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76. 特別な普通の日々

「ただいま」

「お帰りなさい」

 サイファが荘厳な扉を押し開けて声を張ると、レイチェルはパタパタと小走りで出迎えた。いつものように、彼女は愛らしく微笑んでいた。だが、彼の方はいつもと違っていた。顔色が冴えない。レイチェルはコートを受け取りながら、心配そうにじっと覗き込んだ。

「どうしたの? 疲れているみたい」

「いろいろあってね。でも、心配ないよ」

 サイファはにっこり微笑み、彼女の頬に軽く口づけた。

「アンジェリカはいるか?」

 そう尋ねた彼の声は、無意識に硬くなっていた。レイチェルの表情もつられて硬くなった。当惑して、彼を見つめ返す。

「ええ……呼んできましょうか?」

「ああ、頼む」

 サイファは淡々と答えると、応接間へと向かった。


「お父さん?」

 アンジェリカはきょろきょろと見まわしながら、応接間へ入っていった。レイチェルからサイファが呼んでいると聞いてきた。だが、彼の姿は見当たらなかった。ふと、カーテンがはためいていることに気がつき、その方へ足を進めた。カーテンの後ろの大きなガラス窓は全開になっていた。

 外に目を遣ると、サイファの後ろ姿が見えた。まだ濃青色の制服のままだった。ズボンのポケットに片手を掛け、空を見上げているようだ。

 空は半分ほど紺色に塗り替えられていた。地平近くの鮮やかな朱色が、最後の抵抗を見せるかのように、強い存在感を示している。その上を、オレンジ色の雲がゆっくりと流れていく。

 サイファは彼女に気がつくと、にっこり笑って振り返った。

「アンジェリカ、降りておいで。風が気持ちいいよ」

「うん」

 アンジェリカは庭に降り、サイファの隣へ駆けていった。ひんやりした風が、頬を心地よく撫でた。黒髪がさらさらとかすかな音を立てて揺れた。思わず顔がほころんだ。後ろで手を組み、背筋を伸ばすと、大きく深呼吸した。そして、にっこりとして隣の父親に振り向いた。

 だが、彼は、朱い光を正面から受けながら、思いつめた顔で遠くを見つめていた。アンジェリカの胸に不安が湧き上がった。

「お父さん?」

「空の向こう側が見たいと思ってね」

 サイファは穏やかにそう言うと、アンジェリカに微笑んだ。

「空に向こう側なんてあるの?」

「さあね、ラウルがそう言ったんだ」

「本当にあるんだったら、私も見てみたいな」

 アンジェリカは無邪気に笑った。

 サイファは、再び、空に目を向けた。

「ルーファスのところへ行ったのか」

「……ええ」

 アンジェリカも空を見上げた。その顔から笑みは消えていた。

「何を言ったんだ」

「アカデミーを卒業したら、言うとおりにするって」

 サイファは険しい顔で彼女に振り向いた。ルーファスが簡単にジークを釈放させるはずはない。そうしたのは、彼を利用する必要がなくなった――つまり、アンジェリカがルーファスの要求を受け入れたからではないか。それがサイファの推測だった。外れていればいいと思っていた。しかし、彼女の答えは、彼の推測そのものだった。

「何か、考えがあるのか?」

 低く抑えた声で尋ねる。彼女は目を細め、遠くを見つめたまま、抑揚のない声で答えた。

「言葉のままよ。約束は守るわ」

「どういうことかわかっているのか!」

 サイファはつい感情的になった。声を荒げ、詰問する。

 アンジェリカはキッと睨みながら振り向いた。

「わかっているわよ! ラグランジェ家の誰かと結婚して、本家を継げばいいんでしょう?」

 彼女のまなざしには強い決意が表れていた。軽い気持ちで行動したわけではないのだろう。そのことは、サイファにもよくわかった。だからといって、納得できるものではない。

「本当に、それでいいのか」

 重々しく尋ね掛ける。

「もう決めたことよ」

 アンジェリカは素っ気なく答え、再び空を見上げた。

「不幸だなんて思わないで。それはそれで幸せなことかもしれないじゃない。お父さんとお母さんのようになれたら、いうことないわ」

 サイファの胸に小さなとげが刺さった。

「私たちとおまえでは、状況が違う」

「どんな状況でも、幸せになる努力はするわ」

 アンジェリカは大きな漆黒の瞳をサイファに向けた。真剣な面持ちで、まっすぐに彼を見つめる。サイファの鼓動は大きくドクンと打った。返す言葉を見失った。

「私の結婚相手も、お父さんみたいな人だといいんだけど」

 アンジェリカはにっこり笑って、小さく肩をすくめた。いじらしい彼女の笑顔に、サイファの胸は強く締めつけられた。

「ジークには、言ったのか」

 アンジェリカの顔に陰が落ちた。目を伏せ、ぽつりと答える。

「言わないつもり」

「おまえが良くても、彼を傷つけることになるぞ」

「わかっているわ」

 アンジェリカは後ろで手を組み、くるりと背を向けた。短いスカートがふわりと舞った。

「でも、言ったら、きっとまた危ないことをしちゃうから」

「だからといって……」

「それに」

 アンジェリカの凛とした声が、サイファの言葉を遮った。サイファは大人しく口をつぐんだ。目の前の小さな背中を見つめた。彼女はわずかに振り向き、かすかな笑みを浮かべた。

「卒業までは、普通に過ごしたいから」

「普通?」

 サイファは怪訝に尋ね返した。アンジェリカはくるりと体をまわし、彼に向き直った。

「そう、アカデミーで勉強して、ジークやリックと話をして、笑いあって、ときどき喧嘩もして……そんな普通の日々が、私にとっては特別なの」

 そこまで言うと、彼女は急に真剣な顔になった。

「卒業までにそんな思い出をいっぱい作っておきたい。そのためには、ジークに何も言わない方がいいと思うの。確かにひどいと思うけど……私の最後のわがまま、許してほしいな」

 アンジェリカは寂しげな瞳で曖昧に笑った。

「アンジェリカ……」

 サイファは何も言えなくなった。


「ジークさんには、いつ言うつもりなの?」

 ふいに、レイチェルの声が割り込んだ。その声は後ろの窓際からだった。どうやらそこでふたりの会話を聞いていたようだ。

「言わない……言えないわ、きっと」

 アンジェリカはうつむいた。

「駄目、それだけは駄目よ」

 レイチェルは庭に降り、アンジェリカへと足を進めた。怖いくらいに思いつめた顔で、まっすぐに彼女を見つめている。

「ジークさんを傷つけることになる。あなたはそのことに傷つくことになる。ふたりとも、きっとずっと引きずってしまうわ。時が経てば忘れるだろうなんて、思わない方がいい」

「でも、私、わかってもらう自信ないから……」

 アンジェリカはとまどいがちに、弱々しく言葉を落とした。

 レイチェルは優しく彼女の髪を撫でた。

「それでも、あなたが自分の口から伝えなければならないことよ」

 アンジェリカは顔を上げ、すがるように母親を見た。彼女は穏やかな微笑みで、娘を包み込んだ。無言で勇気づける。

「……わかったわ。卒業式の日に伝える」

 アンジェリカは小さく頷き、しっかりした声で答えた。覚悟を決めた彼女の表情には、もう弱さは見られなかった。


 アンジェリカは家の中へ戻り、庭にはサイファとレイチェルが残った。

「すまない」

「え?」

 レイチェルはきょとんとして振り向いた。サイファは眉根を寄せ、つらそうな顔で彼女を見ていた。

「君の口から告げる機会を奪ったのは、私だ」

 重々しく声を落とす。レイチェルは目をつむり、静かに首を横に振った。

「あのときは、ああするしかなかった、そうでしょう? 悪いのは私だもの」

「違う」

 サイファは足を踏み出し、強い調子で否定した。

 レイチェルは後ろで手を組み、空を仰いだ。長い金色の髪が風に揺れ、夕陽を浴びて煌めいた。

「この話はやめましょう。しない約束だったじゃない」

「……ああ」

 サイファは喉の奥から絞り出すように返事をした。その約束をさせたのも、自分だった。


「アンジェリカのことはどうするの?」

 レイチェルは話題を変えた。過ぎ去ったことよりも大事な、いま、最も考えなければならないことだ。

 サイファは表情を引き締めた。

「このままにはしない」

 低い声で鋭く答える。

 レイチェルは視線を落とした。

「もしかしたら、アンジェリカの選択は正しいのかもしれないわ」

 複雑に顔を曇らせながら、小さな声で言った。しかし、サイファの決意は揺らがなかった。腕を組みながら前に歩み出ると、紺色の空を見上げ、目を細めた。

「君もわかっているだろうが、あの子の選択は次善のものだ。一番に望むことではない。だから、私はあきらめないよ。アンジェリカを幸せにするためなら……」

 ふいに、レイチェルは彼の背中に頬をつけ、そっと寄りかかった。

「意地になっているの?」

「いや、アンジェリカのことを大切に思っているだけだよ」

 背中の彼女を安心させるように、サイファは優しく誠実に答えた。

「無茶はしないで」

 レイチェルは静かにそう言うと、彼の体温を感じながら目を閉じた。


 空は抜けるように青かった。鮮やかに色づく緑は、まぶしいくらいに輝いている。アンジェリカは軽い足どりでアカデミーへ向かっていた。

「おはよう」

 校門をくぐったところでジークとリックを見つけ、駆け寄りながら声を掛けた。

「おはよう、アンジェリカ」

 リックはにっこりと微笑んだ。その隣で、ジークは照れくさそうに顔を赤らめ、目を泳がせていた。原因はきのうのことだった。釈放されたときに、安堵して思わず彼女に寄りかかってしまった。あとで考えると、そのことが少し情けなく思えた。

「きのうのこと、お母さんに話したの?」

 アンジェリカは彼の心情を察することなく、無遠慮に覗き込んで尋ねた。彼女の大きな瞳に見つめられ、彼の顔はますます熱を帯びていった。

「あ、ああ……。帰ったらもう知ってた。サイファさんから連絡があったって」

 微妙に視線を外しながら、なんとか冷静に答えを返した。

「お母さんに何か言われた?」

 アンジェリカは気遣わしげに尋ねた。ジークは少し考えて、ぽつりと答えた。

「バカ……ってな」

 アンジェリカはくすりと笑った。ジークもつられて笑った。

 本当は、母親の言葉には続きがあった。

 ――やり方に問題はあったけど、まあよくやったんじゃない? 連れ去られた子を助けようとしたんでしょ?

 ぶっきらぼうだが温かみのあるその言葉に、ジークは涙が出そうになった。そんなこともあり、なんとなく気恥ずかしくて、アンジェリカには続きの言葉は言えなかった。

「これからどうすりゃいいんだろ」

 ジークは足元を見ながら、ため息まじりにつぶやいた。目の前の小石を軽く蹴飛ばした。

「何が?」

 アンジェリカはきょとんとして尋ねた。ジークは顔をしかめ、頭に手をやった。

「あのじいさん、あれで挨拶代わりとか言ってやがったし、今度はどんな手でくるか……」

「もう大丈夫よ、きっと」

 アンジェリカはにっこり微笑んだ。ジークは怪訝に眉をひそめた。

「なんでだよ」

「そんな気がするだけ」

 アンジェリカは青い空に向かって、明るく声を弾ませた。

「根拠のない自信はアテにならないって言ったの、誰だっけな」

 ジークは呆れたように言った。しかし、アンジェリカは笑顔を崩さなかった。

「私の勘はよく当たるのよ」

 屈託なくそう言うと、大きな瞳をくりっとさせ、後ろで手を組み、ジークを覗き込んだ。

「今から悩んでたって仕方ないじゃない。何か起こったら、そのとき考えましょう」

「うん、そうだね」

 リックが横から相槌を打った。

 しかし、ジークは難しい顔をして首を傾げた。彼は、ふたりほど楽観的にはなれなかった。


 三人は校舎に入り、教室へ向かっていた。そのとき、前から歩いてきたレオナルド、ユールベルのふたりと鉢合わせした。ジークとレオナルドは、互いにムッとした表情で睨み合った。ジークはすぐに視線を外し、無視して通り過ぎようとした。だが、レオナルドはジークを見据え、口をひらいた。

「ユールベルから話は聞いた」

 ジークは反射的に足を止めた。話というのは、おとといからきのうにかけてのことだろう。彼女に頼まれ、彼女の弟を救おうとした。簡単にいえば、そういうことになる。彼女がどう説明したのかはわからないが、ジークにとってはどうでもいいことだった。止めた足を再び動かそうとした。そのとき――。

「一応、礼は言っておく」

 レオナルドの口から、思いもよらない言葉が発せられた。ジークは驚いて顔を上げた。ジークだけではなく、アンジェリカとリックも大きく目を見開いている。

 レオナルドは不機嫌な顔で続けた。

「だが、勘違いするな。ユールベルがおまえを頼ったのは、おまえ以外に話せない状況だったからであって、おまえが頼りになるとか、頼もしいとか、頼りたいとか、そんな理由じゃない」

 ジークはうんざりして脱力した。やはりレオナルドはレオナルドだと、妙に納得した。

 ユールベルはレオナルドの隣で、困惑した表情を浮かべていた。

「ねぇ、ユールベル」

「え?」

 アンジェリカはユールベルに声を掛けた。ユールベルはびくりと振り向いた。アンジェリカはにこにこと微笑んでいた。

「今度、ふたりだけで話せないかしら」

「ええ、いいけど……」

「ふたりきりなんてダメだ!」

 ジークは慌てて割り込んだ。ユールベルを信じていないわけではなかったが、ふたりきりにするには漠然とした不安があった。

「おまえ、何を企んでいる?!」

 今度はレオナルドだった。きつい口調でアンジェリカを問いつめた。

「話をするだけよ」

 アンジェリカは口をとがらせた。

「行くぞ」

 レオナルドはユールベルの手を引き、逃げるように大股で歩き出した。

「また連絡するわ」

 アンジェリカはユールベルの背中に声を送った。彼女は振り返って何か言いたげな顔を見せたが、レオナルドは立ち止まらず強引に連れ去った。


「おまえ、何の話をするつもりなんだよ」

 ジークは腕を組み、むすっとしてアンジェリカに振り向いた。まさか、自分の話か――? 仏頂面の後ろで、鼓動が高鳴った。

「ジークのことじゃないから安心して」

 まるで彼の心を見透かしたように、アンジェリカはさらりと答えた。

「別にっ……んなこと……」

 ジークの顔に一気に血がのぼった。とっさに反論しようとする。だが、すぐにトーンダウンし、口ごもっていった。うつむいて腕を組み、困ったように眉をひそめた。

「そうだわ」

 アンジェリカは急に何かを思い出し、目を大きく見開いた。

「ジーク、前に私の手料理を食べたいって言ってたじゃない?」

「いっ、言ってねぇよ!!」

 ジークは焦った。今度は思いきり否定した。確か、それは彼女が言い出したことであって、自分が言った記憶はない。

「何よ、そんなに嫌なの?」

 アンジェリカは口をとがらせた。

「えっ、あ……い、嫌とは言ってねぇだろ……」

 ジークはきまり悪そうにうつむいた。耳元が赤くなっていく。いつものことながら、すっかり彼女のペースである。少し悔しい思いはあったが、不思議と嫌な気はしない。

「じゃあ、今度、ジークの家に作りに行くわ」

 アンジェリカは顔を輝かせて言った。

「俺んち?!」

 ジークは自分を指さし、素頓狂な声を上げた。アンジェリカはちょこんと首を傾げた。

「だめ?」

「母親にきいてみねぇと……」

 ジークは難しい顔で唸った。断られることはないと思うが、きっと何かとからかわれるだろう。そのことだけが心配だった。

 アンジェリカはにっこり笑った。

「それじゃ、きいておいてね。リックも食べに来てね!」

「いいの? 楽しみだなぁ」

 リックは素直に嬉しそうな声を上げた。自分も誘ってもらえるとは思わなかった。ジークだけというなら、それはそれで構わないと思っていたが、やはり少し寂しさはある。当然のように誘ってくれた彼女に感謝した。もっとも、ジークはふたりきりの方がいいと思っているかもしれないが――。リックは彼の顔色を窺った。

 ジークは眉根を寄せ、考え込んでいた。

 リックは苦笑いした。

 だが、ジークの頭の中は、リックの想像とは掛け離れていた。ジークは、明るく振る舞う彼女を見て、微かな不安を感じていた。無理をしているのではないか、そんなふうに思えた。もしかしたら、責任を感じ、自分を元気づけようとしてくれているのかもしれない。それとも、今だけでも嫌なことを忘れていたいのだろうか。

「ジーク?」

 アンジェリカが目をぱちくりさせて、下から覗き込んだ。

「あまり難しい顔ばかりしてたら、眉間のしわ、取れなくなっちゃうわよ」

「しわなんて寄ってねぇよ」

 そう言いつつも、ジークはこっそり下を向き、人差し指と中指で眉間を伸ばした。


「え? お父さん?!」

 アンジェリカは口に手をあて、息を呑んだ。教室の前で壁に寄りかかっていたのは、彼女の父親のサイファだった。彼は三人に気がつくと、人なつこい笑顔を見せた。

「やあ、きのうは大変だったね」

 壁から体を離すと、軽く右手を上げ、ジークに声を掛けた。ジークは少し驚きながらも、挨拶を返そうとした。だが、そのとき、アンジェリカは彼を庇うように前に飛び出した。あごを引き、上目遣いで父親を睨みながら、声をひそめて問いつめる。

「何をしに来たの?」

「ジークに用があって来たんだよ」

 サイファは優しくなだめるように言った。しかし、彼女は警戒を解かなかった。それどころか、ますます態度を硬化させた。

「だめ!!」

 首を横に振りながら、必死に押し返そうとする。

「どうしたんだよ、アンジェリカ……」

 ジークは彼女の後ろで呆然とつぶやいた。ついさっきまでの楽天的な明るさとは、まるで正反対の挙動である。多少、無理をしているのではないかと思ったが、ここまでの落差を見せられては、さすがに驚く。

 サイファは彼女の細い腕を掴み、引き寄せた。抵抗する彼女を抱きしめ、彼女にだけ聞こえるように耳元でそっと囁いた。

「心配するな。あのことは彼には言わない。アンジェリカの大切な日常は守るよ」

「じゃあ、何の用なの」

 アンジェリカは父親を見上げ、きつい口調で尋ねた。ジークたちにも聞こえる声だった。サイファも小声をやめ、通常の声で答えた。

「上司にジークを連れてくるように言われたんだ」

「どうして」

 アンジェリカはサイファの服をぎゅっと掴み、潤んだ揺れる瞳を彼に向けた。

 サイファは申しわけなさそうに肩をすくめた。

「私にもわからないんだ」

「そんな……」

「彼のことは守るよ。信じてくれるかい?」

 アンジェリカは不安そうな顔のまま、かすかに頷いた。

 サイファはにっこりとして、彼女の頭に手をのせた。

「そういうわけで、一緒に来てくれるか? ジーク」

「でも、これから授業が……」

 ジークは嫌な予感がして腰が引けた。とっさにその場しのぎの言いわけを口にする。

 サイファは愛想よく微笑んだ。

「ラウルの許可は取ったよ」

 逃げ道は塞がれていた。ジークには、他に断る理由が思い浮かばなかった。観念するしかない。素直に「はい」と返事をすると、サイファのあとについていった。


「心配ないよ」

 ひたむきにふたりを見送るアンジェリカの肩に、リックは優しく手をおいた。アンジェリカは沈んだ顔でうつむいた。

「そうだといいんだけど」

「もう大丈夫って、さっき自分で言ってたじゃない。アンジェリカの勘はよく当たるんでしょ?」

 リックは同意を求めるように、にっこり微笑み掛けた。

「ええ、そうね」

 アンジェリカも顔を上げて、微笑み返した。だが、今の自分の心にあるのは不安ばかりだった。嫌な想像が次から次へと頭に浮かぶ。こんな勘は当たらなければいい。当たらないでほしい。懸命にそう願った。


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