表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
74/111

74. 動き始めた長老

「ユールベル=アンネ」

 ずっしりと体に落ち込むような重みのある低音が、アカデミーの廊下に響いた。背後から名を呼ばれた彼女は、びくりと体をこわばらせた。並んで歩いていたレオナルドも、けわしい顔で足を止めた。ふたりが振り返ると、そこには気難しい顔をした年輩の男が、後ろで手を組み立っていた。堂々たる恰幅を見せつけるように胸を張り、背筋をピンと伸ばしている。その佇まいからは強い威厳が感じられた。

「おまえに話がある。一緒に来てもらおうか」

 男は有無を言わせぬ口調で、一方的に告げた。ユールベルの目に怯えの色が浮かんだ。レオナルドは一歩踏み出すと、彼女を庇うように、その前に右手を伸ばした。

「どうしてあなたが……」

「レオナルド=ロイ、おまえに用はない」

 口をはさみかけたレオナルドを、男は冷徹な視線で鋭く射抜いた。レオナルドは体をすくませた。喉が乾き、張りつきそうになった。無理やり唾を飲み込もうとする。

 男はユールベルに目配せをすると、後ろで手を組んだまま歩き始めた。

「レオナルド、先に帰って」

 ユールベルは固い声でそう言うと、早足で男のあとを追った。

「待て!」

 レオナルドは手を伸ばし、引き止めようとした。しかし、気持ちとは裏腹に、足は凍りついたように動かない。自分を圧倒する者に対する防衛本能が、足を進めることを拒絶していた。自分の情けなさが腹立たしくて仕方なかった。下唇を噛みしめ、爪が食い込むほどにこぶしを握りしめた。


 ユールベルと男は、アカデミーの外れにある寂れた教会へとやってきた。こじんまりとして古びているが、手入れは行き届いているようだ。床も、長椅子も、ステンドグラスも、祭壇も、丁寧に磨き上げられていた。

 カツーン、カツーン――。

 男はゆったりと靴音を打ち鳴らしながら、教会へ足を踏み入れた。そして、中央まで足を進めると、踵を返し、扉付近で立ち尽くしているユールベルをまっすぐに見つめた。扉から射し込む夕陽が、彼女を後ろから照らし、金の髪を鮮やかに縁取った。床に落ちた長い影は、男の足元まで伸びている。

「おまえにやってもらいたいことがある」

「私なんかに何を頼むっていうの」

 彼女はあごを引き、上目遣いでじっと男を睨んだ。

「そう構えるな。簡単なことだ」

 男は幾分、柔らかに言ったが、彼女の警戒心が緩むことはなかった。彼を見据えたまま、無言で次の言葉を待った。男はそれに応じ、核心を口にした。

「アンジェリカとジークの仲を裂いてほしい」

 ユールベルは目を見開いた。

「男を誘惑するのは得意だろう?」

 彼はさらに畳み掛けた。表情を動かさず、しかし、意味ありげに彼女を見る。ユールベルはカッと顔を紅潮させ、その瞳に激しい怒りをたぎらせた。

「断るわ。他をあたって」

 抑制されたその声は、微かに震えていた。声だけではない。肩も、腕も、背中も、小刻みに震えていた。そして、耐えかねたように背を向けると、教会から出ていこうとした。

「今夜はシチューの予定だったようだな」

 男は声を張った。ユールベルは足を止め、怪訝に振り返った。話の流れが掴めない。戸惑いの表情を浮かべ、瞳で問いかける。

「アンソニーを預かっている」

 男は静かに答えた。彼女ははっと息を呑んだ。みるみるうちに顔が青ざめていく。

「監禁がどんなものか、おまえには言うまでもないだろう」

「アンソニーはどこ?!」

 彼女は長い髪を揺らし、切迫した声を上げた。男はふっと小さく笑った。

「役目を果たせば帰すと約束する。変な気は起こすな。おまえには常に見張りがついていると思え」

 ユールベルの右目が潤んだ。今にも泣き出しそうに顔を歪ませた。何か言いたそうに口を開こうとしたが、何も言えなかった。はぁっと息を吐くと、弾けるように教会から飛び出した。緩やかなウェーブを描いた金の髪を煌めかせ、夕陽の中へと消えていった。


 レオナルドは腕を組み、アカデミーの門前を落ち着きなくうろついていた。一分が一時間にも感じる。難しい顔で、何度も何度も校舎の方に目を向けた。

「ユールベル!」

 レオナルドはようやく彼女の姿を捉えた。ほっとしたように呼びかけ、走り寄った。しかし、彼女はうつむいたまま、彼を無視して走り過ぎた。

「待て!」

 レオナルドは焦って振り返ると、彼女の細い肩を掴んで止めた。

「何があった?」

「何も……」

 ユールベルは顔を背けたまま、感情を押し殺して言った。だが、その声にはわずかに涙が混じっていた。レオナルドは彼女の正面にまわりこみ、両肩を掴んで覗き込んだ。

「何も、って顔じゃないだろう」

「ごめんなさい……。今はひとりにして。お願い」

 ユールベルは涙を浮かべ懇願した。レオナルドは目を細めうつむいた。彼女の肩にのせた手に、ぐっと力を込める。

「……わかった」

 自らを抑えるようにそう言うと、肩からそっと手を放した。ユールベルはすり抜けるように彼から離れ、走って校門を出ていった。

 ――ひとりにして良かったのだろうか。

 レオナルドは自分の判断に自信が持てなかった。彼女の表情を思い返し、後悔と自己弁護の狭間で揺れた。


 ユールベルは全力で走り、息をきらせて自宅へ戻った。ドアノブに手を掛けまわすと、引っかかることなく半回転した。鍵はかかっていないようだ。荒い息を整えるように大きく呼吸をし、ごくりと唾を飲み込む。そして、意を決して扉を開くと、中へ駆け込んだ。

 しんと静まり返った部屋には、人の気配はない。だが、ソファの上には、アンソニーが学校へ行くときに使っている鞄が置いてあった。ユールベルの鼓動はますます早く強くなっていった。他の部屋をひとつづつまわっていく。どこにも彼の姿はない。最後に台所を覗く。そこには、シチューの材料と思われる食材が準備してあった。まな板の上には、人参が切りかけのままで放置されていた。

 ――今夜はシチューの予定だったようだな。

 彼女の脳裏に男の低い声がよみがえった。彼はこのことを知っていた。おそらく、ここからアンソニーを連れ去ったのだろう。彼女は両手で顔を覆い、その場に泣き伏した。


 ひとしきり泣いたあと、彼女は駆け足でアカデミーに戻った。まもなく日が落ちようかという頃だ。校舎内には、もうまばらにしか人はいない。その中を、彼女は靴音を響かせ走りまわった。あてはない。ここにいるとは限らない。既に帰ったかもしれない。それでも今はこれしか出来ない。


「ホント頭に来るぜ、ラウルのヤツ」

「ジーク、いつも同じこと言っているわよ」

「それで気が晴れるんならいいけどね」

「晴れるわけねーだろ」

 ジーク、リック、アンジェリカの三人は、他愛もない話をしながら図書室から出てきた。

「やっと、見つけた……」

 ユールベルは肩を大きく上下させ、切れ切れに言葉を落とした。思いつめた顔でジークを見つめる。ジークも彼女の存在に気がついた。様子が普通でないことは、ひと目でわかった。怪訝な視線を彼女に向ける。リックとアンジェリカも、つられて彼女に目を向けた。

 ユールベルはまっすぐジークを見つめながら、距離を縮めていった。息づかいまで感じられるほどに近づく。ジークはうろたえ、後ずさろうとした。だが、彼女がそれを許さなかった。踵を上げ、彼の首に手をまわし、体を寄せて抱きついた。

「え? ちょっ……おまえっ、おいっ!」

 ジークは激しく狼狽した。ふわりと舞い上がった甘い匂いが鼻をくすぐる。そして、胸元に感じる柔らかなふくらみ、首筋にかかる温かい吐息――。一瞬、頭の中がぐらりと揺れたように感じた。

 しかし、彼女が次に口にした言葉が、彼の理性を呼び戻した。

「弟が人質に取られているの。私も見張られている」

 ジークにだけ聞こえるように、耳元で小さく言った。彼ははっとした。それだけで、何が起きたのかおおよその見当がついた。

「詳しい話、聞かせてくれ」

 彼女の頭に手を添えると、その耳に触れるくらいに口を近づけ、囁くように言った。ユールベルは浅くこくりと頷いた。


「悪い、俺、今日はユールベルと帰る」

 ジークは、呆然としているリックに振り返り、さらりと言った。なるべく何でもないふうを装った。だが、アンジェリカには何も言えなかった。目を向けることすらできなかった。

「……何か、あったの?」

 アンジェリカが後ろからぽつりと問いかけた。

「別に」

 ジークは背を向けたまま、素っ気なく答えた。そして、ユールベルの手を引き、足早に去っていった。

 アンジェリカは無言でふたりの後ろ姿を見送った。リックは心配そうに彼女の横顔を窺った。


 あたりは紺色に包まれていた。頬にあたる風も、ずいぶんひんやりとしてきた。ジークとユールベルは、急ぎ足で校庭を横切り、教会へとやってきた。扉は閉まっていた。だが、ジークは躊躇することなく両開きの扉を引いた。

 ギィ――。

 軋み音が静寂を裂いた。扉がゆっくりと開かれていく。

 中はだいぶ薄暗かった。暖色の明かりがほのかに祭壇を浮かび上がらせている程度である。しかし、そのことが、昼間よりも教会らしい雰囲気を醸し出していた。

 ジークは無遠慮にドタドタと音を立てながら踏み入った。ユールベルの手を引き、祭壇に向かって進んでいく。そして、いちばん前の長椅子に彼女を座らせると、自分も隣に腰を下ろした。

「少し前に、ルーファス=ライアンに連れられてここに来たの」

 ユールベルは声をひそめて言った。

「それ、アンジェリカのひいじいさんか?」

 ジークも小声で尋ねた。直感的にそう思った。それ以外に思い当たる人物はいなかった。

 ユールベルは小さく頷いた。

「ラグランジェ家の先々代当主よ。知っているの?」

「ああ、一度、話をしたことがある」

「そう」

 彼女の胸に漠然とした不安が広がった。ジークがここまでラグランジェ家に関わっていたとは思わなかった。

「それで?」

 ジークは続きを催促した。ユールベルは頷いて本筋に戻った。

「彼は、弟を預かっていると言ったの。家に帰って確かめたけど、実際に夕食を作りかけでいなくなっていたわ」

 そこまで言うと、目を細めうつむき、右手で額を押さえた。

「帰してほしければ、あなたとアンジェリカの仲を裂けって。私を常に見張っているとも……」

 ジークはあたりを見渡した。姿は見えないが、確かに人の気配のようなものは感じる。見張られているのは事実かもしれないと思った。

「仲を裂くって、どうすればその役目を果たしたことになるんだ?」

 ユールベルは首を横に振った。

「わからないわ。見張りがいるとすれば、その見張りが判断するのかもしれない」

 ジークは背もたれに両腕を掛け、天井を仰いだ。

「ヤツらにそう思わせて返してもらうか、それとも乗り込んでいって奪い返すか……」

「乗り込むってどこへ?」

「監禁場所に心当たりはねぇのか?」

 ユールベルは固い顔でうつむき、首を横に振った。ジークはため息をつきながら、再び天井を仰いだ。

「弟も魔導は使えるんだろ? 逃げ出して来ないってことは、多分、結界を張られてるんだろうな」

 ユールベルの顔からさっと血の気が引いた。膝の上にのせた小さなこぶしをきつく握りしめると、うつむいたまま顔をこわばらせた。細い肩は、何かに耐えるようにわなないている。

 ジークはそれを目にして気がついた。彼女は自分の過去を思い出しているのだと。

「悪りィ。嫌なことを思い出させちまったな」

 彼は申しわけなさそうに顔を曇らせた。ユールベルは顔を上げ、すがりつくように彼の袖を掴んだ。

「アンソニーをあんな目に遭わせたくない! はや……」

 ジークはあたふたとして彼女の口を手でふさいだ。

「声がでかいっ」

 ユールベルはしゅんとして黙り込んだ。ジークは安心させるように、今度は落ち着いた口調で言った。

「大丈夫だろ。あいつを傷つけるのが目的じゃねぇんだ。ひどい扱いはされてねぇよ」

「自宅……かもしれない」

「え?」

 ジークはぽかんとした。ユールベルは彼を見上げた。

「部屋がひとつあればいいもの。結界を張ってあるとはいえ、誰が近づくかわからない外より、自分の家の方がよほど安全だわ」

「確かにな」

 ジークは腕を組み、考え込んだ。

「あいつの家はどこかわかるか?」

「いいえ、アンジェリカやおじさまなら知っていると思うけど……」

 ユールベルはうつむき、言葉を詰まらせた。

「訊くわけにはいかねぇよなぁ」

 ジークがそのあとを引き取って続けた。ため息をつき、腕を組んだまま視線を上げた。口をきゅっと結び、目を細める。

「ラウル……」

 ユールベルはぽつりと言った。そして、驚くジークに振り向き、彼と視線を合わせた。

「ラウルも知っているかもしれないわ」

「ラウルか……」

 ジークはあからさまに嫌そうに言った。顔をしかめ、頭を掻く。ユールベルは意気消沈してうなだれた。

「心配すんな。訊きに行くって」

 ジークは彼女の肩をぽんと叩くと、立ち上がってジーンズのポケットに手を突っ込んだ。

「行くぞ」

 ユールベルは立ち上がり、彼のあとについて行った。


「おまえら……!」

 ジークは目を見開いた。そこにいたのはリックとアンジェリカだった。教会の外で待ち構えていたのだ。リックは心配そうに顔を曇らせた。アンジェリカは、後ろで手を組みうつむいた。

「帰れよ」

 ジークは視線を落とし、感情のない声で告げた。リックは彼の正面にまわりこんだ。

「何か事情があるんだったら、僕らにも話してよ、ね?」

 優しく笑顔を作り、訴えかける。しかし、ジークは苛ついたように舌打ちして、顔をそむけた。

「なんもねぇよ。俺が誰とどう過ごそうと関係ねぇだろ」

 突き放すように答えると、ユールベルの手首を掴み、足早に校舎へと向かった。

「ジーク!」

 リックは彼を引き止めようとした。だが、アンジェリカはそれを静かに制止した。

「リック、帰りましょう」

 そう言って、まっすぐ門へと歩き出した。

 リックは、別々に去り行くふたりの背中を、交互に目で追った。そして、悩みながらも、アンジェリカの方に足を向けた。


「ごめんなさい」

 ユールベルは消え入りそうな声でそう言うと、申しわけなさそうに目を伏せた。

「いや、俺のせいでおまえを巻き込んじまったんだからな」

 ジークは彼女に背を向けたまま、その言葉を噛みしめた。それは、まるで自らに言い聞かせるかのようだった。

 ユールベルは沈痛な面持ちで首を横に振った。

「元はといえば、ラグランジェ家の問題なの。巻き込まれたのはあなたの方だわ」

「どっちのせいかなんて議論は意味ねぇよ。解決することだけを考えようぜ」

 ジークは淡々と言った。しかし、その言葉が彼女の胸を熱くした。あふれそうになる涙を必死にこらえた。

「弟を取り戻したら、私からアンジェリカにきちんと説明するわ」

 それは、彼女なりの精一杯の誠意だった。

「そうしてもらえると、ありがたいな」

 ジークは少し疲れたようにため息をつきながら笑ってみせた。


「くそっ、留守かよ!」

 ジークは明かりの消えた医務室を睨み、鍵のかかった扉を蹴りつけた。ガシャンと派手な音が虚しく響く。

「待つしかねぇか」

 ため息まじりにそう言うと、扉を背に座り込んだ。ユールベルは立ったまま壁にもたれかかった。薄明かりの蛍光灯の下、ふたりは無言でラウルを待った。あたりに人影は見えない。気まずい沈黙だけが、静かに流れていく。


 ――カッ、カッ。

 うとうとしていたジークは、その靴音に反応し、勢いよく顔を上げた。しかし、それはラウルではなく、パンプスを履いた女性だった。彼女は怪訝な顔を見せたが、そのまま何も言わず通り過ぎていった。

 ジークは深く息を吐いた。ここで待ち始めてからどのくらい経つだろうか。二時間、いや三時間くらい経っている。その間、ユールベルはずっと立ったままだった。表情に見える疲労の色は、だいぶ濃くなっていた。

 ジークは立ち上がった。

「今日はもう帰ろう。あした出直そうぜ」

 ユールベルは不安そうに顔を上げた。捨てられた子猫のような目で、彼を見つめる。

「弟なら大丈夫だろ。あいつらだって悪党ってわけじゃねぇんだし」

 ジークは彼女を納得させるためにそう言った。彼自身もそう思おうとしていた。だが、心の片隅には、拭い去れない不安がわだかまっていた。そして、それはユールベルも同じだった。

「だと、いいんだけど……」

「大丈夫だ」

 ジークはもう一度、今度は力強く言った。彼女は固い表情で、ぎこちなく頷いた。


 ふたりは並んで歩き、アカデミーの門を出た。空はもう完全に闇に覆われている。街灯の小さな明かりだけが、歩き進める頼りだった。

「じゃあな」

 ふたりの帰路の分かれ道で、ジークは右手を上げた。そして、自分の帰路へと足を進めようとした。

「待って!」

 ユールベルは思いつめた声を上げ、後ろからジークに抱きついた。細い腕にぐっと力を込め、彼の背中に顔をうずめる。そして、桜色の小さな口を開いた。

「ひとりになりたくない……怖いの」

 かぼそい声が背中から伝わってきた。ジークは困惑して顔を歪ませた。

「そう言われてもな……」

「いてくれるだけでいいの」

 ユールベルは哀願を続けた。森の湖を思わせる蒼い瞳は、緩やかに揺らめいていた。


 結局、ジークはユールベルに押し切られた。自分の家に帰ることをやめ、彼女と食事をとり、それから彼女の家へと向かった。ふたりとも口には出さなかったが、もしかしたらアンソニーは戻っているかもしれない――そんな淡い期待が胸をよぎった。

 しかし、それは単なる期待で終わった。部屋は真っ暗で、人の気配などまるでない。ソファに投げ置かれた鞄に、作りかけのシチュー。それらは、ユールベルが出ていったときと何ら変わらない状態でそこにあった。

 彼女は落胆した表情で、台所を見つめた。

 ジークはソファにごろんと横になった。

「あしたは決戦になるかもしれねぇ。しっかり寝とけよ」

「アンソニーのベッドがあるから使って」

 ユールベルは奥を指さした。ジークは起き上がり、彼女の指先を目で追った。そこには寝室があった。扉は大きく開け放たれている。そのため、明かりは消えていたが、容易に中を窺うことが出来た。寝室としては十分すぎるほどの広さがあるが、飾り気はまるでない。目につくのは両脇にあるベッドくらいだ。彼女は右側を指し示しているので、そちらがアンソニーのものなのだろう。サイズは大人のものと変わらないようだった。

 ジークは遠慮することなく、その上に体を投げ出した。仰向けに寝転がり、両手を上げ大きく伸びをする。ユールベルはうっすらと穏やかな笑顔を見せた。

「俺はもう寝るぜ。おまえも早く寝ろよ」

 ジークはぶっきらぼうにそう言うと、布団にもぐり込んだ。彼女に背を向け、目を閉じる。

「おやすみなさい」

 ユールベルは白いシーツを見下ろしながら、ぽつりと言葉を落とした。


 ――眠れない。

 あれから何時間が過ぎただろうか。ユールベルも自分のベッドに入っていたが、一向に寝つけなかった。何度も無意味に寝返りを打つだけだった。

 眠れない理由のひとつは、左目を覆っている包帯だった。いつもは、就寝時には外しているのだが、今日はジークがいるために外せないでいた。醜い傷跡を見られたくなかったのだ。

 そして、もうひとつの理由は、ジークそのものだった。彼はアンソニーのベッドでぐっすり眠っているようだった。静かに寝息を立てている。

 ユールベルはベッドから下りた。何とかあたりが見渡せるくらいの薄明かりの中、彼女は足音を立てないようジークに近づいていった。ベッド脇で立ち止まり、無防備な寝顔を見下ろす。じっと見つめているうちに、ふいに右目から涙がこぼれ落ちた。あわてて両手で口を押さえ嗚咽を飲み込むと、素早くそっと寝室を出ていった。リビングルームのソファに座り、膝を抱え顔をうずめた。そして、音を立てないよう静かに忍び泣いた。


「そろそろ起きろよ」

 遠くに聞こえたその声に、ユールベルは目を覚ました。あたりはさわやかな明るさに包まれている。ぼんやりとした頭で起き上がり、自分のまわりを見まわした。そこはリビングルームのソファの上だった。泣きながらそのまま眠ってしまったらしい。体の上には毛布が掛けられていた。

「おまえ何でこんなとこで寝てんだ? もしかして俺、いびきとか寝言とかうるさかったか?」

 ジークは、トーストとコーヒーを手に台所から戻ってくると、ソファに座りながら尋ねかけた。不安げに彼女を覗き込む。彼女は目を伏せ、無言で首を横に振った。

「あ、勝手に風呂とかタオルとか借りたぞ」

 その言葉どおり、彼の髪は濡れていたし、首からはタオルが掛かっていた。それだけではなく、彼が手にしていたトーストもコーヒーも、勝手に台所から調達したものだった。

 ユールベルは両手で顔を覆い、すすり泣き始めた。肩を大きく揺らしている。

「え? あ、まずかったか? 悪かった。えっと、どうすればいいんだ?」

 ジークはトーストを片手におろおろした。ソファから腰を浮かせ、困り顔で彼女を覗き込む。彼女は小刻みに首を左右に振った。

「そうじゃない。私、自分のことがとことん嫌になったの!」

 ジークは真面目な表情になった。ゆっくりとソファに腰を下ろす。彼女は小さくしゃくり上げながら話を続けた。

「あなたの良心や優しさにつけ込んで、引き止めてしまった。あなたと一緒にいたかったから……。アンソニーがさらわれたのに、私はこんなことばかり考えて……」

 そこまで言うと、うっと言葉を詰まらせた。大粒の涙が、右目から手の甲にこぼれ落ちた。膝の上の毛布をぎゅっと掴み、こぶしを小さく震わせる。

「私、自分がどれほどひどい人間か思い知ったわ」

 きつく目を閉じ、涙声で吐き捨てるように言った。そして、背中を丸め、さらに深く顔をうつむけた。こんなひどい表情を見られたくなかった。何より彼の反応が怖かった。

「……そんなもんじゃねぇのか」

 ジークはソファの背もたれに深く身を沈め、大きく息を吐いた。

「そんなこと、思ったとしても、普通わざわざ言わねぇよ」

 ユールベルはうつむいたまま、眉根を寄せた。

「俺は気にしてねぇから、おまえも気にするな。それより早く準備しろよ。授業が始まる前にラウルのところに行くからな」

 ジークは淡々とそう言うと、手にしていたトーストにかじりつき、口いっぱいに頬張った。ユールベルは小さくすすり泣きながら、こくりと頷いた。


「おい、ラウル!」

 ジークは医務室の扉を乱暴に叩いた。鍵は締まっている。また留守なのだろうか、それともまだ帰っていないのだろうか。そう思ったが、しつこく叩き続けた。

 ――ガチャ。

 鍵を開く音がした。間髪入れず、引き戸が開かれた。

 戸口にはラウルが立っていた。左手にはまだ包帯が巻かれている。彼は思いきり不機嫌な顔で、上からジークを睨み下ろした。ジークはぎょっとして後ずさった。

「朝早くから何の用だ」

 ラウルはいつもと変わらない冷淡さで尋ねた。ジークは突っかかるように答えた。

「あのジジイの住所を教えろ」

「誰のことだ」

「あいつだ、えーと……」

「ルーファス=ライアン=ラグランジェ」

 後ろに立っていたユールベルが助け舟を出した。ラウルはその名を聞いて、わずかに眉をひそめた。

「聞いてどうする」

「おまえには関係ねぇ」

 ジークは苛立たしげに声を荒げた。

「なら、関係あるやつに訊け」

 ラウルはすげなく言うと、扉を引いた。ジークはあわてて体を挟み込んだ。扉が彼の腕に直撃し、ガシャンと音を立てて止まった。

「どうしても聞かなきゃなんねぇんだ!」

 扉に打ちつけられた痛みに顔をしかめながら、必死に訴えかけた。

「お願い、ラウル」

 ユールベルも後ろからすがるように懇願した。ラウルはじっと彼女を見つめた。

「そこで待っていろ」

 静かにそう言うと、ジークを押し出して扉を閉めた。彼は、今度はおとなしく従った。扉の前で立ち尽くして待った。

 一分ほどすると、再び扉が開いた。戸口に現れたラウルは、二つ折りにされた小さな紙切れを手にしていた。

「それが住所か?!」

「よく考えてから行動しろ」

「わかってる」

 ラウルが差し出したその紙切れを、ジークは引ったくるように受け取った。

「今日は遅刻するからな」

 仏頂面でそう言うと、踵を返し、早足で歩き始めた。

 ユールベルは何か言いたげに、じっとラウルを見つめた。しかし、結局は何も言わず、小走りでジークのあとを追いかけた。


 アカデミーの門を出たところで、ふたりはアンジェリカとばったり出くわした。彼女はこれからアカデミーへ行くところだった。ふたりを見て、一瞬、目を丸くしたが、すぐに無表情に戻り、無言ですれ違った。

 ジークは唇を噛みしめた。そして、彼女の遠ざかる足音を振り切るかのように走った。


 ふたりは住所をたどり、ルーファスの家の前へとやってきた。それなりに立派な家ではあるが、ラグランジェ本家よりはだいぶ小さい。もっとも、非常識に大きい本家と比べること自体が間違っているともいえる。

 ジークはユールベルの様子がおかしいことに気がついた。うろたえながらあたりを見まわしている。

「どうした?」

「あれ、私の住んでいたところ……」

 彼女は斜め裏の家を指さした。ジークは驚いて目を見張った。

「すぐ近所じゃねぇか」

「……ええ」

 彼女はそれだけ答えるのが精一杯だった。ジークと同様に、いや、それ以上に驚いていた。彼女はアカデミー入学前、何年もの間、自宅の二階に幽閉されていた。知らなくても、もしくは忘れていても無理はない。

 彼女は自分が住んでいた家の二階を、目を細めて見つめた。改築のため、窓の形が変わっている。厚い遮光カーテンも引いていない。もうあの頃の面影はなかった。しかし、それでも忘れられるものではない。ふいに過去の出来事が鮮明に蘇ってきた。光のあたらない部屋、湿った不快な匂い、結界の外から冷めた目を向ける父親――。思わず吐き気をもよおし、下を向いて両手で口を押さえた。

「大丈夫か? しばらく休むか?」

 ジークは心配そうに顔を曇らせた。ユールベルは眉を寄せた。冷や汗が、ひたいから頬に伝い、床に落ちた。

「……いいえ、平気よ」

 アンソニーを早く助けなければ。あの子にこんな思いはさせたくない。だから、姉である自分がしっかりしないと――。彼女は胸を押さえ、大きく息を吸い、顔を上げた。気持ちを立て直し、表情を引き締めた。

 ジークも表情を引き締め頷いた。そして、ルーファスの家を見渡した。

「でも、ホントにここにいるのかわかんねぇな。あやしい結界が張られてるようには感じねぇし……」

「いくらでも偽装はできるわ。優秀な魔導士や結界師なら」

 ユールベルは自分の父親のことを思い浮かべていた。彼女の父親も、監禁していた結界を偽装して、外部からわからないようにしていた。

「行ってみるしかねぇか」

 ジークは緊張しながら呼び鈴を鳴らした。すぐに扉が開いた。彼はさっと身構えた。だが、扉を開けたのはルーファスではなく、メイドらしき女性だった。ジークよりやや年上くらいだろうか。地味な黒いドレスに、白のエプロンをつけている。彼女は、ふたりを値踏みするような目でじろりと見た。

「えーと、ルーファス=ライアン=ラグランジェに用があって来た」

 ジークは彼女の視線にたじろぎながら、とりあえず用件を伝えた。

「お約束でしょうか」

 メイドは感情なく尋ねた。

「約束は、ねぇけど……」

「では、お引き取りを」

 彼女は扉を閉めようとした。

「ちょっと待て!」

 ジークは閉まりかけた扉を力づくでこじ開け、中に押し入った。

「な……何を?!」

 弾き飛ばされたメイドは、よろけながら甲高い声を上げた。しかし、素早く体勢を立て直すと、小さな声で呪文を唱え始めた。

「マジかよ!」

 ジークはユールベルの手を引き、後ろにかくまうと、前面に結界を張った。ユールベルも、後ろからふたりの周囲に結界を張った。

 メイドは胸の前で両手を向かい合わせた。その間に強い光が生まれ、あたりを青白く照らした。黒髪がさらさらと波打ち舞い上がる。呪文の詠唱が止まると同時に、彼女はその光をジークたちに放った。

 ――ドン!!

 正面から結界にぶつかり、光は消滅した。その下の大理石の床は、白く凍りついていた。

 彼女は大きく肩で息をしながら、再び呪文を唱えようとした。

「下がっていろ、フラウ」

 低い威厳のある声が、玄関ホールに響いた。その声の主が、カツン、カツンと靴音を響かせながら、ゆったりと歩いてくる。それは、アンジェリカの曾祖父・ルーファスだった。

「はい」

 メイドは一礼すると、すっと奥へ消えていった。

 ルーファスは後ろで手を組み、鋭い目でふたりを見た。ユールベルはびくりと体をこわばらせ、ジークの袖をぎゅっと掴んだ。

「何をしに来たのだ、ユールベル。まさか、もう役目を果たしたなどと言うつもりではないだろうな」

「ああそうだ。だから早く返せよ、弟」

 ユールベルが答える前に、ジークが勝手に答えた。彼女はとまどいがちに彼を見た。彼は刺すような視線をルーファスに向けている。今にも飛びかからんばかりだ。

 だが、ルーファスはまるで動じなかった。

「ならば、証しを立ててもらおうか」

「証し?」

 ジークは怪訝に眉をひそめた。ルーファスは真顔で答えた。

「そうだな、アンジェリカを呼び、あの子の目の前で、おまえたちが口づけをするというのはどうだ」

「てめぇ、バカか! ふざけてんじゃねぇぞ!!」

 ジークは顔を真っ赤にして、彼の胸ぐらを掴んだ。

「愚かだな」

 ルーファスはそれでも余裕綽々だった。

「アンソニーは私の手中にあるのだ。合図を送るだけで、私の思うように出来るのだぞ」

 ジークは歯噛みした。彼の胸ぐらを掴んだまま、その手を震わせる。

「聞こえた……!」

 ユールベルは、突然はっとして右目を開いた。ジークは驚いて振り返った。

「どうした?」

「アンソニーの声が聞こえたの!」

 そう答えたときには、彼女はすでに走り出していた。屋敷内へと駆け込んでいく。ジークも急いで彼女のあとを追った。


 ――バン!

 彼女は勢いよく扉を開けた。

「アンソニー!」

 彼はいた。そこは台所だった。年輩の女性と向かい合って座り、ボールの中の卵を、泡立て器で撹拌していた。

「ねえさん、どうしたの? そんなに息をきらせて」

 アンソニーは目をぱちくりさせて、戸口の姉を見た。彼女は呆然と彼を見た。

「あなた、ここで何を……」

「ケーキを作ってるんだよ。出来たらねえさんも食べて!」

 アンソニーは無邪気に笑った。

「そうじゃなくて、どうしてここにいるの?!」

 ユールベルは強い口調で問いつめた。アンソニーは、不思議そうな目を彼女に向けながら説明をした。

「ねえさんがまた帰って来られなくなったって、ルーファスさんが僕を迎えに来たんだ」

 ユールベルははっとした。つい先日、ラウルのところに泊まったとき、サイファが彼を迎えに行き、一晩、預かってくれた。それと同じパターンだ。おそらくルーファスは知っていて利用したのだろう。もし、先日のことがなければ、そう簡単についていかなかったのではないか。自分がもっと彼のことを考えていれば……。ユールベルは泣き崩れた。膝をつき、両手で顔を覆って嗚咽する。

「ねえさん、どうしたの?」

 アンソニーは彼女のもとに行き、心配そうに覗き込んだ。


「てめぇ、嘘ついてコイツを連れてきたってわけか」

 ジークは、あとから入ってきたルーファスを睨みつけた。

「私は平和主義者なんでね」

 彼はしれっと言った。

「どこまでふざけた野郎なんだ!」

「今回はほんの挨拶代わりだ。君が折れない限り、今後はこんな生易しいことではすまんぞ。手駒はどこからでも調達できるからな」

「手駒だと?」

 ジークは眉をひそめた。

「人の弱みにつけ込んで脅すなんて、やること汚ねぇんだよ! いいかげんにしやがれ!」

 再びルーファスの胸ぐらを掴み、締め上げる。

「きれいごとだけで守れるものなら、喜んでそうするがな。恨むなら、ラグランジェに関わった自分自身を恨め」

 そう言うと、ルーファスは意味ありげな笑みを浮かべた。

「次は君の親友のリックか、それとも母親のレイラか……」

 ジークはカッとなった。凄まじい形相で、我を忘れて殴りかかる。

「ジーク、駄目っ!!」

 ユールベルは声の限りに叫んだ。ジークはルーファスの顔を外し、後ろの壁にこぶしを打ち込んだ。壁に大きく穴があき、破片がばらばらと落ちていく。それにより舞い上がる粉塵で、足元は何も見えないほどに白く煙っていた。

「フラウ、保安に通報しろ」

「はい、かしこまりました」

 後ろに控えていたメイドは、ルーファスに一礼すると、部屋から出ていった。

 ジークの顔から血の気が失せた。ユールベルは息を呑んで、彼を見上げた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ