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72. あきらめ

 むせ返るような強い消毒液の匂い。

 レオナルドはあからさまな嫌悪を示した。腕を組みながら壁にもたれかかり、うつむき加減に顔をしかめる。

「治らないと言ったくせに、いつまでこんなことを続けるんだ」

 吐き捨てるように言うと、あごを引いたまま、上目づかいで前を凝視した。その先にいたのは、ラウルとユールベルだった。向かい合って椅子に座っている。ラウルは彼女の目を診察すると、手際よく包帯を取り替え始めた。

「嫌なら来なくていい。何度も同じことを言わせるな」

 面倒くさそうに、突き放した答えを返す。レオナルドはますます顔をけわしくした。

「おまえは優秀な医者だという話だが、たいしたことはないんだな。それとも手を抜いているのか?」

 ラウルはまるで取り合わなかった。無言でユールベルの頭に包帯を巻きつけている。しかし、彼女の方が、その言葉に反応した。大きく右目を開き、ラウルを見つめる。

「……治せるの?」

「レオナルドの言葉など真に受けるな」

 ラウルは彼女を引き寄せ、頭の後ろで包帯を結んだ。そして、頬に軽く手を置くと、椅子をまわし机に向かおうとした。だが、彼女が腕をつかみ、それを止めた。

「私のことが嫌いだから手を抜いているの? 私があなたを困らせてばかりだから、その仕返し?」

 張りつめた表情で問いかける。ラウルは目を閉じ、ため息をついた。

「治せないものは治せない」

「お願い、私が悪かったのなら謝るわ。目は見えるようにならなくてもいい。せめて、醜い傷跡だけでも……」

 ユールベルは、彼の腕をつかむ手に力を込めた。細い指がかすかに震えている。それでも、ラウルの心は動かなかった。

「何度言われても答えは変わらない」

 素っ気なく彼女の手を払い、机に向かう。そして、薄く黄ばんだカルテに万年筆を走らせた。さらさらと軽い音が部屋を舞う。ユールベルは目を伏せた。


「アンジェリカは治したんじゃないのか」

 レオナルドが思い出したように口を切った。ラウルが振り向くと、彼は無言で脇腹を指さしてみせた。どうやらセリカに刺されたときのことを言っているらしい。

「わずかに痕が残っているはずだ」

「わずかに、か」

 ラウルの言葉の一部を、レオナルドは嫌みたらしく強調して繰り返した。

「あれとは状況も状態も違う」

 ラウルは冷静に答え、机に向き直った。再び手を動かし始める。レオナルドは腕を組み、口をへの字に曲げ黙り込んだ。


「嘘よ!」

 静寂を裂く叫び声。それはユールベルが発したものだった。椅子から立ち上がり、握りしめたこぶしを震わせている。

「やっぱり私だからなのよ」

 だが、ラウルはカルテに向かったまま、視線を上げようともしなかった。ユールベルは彼の冷淡な横顔をきつく睨みつけた。その目には涙がにじんでいた。

「弁解くらいしたら? それでも医者なの?」

 震える声で責め立てる。それでも、彼はまるで無反応だった。ユールベルは唇を噛みしめうつむいた。そして、ゆっくりと、思いつめた顔を上げた。

 ――シャッ!

 ラウルの頬に冷たい刃が押し当てられた。ユールベルの仕業だった。机の上のペン立てからカッターを取り、その刃をあてがったのだ。

「ユールベル!」

 レオナルドは壁から跳ねるように身を起こした。

「あなたも少しは思い知るといいわ」

 彼女にはレオナルドの声など少しも届いていないようだった。まっすぐにラウルを睨み、カッターを持つ手にぐっと力を入れた。固い頬に、わずかに刃が沈む。

 だが、ラウルは平然として微動だにしなかった。

 ユールベルの顔がこわばった。微かなとまどいの色が浮かぶ。怯えるようにわななく手でゆっくりと刃をずらしていった。彼の頬に赤い一筋が浮かぶ――。

「いいかげんにしろ」

 ラウルは横目でギロリと睨めつけた。彼女が怯んだその瞬間、彼は素手で刃をつかみ、強く握りしめた。手から赤い血が滴り、手首、肘へと伝っていく。そして、さらに力を入れると、刃だけを根元からへし折った。

 ユールベルは青ざめ、呆然と立ち尽くしていた。柄だけになったカッターが手から滑り落ち、床の上で乾いた音を立てた。

 ラウルは血まみれの刃を、机の上に投げ捨てた。そして、おもむろに立ち上がると、真っ赤に染まった手を彼女へと伸ばした。

「い……いや……」

 顔を引きつらせ、震えながら後ずさる。頭をぎこちなく横に振り、精一杯の拒絶を示した。だが、ラウルは容赦なく距離を縮め、流血する手のひらを、彼女の眼前に突きつけた。顔に生温いものが滴り流れる。それは、白いワンピースにも落ちていき、胸元を赤く染めた。

「見ろ。おまえの行動の結果だ」

「違う……私、こんなつもりじゃ……私じゃ……私じゃない!」

 ユールベルは顔をそむけ、目をつむり、声の限りに叫んだ。その直後、糸が切れたように、膝からガクンと崩れた。ラウルは素早くそれを抱きとめた。床に倒れ込むすんでのところだった。意識を失った彼女は、力の抜けた体を、すっかりラウルに預けている。

 レオナルドは動くことも声を発することもできず、ただその光景を目に映すだけだった。顔からは血の気が失せ、足はカクカクと震えている。立っていることさえ危うい状態だ。

「出ていけ」

 ラウルはぞっとするほど冷たい視線を彼に向けた。

「お、おまえ、なんで……」

「出ていけ」

 同じ言葉を、語気を強めて繰り返す。そして、血で染まった手をレオナルドに突き出した。

「うわぁ!」

 彼は情けない悲鳴を上げ、しりもちをついた。ラウルは乱暴に引き戸を開けると、レオナルドを医務室から蹴り出した。間髪入れずに扉を閉め、ガチャリと鍵を下ろす。あっというまの出来事だった。

 レオナルドは蹴られた腹を押さえ、うめきながら立ち上がった。扉を引いてみたが、ガタガタと音を立てるだけで、開くことはなかった。扉に手を掛けたまま、下唇を噛みしめる。そして、怒りをぶつけるように、力いっぱい扉を叩きつけた。


「どいてくれないか」

 頭上から降る高圧的な声。扉を背に座り込んでいたレオナルドは、口を真一文字に結んだ。その一言だけで、嫌悪するに十分だった。間違いなくあいつの声だ――。睨みをきかせながら、ゆっくりと顔を上げる。そこに立っていたのは、案の定、サイファだった。大きな黒い紙バッグを脇に抱えている。

「ここに用があるんでね」

 彼は冷たく見下ろしながら、親指で医務室の扉を示した。レオナルドははっとして立ち上がった。

「中に入るなら、俺も一緒に入れてくれ!」

 サイファは詰め寄る彼を制した。

「おまえは追い出されたんだろう。気が立っているときのラウルは何をするかわからないぞ。下手をすると殺されるかもな」

「脅かそうったってそうはいかない。もしそうなら、おまえだって……」

 レオナルドは食い下がった。だが、そんな彼を見て、サイファはふっと口元を緩めた。

「残念ながら私は特別でね。ラウルが私を殺すことはできない」

 レオナルドにはその意味がわからなかった。怪訝に眉をひそめる。しかし、それを追求するよりも、今はもっと重要なことがあった。

「だったら、おまえから俺のことを頼んでくれ。ユールベルに会わせてくれ」

「それが目上の人間に物を頼む態度か?」

 サイファは尊大にそう言うと、レオナルドを押しのけ、扉をノックした。レオナルドはこぶしを震わせながら歯噛みした。怒りで上気した顔を深くうつむけると、押し殺した声で唸るように言った。

「……お……お願いします」

 彼にとっては耐えがたい屈辱だった。よりによって、最も腹立たしく、最も疎ましい相手である。しかし、自尊心をかなぐり捨ててでもユールベルに会いたい。会わなければならない。その思いの方が強かった。

 サイファは冷めた目で彼を見やった。まだ足りないとばかりにあごをしゃくる。レオナルドは切れそうになる自分を必死につなぎ止めた。半ば自棄になりながら、床に手をつき頭を下げた。

 そのとき、中から扉が開いた。薄暗い廊下に光の帯が伸びる。そして、そこにラウルと思われる影が映った。サイファはさっと医務室に入ると、後ろ手で扉を閉め、鍵をかけた。

 レオナルドは土下座したまま、その場に残された。何かを言う間もなかった。ただ、唖然として扉を見つめるだけだった。手から廊下の冷たさが染みてきた。


「着替えだ」

 サイファは黒い紙バッグを机の上に放り投げた。カタンと固い音がした。中にはいくつか箱が入っているようだった。

 ラウルは疲れたように椅子に身を投げた。そして、あきれ口調でため息まじりに言った。

「私は殺人鬼か」

「感謝してほしいくらいだよ」

 サイファはにっこり笑った。

「レオナルドを追い払うためさ。どうせ扉の前でしつこく座り込んで耳をそばだてているだろうが」

 扉がガタンと音を立てた。レオナルドが動揺して体勢を崩したのだろう。サイファは失笑した。

「それに、言ったことは間違っていないと思うがね」

 後ろからラウルの肩に腕をのせ、挑発的な笑みを口元にのせた。

「私を殺せないということも」

 耳元で囁くように言葉を落とす。

「図に乗るな。何もかもどうでも良くなることもある」

 ラウルはむっとしてそう言うと、サイファの頭を押しのけようとした。だが、彼はそれをひょいとかわし、軽い調子で笑った。

「おまえと本気でやりあえるのなら、それはそれで本望だよ」

 ラウルは無言で眉をひそめた。

「それで、ユールベルはどうしている」

 サイファは急に真面目な顔になり尋ねかけた。ラウルは、紙バッグを床に下ろしながら答えた。

「気を失っただけだ。今は私の部屋で休ませている」

「あまり、いじめないでやってくれよ」

 サイファは彼の左手に目を向けて言った。そこには真新しい白い包帯が巻かれていた。

「刃物を持ち出したのはあいつだ。何の覚悟もなくな」

「必死だったんだよ。おまえもそのくらいわかっているだろう。もう少しソフトに受け止めてやってくれよ」

「おまえがやれ。父親代わりはおまえだろう」

 ラウルはいらだたしげに、冷たいまなざしを向けた。

「私に出来ることはやっているよ」

 サイファはパイプベッドに腰を下ろした。

「ただ、彼女がすがるのはいつもおまえなんでね」

「迷惑だ」

 ラウルはすげなく答えた。無表情で背を向ける。そんな彼を見て、サイファはにこりとした。

「私よりおまえのほうが優しいことを、無意識のうちに感じとっているのかもな」

 ラウルはわずかに振り返り、肩ごしに鋭く睨みつけた。しかし、サイファは軽く笑ってそれを受け流した。

「少なくとも、今の彼女に必要なのは、レオナルドではなくおまえだ。落ち着くまで、せめて一晩くらい一緒にいてやってくれ」

「断る」

 ラウルは即座に拒否した。微塵のためらいもない。にもかかわらず、サイファは勝手に話を進めていった。

「ルナのことは心配するな。一晩、預かってくれるよう頼んでおこう。いや、私が預かるか……そうだ、それがいい」

「おまえなどにルナを預けられるか」

「面倒を見るのはレイチェルだぞ」

 ラウルは少し間をおいてから答えた。

「……レイチェルに迷惑は掛けられない」

「やはり優しいな、ラウル先生は」

 サイファは含みをもった口調で、からかうように言った。ラウルは固く口を結んだ。

「たまにはいいだろう? アンジェリカもルナに会いたがっていたよ」

 今度はにっこり微笑んで言った。それでもラウルは無言だった。背を向けたまま、振り返ろうともしない。

 サイファはそれを承諾と受け取った。

「よし、決まりだな。彼女の弟には、私から連絡しておこう」

「おまえはいつも強引だ」

 ラウルはあきれたようにため息をついた。サイファはニヤリとしてパイプベッドから立ち上がった。腰に手をあて、背筋を伸ばす。

「嫌いじゃないんだろう。レイチェルもあれでけっこう強引だからな」

 ラウルは何も答えなかった。前を向いたまま机の上でこぶしを握りしめた。白い包帯が千切れそうなくらいに引っ張られ、微かに音を立てた。

「大丈夫なのか。かなり出血したようだが」

 サイファはそのこぶしに目を落とした。

「たいしたことはない」

「無茶はするな」

 気づかうように言うと、ポンと肩に手をのせた。それから、はたと思い出したように付け加えた。

「そうだ、今度どこかを切ったときは、手当てをする前に私を呼んでくれ」

 ラウルはぴくりと眉を動かした。椅子をまわし、サイファに向き直る。

「まさか、くだらん噂を信じているわけではないだろうな」

「おまえの血は青色だとか、緑色だとか、飲めば不老不死になるとか?」

 サイファはどこか楽しむような声音で、悪戯っぽく尋ねかけた。そして、挑むようにラウルを覗き込んだ。

「血が赤いということは知っているけどね」

 そう言いながら、彼の頬につけられた浅い傷を親指でなぞる。その傷は、わずかに赤黒かった。

「だが、不老不死の方は、試してみないことには、わからないだろう?」

「おまえがそこまで愚かだったとはな」

 ラウルは小さく息をつきながら、彼の手を払いのけた。焦茶色の長髪を大きく波打たせ、再び背を向ける。

 サイファはにっこり笑い、軽く右手を上げると、医務室をあとにした。


 レオナルドは深くうなだれ、扉の脇で座り込んでいた。左右に長く続くガラス窓には、一面紺色の景色が映し出されている。行き交う足音も次第にまばらになっていき、あたりは寂寥としていた。

 鍵の開く音、そして扉の開く音――。

 中から出てきたのはサイファだった。レオナルドは凄まじい形相で睨み上げた。

「俺をいじめてそんなに楽しいか」

「まあな」

 サイファは悪びれもせず、あっさりと肯定した。

「我々の話は聞いていたな」

「…………」

 レオナルドは目をそらせ、口をつぐんだ。聞き耳を立てていたことは、サイファにばれている。それはわかっていた。だが、素直に認めることには抵抗があった。

 サイファはそのことについて、それ以上の追求はしなかった。

「ユールベルはラウルのところに預けた。今日は帰った方がいい」

「冗談じゃない、なぜラウルなんだ!」

 レオナルドは立ち上がり、サイファに噛みついた。サイファは横目で彼を一瞥した。

「今のおまえではユールベルを支えてやれないからだ」

「そんなことはない!」

「おまえは不安定になったユールベルの行動を見ていながら、止めることができなかった」

 レオナルドは何も言い返せなかった。唇を噛みしめうつむく。

「そもそも、おまえが日頃から彼女の悩みを、痛みをわかってやっていれば、それを受け止めてやっていれば、彼女があんな極端な行動には出ることはなかった。違うか?」

 サイファは淡々と追いつめた。

「好きだという気持ちは大切だ。だが、おまえの場合はそれが強すぎる。自分の気持ちを押しつけるばかりで、相手を見ようともしない」

「違う! 俺はいつも見ていた!」

 レオナルドは必死に否定した。サイファは冷めた視線を投げた。

「見ていてわからなかったのなら、なおのこと悪いな」

 レオナルドは完全に負けた。返す言葉などなかった。くやしさと情けなさに肩を震わせた。

「冷静になれ、心にゆとりをもて、そして相手の気持ちを考えろ。そうすれば、今まで見えなかったものが見えてくるはずだ」

 サイファは腕を組んで、壁にもたれかかった。

「彼女を支えるには、多少のことでは動じない精神が必要だ。ラウルのようにというのは無理な話だが、せめてもう少し大人になれ。彼女が安心して寄り掛かれるようにな」

 レオナルドは怪訝に眉をひそめ、彼の端整な横顔を睨みつけた。

「……何を企んでいる。普段のおまえなら、ユールベルと引き離そうとするんじゃないのか?」

「アンジェリカの婚約者を決めろという声が、最近また強くなってきている。おまえの名前も上がるかもしれない」

「そういうことか」

 レオナルドは鼻先で笑った。

「断ってくれるんだろう? 親に逆らっても、何を敵にまわしても」

 サイファは腕を組んだまま、視線を流して尋ねた。レオナルドは真剣な表情で答えた。

「当然だ、見くびるな。おまえのためじゃない。自分自身のためだ」

「固い決意が聞けて良かったよ。おまえが息子だなんてゾッとするからな」

 サイファはそう言って、ニヤリと笑ってみせた。レオナルドも口端をつり上げ、負けじと言い返した。

「それはこっちのセリフだ。おまえが父だなんて、この世の終わりだ」

「この点においては、私とおまえは利害の一致する仲間というわけだ。ただし、私はユールベルの父親代わりでもある。彼女を不幸にするようなことはしないつもりだ。わかるな」

「俺は、不幸になんてしない」

 レオナルドはまっすぐな瞳をサイファに向けた。しかし、不意にあることが頭をよぎった。はっとすると、眉根を寄せ、首を傾げる。

「ちょっと待て。ユールベルの父親代わりってことは……」

「父親代わりであって、父親ではない。そこは流せ」

 確かにそこにこだわるより、もっと大切なことがある。引っかかるものはあったが、そのことについては考えないようにした。

「じゃあな。一晩、頭を冷やしてよく考えろ」

 サイファはレオナルドの額にポンと手をのせ、踵を返した。レオナルドは顔をしかめながら、手の感触の残る額を何度も拭った。そして、小さくなる後ろ姿を、奇妙な面持ちで見送った。


 ユールベルはベッドの中で目を覚ました。見覚えのある天井。

 ここは――。

 首を動かし、あたりを見回す。こじんまりとした飾り気のない部屋。だが、とても懐かしい光景、懐かしい匂い。ラウルの寝室だった。以前と違うのは、ベビーベッドがあることくらいだ。

 彼女はベッドの上で上半身を起こした。そのとき、何も身に纏っていないことに気がついた。それと同時に、医務室での記憶もよみがえった。目の前を滴り落ちる赤い血、体を伝う生温い感触。思わず吐き気をもよおし、口を押さえてうつむいた。

「目が覚めたか」

 ラウルは無遠慮に扉を開け入ってきた。あいかわらずの無表情で、怒っているのかいないのか、推し量ることもできない。

 ユールベルは包帯を巻かれた彼の左手に目を落とした。

「ごめんなさい……」

 目をそらし、力なく謝る。

「謝るくらいなら、初めからするな」

 ラウルは冷淡な言葉を返した。ユールベルの蒼い瞳はじわりと潤んでいった。彼女はまぶたを震わせながら目を細めると、そのまわりの傷跡にそっと指を這わせた。

「本当に治らないのね」

「何度も言ったはずだ」

 どれだけ尋ねても、彼の答えが変わることはなかった。白いシーツをぎゅっと握りしめる。それから、小さな声で訥々と語り始めた。

「初めのうちは平気だと思っていたわ。人に何と思われようと関係ないって。それまでの仕打ちに比べたら、好奇の目で見られたり、陰で何かを言われたりすることなんて、なんてことはないって。なのに、どうしてかしら、次第につらくなっていったのよ。どうして……。もしかしたら、人の優しさを知って、人の冷たさも身にしみるようになったのかもしれないわね」

 そこまで言うと、さらに深く顔をうつむけた。長い金の髪が、彼女の表情を覆い隠す。

「……こんなことなら、ずっと心を閉ざしていればよかった」

 ラウルはじっと黙って聞いていた。そして、彼女が話し終わると、静かに自分の言葉を落とした。

「誰にでも、あきらめるしかないことはある」

 ユールベルは頭をもたげ、潤んだ瞳で彼を見つめた。

「あなたにも?」

「誰にでもだ」

「だったら教えて。あなたは何をあきらめたの?」

 探るように彼の黒い瞳を覗き込む。だが、彼女にはその奥にあるものを掴むことはできなかった。

 ラウルは何も答えず、部屋を出ようとした。

「待って、行かないで。聞かないわ。だから、一緒にいて」

 ユールベルはあわてて懇願した。ラウルはドアノブに手を掛けたまま、わずかに振り返った。

「誰かにすがりたいのなら、サイファを頼れ。あいつがおまえの父親代わりだろう」

「おじさまには迷惑を掛けたくない」

「ラグランジェの人間は、どいつもこいつも勝手ばかり言う」

 ラウルはその語調に腹立たしさをにじませた。

「勝手ついでに、もうひとつお願いしてもいいかしら」

 そう言ったユールベルを、冷たく刺すように睨めつける。彼女はそれに動じることなく彼を見据え、小さな口を開いた。

「私、あなたと一緒にここで暮らしたい」

「前に断ったはずだ」

 ラウルはにべもなくはねつけた。

「私、なんでもするわ。あなたの役に立てるように頑張る。あの子の世話だってするわ。だから、私をここに置いて」

 ユールベルは必死に訴えかけた。

「おまえは逃げ込もうとしているだけだ」

「逃げて何が悪いの?!」

 表情ひとつ変えないラウルを、涙目で睨みつける。しかし、彼の気持ちが揺らぐことはなかった。徹底的に彼女を突き放す。

「他へ行け。迷惑だ」

「どうしてっ……」

 ユールベルは涙をこぼしながら、両手で顔を覆った。細い肩を震わせ、何度もしゃくり上げている。

「あきらめるしかない。そういうことだ」

「だったらあなたがあきらめて!」

 勢いよく顔を上げ、強い視線を彼に向けた。濡れた頬も濡れたまつげも拭わず、いまだ小さくしゃくり上げてる。

 ラウルはまっすぐに黒い瞳を返した。そして、静かに言った。

「弟はどうするつもりだ」

 ユールベルははっとしてうつむいた。微かに自嘲の笑みを浮かべる。

「忘れていたわ」

 目を細め、奥歯を噛みしめる。

「最低だわ。自分のことしか考えていなかった。姉だなんていう資格ないわね。……いいえ、元からそんなものはなかった」

 膝を引き寄せ、シーツごと抱えると、そこに顔をうずめた。

「それでも……それでも、やっぱり、あの子は私が守るしかない」

 弱々しい声だが、きっぱりと言い切った。おもむろに顔を上げると、細く白い腕を伸ばし、ラウルに手のひらを向けた。

「帰るわ。服と包帯、返して」

 きつい口調で、精一杯、強がってみせる。ラウルは無表情で彼女を見下ろした。

「今晩だけ泊まっていけ。弟にも連絡を入れておく」

 ユールベルの腕から力が抜けた。軽い音を立てて、シーツの上に落ちる。

「優しくするか冷たくするか、どちらかにしてほしいわ」

 伏目がちに複雑な表情を見せると、ぼそりとつぶやいた。

 ラウルは前に向き直り、部屋を出ようとした。

「待って! 行かないで!」

 ユールベルは怯えた声で引き止めた。ラウルは背を向けたまま足を止めた。

「私はおまえと違って暇ではない。……あとで戻る。大人しく寝てろ」

 淡々とそう言うと、部屋を出て、静かに扉を閉めた。


 チチチチ……。

 小鳥のさえずりが遠くに聞こえる。木々のざわめきがそれに重なる。細く開いた窓から、ひんやりとした空気が流れ込み、薄地の白いカーテンをふわりと舞い上げた。窓からの柔らかな光が大きく揺らめく。机に向かうラウルにもその風は届いた。彼の長い髪がさらさらとなびいた。

 ――ガチャッ。

 奥の部屋からユールベルが姿を現した。真新しい上質な白いワンピースに、黒いエナメルの靴、おろし立ての白い包帯、緩やかなウェーブを描く金色の髪。すっかり身支度を整えている。

 彼女はゆっくりと足を進めていった。

「帰るわね」

 机に向かうラウルに、後ろから声をかける。

「ああ」

 ラウルは振り返らずに返事をした。ユールベルは目を細め、彼の背中をじっと見つめた。

「……また、来てもいいかしら」

「診察にならな」

 素っ気ない答えを返す。ユールベルは後ろから彼に腕をまわした。広い背中に頬を寄せ、そのあたたかさを感じながら目を閉じた。

「さようなら」

 囁くように告げられたその言葉は、微かに震えていた。


 ユールベルは医務室を出て、扉を閉めた。そのとき、脇でレオナルドが座り込んでいることに気がついた。服にも顔にも、血がついたままだった。すでに変色して、赤というよりも黒に近くなっている。

「ずっと、ここにいたの?」

「情けないな。俺ではラウルの代わりにもならないのか」

 レオナルドはうなだれたまま、自嘲ぎみに言った。ユールベルの胸に痛みが走った。何も答えることが出来なかった。ただ、眉根を寄せ、うつむくだけだった。

「おまえはもう俺のことを必要としなくなっていた。それは、だいぶ前からわかっていた」

「……頼んでおきながら、勝手よね」

「勘違いするな。おまえを好きになったのは、頼まれたからじゃない」

 レオナルドは、隣で立ち尽くすユールベルに、ちらりと目を向けた。

「だから、これからも勝手におまえのことを好きでいる」

「私なんかのどこがいいのよ」

 ユールベルは後ろで手を組み、壁にもたれかかると、投げやりに言った。

「理由が欲しいなら、いくらでも挙げてやる。それとも、迷惑ってことなのか?」

 レオナルドは淡々と尋ねた。ユールベルは困惑して顔を曇らせた。

「私は、どうすればいいの?」

 レオナルドはじっと考え込んだ。そして、静かに口を開いた。

「俺を見ていてくれ。きっと、おまえを受け止められるような男になってみせる。ラウルの代わりでなく、ジークの代わりでなく、俺を俺として好きになってくれるまで待つさ」

 穏やかだが、力強さを感じさせる声。いつもの彼にはない落ち着きもあった。

 ユールベルは遠くを見て、目を細めた。

「前にも言ったわ。あなたの気持ちには応えられないかもしれないって」

 レオナルドはふっと笑ってうつむいた。

「前にも言っただろう。それでも俺はあきらめないと。未来のことは誰にもわからない、そうだろう?」

 ユールベルはゆっくりと彼に振り向いた。そして、静かに尋ねかける。

「あなたは、何かをあきらめたことはあるの?」

「……あるさ」

 レオナルドは低い声で短く答えた。頼りなく目を伏せている。しかし、すぐにその表情を引き締めると、瞳に決意をみなぎらせた。

「でも今度は、おまえのことだけは、絶対にあきらめるつもりはない」

「あなたのそういうところ、うらやましいわ」

ユールベルは足元を見つめながら、少し寂しげに微笑んだ。そして、そっと顔を上げると、窓の外の青い空を遠望した。


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