめた。

「サイファさんは関係ない。今回は長官の独断だって」

「どうかしら?」

 彼女の声はとげとげしかった。表情からも、あからさまに疑っている様子が見てとれた。

 ジークは冷静に言った。

「いいんだ。俺が考えて答えを出す」

「断らないの?」

 アンジェリカはきょとんとして言った。ジークは彼女の腕を放した。そして、視線を落とし、薄笑いを浮かべる。

「魔導省に入るには、これしか手がない」

「どういうこと?」

「きのうの事件のこと、記録に残されてんだ。だから、普通に採用試験を受けても受からねぇって」

「そんな……」

 アンジェリカは眉根を寄せた。うつむいて目をつむり、胸を押さえてつぶやく。

「私のせいだわ。こうなる前に、もっと早くに……」

「え?」

 ジークは覗き込むようにして尋ね返した。アンジェリカは顔を上げた。

「ごめんなさい、本当に。ジークの人生をめちゃくちゃにして」

 今にも泣き出しそうに謝る。

「おいおい、勝手にめちゃくちゃにすんなって」

 ジークは笑いながら言った。

「今日のことは、むしろラッキーかもしれねぇだろ」

「うそ、思ってもないくせに」

 アンジェリカは潤んだ目で睨んだ。


 キーンコーン――。

 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。

 アンジェリカはくるりと背を向け、目尻を拭いながら席に戻った。ジークも表情を曇らせ、自席についた。引き寄せられるように、机に突っ伏す。もう起き上がれないかと思うほど、体中が鉛のように重かった。


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