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58. 弟

「二階の改修、完了しました」

 作業着姿の若い男が、帽子をとり、ひょっこりと顔をのぞかせた。その部屋では、三人がダイニングテーブルを囲み、静かに食事をとっていた。

「ご苦労さま」

 その中のひとり、ユリアは、微笑みを浮かべて立ち上がり、玄関まで彼を見送りに行った。残ったふたり、バルタスとその息子アンソニーは、黙々と食事を続けた。玄関からユリアの笑い声がかすかに聞こえた。

「アンソニー、あなたの部屋、二階に移してもいいわよ。行きたがっていたでしょう?」

 ユリアは戻ってくるなり上機嫌でそう言いながら席についた。

 アンソニーは、まだあどけない顔に、暗く思いつめた表情を浮かべ、沈むようにうつむいた。そして、手を止めると、重々しく口を開いた。

「二階にいた人は、どうなったんですか」

 ――ガシャン。

 ユリアはフォークを皿の上に取り落とした。顔から血の気が引いていた。手はわななき、視線は空を泳いでいる。その表情に浮かんでいたのは、明らかに怯えだった。

「……誰も、いなかったわよ」

 乾いた喉の奥から言葉を絞り出した。平静を装ったつもりだったが、その声はわずかに震えていた。

 バルタスは無反応だった。ユリアを気に掛ける素振りも見せず、無言で新聞を広げた。

 アンソニーは両親の態度に、ますます不信感を募らせた。顔に苦悩の色を浮かべると、ためらいながらも、心の中に秘めていた疑念を切り出した。

「あのとき、二階の部屋を壊して出てきた包帯の人……僕の姉なんじゃ……」

「黙りなさい」

 ユリアは冷たくピシャリと言い放ち、刺すように睨みつけた。

 アンソニーはびくりと体をこわばらせた。それでも母親の言いなりにはならなかった。おそるおそる言葉を紡いでいく。

「僕には、姉がいた。そんな記憶がかすかにあります」

「うるさい!!」

 彼女はまるで悲鳴のような叫び声をあげて立ち上がると、大きく手を振り上げ、アンソニーの頭をなぎ払った。彼の華奢な体は、吹っ飛ぶように椅子から転げ落ち、床に倒れ込んだ。

「いないったらいないのよ!!」

 ユリアは怒りまかせに机のへりにグラスを叩きつけ、次々と割っていった。バリン、ガシャン、と派手な音が部屋中に響いた。

 アンソニーは軽い脳震盪で起き上がることができないでいた。その上に、容赦なくガラスの破片が降り注いでいく。鋭利な破片のいくつかは、彼を切り、血をにじませた。

「うっ……」

 倒れ伏したままの少年から、わずかに苦悶のうめきが漏れた。

 ユリアはそれを耳にすると、はっと我にかえった。自分が起こした行動の結果を目の当たりにし、息をのんだ。

「く……うっ……!」

 喉を詰まらせたような唸り声を発すると、彼女は両手で顔を覆い、嗚咽を始めた。

「お願い……お願いだから、いい子でいて……! こんなことさせないで!!」

 膝から崩れ落ち、体を折り曲げ、背中を震わせる。

「あなたを愛しているわ。だから――」

 アンソニーは薄れゆく意識の中で、ぼんやりと母親の言葉を反芻した。

 バルタスの新聞をめくる音が、静まった部屋に響いた。


 外から聞こえる小鳥のさえずりが、気持ちを晴れやかにさせる。その日はそんな朝から始まった。


「行ってくるよ」

「行ってらっしゃい」

 レイチェルは愛くるしい笑顔でサイファを見上げた。彼は、薄桜色の頬に軽く口づけし、重い扉を押し開けた。

 ――ゴン。

 鈍い音と同時に、扉を開ける手に抵抗を感じた。向こう側で何かがぶつかったらしい。ふたりは顔を見合わせた。

 サイファは薄く開いた隙間から首を出し、用心しながら外を窺った。

「君は……!」

 そこには、額を押さえた少年がうずくまっていた。


「こんな朝早くに、お客さん?」

 二階から降りてきたアンジェリカは、来客用のティーカップにお茶を注ぐ母親を見て、不思議そうに尋ねた。

「ええ、ほら、早く行かないと遅れるわよ」

 レイチェルは動揺することなく答え、さりげなく会話をそらせた。アンジェリカは掛時計に目をやると、小さくあっと声を漏らした。

「行ってきます!」

「気をつけて」

「え?」

 玄関に向かおうと急いでいたアンジェリカは、思わず足を止め振り返った。気をつけて、という言葉に引っかかりを感じたのだ。普段はこんなことを言わないのに……。怪訝な顔で母親を見つめた。

「行ってらっしゃい」

 レイチェルはにっこりとして言い直した。アンジェリカは少しとまどっていたが、もう一度「行ってきます」と言い、玄関へ走っていった。


 レイチェルがサイファの書斎に入ると、少年はあわてて額の濡れタオルを取り、ソファから立ち上がった。

「すみません」

「いいえ」

 ペコリと頭を下げた少年に、レイチェルは穏やかに微笑みかけ、お茶を差し出した。そして、再び座るよう促した。

 サイファは、皮張りの柔らかい椅子に腰掛け、大きなデスクにひじをついた。ソファに座る少年をじっと見つめる。彼は行儀よく背筋をぴんと伸ばし、緊張した面持ちでサイファを窺っていた。

「念のため確認するが、バルタスの息子、アンソニーだな」

「はい。すみません、こんな時間に……」

 アンソニーは畏縮し、肩をすくませ小さくなった。

 サイファはにっこりと満面の笑みを浮かべた。

「おかげで仕事には遅刻だよ」

「すみません……」

「もう、サイファったら」

 レイチェルはサイファをたしなめた。彼女にはいたずら心からの言葉だとわかるが、この少年にはそのような余裕はないだろう。

 サイファは笑いながらすぐに撤回した。

「ごめんごめん、気にしてないよ。それより……」

 声のトーンが真剣なものに変わった。アンソニーはびくりとした。

「何か話があって来たのだろう?」

 サイファは、身をすくめる少年の瞳を探った。だが、アンソニーは無言でうろたえるばかりだった。覚悟も決まらないまま、ここに来てしまった。そして、この場でもまだ迷っていた。額にうっすら汗がにじんできた。

 レイチェルは、後ろから彼の肩に優しく手をのせた。

「緊張しなくてもいいのよ。それとも、私は出てましょうか?」

「いえ! いてください!」

 少年はあわてて振り返り、幼さの残る顔で、すがるようにレイチェルを見上げた。サイファとふたりきりにされては、ますます何も言えなくなってしまいそうだった。

「わかったわ」

 彼女はアンソニーの隣に腰を下ろし、覗き込むようにしてにっこりと笑いかけた。

 彼は再びうつむいた。固く口を結び、何かを懸命に考えているようだった。やがて、意を決したように顔を上げると、まっすぐサイファに目を向けた。

「僕は、真実を知りたいんです」

 サイファは冷静な表情で彼を見つめた。続きを促しているようだった。

 アンソニーはもう逃げなかった。サイファの視線を受け止め、しっかりとした口調で話し始める。

「一年前、僕の家の二階を壊して出てきた人がいるんです。誰なんですか? なぜあそこにいたんですか? もし、何か知っていたら教えてください。両親は何も話してくれません。でも、様子がおかしくて……何かを隠していると思うんです」

 一気にそれだけ話しきると、強い光を宿した瞳で訴えた。

 サイファはため息をつき、物憂げに遠くを見やると、噛みしめるように静かに言った。

「真実か……」

 そして、厳しい表情をアンソニーに向けた。

「真実は時として残酷なものだよ。知らない方が良かった、ということもあるかもしれない」

 隣で聞いていたレイチェルの表情に、一瞬、翳りが落ちた。

「君にはそれを受け止める覚悟があるか?」

 サイファは少年の瞳の奥に問いかけた。蛇に睨まれた蛙のように、アンソニーは身がすくんで動けなくなった。恐怖心が彼を呑み込む。喉はからからに乾燥し、手先足先は感覚をなくしていた。それでも、真実を知りたいという強い思いが、彼をつき動かした。膝にのせたこぶしをぎゅっと握りしめた。

「僕の家で起こったことだから……知らなければいけないんじゃないかって……」

「知ってどうする」

 ようやくの返答を即座に切り返され、今度こそ答えに窮した。うつむき、眉根にしわを寄せ、唇をきつく噛みしめた。膝にのせたこぶしは、小刻みに震えていた。何か答えなければ……そう思うものの、頭が真っ白になり、何も考えられなかった。

 サイファは紙とペンを取り、さらさらと走り書きをした。そして、それを二つに折ると、アンソニーに差し出した。

「君が探し求める人は、ここにいる」

 アンソニーは顔を上げ、きょとんとした。

「私がしてやれるのはここまでだ。あとは君次第だよ」

「ありがとうございます!」

 顔をぱっと輝かせ、デスクに走り寄った。サイファの手から紙切れを受け取ると、ペコリと頭を下げた。震える手でそっと紙を開く。そこには、どこかの住所が書かれていた。

「ひとつ言っておくが、そこは男子禁制だ。気をつけるんだぞ」

「男の子は入っちゃダメってことよ」

 目をぱちくりさせているアンソニーを見て、レイチェルがくすりと笑って付け加えた。

「アンソニー」

「はい」

 サイファの呼びかけに、アンソニーはしっかりと返事をした。

「両親とは仲良くやっているか」

 その質問に一瞬ぽかんとしたが、すぐににっこりと微笑んで見せた。

「はい、僕のことを愛してると言ってくれます」

「そうか」

 サイファもにっこりと微笑み返した。


「ユールベルっ!」

 寮の門をくぐろうとしていたユールベルは、無言で振り返った。それと同時に、呼びかけたターニャが、後ろから飛びつくように腕を絡ませてきた。からりと笑顔を弾けさせている。ユールベルもつられてかすかに口元を緩めた。

「今日はひとり? レオナルドは?」

 たいていは一緒にいるはずの彼がいないことに気がつき、ターニャはあたりを見回しながら尋ねた。ユールベルは前を向いたまま、ぽつりと言った。

「補習」

「補習っ?!」

 ターニャの声は裏返った。アカデミーで補習など、今まで聞いたことがなかった。

「進級がやばかったとか?」

「そうみたいね」

 ユールベルは淡々と答えた。

「じゃあさ、久しぶりにふたりでアイス食べに行こっか」

「あなた、本当にアイスクリームが好きね」

 ユールベルの声は、少し呆れたような調子だったが、ターニャは気にしなかった。断らなかったことを、肯定の返事と捉えた。

「決まりね! 鞄だけ置いてこよ!」

 明るく笑って強引に話を進めると、ふたりで腕を組んだまま門をくぐった。

 玄関ポーチに差しかかったところで、突然、脇の植え込みから何かが飛び出してきた。ふたりはとっさに飛び退いて、防御の姿勢をとった。

「だ、誰?!」

 ターニャが少しうろたえたように呼びかけた。

 それは、猫や犬ではなく、人間だった。まだあどけない顔の少年である。澄んだ青の瞳は、まるで疑うことを知らない子供のようだった。そして、細く柔らかい金髪には、いくつもの木の葉が絡みついている。植え込みのものだろう。

 ユールベルは息を止め、目を見開いた。

「君! 男の子は入ってきちゃダメなのよ。そんなところで何してたの」

 ターニャは叱るようにそう言った。

 しかし、少年の耳にはまるで届いていないようだった。彼はユールベルだけを見ていた。彼女に向かって、一歩、前に進み出る。

「僕は、アンソニー=ウィル=ラグランジェです。あなたは?」

 ユールベルは固まった表情のまま、何も答えなかった。

「あなたは、僕の姉ではないんですか?」

「……私に、家族はいない」

 こわばった口元から、小さな声を漏らした。

 アンソニーは、その答えに納得しなかった。

「僕は二階に行ってはいけないと、ずっと言われてきました。その二階を壊して出てきたのはあなただった。そのときのことは覚えています」

「知らない……」

「なぜなんですか? 何があったんですか? どうなっていたんですか?」

「やめて! 関係ないわ!」

 次々とに畳み掛けてくるアンソニーの勢いに、ユールベルは取り繕う余裕をなくした。おびえたように頭を抱え込み、小刻みに何度も横に振り続けた。

「待って、待って!」

 ターニャがふたりの間に割って入った。

「君たちの間に何があったか知らないけど、ここで言い争うのはまずいわ」

 ふたりの肩を軽く叩き、交互に目を見ると、ねっ、と同意を求め、落ち着かせた。

「君が必死なのはわかるけど……」

 そう言いながら、アンソニーを見てくすりと笑い、髪に絡みついた葉っぱを取ろうと手を伸ばした。

 そのとたん、彼は顔をこわばらせ、固く目をつぶり、肩をすくませ、体を硬直させた。

 ユールベルははっとした。

 ――まさか、この反応。

 どくんと強く心臓が打った。嫌な予感に、体中から汗がにじんだ。

「見せて!」

 短くそう言うと、唐突にアンソニーに掴みかかった。

「ちょっと、ユールベル?!」

 ターニャの制止も聞かず、ユールベルは乱暴に彼の上衣をまくり上げた。そして、あらわになった背中に目を落とす。

 ――やっぱり……!

 ぎゅっと服を掴んだ彼女の右手は、小刻みに震え出した。

「どう……して……あなたは幸せなはずだと……」

「これって、まさか……」

 ターニャは眉をひそめた。

 彼の背中や脇腹には、いくつかの古い傷跡、そして最近のものと思われる切り傷と打撲の痕があった。

 アンソニーは困惑して、上目づかいでふたりを見た。

「あの、これは……僕が良い子じゃなかったから……」

「違う! 良い子とか良い子じゃないとか……誰にもこんなことをする権利なんてない!」

 ユールベルは唇を噛みしめ、涙をにじませた。しかし、すぐに手の甲でそれを拭い、表情をキッと引き締めると、アンソニーの手を引き走り出した。

「どこ行くの?! ねぇ、ユールベルっ!」

「来ないで!」

 あとを追おうとするターニャを、強い語調で牽制すると、そのまま走り去って行った。


「どこへ行くんですか」

 不安がるアンソニーの質問にも答えず、ユールベルは彼の手を引き走り続けた。アカデミーを突っ切り、王宮へと駆け込んでいく。

「ラウル!」

 医務室の扉を開くなり、声の限りに叫んだ。そして、アンソニーを中へ押しやり、背中をまくって見せた。

「この子を助けて」

 真摯にまっすぐラウルを見つめる。

「そういうことか」

 彼はそれを見るなり、彼女の言わんとすることを悟った。机にひじをのせ、小さくため息をついた。

「その傷と打撲の手当てはする」

 ユールベルは眉をひそめた。彼は無表情で言葉を続けた。

「だが、それ以上のことは求めるな。サイファに頼め」

「いまさら、おじさまにどんな顔をして会えっていうの。あなたしかいないから、だから頼んでいるのに!」

「だったら、あきらめるんだな」

 ――パン!

 ユールベルは、彼の頬に大きく平手打ちをした。奥歯を噛みしめ、激しく睨みつける。

「勝手に助けたかと思えば、冷たく突き放したり……いつも勝手で気まぐれで……」

 唸るようにそう言うと、目に溢れんばかりの涙をため、浅い呼吸を繰り返す。

「やっぱりあなたなんて大嫌い!」

 精一杯の声で叫ぶと、大粒の涙をこぼしながら、もういちど平手打ちをした。ラウルはなすがままでそれを受け止めた。左頬にはわずかに赤みがさしていた。

 ユールベルはくるりと踵を返すと、アンソニーの手を引き、走って出ていった。


 ――どうしよう。

 ラウルの医務室から離れると、途方に暮れて壁を背に座り込み、ぐったりとうなだれた。

 アンソニーはその隣に膝をつき、心配そうに覗き込んだ。

「姉さん……」

「違う」

 彼女は否定した。しかし、アンソニーはそれを信じなかった。

「だって、僕のことでこんなに一生懸命になってくれている」

 ユールベルはさらに頭を沈めた。

「……あなたのことを憎んでさえいたのに……あなたひとり幸せだと……」

 アンソニーは当惑した。彼女の言うことがよくわからなかった。しかし、なんとか元気づけようと笑ってみせた。

「僕は大丈夫。怒られたのは僕が悪かったからなんです。母さんは僕を愛してくれているって」

「違うわ。愛していたら、そんなことはしない」

 ユールベルはゆっくりと静かに、だが、はっきりと言い切った。

 アンソニーの顔に怯えたような色が浮かんだ。彼も、今まで何の疑問も持たなかったわけではない。ただ、そう信じることで耐えてきたのだ。しかし、それも今、崩れ去ろうとしていた。

 ユールベルは彼をじっと見つめると、立ち上がり、その手を強く握った。


「おじさま……」

 ユールベルはおそるおそる扉を開けた。魔導省の塔、最上階の一室にあるサイファの部屋。広くはないが、整然と片付けられている。その奥に彼は座っていた。訪問者に気がつくと、立ち上がって出迎えた。

「やあ、ユールベル。久しぶりだね。アンソニーも一緒か」

 サイファの、以前と少しも変わらない笑顔に、ユールベルの胸は締めつけられた。アンソニーはぎこちなくおじぎをした。今朝、押し掛けたばかりのサイファに、成り行きとはいえ再び助けを求めることになってしまい、アンソニーはばつの悪さを感じていた。

「私が今さらおじさまに会わす顔なんてないってことは、わかっているわ」

 ユールベルはうつむき、つらそうに顔を歪ませた。

「でも、この子を助けてほしくて……この子は私と同じなの!」

 必死にそう訴えかけると、再度アンソニーの上衣をまくって背中を見せた。

 サイファは驚いたように目を見開いた。

「まさか……」

 思わずそんな言葉が口をついた。今まで少しも気がつかなかった。彼とは滅多に顔を会わすことはないが、少なくとも今朝は対面して話もした。両親のことも尋ねた。それなのに気づけなかったのは、不覚といわざるをえない。

「あの、これは、僕が言うことをきかなかったからで……」

「そんなの関係ないって言ってるでしょう?!」

 ユールベルは涙声で叫んだ。

 サイファは片膝をつき、アンソニーの小さな肩に手をのせた。そして、まっすぐに彼と視線を合わせた。

「母親につけられた傷なんだな?」

「……はい」

 アンソニーはとまどいながらも、わずかに頷いた。

「おじさま……」

 ユールベルはすがるようにサイファを見つめた。彼女にとって、頼る人はもう彼しかいない。断られたら――そう思うと怖くてたまらなかった。

 サイファは立ち上がり、腕を組むと、ゆっくりと彼女に顔を向けた。

「君が、守るんだ」

「え……?」

「アンソニーが家を出る。君が寮を出る。そして君たちがふたりで暮らす」

「えっ?!」

「ユールベルがアカデミーに行っている間は、そうだな、アンソニー、君も学校へ通うか。なに、生活費の心配はいらないよ。両親にきっちりと出させるからね」

 サイファは大きくにっこりと笑いかけた。

 呆気にとられていたユールベルは、我にかえると必死で訴えた。

「無理! そんなのできないわ!! 私がこの子の面倒を見るなんて!!」

 目をきつくつぶり、首を大きく横に振った。

 サイファは彼女の頬を両手で包み込み、自分に顔を向けさせた。真剣な表情で、彼女の瞳を覗き込む。

「私もできうる限りの助力はする。しかし、彼を守ってやれるのは君しかいないんだよ、ユールベル」

 頬から沁み入る優しい温もりが、彼女の心を落ち着けた。少し考えたあと、静かに尋ねた。

「私ができないって言ったら、どうなるの?」

「施設へ預けることになるだろう」

「…………」

 その方が彼のために良いのではないか、ユールベルはそう考え始めていた。何もできない自分よりも、施設の方が適切にケアをしてくれるはず……。

「あの、僕は、どうしても家を出なくてはいけないんだったら、施設へ行くよりも、姉さんと暮らしたい」

 横からアンソニーがおずおずと話しかけてきた。ユールベルは表情を凍らせた。

「私に家族はいないわ。何度言わせるの」

「あなたが姉でないというなら、それでもいいです。でも、僕は、あなたといたいです」

 まっすぐに自分を見つめてくる、まっすぐなアンソニーの言葉に、ユールベルは押しつぶされそうだった。

「……どうして……今日、会ったばかりじゃない……」

 うわ言のようにつぶやいた。

 アンソニーは無邪気な顔で笑った。

「僕のことにこんなに一生懸命になってくれている。だから、姉さんはいい人に違いないです」

 ユールベルは、一瞬、言葉をなくした。

「……バカよ。どこまでお人好しなのよ。なんにも知らないくせに……。それに私は姉さんじゃないって……」

 そこで言葉が途切れた。そして、うっと小さくうめき声をあげたかと思うと、両手に顔をうずめ、泣き崩れた。サイファは彼女の前に膝をつき、震える細い両肩に手をのせた。

「ユールベル、君ならできるよ。君は優しくて強い子だ」

「おじさまっ!!」

 ユールベルはサイファにすがりついて泣いた。まるで子供のように、大声をあげて泣きじゃくった。サイファは彼女を優しく撫でた。


 やがて、ユールベルは泣き疲れ、次第にすすり泣きへと変わっていった。その間、サイファはずっと彼女を支え、頭を抱いていた。

「何かあったら、些細なことでも、遠慮なく相談しにおいで。アンソニー、君もだ」

 ユールベルは彼の腕の中で小さくうなずいた。アンソニーも、その隣でこくりと頷いた。

「私、おじさまの子供に生まれてきたかった」

「父親と思ってくれて構わないよ」

 ユールベルは涙が止まらなかった。


 大きな窓の外では、紅の空に沈みゆく斜陽が、一筋の輝きを放っていた。それは、部屋の中にも差し込み、三人の姿を赤く照らすと、長い長い影を作った。


「あ……」

 ジークは小さく声をあげ、足を止めた。アンジェリカとリックには、すぐにその理由がわかった。

「久しぶりに嫌なヤツに会っちまったぜ」

 ジークは、思いきりしかめた顔を、相手に見せつけた。

「それはこっちのセリフだ」

 向かいから歩いてきたレオナルドも、同じく顔をしかめて言い返した。隣のユールベルは、無表情で三人を見ていた。

「おまえが同学年でなくてつくづく良かったぜ。毎日、顔を会わすなんて反吐が出る」

 ジークは虫の居所が悪いのか、いつになく突っかかり毒づいた。レオナルドも負けじと応戦する。

「同感だ。せいぜい留年しないよう気をつけてくれよ」

「あら、知らないの?」

 アンジェリカが割り込んだ。

「ジークは、こう見えても優秀なのよ。意外と真面目だし。心配しなくても留年なんてしないわよ」

 ジークは複雑な顔で腕を組んだ。

「おまえ……フォローはありがてぇけど、その言い方、なんか引っかかる……」

「え? なにが?」

 彼女に他意はないようだった。


「ねぇさーん!!」

 アンジェリカよりもやや小さいくらいの少年が、大きく手を振り玄関から入ってきた。そして、ユールベルのもとへ走り寄った。

「勝手に入ってきちゃダメって言ってるじゃない」

「じゃあ早く帰ろう」

 少年は、にこにこしながら彼女の手を引いた。

「それに姉さんて呼ぶのはやめてって」

「だって、姉さんは姉さんだし」

 そんな会話をしながら、ふたりは外へ出ていった。

「弟……いたの?」

 呆気にとられていたリックが、アンジェリカに振り向いて尋ねた。

「あの子、見たことある気はするけど……」

 彼女も驚いていたようだった。

「なんだ、テメーは一緒に帰らねぇのかよ。弟にとられたか」

 ジークはレオナルドを意地悪くからかった。彼はムッとして睨みつけた。

「バカを言うな。俺は……他の用があるだけだ」

「おーい!」

 ターニャが廊下の向こうから、手を振ってやってきた。そして、あたりを見回しながら尋ねた。

「ユールベルは?」

 レオナルドはむっとしたまま、親指で外を指した。その方向に目をやると、ユールベルの後ろ姿が遠くに小さく見えた。ちょうどアンソニーに手を引かれて門を出るところだった。

「あーもう。せっかく一緒に帰ろうと思ったのに。せっかちだなぁ、弟クンは」

「どうなっているの?」

 アンジェリカはターニャを見上げた。

「ああ、君たちは知らなかったんだっけ。ユールベルは寮を出て、弟と一緒に住んでるのよ」

「えぇっ?!」

「どうして?」

「大丈夫なのかよ!」

 三人は口々に尋ねた。ターニャはくすりと笑った。

「詳しいいきさつは聞いてないけどね。でも元気にやってるわよ。寮のすぐ近くだから、ウチの寮母さんがまめに面倒を見に行ってるみたいだし、私たちもしょっちゅう遊びに行ってるから」

 そう言うと、ふと表情を和らげた。

「私はさびしくなったけど、あの子にとっては良かったんじゃないかなって思う。表情が明るくなったもの」

「自分の気持ちを押しつけるだけじゃ、ダメだったってことだな」

 ジークはあさっての方を向き、とぼけた調子でしれっと言った。誰とは言わなかったが、レオナルドのことを指しているのは明らかだった。彼は耳元を赤らめ、奥歯を軋ませると、ジークをキッと睨みつけた。しかし、返す言葉はなかった。

 ターニャはふいにレオナルドに振り返った。

「そういえば、こんなところでのんびりしてていいの? 君、補習でしょ?」

「……補習?!」

 三人はいっせいに声をあげ、レオナルドを見た。彼は思いきり狼狽し、ますます顔を上気させると、逃げるように走り去っていった。


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