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68. 過去から続く未来

「魔導省の最上階に個室をもらうなんて、ずいぶん出世したものね」

 ユリアはとげとげしくそう言うと、腕を組み、ぐるりと部屋を見渡した。広くはないが整然と片付けられ、清掃も隅まで行き届いているようだった。

「まだまだこれからですよ」

 サイファは奥の机でほおづえをつき、ニッと笑った。背後の大きなガラス窓には青空が一面に広がり、そこからの陽光が彼の鮮やかな金髪を煌めかせている。

「あなたをお招きした理由はわかっていますね」

 彼の問いかけに、ユリアは眉をひそめた。

「あの子が告げ口したのね」

 その口調には腹立たしさがにじんでいた。

「私も暇ではありません。仕事を増やさないでもらえますか」

「私を騙しておいてよく言うわ」

 ユリアは怒りをあらわにしながら、半ばあきれたように言った。サイファは目を閉じ、ふっと口元を緩めた。

「嘘は言っていません。私はユールベルのことを信用していますから。あなたよりもずっとね」

 彼女は片眉をぴくりと動かした。

「いちいち頭にくるわね」

 吐き捨てるようにそう言うと、笑顔をたたえたサイファをキッと睨みつけた。

「私は間違ったことはしていないわよ。自分の息子を取り戻したいと思って何が悪いの」

 強い口調でそう主張するユリアに、サイファは余裕の表情を見せた。机にひじをつき、静かに口を開く。

「ユールベルにしたことは、どうなんですか」

 ユリアは口を結び、深くうつむいた。

「……仕方ないじゃない。どうやっても、愛せないのよ」

 左手で右腕をきつく掴み、苦しげに眉間にしわを寄せる。

「気持ち悪い……自分の嫌な部分を見せつけられているような……そう、多分、きっと私と似ているから……」

「似ていませんね」

 サイファは間髪入れずに否定した。ユリアは驚いて顔を上げた。その真意がわからず、困惑した表情で見つめる。彼はにっこり微笑み、答えを口にした。

「ユールベルは優しい子です。あなたと違ってね」

 ユリアは顔を上気させ、サイファを睨んだ。だが、彼は動じることなく言葉を続けた。

「愛せないものを愛せというつもりはありませんが、せめてそっとしておいてくださいませんか」

「アンソニーを返してくれれば、もうあの子に会うこともないわ」

 ユリアはいらついて言った。だが、サイファは悠然と構えたまま、落ち着いた声で答える。

「それはできません」

 まっすぐに彼女を見据え、さらに容赦のない言葉を吐く。

「あなたの元にいては、彼が幸せになれない」

「私は愛しているのよ! あの子を……アンソニーを!」

 ユリアは逆上して、ヒステリックに声を荒げた。

「愛と自己満足を履き違えていませんか。アンソニーは自分の意思を持つひとりの人間だ。あなたの所有物ではない」

 サイファは語調を強めた。ユリアは苦しげに目を細めうつむいた。

「私は……父の道具にすぎなかったわ」

 低く落としたその声は、かすかに震えていた。

「あなたと結婚して本家に入る……父にとって、それだけが私の存在価値だった」

 サイファは無表情で机にひじをついた。ユリアは下を向いたまま、堰を切ったように言葉を溢れさせた。

「本家に気に入られるように、あなたに気に入られるように、私は常にその行動を強いられてきた。でも、レイチェルが生まれ、あなたと婚約をすると、私は父から見向きもされなくなった。私の人生は、あなたが生まれたことで狂い、レイチェルが生まれたことで終わったのよ」

 次第に感情を高ぶらせ、目に涙を浮かべて訴えかけた。

「同情はします」

 サイファは感情なく言った。

「だからといって、自分の子供に手を上げていい理由にはなりませんよ」

 ユリアは目尻を拭って、強気にサイファを睨みつけた。

「手の早いあなたには言われたくないわ」

「はははっ。上手いこと言いますね」

 サイファは軽い調子で、ユリアの攻撃を受け流した。彼女は大きくため息をついた。そして、にこやかに微笑む彼を見つめ、固い表情のまま目を細めた。

「もし、レイチェルが生まれていなかったら、そして、父の望みどおり、私とあなたが結婚していたら……私は幸せになれたのかもしれない」

「それはありえません」

 ユリアの表情が曇った。

「どういう意味?」

「私があなたを愛せたとは思えないからです」

 サイファはにっこりと笑った。

「言ってくれるわね」

 ユリアは顔を赤らめ、キッと彼を睨んだ。

「私は何が何でもアンソニーを連れ帰る。親は私よ。裁判を起こしてあなたの不当を証明してもいい」

「やめた方がいいですよ」

 サイファは片ひじをつきながら、手持ち無沙汰に書類をぱらぱらとめくり始めた。

「ラグランジェ家の人間が騒ぎを起こすことを、極端に嫌う連中がいてね」

 ユリアは怪訝に眉をひそめた。サイファは書類に目を落としたまま、無表情で話を続けた。

「あなたも知っているでしょう。ラグランジェ家では、不可解な事故や行方不明事件が何件も起こっている。いずれも、実に都合のいいタイミングでね」

 ユリアは額に汗をにじませた。ごくりと唾を飲み込む。目には怯えの色が見えた。震えながら口を開く。

「……それは、脅し?」

「忠告ですよ。もっとも、あなたにとってはどちらでも大差はないでしょうが」

 サイファはさらりとそう言うと、顔を上げてにっこりと笑いかけた。

「ユールベルたちの家には、もう二度と行かないでくださいね」

 ユリアは両手で顔を覆い、その場に泣き崩れた。

「アンソニーが会いたいと言えば会わせます。そのときが来るのを待っていてください」

 サイファは淡々と言った。

「そんなこと……言うわけないじゃない……」

 ユリアは肩を震わせすすり泣いた。


「悪いな、急に」

 ラウルは、屈み込むレイチェルの背中に声を掛けた。彼女はルナを抱き上げると、にこやかに微笑みながら振り返った。

「気にしないで。サイファに呼び出されたのでしょう?」

「ルナを預けてこいと言われた。長くなるのかもしれない」

 ルナは嬉しそうにキャッキャと笑い声を上げながら、レイチェルの顔に小さな手を伸ばした。レイチェルは、ルナに顔を近づけ、優しく微笑みかけた。薄地のカーテン越しに広がる柔らかい光が、ふたりをあたたかに包み込んでいる。細く開いた窓から緩やかな風が流れ込み、カーテンをふわりと舞い上げた。同時に、レイチェルの長い金髪をさらさらと揺らした。

 ラウルはその光景を無言で見つめていた。レイチェルがふいに顔を上げると、彼はとっさにどうでもいいことを口走った。

「アルティナはどうした」

「今は会議中」

 そう答えると、彼女は大きな青い瞳を彼に向け、ちょこんと首をかしげた。

「少し、散歩しない?」

「サイファに呼び出されていると言っただろう」

 ラウルはつれない返事をした。しかし、レイチェルは引かなかった。

「私に付き合わされたと言えばいいわ」

 そう言って、にっこりと笑いかけた。

 ラウルは目を閉じ、大きくため息をついた。


 人影もなく、静まり返った校舎内。ジークは大きなあくびをしながら、図書室へと続く廊下を歩いていた。中庭の木々は、太陽の光を浴び、きらきらと照り返している。ふいに足を止めると、窓から青空を見上げた。そのまぶしさに目を細め、ため息をつく。肩に掛けた鞄がずっしりと重い。

 こんな天気のいい休日に、なんで――。

 その元凶である憎らしい担任の顔が頭をよぎり、思わず眉間にしわを寄せた。

 ジークは再びため息をつき、前に向き直ろうとした。そのとき、視界のすみにある人物が映った。はっとして目を向ける。見間違いではない。中庭に立っているのは、まぎれもなくラウルだった。焦茶色の長い髪を風になびかせながら、腕組みをして空を見上げている。そして、その隣にはレイチェルが座っていた。ルナを膝にのせ、柔らかな表情を見せている。

 生徒には鬼のようにレポートを出しておきながら、自分は呑気にひなたぼっこか?

 ジークは舌打ちをした。肩を上げ鞄を担ぎ直すと、腹立たしげに大股で歩き始めた。しかし、彼の足はすぐに止まった。そして、もう一度、中庭に目を向けた。


「休日はアカデミーの方が静かでいいわね」

 芝生の上をトコトコと歩きまわるルナを見て、レイチェルは穏やかに微笑んだ。

「私もアカデミーに通ってみたいと思ったことがあったのよ」

 ラウルは少し驚いたように瞬きをすると、隣で座る彼女に目を向けた。

「サイファが許さなかっただろう」

「その前に両親に止められたわ」

 レイチェルは肩をすくめてみせた。

 ラウルは再び空を望んだ。風が木々の緑を奏で、それに呼応するかのように小鳥のさえずりが重なる。

「何か、話があるのだろう」

「お見通しなのね」

 レイチェルは笑いながら言った。

「何だ?」

 ラウルが急かすように尋ねると、彼女は小さなルナに目を向けた。そして、少し遠慮がちに口を開いた。

「ルナは、あなたの本当の……血のつながった子供、だったりしない?」

 ゆっくりと尋ねかけると、顔を上げ、ラウルの様子をうかがった。彼は大きな手で額を掴むと、次第に深くうつむいていった。まぶたを閉じ、なんともいえない表情を浮かべている。

「ずっと、疑っていたのか」

「疑うだなんて。そうだったらいいなって思ったのよ」

 レイチェルは無邪気に声を弾ませた。

「ラウルがこの子を引き取ると言ったとき、様子が普通じゃなかったってサイファが言っていたし、アルティナさんが隠し子じゃないかと尋ねたときも、明確に否定しなかったって」

 ラウルは疲れたように息を吐き、その場に腰を下ろした。長い脚を折り曲げ、その膝の上に腕を投げ出しうなだれた。

「ラウル?」

 レイチェルは首をかしげ、彼を覗き込んだ。

「それはない」

 ラウルは彼女の澄んだ瞳をまっすぐ見つめた。

「誓って言う。断じて隠し子などではない」

 レイチェルはくすりと笑った。

「信じるわ」

 ラウルは安堵の息をつき、後ろの木にもたれかかった。頭上でかすかに若葉がざわめく。

「でも、何か理由があったの?」

 レイチェルは再び彼を覗き込んだ。ラウルは目を細め、遠い空を仰いだ。

「……似ていたのだ。見つけたときの状況が」

 空の彼方に視線を送る彼を見て、レイチェルは確信した。

「例の、忘れられないひと、ね」

 ラウルは固い表情でうつむき、左手で額を押さえた。

「名前も……」

「え? もしかして、ルナってその人の名前?」

 レイチェルは大きな目をぱちくりさせた。

「いや、名前ではない……が、一部でそう呼ばれていた……」

 ラウルは背中を丸め、大きくうなだれた。

「私は愚かだ……そうだ、最初から何もかもおまえに相談するべきだった。おまえなら私を止めてくれただろう」

「そうね。名前は、止めたわね」

 レイチェルは肩をすくめ、少し苦笑いした。

「でも……」

 小さくそう言うと、前に向き直り、陽の当たる芝生に座っている小さな女の子の名前を呼んだ。

「ルナ!」

 小さな彼女は嬉しそうに笑顔で振り返ると、立ち上がってトコトコと走り寄ってきた。レイチェルは彼女を膝に抱き上げた。

「ルナは、もうこの子の名前になってしまったのよ」

 ラウルは無言で背中を丸めたままだった。

「これからできることは、その人を重ねるのではなく、この子はこの子として愛していくこと」

 レイチェルは彼を覗き込み、にっこりと笑いかけた。

「できるのでしょう?」

 ラウルはまいったと言わんばかりに、目を閉じ大きくため息をついた。

 レイチェルは目を細め、日なたの匂いのするルナの頭を優しく撫でた。

「後悔をしては、この子がかわいそう」

 彼女の瞳に強い光が宿った。

「だから、私は後悔をしない。愚かだったけれど、申しわけなかったけれど、それでも嘘はなかったもの」

 ラウルは彼女の横顔を見つめた。光を受けて輝く金の髪が、少し眩しく感じた。彼女はラウルの視線に気づき、瞬きをしながら振り向いた。

「もしかして、少しは後悔しろって思ってる?」

「いや。だが、サイファは……」

 レイチェルは穏やかに微笑んだ。

「生まれたときから今まで、ずっと変わらず大切にしてくれている。決して私を責めたりしないわ」

 ラウルは後ろの木に身を預けると、腕を組み青空を見上げた。

「おまえにとっては良い夫というわけか」

「あなたにとっては良い教え子だった?」

 レイチェルは茶化して尋ねた。ラウルは空を見たまま、眉をひそめた。

「憎らしい奴だ。だが、今までに会った誰よりも頭がいい」

 端的にそう答えたあと、一拍の間をおいて付け加えた。

「ただ、魔導の潜在的な能力は、おまえの方が上だ」

「そうなの? 嬉しい」

 レイチェルは軽く無邪気に喜んだ。

「もう少し時間があれば、おまえの力を引き出せてやれた。そうすれば……」

「今さら言っても仕方のないことよ」

「……強いな」

 ラウルはぽつりと言った。レイチェルはルナを抱きしめ、空を見上げた。

「守ってくれる人がいるから、かもしれないわね。ラウルもそのひとりよ」

 そう言って、にっこりと笑いかけた。だが、ラウルは素っ気なく否定した。

「私は何もしていない」

「見守ってくれていたでしょう?」

 レイチェルは大きな瞳で彼を覗き込んだ。

 ラウルはうつむきながら頭を押さえると、ため息をついた。

「どうしておまえはそういうことを……」

 ――ガサッ。

 はっとして音のした方に振り返る。一瞬だが、黒っぽい何かが茂みの中に隠れるのが見えた。

「誰だ!」

 迫力のある声で叫びながら、その方に突進する。そして、あわてて逃げようとしていた人物を見つけると、首根っこを掴んで引きずり出した。それは、ジークだった。

「何をしている」

 ラウルは低く唸るように問いつめた。その目は激しい怒りで熱く煮えたぎっている。ジークは芝生に手をついたまま、じりじりと身を引いた。

「レポートを片づけに来ただけだ。おまえが山のように出すからな!」

 彼の額から汗が流れ落ちた。ラウルはギリッと奥歯を噛みしめた。そして、腹の底から声を絞り出す。

「なぜ盗み聞きをしていたのか、と訊いている」

「盗み聞きなんてしてねぇ! 姿が見えたから来てみただけで……いま来たところなんだよ!」

 ラウルはジークの喉をわしづかみにし、体ごと木の幹に叩きつけた。ジークは後頭部を激しく打ちつけ、思いきり顔をしかめた。喉を押さえつけられているため声は出ない。それどころか息さえできない。今にも喉がつぶれそうだ。

「おまえの記憶を封じてやる。成人に施すのは危険だが仕方ない。失敗すれば数年単位で記憶が飛ぶ。最悪は廃人だ」

 ジークは体をよじり逃れようとしたが、びくともしない。首を絞めつける大きな手に爪を立ててみても、その力が緩むことはなかった。

「下世話な好奇心を持った自分を恨め」

 ラウルは冷酷に言い捨てると、開いた右手をジークの額にかざそうとした。

「待って」

 レイチェルはその右手に自分の左手を重ねた。そして、大きな青い瞳をまっすぐ彼に向け、じっと訴えかけた。

 ラウルの手から力が抜けた。ジークは飛び出すようにそこから逃れると、喉を押さえ激しくむせ込んだ。

「ジークさん」

 レイチェルは膝をつき、体を屈めている涙目のジークを覗き込んだ。

「何も、聞いていないのね?」

 真剣な表情で、静かに念押しするように尋ねかける。ジークはごくりと喉を鳴らした。

「……はい」

「わかったわ。行って」

 レイチェルは凛とした声で、突き放すように短く言った。ジークはとまどいがちに何度か振り返りつつ鞄を拾うと、図書室へ向かって足早に歩き出した。


「甘いな」

 ラウルは低い声で言った。

「たいしたことは言っていないでしょう」

「あいつはバカじゃないぞ」

「だったら安心ね」

 レイチェルは後ろで手を組み、にっこり笑って振り向いた。

「彼は私たちの味方だもの」

「だといいがな」

 ラウルはため息をついた。

「使って」

 レイチェルは白いハンカチを差し出した。彼の手の甲からは血が滲んでいた。ジークに爪を立てられたときについた傷だ。それほど深くはないが、長く引っかかれている。

「こんなもの、放っておいても問題はない」

「あら、医者のセリフとは思えないわね」

 レイチェルはからかうように言った。そして、彼の大きな手をとると、ハンカチで傷口をそっと押さえた。赤い血がハンカチに染みていく。

「汚してほしくなかったのよ」

 ぽつりと落とされた彼女の言葉に、ラウルはぴくりと眉を動かした。

「この手は、ルナを抱き上げる手だもの」

 レイチェルは顔を上げ、優しく微笑んだ。彼女の足元に座っていたルナも、無垢な笑顔で見上げていた。


「ジーク! どこ行ってたの! 心配したよ!」

 図書室に入って来た彼を見るなり、リックは大きな声を上げた。隣のアンジェリカは、眉をひそめてリックに振り向き、口の前に人さし指を立てて見せた。図書室には、彼らの他にもレポートをまとめている生徒たちがちらほらいる。

 リックは「あ……」と小さく声をもらして口を押さえると、今度は声をひそめて言った。

「先に行ったはずなのに来てないから、事故にでも遭ったんじゃないかって思ったよ」

 ふたりは一緒にアカデミーに向かっていたが、リックは途中でセリカの家に寄るからと、ジークには先に行ってもらっていたのだった。

「悪りィな」

 ジークはまるで気のない返事をしながら、アンジェリカの隣に座った。リックはこれ以上の追求はしなかった。答える気がなさそうに見えたからだ。無事であればそれでいい。そう思いながら、本に目を落とした。

「何か、ついてるわよ」

 アンジェリカはジークの頭に手を伸ばし、髪に絡まっていた深緑色の欠片を取った。

「葉っぱ? 何をやってたの? こんなものつけて」

 首をかしげ、いぶかしげに尋ねる。ジークは困ったように目を泳がせた。

「天気が良かったから、つい中庭で昼寝……」

「え、昼寝?」

「もう、そんな悠長なことやってる場合?」

 リックとアンジェリカはあきれ顔で口々に言った。しかし、ジークは言い返すこともせず、覇気なくぼうっとしている。考えごとをしているようにも見えるが、どちらにしろ彼の心はここになかった。

「ねぇ、本当にどうしたの?」

 アンジェリカは次第に不安になってきた。どう見てもいつもの彼ではない。何かがあったとしか思えない。しかし、ジークはそれを認めなかった。

「なんでもねぇよ」

 どこか上の空で答える。

「なら、いいけど……」

 引っかかるものを感じてはいたが、彼女もそれ以上は尋ねなかった。

 ジークは鞄からノートと筆記具を取り出すと、席を立ち、奥の書棚へと向かった。


 ラウルは魔導省最上階にあるサイファの個室へやってきた。軽くノックし、返事を待たずに扉を開ける。

 サイファは大きなガラス窓の前に立ち、そこから広がる景色を眺めていた。

「遅かったな。待ちくたびれたよ」

 背を向けたまま、静かに言う。ラウルはぶっきらぼうに言い返した。

「おまえの都合にばかり合わせてはいられない」

 サイファは椅子に腰を下ろし、机に向き直った。

「猫とでもやり合ったのか」

 目ざとくラウルの手の傷を見つけると、引き出しを開けながらさらりと尋ねた。ラウルはわずかに眉をひそめ、一言だけ返した。

「猿だ」

 サイファは小さくふっと笑った。そして、唐突に、小さな何かを投げてよこした。それは弧を描き、ラウルの手の中におさまった。

「あのロッカーの鍵だ」

 サイファは部屋の隅を指さした。ラウルは彼を軽く睨むと、そのロッカーへと足を進めた。スチール製のそれは、表面がでこぼこしており、見るからに古そうだった。ところどころ錆まできている。ラウルは渡された鍵で扉を開けた。中には小さめの段ボール箱がひとつ入っていた。蓋は閉じられていない。多くの紙の束やファイルが無造作に突っ込まれ、あふれ返っている。

「片付けろとでも言うのか」

「ある研究者が発表しようとしていた論文と、その裏付けとなる実験データだ」

 サイファははっきりとよく通る声で言った。ラウルは彼を流し見た。

「揉み消したのか」

「表に出ては都合が悪いのでね」

 サイファはひじをつき、軽く握った手をあごに添えると、不敵な笑みを浮かべた。

「利口なやり方とは思えないな」

「私が関わったことはわからないよう工作はしてある。ラグランジェ家の誰かの仕業だという察しはついているだろうが」

 ラウルはじっとサイファを見つめた。サイファは軽く息をつきながら、肘掛けに手をのせ、背もたれに身を預けた。そして、まっすぐにラウルを見つめ返すと話を続けた。

「おまえに聞きたいのは、その論文の信頼性だ。私が読んだ限りでは、かなり高いとみている」

 ラウルは段ボール箱の中から、論文と思しきファイルを取り出した。パラパラとめくり、ざっと目を通す。

「大筋、間違ってはいないようだ」

 そう言うと、ファイルを閉じた。

「少し見ただけで何故そう言える。根拠は何だ」

 サイファは鋭い視線をラウルに向け、畳み掛けるように問いかけた。

「私のいた世界では、とうに証明されていることだ」

 ラウルは無表情で答えた。サイファは厳しい表情で目を細めた。

「何故、教えなかった」

「一度、言ったことがある」

「私は聞いていない!」

 身を乗り出し語気を強めるサイファに、ラウルは淡々と返した。

「おまえの祖父にだ。おまえが生まれるずっと前にな」

「……聞く耳を持たなかったのだな」

「ああ、一笑に付された」

 サイファは再び背もたれに身を沈めた。椅子が軽い軋み音をたてる。

「私なら、信じたよ」

 ぽつりと言うと、くるりと椅子をまわし、ラウルに背を向けた。ガラス窓の向こうに広がる青い空を、深い蒼の瞳に映す。そして、静かに口を開いた。

「一族の中で婚姻が繰り返されることに、不自然なものは感じていた。血を濃くすることの弊害もあるのではないか、そんな懸念が頭をよぎったこともある。分家がいくつもできた今でこそなくなったが、昔はきょうだい間での婚姻も、当然のように行われてきた」

 サイファは大きく息をついた。

「すでに私たちの遺伝子はかなり損傷している、と考えるべきだろうな。つまり、爆弾を抱えているようなものだ。このままではいつか……」

「どうするつもりだ」

 ラウルが低い声で尋ねると、サイファは椅子をまわし、再び彼に向き直った。

「さて、どうするかな」

 含みを持った言い方をすると、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。その瞬間、嫌な考えがラウルの頭をかすめた。

「まさか、アンジェリカを……」

「アンジェリカを、何だって?」

 サイファはほおづえをつき、ゆっくりと尋ねかけた。ラウルははっとしてけわしい表情でうつむき、口元を手で覆った。

「いいかげん気づいていないふりをするのはやめてもらえないか」

 サイファは立ち上がり、腕を組むと、ガラス窓にもたれかかった。

「一瞬、アンジェリカが頭に浮かんだのは事実だ。だが、あの子をラグランジェ家に縛りつけるつもりはない。その考えは今でも変わらないよ」

 腕を組んだまま、顔を横に向け、窓の外に視線を流す。

「それに、ラグランジェ家が変わらなければ、外部の者を受け入れることができなければ、結局は同じことさ。ただの延命措置にすぎない」

 光に縁どられた彼の端整な横顔は、寂しげな翳りを落としていた。

「おまえが変えるつもりか」

 ラウルが尋ねると、サイファはわずかに目を伏せた。

「いや、何もしない。滅びればいいさ。閉鎖的に自分たちの優位性を護ってきた、驕慢な一族の末路にはふさわしい最期だ」

 静かにそう言ったあと、少しおどけて付け足した。

「ま、滅びるのは私の子孫ではないしね」

 ラウルはため息をついた。

「あの連中がおとなしくそれを待つとは思えないが」

 サイファは表情を引き締めた。

「おそらく彼らもこの情報を掴んでいる。そうであれば、当然、何らかの対策をとるだろうな。それが正当なものであれば、私も尽力するつもりだ。ただ……」

 彼の目つきが急に鋭くなった。あごを引き、まっすぐ前を見据える。

「アンジェリカに手出しはさせない」

 低く重いその声は、決意に満ちていた。

 ラウルはロッカーの鍵を締め、それをサイファに投げ返した。

「無茶はするな」

 無愛想にそう言うと、背中を向け足早に歩き出した。

「ラウル」

 サイファはその後ろ姿に声を掛けた。ラウルはドアノブに手を掛けたまま、動きを止めた。

「おまえがいてくれて良かった」

「からかっているのか、それとも嫌みか」

 ラウルは振り返ることなく尋ねた。

「本心だよ」

 サイファはにっこり笑って答えた。

 ラウルは乱暴に扉を開け、勢いよく出て行った。


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