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60. 最後の夜

 それから毎日、ジークは個人指導を受けていた。アカデミーが終わると、ラウルとともに道場へ行き、夜遅くまで修業をする。その合間や終了後に、ルナの世話や雑用を押しつけられることもあった。そして、日付けが変わるころ、こっそりとラグランジェ家へ戻って休み、朝になるとアンジェリカとともに朝食をとり、アカデミーへ向かう。そんな繰り返しだった。

 ラウルの厳しさは、ジークの体を見れば一目瞭然だった。大きな怪我は初日の骨折のみだが、細かい生傷が絶えることはなかった。連日、違う場所に絆創膏が貼られていった。

 ジークは何かにつけラウルへの不平不満を口にしていたが、それでもどこか楽しそうだった。


「これで約束の一ヶ月は終わりだ」

 ラウルは無表情で言い放った。

 ジークは道場の中央に汗だくで座り込んだ。そして、うなだれるように声なくうなずいた。

「……そういや、すげぇ呪文とか、何も教えてくれなかったよな」

 肩を揺らし、荒く呼吸をしながら、ふいに思い出したようにつぶやいた。

 外に出ようとしていたラウルは、戸口で足を止めた。わずかに振り返り、ジークを冷たく一瞥した。

「おまえには無理だからだ。そういうことは基礎ができてから言え」

「ほんっとーに頭にくるな、オマエ」

 ジークは力なく笑った。

「魔導力もないくせに、無理に高等呪文を使えば、下手をすると体が吹っ飛ぶ。欲張らないことだ」

 ラウルは、背を向けたまま淡々と忠告をすると、再び歩き始めた。

「ラウル!」

 ジークは顔を上げ、呼びかけた。しかし、彼は少しも振り返ることなく、長い髪をなびかせ道場を出ていった。

「お、おいっ!」

 ジークは慌てて立ち上がり、後を追った。

「ラウル!!」

 外に飛び出し、彼の後ろ姿を見つけると、さらに大きな声で呼び止めた。

「俺……この一ヶ月……感謝してる」

 振り向かないその背中に、少し照れくさそうにしながら、真顔で不器用な言葉を送った。

 ラウルは一呼吸ののち、静かにつぶやいた。

「あしたは雨だな」

「……っんだと?!」

 ジークの怒号が闇に響いた。


「お疲れさま、ラウル先生」

 からかい口調でにこにこと医務室へ入ってきたサイファに、ラウルは冷ややかな視線を送った。だが、ため息ひとつついただけで、すぐに机に向き直り、書類整理の続きを始めた。

「追い返そうとしないところを見ると、何か話したいことがあるんだな?」

 サイファはにやりと笑いながら机にひじをつき、身を屈めてラウルを覗き込んだ。ラウルはわずかに眉をひそめると、間近に迫った端整な顔を、容赦なくファイルで払いのけた。それでも懲りない彼を見て、呆れたようにため息をつくと、静かに口を切った。

「今度の試験で対戦型 VRMを使いたい」

 サイファの顔から笑みが消えた。

「馬鹿を言うな。あれはすでに禁じた。おまえも忘れたわけではないだろう」

 早口でそう捲し立てると、けわしい表情でじっとラウルを見つめた。彼はゆっくりと振り向き、まっすぐに視線を返した。

「だからおまえに相談している」

 ふたりは強く睨むように、目で探り合った。互いに譲らない。無言の長い対峙が続く。そこに流れていたものは、時を刻むかすかな音だけだった。

 先に視線をそらせたのはサイファだった。小さく息をつき、窓際へと足を進めた。細く開いたカーテンの隙間から、外へと目を向ける。あたりはすっかり闇に包まれ、木々の枝葉は黒く不気味にざわめいていた。

「彼がアンジェリカに勝てるとでも?」

 腕を組み、窓枠に寄りかかりながら、冷静な口調で尋ねた。

「それを試したい」

 ラウルは即答した。サイファは目を細め、冷たく彼を流し見た。

「悪趣味だな。アンジェリカを戦わせるために、おまえに預けたわけではない」

「アカデミーとはそういうところだ」

 ラウルは机に向かったまま、悪びれずに答えた。サイファは睨みつけはしたが、反論することはなかった。いや、できなかったのだ。なぜアカデミーが設立されたのか、彼はそれを知っていた。

 アカデミーとは、国中から才能のある者を集め、無償で高度な教育を施す、唯一無二の王立校である。その目的のひとつは、国による優秀な人材の育成、そして囲い込みだ。ほとんどの卒業生が国の機関で働いているという事実が、そのことを物語っている。そしてもうひとつ。一般には知られていないことだが、有事のときの人材確保である。兵器開発のために工学科が作られ、兵士に最先端医療を施すために医学科が作られ、そして、前線で戦う魔導士を育成するために魔導全科が作られた。それが、そもそもの成り立ちである。つまり、魔導全科の者は、本来、戦うことが義務づけられているのだ。

 ただ、平和が長く続いているこの国で、有事のことを真剣に考えているものなど、今はほとんどいない。サイファも楽観しているわけではなかったが、特に憂慮しているわけでもなかった。そうでなければ、いくら本人の強い希望とはいえ、アンジェリカを受験させたりはしなかっただろう。

「……リミット値の設定はこちらで行う。それと、試験の様子はモニターさせてもらう。いいな」

 多少の動揺を心の内側に押し隠し、感情を見せず条件のみを突きつけた。静かだが、有無を言わさない強い口調である。

「好きにしろ」

 ラウルも冷静に無表情で答えた。

 しかし、サイファはその答えに不快感を示した。一瞬、ムッとした表情を浮かべ、疲れたようにため息をついた。

「好き嫌いではなく仕事だ。ヴァーチャルとはいえ、娘が戦っているところなど、目にしたくないよ。趣味の悪いおまえと一緒にするな」

「気になってはいるのだろう」

 ラウルの問いかけに、サイファはわずかに眉をひそめた。

「多少はな」

 抑えた声でそう答えると、自嘲ぎみにふっと笑いながらうつむいた。そして、小さくぽつりとつぶやいた。

「私もおまえのことは言えないか」


 修業が終わり、ジークはラグランジェ家へ戻ってきた。ここに世話になるのも、今晩が最後である。足音を立てないよう廊下を歩きながら、この一ヶ月のことを思い返していた。ラグランジェ家の人たちと顔をあわせるのは、基本的に朝食のときだけだったが、それでも今までより多くの面を知ることができた。

 当然といえば当然なのかもしれないが、ラグランジェ家には家政婦と料理人、そして庭師が雇われているようだった。考えてみれば、これほど広い家のことをレイチェルとサイファだけでこなすなどということはありえない。ただ、住み込みではなく通ってきているようで、ほとんど姿を見たことはなかった。

 サイファの仕事が大変そうだということもわかった。サイファは魔導省に勤めており、かなり上の役職に就いている。だが、どうやら早番というものがあるらしく、週の半分はジークが起きるよりも早く家を出ていた。帰りが遅くなることも、たびたびあるらしい。

 そして、サイファとレイチェルは本当に仲が良かった。ジークがいることも気にせずに、サイファはレイチェルを抱きしめたり、頬に口づけしたりしていた。初めのうちは、そんなふたりを見ていちいち照れていたジークだったが、そのうち次第に馴れてきた。もちろん、不快に感じたことはなく、むしろ微笑ましく羨ましく思えた。あるとき、アンジェリカにちらりとその話題を振ってみたところ、「普通じゃないの?」ときょとんとして聞き返されてしまった。幼いころから見なれていれば、普通だと思うのは当然だろう。

 ジークはそんなふうに考えごとをしながら、彼が借りているゲストルームへと入っていった。特別に広いわけではないが、彼にとっては十分すぎるくらいだった。自分の家よりも広く、きれいで、清潔で、とても快適だった。


 ――トントン。

 ジークが着替えようと服に手を掛けたところで、部屋の扉がノックされた。こんな時間に……サイファさんか? ジークは不思議に思いながら扉を開けた。

「おまえ……まだ起きていたのか」

 そこに立っていたのはアンジェリカだった。薄桜色のネグリジェを見にまとい、かすかに笑みを浮かべていた。

「帰ってくるのを待っていたのよ。今日で最後でしょう? せっかくだから話でもしない?」

「あっ……ああ」

 思いがけないことだった。ジークはうろたえて声がうわずった。

「よかった」

 アンジェリカはにっこり笑って部屋に入ろうとした。しかし、ジークは彼女の前に腕を伸ばし、それを阻んだ。

「何よ?」

 アンジェリカは口をとがらせて、ジークを見上げた。彼は、困ったような弱ったような顔で、目を泳がせていた。

「部屋ん中はまずいだろ」

「どうして?」

「ベランダに出よう、なっ?」

 焦りながらなだめすかすジークを見て、アンジェリカはいぶかしげに眉をひそめた。

「なにか変よ、ジーク。まさか部屋の中に変なものを持ち込んだりしていないわよね」

 彼女の的外れな勘ぐりに、ジークは気が抜けた。

「んなわけねーだろ!」

「ふーん……まあいいけど」

 まだ完全に疑惑は晴れていないようだが、とりあえずこれ以上の追求はなさそうだった。ジークはほっと胸を撫で下ろした。


 廊下の突き当たりにあるガラス戸を開け、ふたりはベランダへと出た。大きな屋敷だけあって、さすがにベランダも広い。ジークは一通り見渡して、感嘆の息をついた。

 前へと進んでいき、ふたりは並んで手すりにひじをのせた。真夜中ではあったが、ほのかな月の光に照らされて、互いの表情は十分に識別できる。顔を上げると、生け垣の向こうに王宮が見えた。ここからごく近くにあるように感じる。実際に近いのかもしれない。ジークは頭の中で地図を描き始めた。

「冷えるわね」

 夜風が頬を撫でると、アンジェリカは肩をすくめ、小さく身震いした。ジークは彼女に振り向き、あらためてその格好を目にした。薄地のネグリジェ一枚である。

「そんな薄着で来るからだろ」

「だって外に出るつもりなんてなかったのよ」

 アンジェリカはムッとして言い返し、頬をふくらませた。確かに、外に出るつもりのなかった彼女を、外に連れ出したのはジークである。彼女の言い分はもっともだった。

 ジークは自分の上着を脱ぐと、顔をそむけたまま、無言でアンジェリカに差し出した。

「え? ……ありがとう」

 少し面くらった様子だったが、彼女は素直に受け取った。

「ちょっと汗くさいかもしれねぇけど……って、ニオイ嗅ぐなよ!」

「このくらいなら大丈夫よ」

 焦るジークを後目に笑顔でそう言うと、その上着に腕を通した。やはり、小柄なアンジェリカにはかなり大きかった。肩が落ちているうえ、袖から指先さえも出ていない。それを見て、彼女はくすりと笑った。ジークもつられて笑った。

「ぶかぶかね」

 どこか嬉しそうにそう言うと、袖をまくり上げ、手先を出した。

「それで、どうだったの? ラウルの修業」

「ああ……大技とか必殺技とかは教えてくれなかった」

 アンジェリカは目をぱちくりさせて、彼を見上げた。

「そんなのを期待していたの?」

「もともとそういうつもりだったんだよ」

 ジークは恥ずかしそうにしながら、ぶっきらぼうに答えた。

「まあでも基本をみっちりやったし、少しは力がついたと思うぜ。試験でも少しは役立てばいいけどな」

「うん。きっと役に立つわよ。でも、私は負けないけど」

 アンジェリカはにっこりと無邪気に笑いかけた。ジークの胸はドクンと強く打った。彼女の顔をまともに見ていられなかった。

「サイファさんに指導してもらったんだって?」

 前に向き直り、視線を空に逃がしつつ尋ねた。

「ええ、でも三回だけよ」

「俺もサイファさんに教わりたかったぜ。ラウルよりよっぽどまともそうだし」

 しかし、アンジェリカは何か思うことがあるようだった。軽く首をひねり、難しい顔を見せる。

「どうかしら? 教えるのには向いてないかも……」

「どういうことだ?」

 意外な評価に驚き、ジークは瞬きをしながら振り向いた。彼女は眉尻を下げて、弱ったように肩をすくめて笑った。

「優しすぎるのよ」

「あ、それは相手がおまえだからだろ。娘だから」

 サイファはいかにも娘に甘そうだった。しかし、他の人には厳しく的確に指導してくれるのではないか。ジークはそんな期待を抱いていた。ただ、忙しそうなので、実際に教えを請うことは無理だろう。

「どうして? 私は厳しくしてって言ったわよ」

 彼女は不満げに言い返した。

「そう言われても、できなかったんじゃねぇか? かわいい娘なわけだし」

 ジークの答えに、彼女はまるで納得できなかった。ますます不機嫌になり、頬をふくらませてむくれた。

「なによそれ。私のためを思うなら、言うとおりに厳しくしてくれてもいいじゃない」

 ジークは苦笑いするしかなかった。しかし、一息つくと急に真面目な顔になり、空を見上げて静かに切り出した。

「俺、サイファさんには感謝してる」

 アンジェリカはそっと振り向き、彼の横顔を見つめた。ジークは遠くを見ていたかと思うと、ふいに目を伏せ、小さく息を吐いた。

「何から何まで世話になりっぱなしだ。今回だって一ヶ月も……。帰ろうと思えば帰れるのに、なんか甘えちまって」

「だって、ジークの家は遠いんだもの。毎日、遅くまで修業をして、それから帰ったんじゃ大変よ」

 アンジェリカにそう言ってもらえて、ジークは少し救われたように感じた。わずかに表情を弛める。

「ね? いっそずっとうちに住んじゃうってのはどう?」

 アンジェリカは無邪気に大胆な提案をした。いいことを思いついたといわんばかりに、顔を輝かせている。

 せっかく弛んだジークの表情は、一瞬で固まってしまった。

「お父さんもジークのことを気に入ってるみたいだし、きっと賛成してくれるわ」

 ジークの様子に気づいていないのか、彼女は満面の笑みで話を続けた。

「あ、いや……さすがにそういうわけにはいかねぇよ」

 ジークは落ち着かない様子で、引きぎみに口を開いた。これ以上、サイファやレイチェルに迷惑をかけるわけにはいかない。第一、サイファが賛成してくれるとも思えない。自分が気に入ってもらえているかどうかも自信がない。

「どうして? いい話だと思うけど」

 アンジェリカは不思議そうに尋ねた。ジークは弱った。

「母親をひとりにしとくのも心配だし……」

 つい、そんないいわけが口をついた。嘘ではない。確かにそれもあるんだ。そう自分に言い聞かせた。

「そう、残念」

 アンジェリカは少し沈んだ声で答えると、顔を上げ、にこっと笑った。

 ジークの脳天に痺れが走った。笑顔を返そうとしたが、後めたさがブレーキをかけた。なんともいえない表情のまま、ただ立ちつくしていた。

「風邪、ひいたの?」

 アンジェリカは、心配そうにジークを覗き込んだ。

「えっ?」

「さっきからぼうっとしてるし、顔も赤いわよ。熱があるんじゃない?」

「あ……ああ、そうかもな」

 ジークはわざとらしく鼻をすすってみせた。

「修業が大変だったから、疲れが出たのよ。もうゆっくり寝た方がいいわね」

 アンジェリカは身を翻し、中へ戻ろうとした。しかし、ジークは彼女の腕をつかんで止めた。

「え?」

「あ……」

 突然、腕をつかまれたアンジェリカは、驚いて彼を見上げた。だが、彼の方も自分自身の行動に驚いていた。考えるより先に、体が動いていたのだ。しかし、なぜその行動を起こしたのか、その理由ならわかる。

「ここで熱を冷ますよ。もう少し……今日は最後、だろ?」

「もう、悪化しても知らないわよ」

 アンジェリカは口をとがらせながら、たしなめるように言った。しかし、そのあとくすりと笑って、屈託のない笑顔を見せた。


 サイファはようやく帰ってきた。もう零時を回っている。玄関の扉を開けて中に入ると、正面階段を忍び足で降りてくるレイチェルと目が合った。

「ただいま。どうしたんだい?」

 レイチェルは人さし指を立てて口に当て、声を出さないよう注意を促すと、彼のもとに駆け寄った。

「お帰りなさい」

 にっこり笑って彼を見上げながら、声をひそめて言った。サイファは笑顔で彼女を抱きしめ、髪を撫でた。

「ただいま。でも本当にどうしたんだ? 何かあったのか?」

 彼も、声をひそめつつ尋ねた。

「上で何か音がするから、様子を見に行ったの」

「それで?」

 レイチェルは、彼の腕の中でくすりと笑った。

「ふたりがベランダで話をしていたわ」

「こんな時間に起きているのか、アンジェリカ」

 サイファは目を丸くし、思わず二階を見上げた。

 レイチェルは彼の頬を両手で包み、自分の方へ向き直らせた。

「固いことを言わないで。アンジェリカだって、いつまでも小さな子供じゃないわ」

 そう言って、にっこりと笑いかけた。サイファもふっと表情を弛めた。

「そうだな。今日くらいは」

 そして、彼女の肩に手をまわし、並んで歩き始めた。

「そういえば、私たちもあったな、ベランダで」

「私は、今のアンジェリカと同じ年齢だったわ」

「そうだったな」

 サイファは少しばつが悪そうに笑った。

「あのころに戻りたい?」

 ふいにレイチェルはそんなことを尋ねかけた。大きな青い瞳で、不安そうにサイファを見上げている。

 サイファは彼女の頭を抱き寄せた。

「今が幸せだよ」

「……ありがとう」

 レイチェルはそっと彼に寄りかかった。


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