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73. 進路

 ガラガラガラ――。

 ジークは引き戸を開け、中に入った。いつもは賑やかな教室が、今はしんと静まり返っている。

 そこにいたのはラウルひとりだけだった。窓際の椅子に座り、青色のファイルに目を落としていた。ファイルを持つ左手は、白い包帯で覆われていた。

 ジークは乱暴に椅子を引き、向かいの席に腰を下ろした。ふたりの間の机には、窓からの強い光が落ちていた。その照り返しのまぶしさに、思わず目を細める。わずかに顔をそむけ腕を組み、正面に座る担任の言葉を待った。

「魔導省か」

 ラウルはファイルを閉じると、感情のない声でつぶやいた。ジークはむっとして眉をひそめた。

「文句あるのかよ」

 ぶっきらぼうな口調でふてぶてしく突っかかる。だが、ラウルは無表情のままだった。彼を見もせず、ファイルを机に置くと、冷淡に言い放った。

「やめておけ。おまえには向いていない」

「なんだと?」

 ジークは顔をしかめた。そして、身をのり出すと、いきり立って語気を荒げた。

「いきなりそれかよ! おまえにそんなことわかるのか? 俺の何を知ってるっていうんだ!」

「あそこは理不尽なことが平然とまかり通るところだ。おまえにはそれを受け入れる覚悟があるのか」

 ラウルはジークを見据え、静かに言った。ジークは当惑の表情を浮かべた。考えもしないことだった。返答に窮し、目を泳がせる。

「忠告はした。あとは勝手にしろ」

 ラウルは冷たく言い捨てた。ジークはカチンときた。途端に強気になり言い返す。

「ああ、言われなくても勝手にするぜ」

「おまえが望めばサイファがどうとでもするだろう」

 ラウルはファイルを手に取り、すっと立ち上がった。ジークの頭に一気に血がのぼった。奥歯を噛みしめると、目の前の長身の男をキッと睨み上げた。

「俺の実力じゃ受かるわけねぇって言いたいのか?」

 怒りを込めた低い声で尋ねる。ラウルは冷たい目で彼を見下ろした。

「魔導の実力やアカデミーの成績は問題ない。問題はおまえのその態度だ」

 ジークは息を呑んだ。

「気に食わないからといって、そういうあからさまな態度をとっていては受かりはしない。受かったとしても昇進は見込めない。」

 ラウルは淡々とそう言うと、ファイルを脇に抱えた。

 ジークは苦々しく顔をしかめた。言葉もなく目を伏せる。痛いところを突かれた。その自覚はあった。だが、ラウルに対しては意地を張りたかった。

「……これは、相手がおまえだからだ。いざとなれば、上手くやる」

 精一杯の反抗心は、自信なさげな弱々しい声で語られた。

 ラウルは無言で背を向け歩き出した。

「た、たとえ!」

 ジークは去り行く背中に向かって声を張り上げた。ラウルの足は止まった。

「たとえ、上手くいかなかったとしても……」

 そこでいったん言葉を切った。グッと表情を引き締め、瞳に強い光を宿らせると、彼の大きな背中を凝視した。

「俺は、サイファさんに頼ろうなんて思ってねぇ。自分の力でやっていく」

 今度は決意をみなぎらせた声で、きっぱりと言い切った。

 ラウルはわずかに振り返った。

「ならば、はっきりとサイファにそう言っておくんだな。放っておくと、あいつは勝手なことをやりかねない」

「ああ、そうするぜ」

 ジークは投げやりに答え、フンと鼻を鳴らした。ラウルは再び背を向けた。そして、

ふいに口を切った。

「サイファに関わるとろくなことがない。あいつには近づきすぎるな」

 その声には、苛立ちと反感のようなものが微かに含まれていた。ジークは怪訝に眉をひそめた。

「俺は進路指導に来たんであって、人生相談に来たんじゃねぇぞ」

 彼のその言葉に、ラウルは何も答えなかった。無言のまま、大きな足どりで教室を出ていった。ちらりと見えた横顔は、相変わらずの無表情だった。

 ひとり残されたジークは、大きく息を吐きながら、机に突っ伏した。机の表面は、昼下がりの強い陽射しに照りつけられ、熱いくらいだった。しかし、今の彼には、それがちょうど心地よく感じられた。


 ジークは教室を出ると、食堂に向かい歩き出した。あたりは多くの生徒が談笑しながら行き交い、騒がしいくらいに賑やかだった。誰も皆、楽しそうに見える。彼は無意識に足を早めた。ときおりスニーカーがキュッと軽い音を立てた。

 小走りで階段を駆け降りると、彼ははっとして足を止めた。その視線の先にいたのは、レオナルドとユールベルだった。ここは彼らの教室の近くだった。そうでなくても同じアカデミーにいる以上、校舎内のどこで出会ってもまったく不思議ではない。だが、できれば出会いたくない相手だ。

 彼らも気づいたらしく、同様にはっとしてジークを見ていた。ジークはわずかに身構えた。また、いつものように、レオナルドが嫌味のひとつでも吹っかけてくるだろうと思った。だが、彼は不機嫌な顔を見せただけで、つんと無視をして通りすぎた。彼に手を引かれたユールベルも、とまどいがちに顔をそむけた。ジークの視界の隅を、白い包帯が流れた。

 ジークは思わず振り返っていた。首を傾げながら、階段を上がるふたりの後ろ姿を睨んだ。肩すかしをくらった脱力感、無視されたことの腹立たしさ、ふたりの態度への疑問など、さまざまに入り混じった感情が、彼に複雑な表情を作らせていた。


「ジーク! ここだよ!」

 リックは食堂に入ってきた彼を目ざとく見つけ、声を張り上げた。笑顔で大きく手を振っている。アンジェリカも隣でにっこり微笑んでいた。先に進路指導の面談を終えたふたりは、ここでジークを待っていたのだ。

 ジークは軽く右手を上げて応えると、コーヒーを買ってから、ふたりのいる窓際の席についた。一面の大きなガラス窓から陽光が射し込み、まぶしいくらいに明るい。食堂には彼らの他にもちらほら生徒がいて、遠くで笑い声やはしゃぎ声が上がっている。のどかな昼下がりらしい光景だ。

「どうしたの?」

 そんな中でひとり冴えない顔をしているジークを見て、リックは心配そうに声を掛けた。ジークはコーヒーをひとくち流し込むと、膨れっ面で頬杖をついた。

「ここに来る途中でレオナルドに会った」

「また喧嘩したのね」

 アンジェリカは呆れ口調で言った。

「そうなるかと思ったけど、あいつ、完全に無視しやがった。嫌味を言われるよりも腹が立つぜ。ユールベルも俺を避けるみたいに目を逸らすしな」

 ジークは面白くなさそうにそう言い、口をとがらせた。

「ユールベル、来てたんだ」

 ぽつりと漏らしたアンジェリカのひとことに、ジークははっとして振り向いた。

「違っ……別に、だからどうってわけじゃねぇんだ!」

 慌てふためいて、とっさに稚拙な弁明をする。だが、曖昧な言い回しは彼女に通じなかった。ぽかんとしてジークを見ている。彼の顔にわずかな赤みがさした。リックは隣で声をひそめて笑っていた。

「ええ、別に来ていてもいいんだけど……」

 アンジェリカとジークの話は噛み合っていなかった。だが、ジークは訂正しなかった。黙って彼女の話の続きを聞いた。

「きのうはユールベル、事情があって家に帰れなかったみたいなの。だから、今日アカデミーに来ているとは思わなくて。そう、それできのうだけアンソニーをうちで預かったのよ」

「アンソニーって、ユールベルの弟だったな」

 ジークはエプロン姿の彼を思い出していた。ターニャの卒業祝いパーティで、張り切って料理をしていた姿が印象深い。まだ顔立ちはあどけなかったが、その言動は姉のユールベルよりもしっかりしていた。

「ええ、それにルナちゃんも来ていたのよ。もうけっこう歩けるし、言葉もしゃべるの。とっても可愛いわ」

 アンジェリカは声を弾ませた。だが、ジークはまるで興味を示さなかった。ぼんやりと聞き流しながら、ふと、ラウルの左手の包帯のことを思い出した。ルナを預けたのは手を怪我したせいなのだろうか。あのラウルが怪我をするとは、いったい何が原因だったのだろうか。彼の関心はそちらに向かっていた。

「楽しそうだね」

 リックはにこにこして相槌を打った。アンジェリカも顔をほころばせて頷いた。

「本当、賑やかで楽しかったわ。私にも弟や妹がいればいいなって思っちゃった」

「今からでも遅くないかも」

 リックが言い終わらないうちに、ジークはテーブルの下で彼のすねに蹴りを入れた。横目で睨みつける。リックは痛みをこらえて苦笑いした。ふたりのおかしな様子に、アンジェリカは目をぱちくりさせた。

「じゃあ、お兄さんはどう?」

 リックは話題を変えた。人さし指を立てて尋ねかける。

「そうね、リックみたいな優しいお兄さんだったら、いいかもしれないわ」

 アンジェリカは少し考えながらそう言うと、彼に明るく笑いかけた。

 ジークは頬杖をつき、コーヒーを口に運んだ。彼自身は、気にしていないふうを装ったつもりだったが、表情ににじむ不機嫌さは隠しきれなかった。

「ジークがお兄さんだったら?」

 リックは軽い調子で質問を続けた。ジークはぎょっとして彼を見た。あやうくカップを滑り落とすところだった。

 アンジェリカは首を傾げながら、じっとジークを見つめた。

「毎日、喧嘩してそう」

 真顔でぽつりと言った。しかし、すぐに笑って付け加えた。

「でも、きっと楽しいわね」

 ジークの頬は赤く染まった。そして、嬉しいような困惑したような、ぎこちない笑顔を返した。

「なによ、私が妹じゃ不満?」

 アンジェリカは口をとがらせた。ジークは弱り顔でぼそりと答えた。

「不満ていうか、妹って……」

「生意気だから妹には似つかわしくないってこと?」

 彼女はさらにきつく問いつめた。

「そうじゃねぇよ!」

 ジークは反射的に言い返した。だが、それきり言葉を繋ぐことが出来なかった。困ったように顔をしかめ、前髪をくしゃりと掴む。

 アンジェリカは怪訝に彼を覗き込んだ。

「そうじゃなくて、何なの?」

「まあまあ、落ち着いて、ふたりとも」

 リックがふたりに割って入った。ジークにとってはありがたい助け舟となった。ふうと安堵の息をついた。

「そうだ、進路指導はどうだったの?」

 リックの質問に、ジークの心は落ち着く間もなく波立った。けわしい顔で頬杖をつくと、口をとがらせた。

「俺は役人に向いてねぇからやめとけってよ。自分こそ教師に向いてねぇくせに」

「でも、やめる気はないんでしょう?」

 アンジェリカはくすりと笑って尋ねた。

「当たりまえだ。忠告だなんて偉そうに。よけいなお世話だぜ」

 ジークは腹立たしげに答えた。そのとき、ふいに、進路指導でラウルが口にしたもうひとつの忠告を思い出した。そして、あのとき頭の隅をかすめた疑問――。

「なあ、ラウルとサイファさんって、仲が悪いのか?」

 窓の外に目をやりながら、その疑問を彼女にぶつけた。ガラスの向こうでは、木々の緑がかすかに揺れている。

「どうして?」

 アンジェリカは驚いて尋ね返した。

「なんとなくな。さっきも、ラウルのヤツ、サイファさんに関わるなとか言ってやがったし」

「それは、お父さんにっていうよりも、ラグランジェにって意味じゃないかしら。今までも私のことで巻き込まれているから、心配しているのよ」

 彼女は冷静に答えた。だが、ジークは腑に落ちない表情で眉をひそめた。

 アンジェリカは淡々と話を続けた。

「私の見た限りでは、お父さんとラウルは仲が悪いってことはないと思うの。お父さんが軽口を言って、ラウルに睨みつけられるってことは、よくあるけれど」

 その光景が目に浮かんで、ジークは軽く吹き出した。しかし、すぐにはっとして考え込んだ。まさか、それが原因で、ラウルはサイファさんを嫌うようになったのだろうか――。同時に、それくらいのことで嫌うようになるだろうかとも思った。

 難しい顔をしている彼を見て、アンジェリカは付け加えた。

「お父さんが子供の頃、ラウルが家庭教師をしていたみたいなのよね。それ以来の長い付き合いだから、軽口も言えるんだと思うわ」

「家庭教師?」

 ジークにとって、それは初耳だった。ふたりの姿とその事実を重ね合わせると、その関係がとても不思議なものに思えた。ますますわからなくなった。

「……レイチェルさんとは?」

 ついでだと思い、ジークはもうひとつ気に掛かっていたことを尋ねた。アカデミーの中庭で話していたふたりの姿が、ずっと頭から離れなかった。話は一部しか聞いていないので、内容はよくわからなかった。だが、何かがあったらしい。ラウルのあの怒り様も、ただ事ではないと思った。

 アンジェリカはきょとんとしながらも、素直に答えた。

「ラウル? お母さんの家庭教師だったこともあるらしいわよ。ふたりがしゃべっているところはあまり見たことないけれど、仲が悪いってことはないんじゃないかしら」

 ジークはじっと考え込んだ。アンジェリカは訝しげに彼を覗き込んだ。

「どうしてそんなことを訊くの?」

「ちょっと気になっただけだ。別に深い意味はねぇよ」

 ジークは素っ気なく答えた。それから、再び頬杖をつくと、口をへの字に曲げた。

「でも、なんか引っかかるんだよな、いろいろと。隠しごとをされてるって言ったら、言い過ぎかもしれねぇけど」

「もしかしたら、あのことかしら」

 アンジェリカは軽く握った手を口元に添え、ぽつりと言った。

「心当たり、あるの?」

 リックは抑えた声で尋ねた。

「ええ」

 アンジェリカはこくんと頷いた。

「お父さんとお母さんが結婚する前に、私ができたことかなって」

 ガタガタン!

 ジークは勢いよく立ち上がった。椅子が倒れ、食堂に大きな音が響いた。驚愕の表情でアンジェリカを見下ろし、口をカクカクと震わせた。

「おっ、おまえっ! なんでそれ知ってんだ!!」

 右足を後ろに引いて、彼女を指さしながら、大声でわめき立てた。彼の顔は耳まで真っ赤になっていた。隣では、リックがゲホゲホとむせこんでいた。

「え? ジーク、知っているの? どうして?」

 アンジェリカも驚いて、逆に聞き返した。

「お、俺は、サイファさんに聞いた……」

 ジークは狼狽しながら、次第に消え入りそうな声で答えた。どうしていいかわからないといった様子で目を泳がせている。

「お父さん、ジークにそんなことまで話していたのね」

 アンジェリカは大きな黒い瞳で彼を見つめ、ひとりごとのように言った。

「ていうか、おまえこそ何で……」

 ジークの心臓は、いまだに早鐘のように打っていた。一方のアンジェリカは、いたって冷静だった。

「親戚たちがよく私の近くで、ひそひそとそんな話をしているのよ。聞こうと思わなくても聞こえるわ」

 さらりとそう言ったかと思うと、急にむっとして眉根を寄せた。

「だから呪われているんだとか罰だとか、そういうことを言うのよ、あの人たち。非科学的にもほどがあるわ。そう思わない?!」

 彼女は強い口調で同意を求めた。

「あ……ああ……」

 ジークは勢いに圧され、まごついた返事をした。

「このことをジークに話していたってことは、隠していることはこれじゃないわね」

 アンジェリカはそうつぶやきながら、真剣に考え始めた。

 ジークとリックは隠れるようにして身をかがめ、こっそり囁きあった。

「俺、あいつがわからねぇよ」

「僕はいろんなことに驚きすぎて、わけがわからないよ」

 リック乾いた笑いを浮かべた。彼は彼女の話した事実さえ知らなかった。当然の反応といえるだろう。

「なにふたりでひそひそ話しているの?」

 アンジェリカは怪訝にふたりに振り向いた。

「アンジェリカの進路指導はどうだったのかなって」

 リックはとっさに取り繕った。彼女はそれに素直に答えた。

「やっぱり年齢がネックなのよね。比較的、融通がきくのは研究所らしいわ」

「研究所って、俺がアルバイトしていたとこか?」

 ジークは倒れた椅子を起こして座った。

「他にもいくつかあるみたい。でもやっぱり、あそこがいいかしら」

「悪くねぇと思うけど……」

 そう言いながら、ジークは研究所でのことを思い起こした。あの研究所では、サイファの影響力がとても強いように見受けられた。特別扱いされたくない彼女にとって、居心地は良くないかもしれない。いや、どこへ行ったとしても、多少は特別扱いされるに違いない。ラグランジェ本家の娘という肩書きに加え、働くには若すぎる年齢がある。他とまったく同じというわけにはいかないだろう。彼女自身はそのことをわかっているのだろうか。

「リックはどうだったの? 進路指導」

 アンジェリカはふいにリックに話題を振った。

「僕は、教師になるのか確認されて、それで終わりだったよ」

 ジークとアンジェリカは唖然として彼を見た。

「それだけか?」

「問題がないってことね」

 アンジェリカはうらやましそうに言った。


「リック!」

 セリカが小走りで駆け寄ってきた。上品な顔立ちを明るく輝かせている。薄手のジャケットと短いタイトスカートが、すらりと背の高い彼女によく似合っていた。

「何か深刻な話?」

 曇り顔のジークとアンジェリカを目にすると、彼女は遠慮がちに尋ねた。リックは優しく微笑んで答えた。

「ちょっと進路の話をね」

「そっか、もう四年生なのね」

 セリカは少し感傷的に言った。彼女はもともとリックたちとクラスメイトだったが、一年生のときに自主退学をしていた。もし退学していなければ、彼女も同じ四年生になっていただろう。今を後悔しているわけではないが、ふとそんな気持ちが心を通り過ぎた。

 彼女はジークを見て、にっこりと笑顔を作った。

「ジーク、夢、かなえてね」

 彼は一瞬、呆気にとられた。しかし、すぐにむっとした表情に変わった。ぷいと横を向くと、つんとして答えた。

「おまえに言われるまでもねぇよ」

「そうね」

 予想どおりの反応に、セリカはくすりと笑った。

 リックは肩をすくめて苦笑いした。いつまでたっても、ジークはセリカに冷たいままだ。過去のことを引きずっているのか、ただ単に彼女のことが気に食わないのか、どちらかはわからない。ただ、彼女の方は気にしてなさそうなのが救いだった。

「それじゃ、僕はこれで」

 リックはジークとアンジェリカにそう告げると、鞄を取り立ち上がった。

「ええ、またあしたね」

 アンジェリカはにっこりとして手を振った。ジークは仏頂面のまま軽く右手を上げた。

 リックとセリカは仲良く並んで食堂を出ていった。


「……外、歩くか?」

 窓の外があまりにいい天気だったので、ジークはそう言ってアンジェリカを誘った。彼女も嬉しそうに応じた。

 ふたりはあてもなく、校舎のまわりを歩いた。強い陽射しがふたりの後ろに濃い影を作っている。アンジェリカは後ろで手を組み、ピンと背筋を伸ばして顔を上げた。心地良さそうに目を閉じ、光を浴びている。ときおり吹く優しい風が、黒髪をさらさらとなびかせた。ジークは体の中にもあたたかい光が広がるように感じた。

「ねぇ、ジーク」

 一歩前を歩いていたアンジェリカが、軽いステップを踏みながら、くるりと振り返った。短いフレアスカートがひらりと舞い上がる。ジークは下から覗き込んでくる彼女の笑顔にどきりとした。

「なんだ?」

 アンジェリカはさらににっこりとして笑いかけた。

「まだ誰にも言ってないんだけど、私、卒業したら家を出ようと思っているの」

「家出?!」

 ジークは素頓狂な声を上げた。

「そうじゃなくて、一人暮らし!」

 アンジェリカは眉根を寄せ、強く力を込めて訂正した。

「いつまでも親元で甘えていてはいけないと思うのよね」

「いつまでもって、おまえまだ……」

 ジークはそこまで言って口をつぐんだ。しまったという表情が見え隠れしている。アンジェリカはむっとして口をとがらせた。

「なによ、子供だって言いたいの?」

「大変なんだぞ。わかってんのか?」

「わかっているわよ」

 アンジェリカはむきになって言い返した。

「だから、今から料理とか洗濯とか、きちんと勉強しているわ。他の人に出来て、私に出来ないわけはないでしょう?」

「本を読んでるだけじゃ、料理は出来ねぇぜ」

 ジークは淡々と言った。アンジェリカはますますむきになった。

「ちゃんと作っているわよ。本職のコックさんには及ばないけれど、けっこう美味しいのよ」

 ジークはなんとも言えない表情で彼女を見た。

「なによ、その疑いのまなざしは」

「自分で食ってみたのかよ」

「当たりまえでしょう?」

 アンジェリカは、少しも信用しようとしないジークに、半ばむくれ、半ばあきれていた。だが、突然ぱっと顔を輝かせると、思いきり声を弾ませた。

「そうだわ、今度、食べに来て。ごちそう作るから! ねっ!」

 屈託のない笑顔でジークを覗き込む。

「え、あ、ああ……」

 ジークはどぎまぎしながら返事をした。思わず彼女のエプロン姿を想像していた。ついさっきまで料理の腕を疑っていたことなど、どこかへ吹き飛んでいた。

「それじゃ、約束」

 アンジェリカは小指を立ててにっこり笑うと、ジークの小指に絡ませた。こんなガキくさいこと、とジークは思ったが、彼女の指が触れた瞬間、何も言えなくなった。無邪気に指切りをする彼女が、無性に愛おしかった。しかし――。

「どうしたの?」

 ジークが急に顔を曇らせたことに気づき、アンジェリカは不安そうに尋ねた。

「なんか俺、平和ボケしそうだぜ」

「平和なんだから、いいじゃない」

 アンジェリカは当然とばかりにさらりと言った。ジークはため息をついた。

「おまえの問題、片付いてねぇよ」

「きっと大丈夫よ」

 彼女は笑顔を見せた。

「もし、ひいおじいさまがジークに何かしたら、お父さんが仕返しすると思うし、簡単には動けないはずよ。私だって黙っていないわ。だから、心配しないで」

 そう言って、右のこぶしをぎゅっと握りしめた。意気込む彼女を見て、ジークは複雑な気持ちになった。ため息をつき、青い空を仰いだ。白く薄い雲が、緩やかに流れていく。

「ホント情けねぇな、俺。おまえを守りたいと思ってんのに、逆に守られてんのか」

「情けなくなんかないわ!」

 アンジェリカはまっすぐ真剣に彼を見つめた。

「私が毎日、笑っていられるのは、ジークのおかげよ」

「俺、何もやってねぇよ」

 ジークはとまどいながら、ぶっきらぼうに言った。しかし、そんな彼を見て、彼女はにっこりと笑った。

「生きるのがこんなに楽しいって教えてくれたのは、ジークよ」

 ジークは何も言葉を返せなかった。ただ気恥ずかしくて目を伏せるだけだった。嬉しく思う気持ちもあったが、それだけのことをした自信が持てなかった。

 アンジェリカは後ろで手を組むと、くるりと背を向けゆったりと歩き出した。そして、足をそろえて止めると、空を見上げた。

「卒業しても、ずっと仲良くしてね」

 静かな落ち着いた声。ジークははっとして顔を上げた。

 彼女はゆっくりと振り返ると、彼と視線を合わせた。神妙な面持ち、何かを訴えかけるような瞳。いつもより数段、大人びて見える。ジークはごくりと唾を飲んだ。

「……あっ……当たりまえだろ! 今さらなに言ってんだ! 俺は何があっても引かないって言ったはずだぜ。忘れたのかよ。ずっと、俺はおまえを……俺たちは、これからも……ずっと……!」

 彼は不格好に、しかし懸命に言った。

 アンジェリカはふと口元を緩めると、無邪気な笑顔を見せた。強い陽射しを浴びた黒い髪が、その表情とともにきらきらと輝いていた。


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