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70. 親子のかたち

「うそつき!」

「そうだよ、ジーク。ひどいよ!!」

 アンジェリカとリックは口々にジークを責め立てた。

「違っ……」

 言葉に詰まり、反論すらできないジークに、ふたりは冷淡な目を向けた。

「こんなヤツのこと、もう忘れなよ」

 リックはわざとらしくため息をついた。

「言われなくても忘れるわ」

 アンジェリカはつんと顔をそむけ、不機嫌に言い捨てた。そして、リックと腕を組むと、ふたりで笑いあいながら去っていった。

「待て! おいっ! おいっ!!」

 引きちぎれるくらいに強く腕を伸ばすが、なぜか足は石のように動かない。追いかけたいのに追いかけられない。みるみるうちに、ふたりの姿は小さくなっていった。

「ジーク、君には手を引いてもらうと言ったはずだ」

 威厳に満ちた、腹の底に響く低音。どこからともなく男が現れた。ラグランジェ家の先々代当主だ。

「我々はリックを正式な後継者と認めた」

「なっ……」

 ジークは目を見開いた。額から汗が流れ落ちる。男は静かに言葉を続けた。

「君も男なら、潔く諦めろ」

「う……嘘だ!!」

 ジークは自分の叫び声で目を覚ました。心臓が痛いくらいに激しく強く打っている。自分の鼓動の音が、自分自身ではっきりと感じとれた。

「……夢……か……」

 見なれた天井の木目を目にし、ようやく状況を把握した。途端に体中から力が抜けた。大きく息をつき、吹き出した額の汗を袖口で拭った。

 ――まったく、何て夢だ。

 きのうの出来事が影響しているのは間違いない。自分の不安な気持ちがあんな夢を見せたのだろう。ただの夢だ――。懸命に自分に言い聞かせた。


 ジークは冴えない顔で、のっそりと体を起こすと、よろよろ階段を降りていった。

「おはよ、ジーク。やっと起きたのね」

 聞きなれない女性の声が、彼を出迎えた。

「へ?」

 ジークは間の抜けた声を上げ、振り向いた。そして、唖然として固まった。口を開けたまま声も出ない。

「ごはん、まだなの。もう少し待ってね」

 再び彼女が声を掛けた。ジークははっとして我にかえると、慌てふためきながらあたりを見回した。間違いなく自分の家だ。もういちど声の主を見る。エプロン姿の彼女は、じゃがいもの皮を剥きながらくすりと笑った。

「おまえ、セリカ……か?」

「そうよ」

 ジークは半信半疑で尋ねたが、彼女は当然のように肯定した。彼はますます混乱した。まだ夢の続きではないかと疑った。思わず頬をつねり確かめてみた。痛みを感じる。夢ではないようだ。わけがわからないといった顔で、唸りながら額を押さえる。

「ちょっと待て。なんでおまえがウチの台所で料理してんだ」

「私がお願いしたのよ」

 隣の部屋で、母親のレイラが声を張った。彼女はダイニングテーブルで、マグカップを片手にくつろいでいた。セリカと視線を交わすと、意味ありげに笑いあった。

 ジークはいまだに状況がさっぱり把握できないでいた。落ち着きなく、母親、セリカと何度も交互に目を向ける。このふたりは知り合いでも何でもないはずだ。なのにどうして――。

 狐につままれたような顔をしている息子を見て、レイラは耐えきれずに吹き出した。

「リックと彼女がウチの前を通りかかったから呼び止めたのよ。パンクしたままだった自転車を修理してもらおうかと思って」

 ジークはようやく合点がいった。しかし――。

「リックはまだいいにしても、なんであいつに昼メシ作らせてんだよ」

 セリカを指さし、呆れ口調で尋ねる。

「ただ待ってもらうのも何だから、ついでにお願いしちゃった」

 年甲斐もなくかわいこぶる母親に、思いきり眉をひそめた。

「ったく、その図々しい性格、なんとかならねぇのかよ」

「人のこと言うまえに、そのカッコなんとかしたら? レディの前でみっともない」

 レイラはすまし顔でそう言うと、お茶を口に運んだ。

 ジークははっとして自分を見た。着古しすぎるほど着古したよれよれのパジャマ。その前のボタンを半分以上はずし、だらしなく胸をはだけさせている。髪も寝癖でぼさぼさになっていることは、容易に想像がつく。

「それを早く言えよ!」

 ジークはカッと顔を赤くして、あわてて二階へと駆け上がっていった。

「顔も洗って来なさいよー」

 レイラは淡々と追い打ちをかけた。

 セリカはそんなふたりのやりとりがおかしくて、くすくすと笑った。


 ジークは一応の身支度を整えると、再び階段を降りていった。ふいにごはんの炊きあがる匂いが鼻をくすぐる。その瞬間、忘れていた空腹を思い出し、急に体から力が抜けるように感じた。ふらつきながら台所に目をやると、リックとセリカが湯気の立ちのぼる鍋をはさみ談笑していた。

「おはよう、ジーク」

 リックは彼に気がつくと、にこやかに挨拶をした。いつもと変わらない穏やかで人懐こい笑顔。ジークは、一瞬、今朝の夢が頭をよぎった。だが、この光景を見ていると、あれはやはりただの夢としか思えなかった。

「悪りィな。なんかこき使って」

「まあ、いつものことだし」

 リックはそう言って笑った。ジークはますます申しわけない気持ちになった。

「リックは手先が器用だから助かるわ。ジークと違って」

 当のレイラはほおづえをつき、呑気にそんなことを言っている。まるで悪びれる様子もない。ジークは腕を組み、白い目を彼女に向けた。

「ジーク、あれからどうしたの? アンジェリカとはあのまま?」

 リックは声をひそめて尋ねた。ジークは途端に顔を曇らせた。

「……ああ」

 沈んだ表情で、沈んだ声を落とす。

「なに、なに? ケンカでもしたの?」

 地獄耳のレイラは、脳天気にはしゃぎながら首を突っ込んできた。

「おまえは黙ってろよ」

 ジークは苛立ちをあらわにした。

「これ、言おうか迷ってたんだけど……」

 リックはそう前置きをして、ジークの目をまっすぐ見つめた。ジークはごくりと唾を飲み込んだ。

「アンジェリカ、すごく悩んでるよ」

「ん? ああ、わかってる」

 それは、リックに言われるまでもないことだ。ジークは肩すかしを喰らったように感じた。アンジェリカが黒い髪と黒い瞳のせいで、親戚たちから蔑まれていたことは、ジークも知っていた。そのことで悩んでいることも、わかっていたつもりだ。ひょっとしたら、そんなこともわからない唐変木だとリックに思われているのだろうか。ジークは怪訝に眉をひそめた。

 しかし、リックが続けて語った話は、ジークが初めて知るものだった。

「自分だけ髪や瞳が黒いのは、遺伝子の異常じゃないかって言ってた。色素がなくて白くなるってのがあるらしくて、自分はその逆なんじゃないかって」

 ジークは腕を組んで首を捻った。

「難しいことを考えるな、あいつ……。どうなんだよ、医学生」

「え? 私?」

 料理を終え、後片づけをしていたセリカは、裏返った声で聞き返した。すぐ背後でなされているふたりの会話に、興味がないふりをしているつもりだった。が、ジークには耳をそばだてていることがばれていたのだろうか。

「おまえ以外に誰がいるんだよ」

 ジークは面倒くさそうに言った。不機嫌に口をへの字に曲げ、彼女を睨む。

「いきなり言われてもわからないけど……」

 セリカは手を拭きながら振り返った。

「役に立たねぇな」

 ジークは顔をしかめ、吐き捨てた。

「ジーク!」

 彼のあまりにあからさまな態度に、温厚なリックも黙ってはいられなかった。

 しかし、それを制したのはセリカだった。

「いいのよ、気にしてないから」

 無理に笑顔を浮かべてそう言うと、話の続きを始めた。

「色素が出来なくて、髪が白かったり瞳が赤いってのは確かにあるわよ。アルビノっていうんだけど。でも、逆は聞いたことないわね」

「アンジェリカもそう言ってたよ」

 リックは頷きながら言った。セリカは口元に人さし指をあて、斜め上に視線を流した。

「でも、たとえ突然変異だったとしても、彼女の場合、問題ないんじゃないかしら。アルビノは色素がないから、光に弱いとか健康上の問題があるけど」

 ジークは目をつぶり、腕を組むと、深く頭を垂れた。懸命に考えを巡らせる。そして、うつむいたまま薄く目を開くと、ぽつりと言葉を落とした。

「違うな」

「え? 何が?」

 リックは大きく瞬きをして尋ねた。だが、ジークは独り言のようにぶつぶつとつぶやくだけだった。

「遺伝子の異常とかだったら、あのジジイがあんなこと言うわけねぇ……」

「あのジジイって、アンジェリカのひいおじいさん? 何を言ったの?」

 リックは眉をひそめて再び尋ねた。ジークを覗き込んでその表情をうかがう。彼は考え込んだ様子で、眉根を寄せ、口をぎゅっと結んでいた。答えようという様子は見られない。

 リックはあきらめたようにため息をついた。

「僕たちに言えないんだったらいいけど、アンジェリカにはちゃんと話した方がいいよ」

 そう言いながら、椅子の上に置いてあった上着に袖を通した。セリカもエプロンを外し、代わりにジャケットを手にとった。

「おい、食ってかねぇのか?」

 リックたちが帰り支度をしていることに気付き、ジークはあわてて尋ねた。リックはにっこりと振り向いて言った。

「うちで母親が待ってるから。もともとそういう予定だったんだよ。ね」

 セリカに同意を求めると、彼女も笑顔で頷いた。

「ふたりともありがとね。また来て」

 レイラは立ち上がり、手を振ってふたりを送り出した。ふたりも手を振りながら去っていった。


「うん、おいしい! 彼女、いいお嫁さんになるわよ」

 セリカの作ったクリームシチューを食べながら、レイラは声を弾ませた。ジークは無反応で黙々と食べ続けた。おいしいとは思ったが、口には出さなかった。

「あのセリカって子、確か、あんたに会いにウチまで来たことあったわよねぇ」

 レイラは記憶をたどるように、ゆっくりと言葉を紡いだ。ジークはぎくりとして手を止めた。

「だから、何だよ」

 下を向いたまま、つっけんどんに切り返す。しかし、その声には、少しの固さと動揺が感じられた。

 レイラはニヤリと口端を上げた。

「リックにとられちゃったわけね。なっさけない」

「そんなんじゃねぇよ。あいつが勝手につきまとってただけだ」

 ジークは顔を上げることなく反論すると、いらついた様子で白いごはんをかき込んだ。

 そんな息子を見て、レイラはため息をついた。

「ま、本命はがっちり掴んでおくことね」

 軽い調子でそう言うと、彼の鼻先にスプーンを突きつけた。

「ケンカなんてしてる場合じゃないでしょ」

 ジークはどきりとした。レイラはさらにきつい一撃を加えた。

「うかうかしてると、アンジェリカまでリックにとられちゃうわよ」

 ダン!

 ジークは机を叩きつけて立ち上がった。何か言いたげに、瞳を揺らし開いた口を震わせる。しかし、その口から言葉は出てこなかった。

「気にしてたんだ」

 レイラは大きく目を開き、彼を見上げた。ジークは苦々しい顔で目を閉じ、崩れ落ちるように椅子に腰を落とした。顔を隠すように、深くうなだれる。

「あんたがひねくれた態度ばかりとってたら、冗談抜きでそうなっちゃうかもよ。少しは素直になることね」

 母親の冷静で厳しい忠告が、ジークの胸に深く突き刺さった。膝の上にのせたこぶしを、爪が食い込むほどに強く握りしめる。

 レイラはさらりと付け加えた。

「だからって、あちらの親御さんに顔向けできないようなことはするんじゃないわよ」

「するわけねぇだろ!!」

 ジークは顔を真っ赤にして、大声で言い返した。その一瞬で全身から汗が吹き出した。息を整えながら、冷水が入ったコップを手にとる。

 レイラは両手でほおづえをつき、にこにこして彼を見た。

「なんだよ」

 ジークは少しびくつきながら、訝しげに尋ねた。

「あんたの顔立ちとかさ、だんだんリュークに似てきてるわよね」

 レイラは嬉しそうにそう言った。ジークはそれを聞いて、母親が笑顔で自分を見ていたわけがわかった。リュークとはジークの亡くなった父親のことだ。亡くなってから、もう十年以上になる。確かに似てきているかもしれない――ジーク自身にもそんな自覚はあった。一息ついて、手にしていた水を口に運ぶ。

「だから私、ちょっと心配だったのよ」

 レイラは思い出したように笑った。

「息子に恋しちゃったらどうしようって」

 ジークは飲みかけの水を吹いた。

「でも、内面はいつまでたってもバカなガキンチョのまんまだから、ぜーんぜんそんな気は起こらないけどね」

 そう言って、レイラはカラカラと笑った。ジークは布巾で机を拭きながら、疲れきったようにため息をついた。

「悪かったなバカで。半分は母親の血を引いてんだから仕方ねぇだろ」

「それもそうね、あはははは!」

 思いきり嫌味を言ったつもりだったが、あっさり認められてしまった。どうも調子が狂う。ジークはもう一度ため息をついた。

「リュークか……」

 そうつぶやいたレイラの声には、懐かしさがあふれていた。ジークもつられて父親を懐かしむ。真っ先に思い浮かぶのは、バイクに向かう寡黙な背中と油の匂い。父親の仕事をしている姿を見るのが好きだった。学校帰りにこっそり覗きに行ったりもした。

「生きていれば男どうしでいろんな話ができたのにね」

 レイラはいつになく優しい顔で言った。

「実際生きてたら、あんま話なんてしてねぇと思うけどな」

 ジークは目をそらし、ぶっきらぼうに答えた。だが、聞いてみたいことや話したいことはたくさんある。父親と今の自分が話をしている光景を思い浮かべて、思わず胸が熱くなった。だが――。

「って、こんな話、意味ねぇよ。もう生きてねぇんだし」

 心の幻を打ち消すかのように、冷めた口調でぼそりとつぶやき、仏頂面でほおづえをついた。

「たまにはいいじゃないっ」

 レイラはいつものように、明るい声を張り上げた。

「死んだ人は記憶の中でしか生きられないんだから」

「……それ、ちょっとくさくねぇか?」

 ジークはほおづえをついたままで、じとっと母親に視線を流した。

「やっぱり?」

 レイラはおどけて頭に手をあてた。

「ま、たまにはいいけどよ」

 ジークが無愛想にそう言うと、レイラはにっこりと笑った。両手でほおづえをつき、まっすぐジークの瞳を覗き込む。

「あんたがいてくれて良かった」

「なんだよ、急に」

 柄にもないことを口にする母親に、ジークは少しうろたえた。

「ひとりだったら、とっくに挫けてたわ」

「そうか? ひとりでも結構たくましく生きてくだろ」

 照れくさいものを感じながら、それを見せないようつれない返事をする。レイラは大袈裟に肩をすくめて見せた。

「わかってないわねぇ。女ってものが」

「おまえが女を語るなよ」

 ジークは冷ややかに言った。

「あら、少なくともあんたよりはわかってるつもり……ですわよ?」

 レイラはふざけてそう言うと、自分自身で吹き出した。ジークもそんな彼女につられ、笑顔を見せた。だが、それはすぐに消えた。いつまでこうやって気楽に笑っていられるのだろうか。ふいに表情に翳りを落とすと、ためらいがちに口を開いた。

「あのな……俺、もしかしたら、ヤバい奴を敵にまわすことになるかもしれねぇ」

「なに? ケンカ?」

 レイラは腕まくりしながら身を乗り出した。わくわくして、顔を輝かせている。

「なんで嬉しそうなんだよ! 冗談じゃなくて本当の話だぞ!」

 ジークが呆れたように怒鳴りつけると、レイラは急に真面目な顔になった。

「相手はなんて言ってるの?」

 ジークは返答に困った。どこからどこまで言えばいいのだろうか。少し考えてから、差し障りのない部分をかいつまんで話した。

「手を引かなければ、俺のことを潰すつもりらしい。多分、裏から手をまわして就職できないようにするとか……そんなことじゃねぇかと思う」

「あんたの気持ちは決まってるわけ?」

 レイラはまっすぐにジークを見据えた。ジークは逃げるように視線を外した。

「正直、怖ぇ。でも……」

 そこで言葉が途切れた。そのままうつむき、唇を噛みしめる。

「そうね。よく考えて、後悔の少ない方を選ぶことね」

 レイラはきびきびと言った。

「考えなしにバカやるのは止めるけど、しっかり考えて覚悟のうえでなら、何も言わない」

 めずらしく真剣な母親の言葉が、ジークの心に静かに響く。彼はうつむいたまま目を細めた。

 レイラはぱっといつもの明るい表情に戻った。

「ま、ホントに社会から干されたとしても、あんたひとりくらい私がなんとかしてあげるわ。だてに四十年、生きてないのよ」

 あははと笑いながら、大きく胸を張った。

 ジークはそう言われても、少しも安心できなかった。ラグランジェ家の仕打ちがそんなに生易しいものとは思えなかったのだ。それでも、母親のその気持ちはありがたかった。

「四十二年だろ」

 ジークはいつもの憎まれ口を返した。レイラはニッと笑って彼を見た。

「細かい男は嫌われるわよ」

 そう言って、まだ暗い顔をしている息子の鼻をつまんだ。


 昼食を終え、ジークは自分の部屋に戻ってきた。敷きっぱなしの布団の上に、ごろりと転がる。カーテンは半分だけしか開かれていなかったが、真昼の強い陽射しが差し込み、眩しいくらいだった。光から逃れるように背を向けると、体を丸め、ゆっくりと目を閉じた。

 アンジェリカ――。

 頭の中に広がる暗闇で、小さくその名をつぶやいた。彼女の笑った顔、怒った顔、悲しそうな顔、さまざまな表情が次々と浮かんでくる。

 ――笑うときも怒るときも、あいつはいつもまっすぐ俺を見てたな……。俺は、どうだった。顔をそむけてはいなかったか。

 ジークはゆっくりと目を開いた。仰向けになり、天井を見つめる。

 ――あいつの気持ちはわからない。だけど、もし、俺といることを望んでくれるとしたら……。そうしたら、俺は……。

 その顔に次第に赤みがさしていく。とっさに枕元に落ちていた上着をつかみ、頭に覆い被せた。



 アンジェリカは窓を開け、濃紺色の空を見上げた。かすかな夜風が、ほてった頬を冷まし、薄いレースのカーテンをひらひらと揺らす。

 うそつき――。

 きのう、ジークに言ってしまったひとこと。それが頭から離れない。何度も何度もリフレインする。

 ジークが嘘つきなら、私は卑怯ものね。

 黒髪がさらさらと頬にかかる。潤んだ目を細め、窓枠にもたれかかりながら、今日何度目かのため息をついた。


 アンジェリカは部屋を出ると、階段を降り、リビングルームに向かった。その途中、ダイニングルームの明かりがついていることに気がつき、何気なく覗き込んだ。

「あら、アンジェリカ」

 萌黄色のネグリジェを纏ったレイチェルが、笑顔で振り返った。右手にはコーヒーカップ、左手には牛乳瓶を持っている。

「あなたも飲む? ホットミルク」

「うん」

 アンジェリカは言葉少なにテーブルについた。

「お父さんはまだ帰ってないの?」

「今日は帰れそうもないんですって。最近、また忙しいみたいね」

 レイチェルは牛乳を火にかけながら答えた。

「そう」

 アンジェリカは無表情でほおづえをついた。そして、口をついて出そうになったため息を、ぐっと呑み込んだ。

「どうしたの? 今日はずっと沈んだ顔をしていたけど」

 レイチェルは背を向けたまま尋ねた。アンジェリカは顔を上げ、目をぱちくりさせた。

「そう、だった?」

「ええ、隠しているつもりだった?」

 そう尋ね返されて、困ったような複雑な表情ではにかんだ。


 かすかに甘い匂いが立ちのぼる。レイチェルはカップをふたつ手に持って振り返った。ひとつをアンジェリカに手渡し、自分も席についた。

「ありがとう」

 アンジェリカはそのホットミルクにそっと口をつけた。ほっとするような優しい温かさが体の中から広がる。固かった表情も次第にほぐれていった。

「おいしい」

「そう、よかった」

 レイチェルは大きくにっこりと笑った。そして、自分もホットミルクを口に運んだ。

「ねぇ、お母さん」

 アンジェリカはカップに両手を添え、顔を上げた。

「なぁに?」

 レイチェルは微笑みながら、大きな瞳を彼女に向けた。

「今日、一緒に寝てもいい?」

 アンジェリカは遠慮がちに尋ねた。

 レイチェルは目を見開き、きょとんとした。しかし、すぐに優しい笑顔を浮かべると、あたたかい声で答えた。

「もちろんよ」

 その言葉を聞いて、アンジェリカは少し照れ笑いしながらほっと息をついた。


「さあ、どうぞ」

 レイチェルに促されて、アンジェリカは両親の寝室に足を踏み入れた。もちろん初めてというわけではないが、あまりここに入ることはなかった。前に来たのは数年前――アカデミー入学以前である。だが、そのときに見た光景とほとんど変わっていない。懐かしさを感じながら、彼女はベッドにもぐり込んだ。レイチェルも、明かりを消すと、反対側からベッドに入った。

「おやすみなさい」

「おやすみなさい」

 ふたりは挨拶を交わすと、暗い中でおでこを合わせ、にっこりと笑いあった。


「……きれいな髪」

 アンジェリカは唐突にぽつりとつぶやいた。

「え?」

 もう眠ったかと思っていた娘の声に、レイチェルは少し驚いて振り向いた。アンジェリカは横になったまま、彼女の長い髪を指でなぞった。カーテンの隙間からわずかに漏れ入る月明かりが、その柔らかな金の髪をほんのりと白く光らせる。まるで上品なプラチナを思わせる輝き。それは、神秘的とさえ形容できるものだった。アンジェリカは小さくため息をついた。

「本当にきれい」

「アンジェリカ、あなたの髪もきれいよ」

 レイチェルは感情を込めてそう言うと、彼女の手をとり包み込んだ。だが、その返答は素っ気ないものだった。

「そうかしら?」

 彼女の言葉には否定的な響きが含まれていた。それでもレイチェルはあきらめなかった。黒髪をゆっくりと撫でながら、にっこりと笑いかけた。

「私は好きだわ」

「この髪のせいで、お父さんとお母さんに迷惑を掛けてる」

 アンジェリカは眉根を寄せた。レイチェルは彼女の額に、自らの額をコツンと付けた。

「あなたに迷惑を掛けられたなんて、少しも思っていないわ」

「でも、事実よ」

「あなたのせいじゃない」

 ピシャリと言い放ち、そっとアンジェリカの頭を抱き寄せる。

「誰かのせいにしたいのなら、私を責めて」

 アンジェリカは目を見開き、息を呑んだ。耳元で静かに落とされた母親の声は、何かを深いものを秘めているように感じた。つらいのは自分だけではない。そんなことはわかっていたつもりだったのに。こんなことを言っても困らせるだけなのに――。

「でもね」

 アンジェリカが謝ろうとした矢先に、再びレイチェルが口を開いた。抱えていた娘の頭を離し、まっすぐに黒い瞳を覗き込む。

「私は、あなたが私の……私たちの娘でよかった、心からそう思っているわ。それは信じて」

 アンジェリカの胸に、熱いものがこみ上げてきた。自分が不安になったとき、信じられなくなったとき、黒い気持ちが沸き上がったとき――そんなときはいつだって、父も母も、迷わずそう言ってくれた。何度も何度もこの言葉に救われた。そして、今も――。

「私も、お父さんとお母さんの娘でよかった……って……」

 うっすらと潤んだ目を細め、言葉を詰まらせる。レイチェルは優しく微笑み、娘の頬にそっと手をのせた。

「何か、あったの?」

 そう尋ねられるのも仕方ないとアンジェリカは思った。一緒に寝たいなどと言ったのは初めてだったし、普段は触れないようにしている髪の色の話題を持ち出したり、確かに普通ではなかった。

 そして、実際に“何か”あった。

 きのうの出来事が頭をよぎる。曾祖父のこと、ジークのこと――。

「……私、ジークにひどいことを言ってしまったの」

 天井を見つめ、掛け布団をぎゅっと握りしめた。

「悪いことをしたと思うなら、素直に謝ることね」

 レイチェルは穏やかな口調で、諭すように言った。アンジェリカは口元まで布団を引き寄せた。

「許してくれるかしら」

 横目でちらりと母親を窺う。

「さあ、それはわからないわ。ジークさんが決めることだから」

 穏やかな声だが、その内容は厳しいものだった。アンジェリカはわずかに顔を曇らせた。レイチェルは彼女の前髪を、ゆっくりと掻き上げた。

「でもね、謝るということは、許しを請う行為ではなくて、自分の非を認めてそれを伝える行為なのよ」

 アンジェリカははっと目を見開いた。

「だから、許してくれるかを考えて行動するのは、間違ってるんじゃないかしら」

 レイチェルは淡々と言った。だが、その言葉には優しさがあふれていた。アンジェリカも十分にそれを感じとっていた。

「そうね、そうよね」

 彼女は自らに言い聞かせるように言った。そんな娘を見て、レイチェルは包み込むように笑いかけた。

「お母さん……」

 アンジェリカは母親の胸元に顔を寄せた。あたたかく、柔らかい。

「もっと、こうやって甘えてくればよかった」

「今からでも遅くないんじゃない?」

 レイチェルは彼女の背中に手をまわし抱き寄せた。アンジェリカはぬくもりの中でゆっくりと目を閉じた。


 目の覚めるような冷たい空気が頬を刺す。空が白み始めた中を、サイファは家路についていた。

 さすがに疲れたな――。

 首をまわし、凝り固まった肩をほぐすと、小さく息をついた。このところ仕事が忙しいうえ、ラグランジェ家の雑務や個人的な調べものなどで、帰りの遅い日が続いている。今日のように明け方になることもたびたびあった。普通ならいっそ帰らないという選択肢もあるだろうが、彼には考えられなかった。どんなに短い時間であったとしても帰りたい、帰ってレイチェルの顔を見たいという思いが強かった。

 サイファは裏口から家へ入った。静まり返った広い屋敷に、乾いた靴音が響く。かろうじて足元が見えるくらいの薄明かりの中を、まっすぐ寝室へと歩いていく。

 ギ……。

 サイファはそろそろと扉を押し開けた。音を立てないよう足先に神経を集めながら、そっと中に入る。

 ――アンジェリカ?

 レイチェルに寄り添う黒い頭が目に入り、一瞬、息が止まった。だが、ベッドを覗き込み彼女であることを確認すると、安堵して胸を撫で下ろした。なぜここにいるのかという疑問が頭をかすめたが、すやすやと眠っているふたりを見ていると、そんなことはどうでもよくなった。自然と頬が緩んでくる。疲れさえも忘れてしまう。いつまでもこの光景を見ていたい、そんな思いにとらわれた。

「う……ん……」

 アンジェリカは小さく声を漏らしながら、寝返りを打った。そして、ぼんやりと目を開いた。

「お父さん?」

「ごめんね、起こしてしまったね」

 サイファはしゃがんで彼女を覗き込み、にっこりと笑いかけた。アンジェリカは目をこすりながら、あたりを見回した。

「そうだわ……ここはお父さんとお母さんの寝室……」

 いまだにはっきりしない頭で、確かめるようにつぶやくと、ぼうっとしながら体を起こした。

「ごめんなさい、自分の部屋に戻るわ」

「いや、ここにいてくれ」

 不思議そうな顔を向けるアンジェリカの頬に、サイファは手を添えた。

「ひとつのベッドに三人並んで寝るのも、たまには悪くないだろう? アンジェリカは嫌か?」

「ううん、嬉しい」

 アンジェリカは眠そうな声でゆったり答えると、とろけるように微笑んだ。そして、彼の袖を掴み、自分の方へ引っ張った。

「急かさなくても逃げはしないよ。まずは着替えないと……」

 サイファはそう言いかけて、思い直した。とりあえずはこのままでもいいか。アンジェリカが寝ついてから着替えればいい――。ふっと表情を緩めると、彼女にせがまれるままベッドに入り、その隣に体を横たえた。ふたりは顔を見合わせて、小さく笑いあった。

「お父さん、大好きよ」

 囁くようにそう告げられて、サイファはくすぐったいものを感じた。愛おしげに目を細め、微笑みかける。そして、彼女を抱き寄せると、やわらかな頬にそっと口づけた。


 しばらくすると、アンジェリカは父親の胸の中で、静かに寝息を立て始めた。サイファは優しく彼女の頭に手をまわした。

 いつのまにか目を覚ましていたレイチェルは、そんな彼を見て、にっこり微笑んでいた。それに気づいたサイファも微笑みを返した。言葉はなくとも、ふたりにはそれだけで通じ合うものがあった。


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