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45. 一ヶ月

 煌々としたした蛍光灯の下。レイチェル、サイファ、ジークは、長椅子に並んで座り、祈るようにガラス越しのアンジェリカを見守っていた。彼女はまだ一度も目を覚ましていない。

 サイファは腕時計をちらりと見た。

 隣のジークも、つられるように掛け時計に目を走らせた。そのとき初めて朝になっていたことに気がついた。窓のないこの部屋では、時間を感じる術はない。いつもならそろそろ家を出ようかという時間。だが、まるで実感がない。当たり前の日常が、遠い昔のことのように思える。

「レイチェルを頼む」

 ぼんやりしていたジークの耳もとで、サイファがささやいた。

 ジークは我にかえり、小さく「え?」と聞き返したが、それと同時に彼は立ち上がり、出ていってしまった。

 こんなときに……。

 ジークは冷たく遠ざかる靴音を聞きながら、わずかに顔をしかめた。

「サイファは自分のやるべきことがわかっているのよ」

 長椅子の端に座っていたレイチェルが、にっこり笑いかけてきた。まるで心を見透かされているような言葉。ジークはとまどいながら目を伏せた。

「そう、ですよね」

 彼女が正しい、サイファが正しい。そんなことはすぐにわかった。感情論だけでは何も解決しない。一瞬でもサイファを責めてしまった自分は、アンジェリカのために何ができるというのか。情けなさに顔を歪め、深くうなだれる。

「俺には……ここにいることしかできない」

 責められるべきは自分だ。膝の上で握りしめたこぶしが、小刻みに震えた。

「私もよ」

 レイチェルも短い言葉で同調した。

 ジークははっとして顔を上げた。あまりに声が沈んでいたので驚いたのだ。だが、声だけではなかった。疲れきった表情、血の気のない真っ白な顔。今にも倒れそうに見えた。

「レイチェルさん……少し、休んだ方がいいですよ」

 ジークが心配そうに声を掛けると、彼女は急に笑顔を取りつくろった。

「私はまだ平気です。ジークさんこそ休んでください」

 努めて明るく返事をしたが、やはり疲れは隠せない。声にいつもの張りがなかった。

「……毛布か何か、もらってきます」

 ジークは微かに笑みを見せると立ち上がった。


「ジーク!」

 大きな声、大きな足音とともに、リックが緊急医療室に駆け込んできた。

「シッ! 声でけぇよ! ようやく寝たんだ」

 ジークは人さし指を口の前に当て、声をひそめてたしなめた。

 彼の肩には、毛布を羽織ったレイチェルが寄りかかり、静かに寝息を立てていた。

「あ、ごめん」

 リックも声をひそめて謝ると、長椅子に腰を下ろした。ガラス窓の向こうに目を向ける。そこには、酸素吸入マスクや点滴、検査用の器具をつけたアンジェリカが横たわっていた。

「アンジェリカ、どうなの?」

「まだ一度も目を覚ましてねぇ」

 ジークは暗く沈んだ声で返答した。彼女を見つめながら、苦しげに目を細める。

「でも大丈夫さ、あいつなら、きっと……」

 自分に言い聞かせるようなジークの言葉に、リックも無言で力強く頷いた。

 ジークは、肩に寄りかかるレイチェルに、同意を求めるような気持ちで視線を送った。だが、血の気のない顔をした彼女を見ていると、自分が彼女を安心させるくらいでないといけないと思い直した。


 コンコン――。

 急かすようなノックのあと、返事を待たず、即座に扉が開かれた。サイファがあたりを見渡しながら医務室に入ってきた。

「ユールベルは?」

「奥だ」

 机でカルテを眺めていたラウルは、そのままの姿勢で親指を立て、肩ごしに後ろを示した。

 サイファは無言で歩み寄り、隣の丸椅子に腰掛けた。

「入寮の件だが、やはり頼んでも無理だった。アカデミーは平等でなければならないという原則がある以上、特別扱いはできないそうだ」

 ラウルは机に向かったまま、小さくため息をついた。

「能書きはいい。それで引き下がったわけではないんだろう」

 サイファはわずかに口の端を上げた。

「彼女の住民票を遠隔地に移すことにした。移す先は知り合いに頼んで、すでに快諾を得ている。あとは手続きだけだ。役人たちは嫌な顔をしていたが、拒否することもできないだろう」

「明日には入寮できるんだな」

「いや……」

 歯切れの悪いサイファの返事に、ラウルは初めて顔を上げた。

「一ヶ月たたないと、空きがないらしい」

「一ヶ月か」

 ラウルは続けて何かを言おうとしたが、サイファがすばやくそれを遮った。

「安心しろ。事情を話して相談したら、その間は、寮長さんが個人的に預かってくれることになった」

 ラウルは腕を組み、静かに考え始めた。

「他に方法はないだろう」

 いつになく悩む彼を見て、サイファは後押しするように付け加えた。すると、ラウルは急に立ち上がり、何も言わず奥の部屋へと消えていった。


「いやっ! 私を見捨てないで! ここにいさせて!」

 話を聞いたユールベルは、泣きじゃくりながらラウルに縋り付いた。彼の上衣を引きちぎらんばかりにきつく握り、顔をうずめ、細い肩を大きく上下させている。ラウルはそんな彼女の様子を、ただ黙って見下ろしていた。

 ユールベルはしばらく嗚咽を続けていたが、やがてすすり泣きへと変わっていった。

「おね……がい……」

 下を向いたまま、泣き疲れた声で、無反応のラウルに最後の哀願をする。もう声も出す力も残っていない。

 ラウルはようやく口を開いた。

「一ヶ月だけだ。そのあとは寮へ入れ。それ以上の我が侭は聞かない」

 ユールベルはおそるおそる顔を上げた。いつもと同じ、感情のない厳しい顔。考えの読めない顔。急に受け入れる気になったのは、憐憫からだろうか。だが、理由などどうでもよかった。小さくこくんと頷いた。


 ラウルが医務室に戻ると、サイファはカルテを手に取り眺めていた。机の上に置きっぱなしにしていたアンジェリカのものだ。ラウルは背後からそれを取り上げた。

「それで?」

 サイファは何事もなかったかのように振り返り、短く尋ねた。

 ラウルは机の上にカルテを投げ置くと、その場で腕を組んだ。

「一ヶ月、私が預かる。そのあと寮へ入れる」

 サイファは目を見開いてラウルを見上げた。

「何を考えている」

 椅子から立ち上がり、厳しく問いつめるように彼を睨んだ。

 しかし、ラウルは平然としていた。

「ユールベルが了承しなかった。こうするしかない」

 それでもサイファは納得できないでいた。眉をひそめ、ためらいがちに口を開く。

「……彼女は、15歳だったな」

「それがどうした」

 ラウルは冷たく睨み返した。

 しかし、サイファは怯むことなく、真正面からそれを受け止めた。

「入院ということにしておく」

 事務的な口調でそう言うと、背を向け戸口へと歩いていった。扉に手を掛けたところで、顔だけわずかに振り返った。腕を組んだままのラウルに視線を流す。

「昨日のことも問題になっている。これ以上、騒ぎが大きくなると庇いきれない」

 淡々と忠告を残し、サイファは医務室をあとにした。


 ラウルはいったん部屋に戻って着替えると、ユールベルを残したまま外へ出て行った。アンジェリカの治療のためなのか、アカデミーの仕事のためなのか、ユールベルにはわからなかった。

 彼女は一日中、ソファの上で膝を抱えていた。用意されていた食事にも手をつけなかった。


 夜もだいぶ更けてきた頃、ようやくラウルが戻ってきた。じっと座ったままのユールベルに、冷たい一瞥を送る。そのまま、何も言わずに寝室へ入っていった。

 ユールベルは声を掛けてくれることを期待していた。だが、それは叶わなかった。そんなことを期待した自分が情けなく思えた。ただ、憐れんで置いてくれただけなのに――抱えた膝に顔を埋め、小さくなる。

「おまえはそこで寝ろ」

 背後から声が聞こえた。ラウルが寝室から毛布を持って戻ってきていた。驚いて振り返ったユールベルに、その毛布を投げてよこした。

 ユールベルはそれをそっと抱きしめた。あたたかかった。少し、泣きそうになった。

 バタン、と扉を閉める音がした。

 ユールベルは思わず振り返った。彼の後ろ姿を目で追った。しかし、もう振り返ってはくれなかった。彼はリビングの明かりを消し、書斎へと入っていった。扉の隙間から細い光が漏れる。暗い部屋の片隅で、ユールベルはぼんやりとその光を見ていた。


 それから数時間が過ぎた。

 ユールベルはまだ眠っていなかった。いや、眠れなかった。ソファの上で毛布にくるまり、あいかわらず膝を抱えている。


 ガチャッ――。

 書斎の扉が開き、中からラウルが出てきた。そして、すぐに隣の寝室に入っていった。ユールベルのことなどまったく気に掛けていないようだ。寝室の明かりは、いったんついて、すぐに消えた。

 ユールベルは自分の肩を抱きしめながら、膝に顔をうずめた。

 音も光もない世界、ひとりぼっちの私。何も変わらない……。

 彼女は耐えきれなくなって立ち上がった。毛布を抱え、寝室の扉をそっと開く。

 暗い中、ラウルはベッドの上にいた。しかし、眠ってはいなかった。頭の後ろで手を組み、天井を見つめている。

 ユールベルは目を細め、毛布をぎゅっと強く抱きしめた。足音を立てないように、そっと近づく。毛布を引きずるこもった音だけが奇妙に広がる。ラウルは彼女に気付いていないわけではなかったが、彼女に顔を向けることはなかった。ずっと天井を見つめたまま、まったく動かない。

 ユールベルは毛布を落とし、おずおずとベッドへ入り込んだ。大きな体の隣で、小さく体を丸める。

「寝るときくらい包帯をとったらどうだ」

 ふいに、思いがけない言葉が降ってきた。目が熱くなり、鼻の奥がつんとした。頭を彼の脇腹にそっと寄せる。ラウルは片手で彼女の包帯をほどいた。


 7日が経った。

 アンジェリカはまだ目を覚ましていなかった。しかし、もう峠は越えている。緊急医療室から一般病室へ移されていた。

 ジークとリックは、アカデミーが終わると、毎日様子を見に来ていた。もちろん今日も来ている。レイチェルとともに、白いパイプベッドを囲んで座っていた。その中央で、小さな体を横たえ、アンジェリカは静かに目を閉じている。まだ点滴は受けているが、酸素吸入マスクはすでに外されていた。本当にただ眠っているようにしか見えない。

 ガラガラ――。

 勢いよく扉が開き、ラウルが入ってきた。彼はジークたちを下がらせると、慣れた手つきで点滴パックの交換を始めた。

「先日の検査でも異状はなかった。原因はやはり心的なものだろう」

 手を動かしながら、淡々と結果報告をする。

「目を覚ますのを待つしかないってことね」

 レイチェルは冷静に受け止めた。

 ジークとリックはうつむいて陰を落とした。以前にもこんなことが何度かあったと、サイファから聞いたことがある。だが、一週間も目覚めないのは今回が初めてではないか。

「暗くならないで」

 ふたりの様子を察知したレイチェルが、声を掛けてきた。

「怪我が原因でないのなら、きっといつか目覚めてくれるわ。この子はそんなに弱くないもの」

 そう言って、にっこり笑ってみせた。

 ふたりは驚いてレイチェルを見た。そして、つられるように、少しぎこちなく笑った。ジークは彼女の強さを、心底うらやましく思った。

「おまえたち、最近、課題の提出率が悪いぞ」

 ラウルの低い声が、穏やかな雰囲気を壊した。

 ジークはムッとして眉間にしわを寄せた。

「おまえだって、最近、自習が多いじゃねぇか」

 怒りまかせに、ついそう言い返したが、言ったとたんに後悔した。それはすべてアンジェリカの診察のためである。そんなことはわかっていたはずだった。

 レイチェルは申しわけなさそうに目を伏せた。そんな彼女を見て、ジークはますます強く後悔した。

「あ、でも、みんな自習で喜んでるし」

 リックは慌てて取り繕おうとした。しかし、あまりフォローにはなっていない。病室がしんと静まり返った。

「あしたは提出しろ」

 ジークたちの言葉は無視し、端的に要求のみを告げると、ラウルは病室をあとにした。

「課題、ここでなさって」

 レイチェルはにっこり微笑みかけた。とまどうふたりに畳み掛ける。

「たくさんあるのでしょう?」

「でも……」

 ジークは口ごもりながら、眠ったままのアンジェリカをちらりと見た。

「机もあることだし、じっとしているだけなら、ここで課題をやったほうがいいでしょう? アンジェリカも、ジークさんたちに負けられないって、目を覚ますかもしれないわ」

 同意を求めるようにちょこんと首を傾けると、屈託なく笑ってみせた。少なくとも、ふたりにはそう見えた。

 ジークは彼女の明るさに救われた思いだった。


「今日の分だ」

 ラウルは、部屋の隅に座るユールベルの前に、プリントの束をバサリと投げ置いた。そして、ソファに腰を下ろし、ゆったりと背もたれに身を預けると、彼女をじっと見下ろした。

「少しはやっているのか」

 ユールベルは膝を抱えてうつむき、固い顔で首を横に振った。

「アカデミー、やめようかしら」

「駄目だ」

 ぽつりと落とされたかぼそい言葉を、ラウルは間髪入れずはねつけた。

「どうして」

 ユールベルは顔を上げ、苦しげに目を細めた。

 それでも彼はまったく表情を変えない。

「寮に入れなくなる」

 そんな何の温度も感じさせない言葉を返すだけだった。

 ユールベルは泣き出すのをこらえるように顔を歪めた。

「……ずっとここにいたい」

 震える声で訴えかける。

「私には私の都合がある」

 ラウルは冷たく突き放すように答えた。

「お願い、何でもするから」

 ユールベルは揺れる瞳で、すがるように食い下がる。

「駄目だ」

 取りつく島もなかった。再びうつむき、膝に顔をうずめる。

「もう、アカデミーにいる意味なんてないのに」

「復讐だったのか」

 ラウルはソファにもたれかかり、顎を上げ、小さくなった彼女を冷ややかに見下ろした。だが、彼の口調からは、見下した気持ちや、責める意味合いは感じられなかった。

「……わからない。アンジェリカがいるって知って、私も行かなければって思ったの。何がしたかったのか、自分でもわからない」

 ユールベルは膝から少し顔を離すと、記憶をたどるように言葉を紡いでいった。

「でも、アカデミーで楽しそうに笑うアンジェリカを見たとき、思ったのよ」

 膝を抱える手を震わせ、指が食い込まんばかりに力を込めた。

「うらやましい、くやしい、憎い、って」

 強く、静かに言葉を並べた。昂る感情を、喉の奥で抑え込んでいた。

「それで復讐か」

 ラウルの声のトーンは、先ほどとまったく変わっていなかった。

「……そう、かもしれない……わからない」

 ユールベルは下を向いたまま、眉根を寄せた。

 それきり、ふたりの会話は途切れた。

 音のない空間、動かないふたり。時間の感覚さえ失われていく。

 どれくらいの間、そうしていただろう。長かったかもしれないし、短かったかもしれない。

 ユールベルはそろりと立ち上がり、静かにラウルの元へ歩いていった。真正面からじっと見つめながら、地べたに足を放り投げて座り込んだ。

 ラウルはソファに大きくもたれかかったまま、両脚の間の彼女に目を落とした。

「私、まだ言っていないことがある」

 ユールベルは、一度ゆっくりと目を伏せてから、再び視線を上げた。

「……アンジェリカに、嘘をついたの。私が閉じ込められていた理由」

 怯えるように瞳が震える。それでも、逃げずにラウルと向かい合った。

「あなたのせいだ……って。あなたの犠牲になったんだって責めたわ」

「そうか」

 ラウルは聞き返すこともなく、ただそれだけ言った。

 しかし、ユールベルはまだ何か言いたそうにしていた。苦しそうに目を細める。

「それに、もしかしたら……」

 彼女はためらいながら言葉を続けた。

「アンジェリカが階段を踏み外すように、私が追いつめたのかもしれない。そういう気持ちがあったのかもしれない。やっぱり私のせいなのかもしれない」

 そこまで言うと、首を深く曲げうつむいた。横髪が肩から落ち、顔に陰を作る。

「なぜ私に言う。サイファに話すかもしれないぞ」

「……苦しかったから」

 ユールベルは消え入りそうな声でそう言った。


 8日目。

 授業が終わり、ジークはいつものように病室へ走ってきた。勢いよくガラガラと扉を開け、中に飛び込む。

「こんにちは。今日はリックは来られなくて……」

 そこまで言って気がついた。レイチェルの向こうに見覚えのない人が座っている。流れる長い銀の髪に白い肌。そして、強い目元に凛とした強さを感じさせる、きれいな女の人だ。レイチェルよりも年上に見えるが、彼女が若く見えることを考えると、実際は同じくらいなのかもしれない。

「この子がジーク君? 想像どおりだわ」

 彼女は身を乗り出し、興味深げにジークを観察した。

「え……と」

 ジークは困惑したようにレイチェルに目を向け、助けを求めた。彼女はにっこり微笑んだ。

「こちらは……」

「アルティナよ。レイチェルの仕事仲間ってところね。よろしく」

 銀髪の女性は、紹介される前に自ら名乗った。そして、立ち上がってすっと前に出ると、ジークに右手を差し出した。身の丈はジークと同じくらいある。女性にしてはかなり高い。

「よろしくお願いします……」

 彼女の勢いに押されつつ、ジークも右手を差し出し、握手を交わした。

「レイチェルからキミの話をよく聞いていて、いつか会いたいと思っていたのよね」

 アルティナと名乗った女性は、嬉々としてそう言った。レイチェルも後ろでにこにこ笑っている。

 ジークはなんとなく居たたまれないような気持ちになった。いったい自分について、どんな話をしていたのだろうか。気になって仕方がなかったが、尋ねることはできなかった。

 コンコン。

 その音に三人は振り向いた。

 そこにいたのはラウルだった。全開になったままの扉をノックし、戸口に立っていた。その後ろには、白い人影が見え隠れする。ユールベルだ。ジークは驚いて声も出なかった。

「すまないが、アンジェリカと話をさせてやってほしい」

 ラウルは目線で後ろのユールベルを指し示した。さすがのレイチェルも動揺を隠せない。視線を泳がせ、返答に困っている。

「私がついている。心配するな」

 彼女の不安を察し、ラウルはそう付け加えた。

 レイチェルはしばらく彼を見つめると、ふっと表情を緩めた。

「私たちは外で待っていればいいのね」

「レイチェル!」

 アルティナは長い銀髪を振り乱して振り向いた。

 しかし、レイチェルはにっこり笑って受け止めた。

「出ましょう。ジークさんも」

 うつむいて顔をしかめるジークに、レイチェルは明るく声を掛けた。アンジェリカに優しい笑顔を向けると、腰を上げ、病室を出ていく。彼女に続き、アルティナとジークもしぶしぶ戸口へ向かった。

 ジークはラウルを思いきり睨みつけた。しかし、前を歩いていたアルティナの行動は、もっとわかりやすかった。前を向いたまま、すれ違いざまにこぶしを一発、彼の脇腹に勢いよくねじ込んだ。

「無神経」

 小さな声でそうつぶやくと、腕を引っ込め、何事もなかったかのように歩いていった。ラウルも眉ひとつ動かさず、何事もなかったかのように平然としている。

 ジークは睨むことも忘れ、呆然とその光景を目にしていた。あのラウルにこんなことができる人間がいるなど信じられなかった。

「ジーク!」

 アルティナの不機嫌な声に呼ばれ、ジークは我にかえった。慌てながら小走りで外へ出た。すれ違いぎわ、ちらりと横を見ると、ユールベルが顔を背けてうつむいているのが見えた。頭の後ろで結ばれた白い包帯が、微かに揺れていた。

 ラウルが彼女の華奢な背中を押し、ふたりで中に入ると扉が閉められた。


 ジークは納得のいかない顔で窓枠に手を掛け、ガラス越しに中庭を見下ろした。手入れが行き届いた豊かな緑の草木に、中央の噴水が輝きを与えている。穏やかな安らぎの空間。しかし今は、その美しい風景もはるか遠く、別世界のように感じる。

「……ずいぶん信用しているんですね、ラウルのこと」

 レイチェルはきょとんとしたが、すぐににっこりと笑顔になった。

「ええ」

 自信を持って返事をする。そして、ジークの隣に並び、窓ガラスに手を置くと、まだ青い空を見上げた。

「レイチェルは人が良すぎるのよ」

 アルティナは彼らの後ろで壁にもたれかかり、腕を組むと、大きくため息をついた。

「あいつが何か悪いことを企んでいるとは思わないけどさ。なーんか気にくわないのよね、いろいろと」

 まるで自分の気持ちを代弁しているかのような彼女の言葉。ジークは急に親近感を覚えた。

「それ、すっごくわかります」

 ありったけの実感をこめて同意した。

「お、なかなかワカルね、キミは」

 アルティナは身を乗り出し、ジークに人さし指を向けると、にやりと笑った。

「アカデミーでもあいつはいっつも偉そうに命令口調で」

「どう見ても教師に向いているとは思えないわよね」

 ふたりはラウルの話で盛り上がっていった。レイチェルは会話に加わらなかったが、止めることもせず、にこにこしながらそのやりとりを聞いていた。

 ガラガラ――。

 扉が開き、中からラウルが姿を現した。その後ろには、隠れるようにユールベルがくっついている。誰とも目を合わそうとせず、怯えたようにうつむいていた。

「すまなかったな」

 ラウルはレイチェルの瞳をじっと見据えて言った。彼女は言葉の代わりに笑顔を返した。

 ユールベルはラウルの腕をそっと引っ張った。ラウルは彼女の肩に手を回し、三人の視線から庇うようにして立ち去った。

「さ、気を取り直して戻りましょ」

「あ、あの……」

 ジークは病室に戻ろうとするアルティナとレイチェルを、遠慮がちに呼び止めた。言いにくそうにためらっていたが、決意を固めると、思いきって切り出した。

「ついでっていうか……俺もアンジェリカとふたりで話をさせてもらえませんか」

 レイチェルは驚いたように、ぽかんとして動きを止めた。

 ジークは、言わなければよかったと後悔した。耳が熱くなっていく。今すぐここから逃げ出したい気持ちになった。

「どうぞ」

 レイチェルは穏やかににっこり笑って答えた。その後ろで、アルティナは意味ありげににやりと笑っていた。とてつもなく恥ずかしかったが、今さら引き返せない。ジークはほてった顔を隠すように、急いで病室に入り、扉を閉めた。

 ふぅ――。

 大きく息をつくと、ベッド横の椅子に腰掛けた。アンジェリカの顔をじっと覗き込む。眠っているだけのような安らかな表情。手の甲で、彼女の頬にそっと触れてみる。温かい、生きている。当たり前のことだが、それを感じることでようやく安心できた。

「約束、おぼえてるか?」

 そっと語りかける。当然だが、返事はない。寂しさを感じながら、一方的に話を続けた。

「あれだけ威勢のいいこと言ってたんだからな、守れよ」

 彼の耳は再び赤味を帯びていく。少しためらったあと、言葉を続けた。

「俺の願いは……」


「何を話しているのかしら、ジークさん」

「さ、何かしらね」

 レイチェルとアルティナは、並んで窓の外を眺めながら、弾んだ声で楽しそうに言葉を交わす。外はもうだいぶ暗くなってきている。

「話か……話だけじゃなかったりして」

「えっ?!」

「冗談だって」

 ふたりは顔を見合わせると笑いあった。


 9日目。

 この日はリックも一緒だった。授業が終わったあと、ふたりで病室へと駆けて行った。

 ガラガラ――。

「こんにちは」

 ふたりは口をそろえて挨拶をした。しかし、中に目をやった瞬間、ジークは固まった。

「やっと来たわね、バカ息子」

 椅子に座るレイチェルの隣に立っている黒髪の女。それは、まぎれもなくジークの母親、レイラだった。息子たちに向かって軽く右手を上げている。

「……なっ……なんでおまえが来てんだよっ!」

「ジーク、声、大きすぎ!」

 思わず力一杯の声で叫んだジークを、リックが後ろからたしなめた。しかし、ジークはそれどころではない。

「アンジェリカちゃんのお見舞いに決まってんでしょ。あと、レイチェルにも会いたかったしねっ」

 レイラは嬉しそうにそう言うと、レイチェルを後ろからぎゅっと抱きしめた。レイチェルはにっこり笑顔でなすがままだった。

「離れろ!」

 ジークは青筋を立てて叫んだ。

「あーやだね、男の嫉妬は。みっともない」

「だーれが嫉妬だ、コノヤロウ」

 握りこぶしを震わせ、顔を引きつらせながら母親を睨みつける。

「だいたいどうやって入ってきたんだ。ここ、王宮だぜ」

「ほっほっほ。あんたに行けて、私に行けないところなんて、あるわけないでしょ」

 高笑いをして、答えになっていない答えを返す母親に、ジークの苛立ちはさらに募った。

「ふたりとも、中に入ってください」

 まだ戸口に立ったままのふたりに、レイチェルが優しく声を掛けた。

 ジークはすでに疲れきった様子で、ため息をつきながらベッドに近づいていった。うつむいたり、顔をそらしたり、なるべく母親とは目を合わせないようにしている。しかし、あるものを目にして、再びがっくり疲れが襲ってきた。

「……その非常識なモノ。持ってきたのオマエだろ」

 呆れ顔で指さした白いプランターには、色とりどりのチューリップが植わっていた。

「あら、よくわかったわね」

 レイラはきょとんとして、ジークを見た。

「オマエ以外ありえねぇだろ!」

「やぁねぇ。カルシウム不足かしら」

 力いっぱい怒鳴るジークを、母親は軽く受け流した。彼はますます頭に血をのぼらせた。

「根の生えたものは、お見舞いには縁起が悪いって知らねぇのか?!」

「へぇ、意外と物知りねぇ。でも、私はそんなこと気にしないし」

 レイラはカラッと笑った。

「見舞われた方が気にすんだよ!!」

「いえ、私も気にしていませんから」

 レイチェルが割って入った。

 ジークの勢いは一気にそがれた。彼女は優しいのでそう言ってくれているだけだとは思ったが、その気持ちを無駄にすることもできない。彼は押し黙るしかなかった。不完全燃焼である。

「ほれみなさい。これなら文句もないでしょ」

 レイラは気分よさげに胸を張った。

「だいたい切り花なんて、命を切り取ったものでしょ? そんなものを持ってくる方がよっぽど縁起でもないと思うわよ。土に根を下ろしてこその命。その生命力が人間にも活力を与えるわけよ」

 独自の論理を展開する母親を、ジークはもう相手にする気にはなれなかった。ふてくされて適当に聞き流していた。しかし、リックは目を輝かせて、大きく頷きながら聞いていた。

「それに、そっちのサボテンの方がどうかと思うけど?」

 レイラの目線をたどると、プランターの横にミニサボテンがちょこんと鎮座していた。

 ――あれは……。

 ジークの鼓動がどくんと強く打った。

「それはお見舞いではないんです。アンジェリカが大切にしているものなので、家から持ってきたんですよ」

 レイチェルはにっこり笑った。

「へぇ……意外と変な趣味があるのね」

 レイラはまじまじとミニサボテンを覗き込んだ。

「うるさいな! 帰れよ!」

 ジークは顔を真っ赤にしてわめいた。

 レイチェルは下を向いてくすくす笑っていた。その様子からすると、彼女はサボテンの出所をわかっているらしい。

「アンタには関係ないでしょ。何でそんなに顔が赤いわけ?」

「っ……」

 レイラの素朴な質問に、ジークは言葉を詰まらせた。くやしさを顔いっぱいに広げる。

「ごめんね、アンジェリカちゃん。このバカがうるさくって」

 レイラはジークの後頭部をバシッとはたいた。

 ジークは完全に負けた。

「それにしても……。本当に眠っているだけみたいに見えるわね」

 レイラは体をかがめて覗き込んだ。

「ええ、眠っている状態とまったく同じなんです。どこかが悪いから目覚めないというわけでもないそうです」

「まさに眠り姫ね。こっちは王子様なんてガラじゃないけど」

 その場にいた三人は、いっせいにジークに振り向いた。

「な、なんだよそれ」

 ジークは三人の視線に気圧されて、わけもわからずうろたえていた。

「アンタ、眠り姫の話、知ってる?」

 レイラは静かに問いかけた。

「おとぎ話か? んなもん知らねーよ」

「ふーん……」

 いつもはああいえばこういうレイラが、このときに限っては、意味ありげな相づちを打っただけだった。気味が悪い。ジークは妙な不安に襲われた。

「じゃ、私はそろそろ帰るわ。また来るわね」

「おい待てよ! 何が言いたかったんだよ!」

「それじゃ!」

 ジークの呼びかけを、レイラはにこやかに無視した。戸口で大きく手を振ると、元気よく去っていった。


「……リック」

 ジークは低い声で呼んだ。

「え? 僕もあんまり知らないよ。100年間眠り続けたお姫様を、通りすがりの王子様が助けたって話だと思うけど」

「100年?! あのバカまた縁起でもねぇことを!」

 本気で驚いたらしく、素頓狂な声を上げた。

「いや、言いたいのはそこじゃなくて……」

 リックとレイチェルは、顔を見合わせて、少し困ったように笑った。

「俺が通りすがりっていいたいのか?」

「それもちょっと……」

 ジークは腕を組んで考え込んだ。

「……王子はどうやってお姫さまを目覚めさせたんだ?」

「それは……知らないよ」

 リックはしれっとして言った。

「おまえ、本当に知らないのか?」

 疑いの眼差しを向け、ぐいっと顔を近づける。リックは焦りながら、逃げるように身を引いた。

「自分で調べればいいじゃない。ね、レイチェルさん」

「ええ」

 にこにこと笑顔を交わすふたりを見て、ジークは確信した。リックもレイチェルも知っている。知っていて教えないのだ。相手がリックひとりだったら詰問するところだが、レイチェルの手前、それも気が引ける。

 ――自分で調べるか。

 疲れたようにため息をつき、静かに眠るアンジェリカの姿をそっと見つめた。もし俺に出来ることがあるのなら、どんなことだって……。ジークは決意を新たにした。


 10日目。

「ジーク、遅いよ!」

 振り返ったリックを、ジークは恨みがましく睨みつけた。足どりが重い。走る気にはなれなかった。

「こんにちは!」

 リックは元気よく病室の扉を開けた。その後ろから、疲れた様子のジークが続く。だが、ふたりは中を見て足を止めた。

「……なんでおまえが来てんだよ!」

 ジークは昨日と同じセリフを吐いた。しかし、向けられた相手は、昨日とは違う。金髪細身の後ろ姿。レオナルドだ。短い髪をさらりと流しながら、不機嫌な表情で振り返った。

「親戚の見舞いに来たらいけないのか」

「……」

 ジークは言葉に詰まった。くやしさいっぱいに睨みつける。そんな彼を、レオナルドは顎を上げ、冷たく見下ろした。

「おまえこそ、よくレイチェルさんに会わす顔があるな」

「なに?」

 ジークの額に冷たい汗がにじんだ。

「いい気になって、ナイトぶっておきながら、このザマだ。女の子ひとり守れない奴が、偉そうにしないでもらいたいものだ」

「レオナルド!!」

 レイチェルは立ち上がり、彼の背中に厳しい顔を向けた。

「よしなさい。ジークさんに非はありません!」

 凛とした声で、きっぱりと言い放った。

 レオナルドはうつむいて振り返り、彼女に深々と頭を下げた。そして、無言で部屋をあとにした。

「すみません、不快な思いをさせてしまって」

 レイチェルは申しわけなさそうに、ジークを気づかった。しかし、彼は顔に影を落とし、うなだれていた。リックも心配そうに見ていたが、かける言葉が見つからなかった。

「言われて当然のことです」

 ジークは力なく自嘲した。

 レイチェルはまっすぐ彼に近づいていった。光をたたえた強い瞳を向ける。そして、彼の右手をとり、自らの両手で包み込んだ。

「私たちは、ジークさんのせいだとは思っていません。そんなふうに自分を責めないで」

 絹の手袋ごしだったが、彼女の温かさがほんのり伝わってきた。しかし、それでも彼の心は融けなかった。

「でも、レオナルドに言われたことは事実です」

 かたくななジークに、レイチェルはふっと柔らかく笑いかけた。

「もしそう思うのでしたら、アンジェリカが目覚めるように、たくさん祈ってください」

 彼女はジークの手を引き、椅子に座らせた。リックもほっとした様子で、隣に腰かけた。

「それで、王子様はどうするのか、わかりました?」

 レイチェルは椅子に腰を下ろしながら、笑顔で問いかけた。ジークの顔は一気に上気した。思わず目の前で眠るアンジェリカから目をそらす。

「俺、からかわれてただけなんですよね……」

「僕、図書館に付きあわされたあげく、げんこつで殴られちゃいました」

 リックはそう言いながら、とても楽しそうだった。レイチェルも楽しげに、ふふっと笑った。

「でもわかりませんよ。何がきっかけになるかなんて」

 ジークは困り顔で、ますます赤くなっていった。

「そんなこと言って、サイファさんが聞いたら……」

 ココン。ノックと同時に扉が開いた。

 ジークは何気なく振り返った。そのとたん、彼は派手な音を立てて椅子から転げ落ちた。

「大丈夫か? ジーク君」

 扉を開けたサイファは、驚いて歩み寄ると、手を差し伸べて助け起こした。

 ジークは顔を赤くしたまま、彼を見ようとしなかった。

 リックとレイチェルは、顔を見合わせて笑っていた。

「どうしたんだ?」

 サイファはふたりをかわるがわる見ると、不思議そうに尋ねた。レイチェルは、彼を見上げてにっこりとした。

「サイファは親バカだって話をしていたところだったのよ」

「今さらそんな話か」

 さも当然のようにそう言うと、彼女の隣に腰を下ろした。

「サイファさん、よく仕事を抜け出してきているみたいですけど、大丈夫なんですか?」

 リック自身、ここでサイファとときどき顔を合わせていたし、レイチェルの話からすると昼間もよく来ているらしい。彼が心配することではないが、気にはなった。

「仕事はきちんとやっているよ。それに、抜け出しているわけではなく、ちょっと立ち寄っているだけだ」

 そう言って、いたずらっぽくにっと笑ってみせた。

「ずいぶん遠まわりしているみたいだけどね」

 レイチェルも笑って付け加えた。

「それにしても……」

 サイファは、ベッドで眠り続けるアンジェリカに目を移した。

「もう10日になるのか」

 彼女の額に手をのせ、なでるようにそっと前髪をかきあげる。サイファはそれ以上何も言わなかったが、彼の気持ちはその場にいる全員に痛いほど伝わっていた。伝わっていたというよりも、それがみんなの共通の思いであった。


 29日目。

 暗い寝室。ラウルはベッドの上で仰向けになっていた。頭の後ろで手を組み、天井を見つめている。その隣には、膝を曲げたユールベルが、そっと寄り添うように、体を横たえていた。

「まだ、意識が戻らないの?」

「ああ」

 ユールベルは肩をすくめ、背中を丸めた。

「ずっと、このままだったら……」

「そうはならない」

 ラウルはきっぱりと言った。

「どうして……?」

「私は医者だ」

 ジリリリリリリ――。

 けたたましいベルの音が、静寂を切り裂く。ラウルは手を伸ばし、枕元の受話器を取った。

「……わかった。今行く」

 それだけ言って受話器を置くと、ユールベルをまたいでベッドを降りた。暗いままの部屋で、手早く着替え始める。

「どこへ行くの?」

 ユールベルは手をついて体を起こすと、彼の後ろ姿に問いかけた。その声は小さく、どこか怯えているようだった。

 ラウルは無表情で振り返った。

「アンジェリカのところだ」


 30日目。

「いいのかなぁ、自習さぼって」

「いいんだよ。朝から自習にするアイツが悪いんだ」

 ジークとリックは、アンジェリカの病室に向かっていた。

「……ていうか、気になるんだよ。最近は自習もなくなってたってのに、もしかしたら、アンジェリカに何か……」

 それ以上、言葉を続けられなかった。嫌な予感が止まらない。

「そんな、考えすぎじゃないの?」

 そう言いながらも、リックは不安に顔を曇らせた。

「だったら、いいんだけどな」

 ジークは足を速めた。


 コンコン。

 ノックをしたが、返事はなかった。

「誰もいないのかな。面会時間外だし……」

 リックは嫌な想像を、必死で抑え込んだ。

 コンコンコン。

 ジークは再びノックをする。やはり返事はない。

「チッ」

 小さく舌打ちすると、耐えきれなくなって、勢いよく扉を開けた。

 ガラガラガラ――。

 扉がレールを走る音が、いつもより大きく感じた。そして、病室がいつもより眩しく感じた。


「おはよう」

「…………」

「ちょっと、寝過ごしちゃったみたい」

「……アンジェリカっ?!」

 ふたりは同時に叫んだ。白いパイプベッドで上半身を起こし、少し恥ずかしそうにはにかんでいる黒髪の少女。それは間違いなくアンジェリカだった。声はところどころかすれていたが、久しぶりに見た黒い大きな瞳は、少しも変わっていない。

 ふたりは我にかえると、慌ててベッドに駆け寄った。

「お……起きて大丈夫なのか?」

「無理しないで」

「うん、平気。腕はまだ治っていないみたいだけど」

 アンジェリカは、ギプスの腕を少し持ち上げ、にっこり答えた。それから、少しの笑顔を残したまま、真面目な表情になり、ふたりをじっと見つめた。

「……ごめんね」

「ああ」

「うん」

 それ以上の言葉はなかったが、それだけで十分だった。


「おまえたち、自習はどうした」

 ラウルは隅の椅子で足を組み、カルテに記入をしながら淡々と尋ねた。ふたりとも、彼がいたことにまったく気がついていなかった。そして、レイチェルとサイファがいたことにも、そのとき初めて気がついた。

 レイチェルは本当に嬉しそうに、ほっとしたように、心から幸せそうな顔をしていた。大きく光る瞳に涙をたたえながら目を細めている。サイファは彼女の肩に手を回し、やはり幸せそうに目を細めていた。

「今日くらい堅いことを言うなよ」

「おまえはいつでも融通を利かせすぎだ」

 ラウルはカルテを小脇に抱えて立ち上がり、笑顔のサイファとちらりと視線を合わせると、無表情で病室から出ていった。


 ココン。

 軽いノックのあと、サイファは返事を待たずに扉を開き、勝手に医務室の中へと入っていった。そして、いつものように、ラウルの隣の丸椅子に腰を掛けた。

「アンジェリカと一緒にいなくていいのか」

 ラウルは机に向かったまま、ペンを走らせる手を止めずに言った。

「時間なら、これからいくらでもあるよ」

 サイファは伸びやかな表情で、晴れ晴れと笑った。それから、急に真剣な顔になると、奥の部屋へ続く扉に目をやった。

「……彼女は元気にしているのか」

 その質問に、ラウルは手を止めた。

「少しは落ち着いた。アンジェリカの意識が戻って安堵しているようだ」

「あしたで約束のひと月だ。朝に迎えに来るが、いいな?」

 サイファは事務的に確認の言葉を口にすると、ラウルの横顔をじっと見つめた。

「もう我が侭を言わせはしない」

 ラウルはそう言って振り向き、真正面からサイファと目を合わせた。


 夜が深まった頃、ラウルは明かりの消えた寝室へ入っていった。

 彼のベッドには、当たり前のようにユールベルが眠っていた。背中を丸め、膝を抱えるようにしている。許可したわけでもないのに、彼女はいつも勝手に入り込んでいた。しかし、それを咎めたこともなかった。

 彼女を起こさないように、そっとまたいで奥へと移動し、仰向けに寝ようとした。ベッドがかすかに軋み音を立てる。

「……今晩が最後なの?」

 目を覚ましたのか、もともと眠っていなかったのか、ユールベルが突然声を掛けてきた。彼女は体を丸め、頭を下げていたため、その表情を窺うことはできなかった。

「ああ、そうだ」

 ラウルは頭の後ろで手を組み、その身をベッドに投げ出した。反動で、ベッドは大きく数回弾んだ。

「私、どうしても寮に入らなければいけないの?」

「もう決めたことだ」

 ユールベルはあきらめたのか、それ以上しつこくは言わなかった。

「一度も、笑わなかったわね」

「互いにな」

「……でも、ありがとう」

 ぽつりと静寂の水面に言葉を落とす。ラウルは何も答えなかった。

「最後にひとつだけ、お願いをしてもいい?」

「おまえの我が侭はもう何も聞かない」

 ラウルは天井を見つめたまま、静かにはねつけた。

「そう……」

 それきりユールベルは口をつぐんだ。


 アンジェリカが目覚めてから7日が経った。一週間、弱った身体をリハビリし、今日が初登校である。まだ完全には回復していないが、彼女自身が強く希望して、なんとかラウルの許可をもらったのだ。右腕はまだギプスで固められ、白い布で首から吊り下げられている。

「頑張って遅れを取り戻さないとね!」

 彼女は上機嫌でギプスを振り回した。

「ほんっとーに無理すんなよな」

「わかってるわ」

 無邪気な笑顔を見せるアンジェリカに、ジークは疑いの眼差しを向けた。リックは、そんなジークを見て、こっそり小さく笑っていた。

「あれ? ユールベル、よね」

 アンジェリカはふいに目を止めた。自分たちの教室とは逆方向へ行く、金髪の後ろ姿。頭には白い包帯が巻かれている。

「おいっ!!」

 ジークが止めるより早く、アンジェリカは駆け出していた。病み上がりとは思えないほど素早い。残されたふたりも、慌ててあとを追った。

「ずいぶん感じが変わったわね」

 後ろから声を掛けられたユールベルは、ゆっくりと振り返った。いつもの素っ気ない白いワンピースではなく、シャツにベスト、プリーツのミニスカートという出で立ちだった。

「先輩……寮の先輩が、これにしなさいって言ったから……」

 視線が服に集中しているのを察し、彼女はいいわけめいたことを口にした。

「私もこっちの方がいいと思うわ」

 にっこり笑うと、アンジェリカは左手を差し出した。ユールベルはその手と顔を交互に見つめた。表情には出さなかったが、明らかにとまどっているのがわかった。

「安心して。今さら仲良くしましょうっていうんじゃないのよ。おあいこってことで、どうかしら」

 それでも彼女はまだ呆然としたままで、差し出された手に応えようとはしない。アンジェリカは手を下ろした。

「本当の話、聞いたわ。あなたのことも」

 その言葉に、ユールベルの顔が一瞬こわばった。

「自分のせいではなくてほっとした? それとも同情?」

 目を伏せ、自嘲ぎみに吐き捨てる。

「そうね。両方とも、かしら」

 アンジェリカは淡々と答えた。ユールベルは、はっとして視線を上げた。まさか認めるとは思わなかった。

「あなたの目を傷つけたのは私だけど」

 彼女は真剣な表情で、そう付け加えた。

「それと……。思い出したのよ、少しだけ。昔のことをね」

 ユールベルの鼓動はドクンと強く打った。

「あなたと私、楽しそうに笑っていた。あなたはどうだったかわからないけれど、私にとってはたったひとりの友達だった」

 まっすぐユールベルを見つめてそう言うと、ふっと寂しそうに笑った。ユールベルは口を開きかけてうつむいた。

「それじゃ」

 アンジェリカはにっこり笑うと踵を返し、ジーク、リックとともに去っていった。


「いつか、わだかまりが融けるといいね」

 リックは優しく声を掛けた。しかし、アンジェリカはあまり聞いていないようだった。何か難しい顔で考えごとをしている。

「あっ、思い出した」

「何だ?」

 ジークは隣のアンジェリカに振り向いた。

「ユールベルと対決したときの約束。ほら、ジークの言うことをひとつ、何でも聞くって言ってたでしょう?」

 アンジェリカは、ずっと何か忘れている気がして引っかかっていた。ようやく思い出せて、すっきりした顔をしている。

 しかし、ジークはとたんに困り顔になった。

「あ……あれはいいんだよ、もう……」

 歯切れ悪く口ごもった。

「よくないわよ。約束は守らなきゃ」

「じゃなくて。もう終わったんだよ」

 面倒くさそうにうつむき、無造作に頭をかいた。

「終わった? どういうこと?」

 そう言って下から覗き込んでくるアンジェリカに、ジークは耳を赤らめた。

「うるせぇな! 覚えてねぇオマエが悪いんだよ!」

 顔まで赤くなっていくのを感じ、彼は慌てて話を切り上げようとした。

 アンジェリカはわけがわからず、リックに助けを求めて振り向いた。しかし、彼もさっぱりわからない。首をかしげ、肩をすくめて見せた。

「いいわ。よくわからないけれど、そういうことにしてあげる。今日は特別ね」

 アンジェリカは、にっこりジークに笑いかけた。彼はほっとして息をついた。

「さ、早く教室に行かなきゃ」

「おいっ! だから病み上がりで走るなって!」

 ジークは駆け出した彼女を追いかけながら声を掛けた。

「いいの。これもリハビリよ」

 アンジェリカは短いスカートをひらめかせながら、くるりと振り返った。屈託のない満面の笑み。ジークの心に温かい光が広がっていった。


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