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59. 個人指導

「……勝てねぇ」

 貼り出された試験結果を見て、ジークはがっくりうなだれた。今回は今まで以上に、そしてこれ以上はないくらいに、懸命に取り組んだ。今年こそはアンジェリカに勝ちたい、その一心だった。しかし、結果はいつものように、アンジェリカがトップである。

「そんなに落ち込むことないじゃない。ジークが頑張っていたのは知っているけど、私だって頑張ったんだから」

 アンジェリカは慰めるふうでもなく、さらりと軽く言った。当然と言わんばかりの口調である。ジークは同意することも反論することもなく、無言で肩を落としたままだった。

 ――習ったことばかりやっていても駄目だ。

 いつかのラウルの言葉が、ふいに頭をかすめた。もちろん、習ったことばかりでなく、独学でもいろいろとやってきたつもりだ。しかし、やはり自分ひとりでは限界があるのではないか。

「ジーク?」

 うつむいたまま無反応のジークを、アンジェリカは心配そうに覗き込んだ。

「そうとうショックを受けてるみたいだね」

 リックは苦笑いした。

「よし! 決めた!」

 突然、ジークは右のこぶしをぐっと握りしめ、ぱっと顔を上げた。暗く淀んでいただけの先ほどまでとはまるで違う、何かを吹っ切ったような表情。そして、その瞳には強い決意がみなぎっていた。

「決めたって、何を?」

 アンジェリカは驚いて、少し引きぎみに尋ねた。ジークは彼女の鼻先に、ビシッと人さし指を突きつけた。

「もう勝つためには手段を選ばねぇ! 見てろよ!」

 そんな捨てゼリフを残し、ドタバタとアカデミーの中へ走り去っていった。残された二人は、呆然と彼の背中を見送ると、互いに顔を見合わせた。

「手段を選ばないって、どういうことなの?」

「さぁ。たいしたことじゃないと思うけど……」

 再び廊下の奥ヘ目を向けたが、もう彼の姿は見えなくなっていた。


「ラウル!!」

 ジークは医務室の引き戸を開くと同時に、興奮ぎみに声を上げた。ラウルは机に向かい、カルテの整理をしていた。騒々しいジークの登場にも、まるで反応を示さず、一瞥をくれることすらなかった。

 ジークは医務室に踏み入ると、さらに感情を高ぶらせ、ラウルの横顔に向かって思いつめたように訴えた。

「俺に……俺にもっと魔導を教えてくれ!」

「断る」

 ラウルの返事はにべもないものだった。ジークはしばらく唖然としていたが、次第に沸々と怒りがこみ上げてきた。

「こっちだってテメェなんかに頼りたくねぇよ! でも仕方ねぇから頭を下げて頼んでるんだぜ。もうちょっと考えてくれてもいいじゃねぇか!」

「それはおまえの都合だ」

「ぐっ……」

 ジークは言葉に詰まった。歯を食いしばり、額にうっすらと汗をにじませる。

「そ……それでも引き下がるわけにはいかねぇんだ!」

 ラウルはくるりと椅子をまわし、ジークに向き直った。机に片ひじをつき、長い脚をおもむろに組むと、じっと彼を見上げた。

「なぜそこまで魔導を学びたいと思う」

「……しょ、将来のためだ」

「嘘つきに用はない。帰れ」

 ラウルは再び机に向かうと、カルテ整理の続きを始めた。

 ジークは、頭から熱湯と冷水を一度に浴びせられたかのように感じた。慌てふためき、顔を紅潮させながら、再び訴えかけた。

「待ってくれ! あの、えっと……アンジェリカに勝ちてぇんだよ!!」

「おまえの青くさい理由につきあってやる義理はない。帰れ」

 ラウルは手を止めることもなく、冷たい拒絶の言葉を返すだけだった。

 ジークは怒りでさらに顔を赤くした。まるで無関心のラウルに、声を荒げて噛みつく。

「じゃあどんな理由だったらいいんだよ!!」

「やあ、ラウル」

 突然、聞き覚えのある声が割り込んだ。開き放たれたままの戸口から、サイファが顔を覗かせていた。

「ジーク君も。こんなところで会うとは奇遇だな」

 にこにこと人なつこい笑顔を振りまき、遠慮なく歩み入ってきた。ジークは驚きながらも、わずかに頭を下げた。

「何の用だ」

 ラウルは、笑顔の訪問者を思いきり睨みつけた。

「つれないな。たまには足を運べと言ったのはおまえだろう」

 サイファはおどけたようにそう言うと、立てかけてあった折り畳みパイプ椅子を広げ、ラウルとジークの間に腰を下ろした。ラウルはあからさまに不機嫌な様子で、さらに激しく睨みつけた。

「用もないのに来いとは言っていない」

 それでもサイファはまったく動じることはなかった。余裕の笑顔を崩すことなく、ラウルに向き直った。

「ホット二つ頼むよ」

「喫茶店に行け」

「おまえが淹れたコーヒーが飲みたいんだよ」

 サイファはにっこりと邪気なく笑いかけた。ラウルはため息をついて立ち上がり、奥の自室へと引っ込んでいった。


 あのラウルが、いいようにあしらわれている……。

 ジークはありえないものを見たような不思議な気持ちでいっぱいだった。目の前のことが信じられなかった。

「ジーク、君も座ったらどうだ」

「あ、はい」

 ジークもパイプ椅子を広げ、サイファの隣に座った。

「君はどうしてここへ?」

 サイファに問われて、ジークはぎくりとした。緊張で顔がこわばる。

「ラウルに個人的に指導をしてもらおうと思って……」

「ずいぶん思いきった決断だな。どういう心境の変化だ?」

 彼がラウルを嫌っていることは、サイファも知っていた。そんな嫌いな相手に教えを請うなど、よほどのことに違いない。そう考えるのは当然のことだろう。

「ア……アンジェリカに、どうしても勝ちたくて……」

 ジークはびくつきながらも正直に答えた。ラウル同様、サイファも嘘が通じる相手ではないと感じたからだ。だが、こんなことを言って気を悪くしないだろうか……。彼は不安で息が詰まりそうになった。

「そうか」

 サイファはそう言って笑った。

「君の気持ちはわかるよ。男として」

 ジークは安堵すると同時に、居たたまれない気持ちになった。まるで、自分の気持ちをすっかり見透かされているようである。しかし、この場から逃げることはできない。上気した顔を隠すように、深くうつむくだけだった。


 ガタン。

 ラウルがコーヒーカップをふたつ持って、奥から出てきた。

「飲んだらさっさと帰れ」

 ぶっきらぼうにそう言うと、机の上にカップを置いた。サイファはその片方をジークに差し出した。

 ふたつって、ひとつは俺の分だったのか……。

 彼は恐縮しつつ受け取った。なんてことはない、ごく普通のコーヒーのようだ。ラウルの淹れたコーヒーか、と奇妙な気分でひとくち飲んでみる。ぴくりと眉が動いた。意外にも、今まで飲んだどのコーヒーよりもおいしかった。

「ジークを教えることにしたんだって?」

 サイファはゆったりと目を閉じ、コーヒーの香りを楽しみながら尋ねた。ラウルはムッとしながら、椅子に身を投げた。

「引き受けた覚えはない」

「引き受ければいいだろう」

「私は暇ではない。軽く言うな」

 ラウルはこれ見よがしにカルテを手に取った。サイファは涼しい顔でコーヒーを口に運び、一息ついて彼を見上げた。

「医者はおまえひとりじゃない。それに、雑用くらいならジークが手伝ってくれるさ。ルナはもう少し長く預かってくれるよう、私からアルティナさんに頼んでおこう。他に何かあるか?」

 一気にそう言うと、勝ち誇ったようにニヤリと笑った。ラウルは、凍りついた瞳で、刺すように睨みつけた。それから、疲れたようにため息をつくと、カルテを机に投げ置いた。

「一ヶ月だけだ。それに試験対策はしない。完全な実戦訓練だ」

「なるほど。そうでなければ、他の生徒に対して不公平になると考えてだな」

 サイファは真面目な顔でうなずき、ジークに振り返った。

「どうする? この条件でやるか?」

「あ……はい! ありがとうございます!」

 ジークは座ったまま、大きく頭を下げた。

「行くぞ。早く支度をしろ」

 ラウルは立ち上がり、ジークを見下ろした。

「今からかよ?!」

「私が厳しいことくらい知っているだろう」

 ジークはさっそく後悔しそうになっていた。


「頑張れよ、ジーク」

 サイファはジークの肩をポンとたたいた。ジークはペコリと頭を下げた。

「いろいろとありがとうございました」

「暇があれば様子を見に行くよ」

 サイファはにっこり笑いかけると、ラウルに目を移した。

「アルティナさんには話をしておくよ」

 しかし、ラウルは返事をすることなく、サイファを睨みつけただけだった。それでも彼はまったく気にしていない様子だった。にっこりと笑顔を返すと、王宮の奥へと消えていった。


 ラウルは無言で歩き始めた。ジークもそのあとに続く。

「どこへ行くんだ?」

「来ればわかる」

 アカデミーへ入り、渡り廊下を渡りきると、白く四角い建物の前へやってきた。道場だ。魔導耐性に優れた、また物理的にも頑丈な建物である。通常、実際に魔導を使った訓練時に使用する。実戦訓練を行うと宣言したラウルがここを選んだのは当然だろう。

 入口の大きな南京錠を開け、ふたりは中へと足を踏み入れた。何もない真っ白なだけの四角い部屋。拠り所になるものが何もないせいか、不安定な気持ちになる。足元がふわふわとしているような感覚。異空間に来たような錯覚にさえ陥る。

「授業でも言ったことがあるが」

 大きく反響したラウルの声が、ジークを現実に引き戻した。

「魔導と身体能力は関係ないと思われがちだが、身体能力が低くては、実戦では使いものにならない」

 ジークは真剣なまなざしを彼に向けた。

「一対一の戦いでは言うまでもないが、後方支援の場合でも、相手に的確に対応するためには、判断力、瞬発力、動体視力、魔導力のどれが欠けても致命的だ。さらに戦いが長引けば、持久力がものをいう。魔導力が残っていても、体力がなくなれば、攻撃することも防御することもできない」

「ああ」

 ここまでは何度か授業でも聞いた話だった。

「腹筋 200回、背筋 100回、腕立て伏せ 200回、スクワット 100回、ランニング 50周」

「……は?」

 ジークはぽかんとして固まった。ラウルは腕を組み、冷たい視線を送った。

「やるのか、やらないのか」

「やるよ! やりゃいいんだろ!」

 ジークはむくれながら、ただっ広い部屋の真ん中で、ひとりさびしく腹筋を始めた。


「……50周! これで終わったぞ!」

 ぜいぜいと息をきらせながらそう叫ぶと、崩れるようにその場にへたり込んだ。白く冷たい床に、ぽたぽたと汗が流れ落ちる。情けなくへばった少年を、ラウルは冷ややかに見下ろした。

「時間がかかったな」

「るっせー。テメーがやってみろってんだ」

 両手両足を投げ出して仰向けになり、胸を大きく上下させながら真っ白な天井を見つめた。

「次は実戦形式だ」

 ジークはげほげほとむせた。

「今すぐかよ!」

 上体を起こし、すがるようにラウルを見上げる。彼は無表情で視線を返した。

「10分休憩。水分の補給をしておけ」

 感情なくそう言うと、大きな足どりで道場の外へ出ていった。ジークはほっとして息をついた。


 10分が経ち、ふたりは再び道場の中央で向かい合っていた。

「で、どうやるんだよ。実戦形式って」

 ジークは短い休憩で、すっかりやる気を取り戻していた。何よりも魔導を使えるのが嬉しかった。単なる体力づくりよりも、ずっと楽しい。

 ラウルは腕を組んで、まっすぐジークを見据えた。

「私を殺す気でかかって来い。一発でもかすめられたら、今日の訓練は終わりだ」

「願ったり叶ったりだぜ」

 ジークは不敵にニヤリと笑ってみせた。そして、即座に軽いステップで後方に下がり、ラウルとの間合いをとった。彼から目を離すことなく、短く呪文を唱え、両の手を向かい合わせる。すると瞬時に光が集まり、頭の大きさほどの光球になった。

「やぁっ!!」

 気合いを入れて叫び、ラウルに向けそれを放出した。

 しかし、すでに彼は前面に薄い結界を張っていた。

 ドッ――。

 光球が結界に衝突し、鈍い音を立てた。大気が激しく振動する。あたり一面に白煙が巻き上がった。

 ジークは間髪入れずに、次の呪文の詠唱に入った。顔前で両手を向かい合わせ、その間に光を集めていく。

「ぐあっ!!」

 突然、ジークは濁った悲鳴を上げ、吹き飛ばされるように後ろに倒れ込んだ。白煙の中から伸びた光の帯が、彼の左腕を直撃したのだ。焼けるような痛みが彼を襲う。袖が落ち、剥き出しになった上腕部は、真っ赤になり、さらに裂傷をも負っていた。ゆっくりと血が滴り、白い床に赤い点を描いていく。

「攻撃に気をとられ防御をおろそかにするなど、新入生レベルだな」

 次第に煙が晴れていき、その向こうからラウルが姿を現した。あきれ顔でジークを睨みつけている。

 ジークは言い返すことができなかった。ラウルの言うとおりだ。攻撃を当てることばかりに熱くなり、防御のことは完全に思考から抜け落ちていた。しかし、これで頭が冴えてきた。

「テメーも俺を殺すつもりってことか」

「自惚れるな。そのつもりなら、おまえなどとっくに死んでいる」

 ジークは勢いをつけて飛び起き、それと同時に炎を放った。不意打ちのつもりだったが、ラウルは慌てることなく結界を張り、それを防いだ。

 ――正面からじゃ、いくらやっても無理だな。

 ラウルを睨みつけたまま呪文を唱え、右手を前に突き出す。ジークの前面に、かすかに青みがかった結界が張られた。かなり厚い。向こう側が屈折して見える。

 ラウルは腕を組んだまま、無言で成り行きを眺めていた。

 ジークはさらに別の呪文を唱えると、右手を高く大きく掲げた。その手のひらの上で、白い煙をまとった光球が、次第に大きく育っていく。

「行けぇっ!!」

 腕を振り下ろし、頭の三倍ほどの大きさになった光球を前方に放った。

 ジュワッ!!

 水が焼けるような音と同時に、結界も光球も消滅し、その代わりにあたり一面、純白の濃霧で覆われた。

 ――今だ!

 ジークは全速力でラウルの背後にまわり込む。霧の海の上に、彼の焦茶色の頭がうっすらと見えた。こちらに気づいてはいないようだ。

 ――とれる!

 右手に小さな白い光を蓄え、ラウルに襲いかかるべく、身を屈めて飛び出した。

 ゴワッ!!

 奇妙な音がしたその瞬間、ジークは体中に激しい痛みを感じた。いつのまにか、後方の壁に叩きつけられていたのだ。

「うっ……」

 くぐもった声でうめき、壁からはがれるように、その場に倒れ伏した。起き上がろうとしても、わずかに顔を上げるのがやっとだ。頭を打ったために、軽い脳震盪を起こしているらしい。まぶたを震わせながらうっすらと片目を開けると、視界がぐらぐら揺れていた。

「防御をおろそかにするなと言ったはずだ」

 ラウルは腕を組んだまま振り返り、冷たく見下ろした。濃霧はすでにさっぱりと消えていた。

「今日はこれまでだな」

「バ……カやろう……俺は、まだ……」

 倒れたまま右手を上に向け、苦しそうにあえぎながら、小さな声で呪文を唱え始めた。光が集まりかけたその手のひらを、ラウルは上から踏みつけた。

「ぐあっ!」

「ドクターストップだ」

 感情のない声でそう言うと、ジークの体を肩に担ぎ上げた。

「あ……歩け、るっ……!」

「立てもしないくせにどうやって歩く」

「く……そっ……!」

 ジークは目の前の大きなラウルの背中に、こぶしを叩きつけた。だが、それは弱々しいものだった。そして、それきりぐったりとなった。


 苦しい……胸が……息ができな……い……。

 ジークはうっすらと目を開いた。ぼんやりとした彼の視界に、誰かの輪郭が映った。

 母さん……? アンジェリカ……?

 次第に焦点が合ってくる。ぼやけた人影から、次第にはっきりとした形が現れてきた。

「…………?!」

 ジークは驚いて目を見開いた。相手もくりくりした目をさらに丸くして、きょとんと彼を見つめている。ラウルの小さな娘・ルナだ。なぜか自分の胸の上に乗っかっていた。どうりで息苦しかったわけだ。

「動くな」

 ラウルはベッド脇でジークの脈を見ていた。ふいに振り向いた彼の口に、もう片方の手で体温計を突っ込んだ。

 ジークは体温計をくわえたまま、頭を左右に動かし周囲をうかがった。どうやらここはラウルの医務室らしい。あのまま気を失って、ベッドまで運んでこられたのだろう。

「異状なし」

 ラウルはカルテに何かを書き込むと、今度は体温計を引き抜いた。

「熱も平熱だな」

「おい、普通、ケガ人の上に赤ん坊を乗せるかよ」

「目の届くところはそこしかない」

 ラウルはしれっと言って、ルナを抱き上げた。ルナは嬉しそうに声をあげて笑い、ラウルの顔に小さな手を伸ばした。

「それにたいした怪我ではない。左腕の骨折以外は、浅い切り傷、軽い火傷、それに打撲程度だ」

「骨折?!」

 ジークは自分の左腕を見た。上腕部に白い包帯が丁寧に巻かれている。

「少しヒビが入っているだけだ。すぐに治るだろう」

「……これじゃ、当分、修業はお預けだな」

 ジークは天井を見つめ、沈んだ声でつぶやいた。ラウルは、そんな彼を、冷めた目で見下ろした。

「腕など使えなくても、いくらでもやることはある。それとも逃げ出すのか」

「いや……望むところだ」

 ラウルの挑発に、ジークはみるみる生気を取り戻した。挑むようにニッと口角を上げると、ぐっと右手を握りしめ、自分自身に気合いを入れた。

「道場でのことは覚えているか」

 ラウルに問われ、ジークの顔がとたんに曇った。横目ででラウルをうかがいながら、言葉を濁しつつ尋ねかけた。

「ああ、でも何で……っていうか何が……」

「おまえの浅知恵など、誰にでもわかる」

 ジークはムッとしたが、ここは大人しくこらえた。

「ごく簡単に言えば、あの結界は温水、それに冷気の塊をぶつけ、濃霧を発生させた。その霧に身を隠し、私の背後にまわり込む。空気より重い霧は次第に下がり、私の頭が真っ先に視界に現れる。そこを狙い、不意打ちを仕掛ける作戦だった。そんなところだろう」

「……」

 ジークはぐうの音も出なかった。ここまで完全に読まれているとは思わなかった。

「私は全方位に風を起こした。熱や氷では、おまえを死に至らしめてしまうからな。おまえは風に飛ばされ、壁に叩きつけられたということだ」

「全方位……」

 ジークは呆然としてつぶやいた。ラウルは簡単に言っているが、かなり非常識である。暴発ではなく、意図的にこんなことができる人物は、この国に数えるほどしかいないだろう。あらためてラウルの力量を見せつけられた。くやしいが、認めざるをえない。

 ラウルは、腕の中で動きまわるルナを抱え直した。

「家には連絡を入れておいた」

「たいしたケガじゃねぇのに、よけいなことを……って、もう朝か?!」

 ジークは慌てて飛び起き、再びあたりを見まわした。今まで意識してなかったが、確かにすっかり明るくなっていた。細く開いた窓からは、ひんやりとした新鮮な空気が入り込み、薄いカーテン越しの柔らかい光がのどかに揺れている。

「今ごろ気がついたのか」

 ラウルはため息まじりに言った。


「ジーク!!」

 すでに教室で自席についている彼のもとへ、リックとアンジェリカが走り寄ってきた。

「聞いたよ。ずいぶん思いきったね」

「言ったろ。手段は選ばねぇって」

 ジークはぶっきらぼうに返事をした。

「その腕、大丈夫なの? 軽いヒビって聞いたのに」

 三角巾で首から吊るされた腕を見て、アンジェリカは心配そうに覗き込んだ。

「ああ、たいしたことねぇよ。念のためっていうか、あいつが大袈裟なだけだ」

 ジークは左腕を軽く上げてアピールし、彼女を安心させるよう笑顔を作ってみせた。それでも、アンジェリカの不安は拭えなかった。

「でも初日からこれじゃ、あと一ヶ月も耐えられるの? 泊まり込みで修業なんて」

「……泊まり込み?」

 ジークは怪訝な表情で聞き返した。

「あれ? そう聞いたけど? はい、これ」

 横から口をはさんできたリックが、かさばる大きなリュックサックをジークに差し出した。ジークはますます怪訝に眉をひそめた。

「何だ?」

「おばさんから預かってきたんだよ。着替えだって言ってたけど」

「おい、どうなってんだよ。俺は泊まり込むなんて言ってねぇぞ!」

 そこまで言って、ジークははっとした。思いきり顔をしかめて舌打ちをする。

「アイツの仕業か」

 アンジェリカはその様子を眺めながら、わずかに顔を曇らせた。


「じゃあな」

 授業が終わると、ジークは元気いっぱいに、張り切ってラウルの後についていった。あれだけラウルを嫌っている人間とはとても思えない。

 アンジェリカは複雑な思いでふたりを見送った。次第に小さくなるふたつの後ろ姿を、ずっと目で追っていた。

「さ、帰ろっか」

 リックは優しく声を掛け、にっこりと微笑んだ。

「ええ」

 アンジェリカは虚ろに返事をし、うつむいて踵を返した。しかし、数歩進んだだけで、すぐにその足を止めた。

「どうしたの?」

「やっぱり私、お父さんのところに寄っていくわ」

 そう言って王宮の方を指さし、再び方向転換した。


「お父さん!」

「アンジェリカ?!」

 思いつめた表情で部屋に駆け込んできたアンジェリカに、サイファは驚いて立ち上がった。彼女が魔導省の塔まで訪ねてくることなど、今までなかったことだ。早足で歩み寄りながら、急く気持ちを抑えつつ尋ねる。

「どうした? 何かあったのか?」

「私に魔導を教えて! 厳しく鍛えてほしいの!」

 サイファは呆気にとられた。

「ジークはラウルのところに泊まり込んで、厳しい修業をしているの。このままじゃ、私、負けてしまうかも……」

「泊まり込んで?」

「ええ、そう。お父さんが忙しいのは知っているわ。だから、無理は言わない。休みの日とか、空いた時間だけでいいから。お願い!」

 アンジェリカは漆黒の大きな瞳で、真摯にサイファを見上げた。

「まいったな」

 彼は腰に手を当てうつむくと、困惑したように笑った。かわいい娘に厳しく指導することなど、自分にはできそうもない。いや、そもそも魔導を使っての戦いなど、本当はさせたくないのだ。しかし、引き受けるまで彼女は引き下がらないだろう。そういう頑固な性格だ。とりあえず、この場は承諾しておくしかない。

「わかったよ。厳しくとはいかないだろうけどね」

 アンジェリカの頭に手をのせると、にっこりと笑いかけた。彼女も安心したように、表情を緩めて笑った。

「うんと厳しくしてね!」

 無邪気にそう言うと、小走りで部屋を後にした。

 ――ジーク、君はずいぶんと大変な相手を選んだものだな。

 サイファは小さくふっと笑うと、椅子に身をしずめ、天井を仰いだ。


「50周! 終わった!」

 ジークは体を折り曲げ、はあはあと息をきらせた。

「座れ」

 ラウルに言われ、ジークは白く冷たい床に腰を下ろした。そして、目の前のラウルを見上げた。無表情で腕を組み、まっすぐに立っている。ただでさえ大きい彼が、よりいっそう大きく見えた。まさにそびえ立つといった表現がふさわしい。

 ジークは息を呑んだ。

「おまえの最大の弱点は精神面だ。魔導を扱う際の集中力が足りない。無駄が多く、うまく魔導力を高められていない」

 ラウルは顔を前に向けたまま、視線だけを落とした。ジークは彼と目が合うと、背筋に冷たいものが走った。思わず身震いをする。

 ラウルは目を閉じ、息をついた。

「感情にとらわれやすいのも問題だな。感情を高ぶらせることがあっても、常に冷静な部分を残しておかなければならない。感情に支配されるのではなく、感情を利用しろ」

 ジークは難しい顔で、彼を見上げた。

「……だから、どうすればいいんだよ」

「まずは瞑想で精神を鍛える」

「瞑想か……」

 ジークは苦虫を噛み潰したように、思いきり顔をしかめた。体を動かし魔導を使うことは楽しい。そのための勉強も嫌いではない。だが、瞑想だけはどうしても好きになれない。何もしない、何も考えないという状態が、どうにも耐えられないのだ。

「身体の緊張を弛め、雑念をなくし、眉間あたりに意識を集中させろ。あとはひたすらその状態を持続し、少しづつ高めていく」

「んなこと、わかってるよ!」

 ジークはその場であぐらをかき、背筋を伸ばして目を閉じた。

「……なぁ、何分くらいやるつもりなんだ?」

 三分と経たないうちに、ジークは口を開いた。

「雑念は捨てろ」

「……」

 ラウルの言葉により、ジークの心にさらなる雑念が沸き上がった。


 頭が……熱い……そうか、意識を集中させているから……ってか、痛っ!

 ジークははっとして目を開き、勢いよく頭を上げた。目の前には、はじきとばされるようにして尻もちをついたルナがいた。大きく澄んだ瞳を思いきり丸くして、ジークをじっと見つめている。彼女の小さな指には、ジークの髪が数本、絡みついていた。

「おまえの仕業か」

 ジークは軽くため息をついた。

「昼寝にしては遅すぎるな」

 頭上から重い声が降ってきた。

「うっ……」

 ジークはおそるおそる顔を上げた。仁王立ちのラウルが、無表情でこちらを見下ろしている。ジークの顔から血の気が引いた。

「瞑想と睡眠の違いはわかっているのか」

「悪かったよ! そんなイヤミな言い方しなくてもいいだろ!」

 そう突っかかりながらも、ばつが悪そうに顔を赤らめた。

 ラウルは、ジークの膝の上に這い上がろうとしていたルナを抱き上げた。

「状態としては、ふたつは非常に近い。違いは意識の集中があるかないか、それだけだ。だが、そこが肝心だ」

「やあ、ここにいたのか」

 入口からひょっこりサイファが姿を現した。右手を上げ、人なつこい笑顔を見せている。

「医務室にいなかったから探したよ」

「何をしに来た」

 軽い調子で入ってきたサイファを、ラウルは冷たく睨みつけた。

「仕事帰りに寄ってみただけだよ。ジークを泊まり込みで修業させると聞いたんで、どういう風の吹きまわしかと思ってね」

 サイファは、意味ありげにニッと笑ってラウルを見た。

「なんのことだ。そんなつもりはない」

 ラウルは素っ気なく答えた。しかし、ジークはこの言葉に驚いた。

「は? おまえが俺の母親に言ったんだろう? だから着替えまで用意して……」

「知らんな。私は、腕を骨折したこと、今夜はこちらに泊まらせること、一ヶ月修業することを伝えたまでだ」

 ジークはなんとなくわかった気がした。おそらく母親の方が勘違いをしたのだ。早とちりはレイラの得意技である。その結論にたどり着くと、思いきり脱力し、一気に疲労感が襲ってきた。

「まあ、今さら帰るのも何だし、今日は泊めてくれよ」

 ジークはぐったりした声で言った。しかし、ラウルの返事はつれないものだった。

「野宿でもしろ」

「なっ……! ユールベルは泊めてやったくせに、俺はダメなのかよ!」

「状況が違う」

 ラウルは冷たくあしらうと、ふいにサイファを見た。

「おまえのところに泊めてやれ。元はといえば、おまえが口出ししたのが原因だ」

「私は構わないが、どうだ? ジーク」

「えっ……」

 ジークは少し気が引けていた。何から何までサイファの世話になりっぱなしである。それに、アンジェリカに勝つための修業なのに、そのために彼女の家に泊めてもらうなど、何か間違ってはいないだろうか。

「遠慮はするな。ゲストルームはたくさんあるんだ」

 サイファは、迷いを見せるジークを後押しした。

「あ……はい……」

 ジークは流されるように、あいまいな返事をした。

「決まりだな」

 サイファはにっこりと笑った。


「様子を見にきてよかったよ」

 サイファとジークは、薄暗い廊下を並んで歩いていた。夜も遅いため、王宮内はすっかり静寂に包まれている。人の姿もほとんどなく、要所に見張りの衛兵が立っているくらいだ。

「そんなことだろうと思ったんだ。ラウルが君を泊めてやるなど、考えられなかったからね」

 ジークは怪訝な顔をサイファに向けた。

「いや、気を悪くしないでくれ。あいつが自分の部屋に招き入れるのは、よほど気を許した相手だけなんだよ」

 サイファは安心させるように、ジークの背中に手を置いた。

「まあ、ユールベルは別だろうけどね。彼女に関しては、ラウルも責任を感じていたようだし、そういう意味合いだろう」

 ジークは、サイファの端整な横顔を見つめた。

「サイファさんは?」

「ないよ」

 驚くくらい素っ気なく答えた。そして、それ以上、その話題を広げることはなかった。


「おはよう」

 アンジェリカがいつものようにダイニングに入ると、そこにはなぜかジークがいた。ものすごい勢いで、パンにかぶりついている。彼女は我が目を疑った。戸口で固まったまま、呆然としている。

「おう」

 口にものを入れたままで、ジークが声を掛けてきた。三角巾で吊った左手を軽く上げる。やはり、どう見てもジークである。

「どうして? どうしてジークがウチにいるの?」

「まあ、成り行きだ」

 アンジェリカは、不思議そうにぼうっと彼を見つめながら、その隣に座った。近くで見ても、やはりジークである。

 レイチェルは、紅茶をカップに注ぎながら、静かに言った。

「これから一ヶ月、ジークさんにはウチに泊まってもらうことにしたのよ」

「ええっ? ずっと?!」

「……嫌なのか?」

 ジークは手を止め、不安そうに尋ねた。

「そうじゃないけど……なんかヘンな感じ」

 アンジェリカは両手でほおづえをつくと、複雑な表情で頬をふくらませた。

「言っておくけど、私は負ける気ないから」

「俺だって!」

 レイチェルはそんなふたりを見ながら、くすくすと笑っていた。


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