表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
44/111

44. 血のつながり

 ギィ……。

 重いきしみ音を立てながら、玄関の扉が開いた。薄暗い家の中に、光の帯が伸びる。そして、その光を遮る大きな影。

「いるのか、ユールベ……」

 一歩、足を踏み入れるなり、バルタスは絶句した。彼の視線の先には、仰向けに倒れたアンジェリカの小さな体があった。そのまわりには、どす黒い血だまりが広がっている。

 彼は慌てて駆け寄り、彼女の白い首筋に手を当てた。そして、こわばった顔で立ち上がると、そこから続く階段をゆっくりと見上げていった。

 最上段の、動かない白い小さな影。ユールベルが呆然として座り込んでいた。その左目にいつもの包帯はなく、焼けただれたまぶたがあらわになっている。

「……おまえが、やったのか」

 バルタスは、喉の奥から乾いた声を絞り出した。

「……違う」

 ユールベルはかすかに首を横に振り、小さな声をもらした。

「違う」

 今度ははっきりとした声でそう言うと、おびえた顔で、強く首を横に振った。

「私じゃない、私はやってない!! 違うわ!!」

 ひきつった叫び声をあげながら、両手で頭を抱え込み、肩を震わせた。


 王宮内の緊急医療室。その扉の前でバルタスはうつむき、こぶしを握りしめ、仁王立ちをしていた。ユールベルは彼の足元で膝を抱え、小さく座っている。左目はいつものように、白い包帯で覆われていた。

 長い廊下の向こう側から、カッカッと鋭い靴音を響かせながら、サイファが走ってきた。

「申しわけない」

 バルタスは、息をきらせたサイファに頭を下げ、大きな背中を丸めた。

「アンジェリカは、どうなんだ」

 焦る気持ちを抑え、呼吸を整えながら、極力冷静に尋ねる。

「入ったきりで、まだ何もわからない」

「そうか……」

 サイファは苦しそうに目を細め、緊急医療室の頑丈そうな扉を見つめた。

「本当に、申しわけない……」

「それより経緯を聞かせてくれ」

 大きな体を萎縮させ、弱々しくうつむくバルタスに、サイファは強い視線を向けた。バルタスは下を向いたまま、訥々と話し始めた。

「昼すぎ、ラウルから連絡が入った。ユールベルとアンジェリカが、家に向かったらしいので、念のため見てきてくれ、と」

 ラウルの名を聞いて、サイファはぴくりと眉を動かした。

「それで、行ってみたら、お嬢さまが階段の下で倒れていた。二階にはユールベルが座り込んでいた……。あの子の左目の包帯は、ほどかれていたよ」

 バルタスは眉根を寄せ、口を真一文字に結んだ。

 サイファは、大きな体の後ろで、小さくうずくまっているユールベルに目をやった。

「彼女が突き落としたのか?」

 ぎりぎりまで声をひそめて尋ねる。

「状況から考えればそうだろう。だが、あの子はやっていないの一点張りだ」

 バルタスも声のトーンを落とした。そして、顔だけわずかに振り返り、ユールベルを流し見た。彼女はその視線から逃れるように、両手で頭を抱え込み、体を小刻みに震わせ始めた。

「ユールベル」

 サイファが静かに声を掛けた。ユールベルの体がびくりと揺れた。

「君は……」

「サイファ!!」

 廊下に響いた高い声が、彼の言葉を遮った。

「レイチェル!」

 サイファが振り返ると、彼女は息をきらせ、苦しそうに走り込んできた。

「アンジェリカは?!」

 彼の胸にすがりつき、潤んだ瞳で見上げる。サイファは優しく彼女の肩を抱いた。

「まだわからない。でも、きっと大丈夫だよ」

 力を込めてそう言うと、かすかに笑いかけた。しかし、無理をしていることは明らかだった。レイチェルはうつむいて、何かをこらえたような小さな声を漏らした。


 カツーン、カツーン。

 冷たく無機質な靴音が、あたりに響いた。

 サイファは顔を上げ、レイチェルは振り返り、その音のする方を見た。細身で背の高い女性が、ボリュームのある巻き毛のブロンドを揺らしながら、ゆっくりとしたペースで近づいてきた。膝丈のタイトスカートが、彼女のすらりとした脚をよりいっそう強調する。

「ユリア……」

 そうつぶやいたサイファの脇を通りすぎ、バルタスの前で足を止めた。そして、腕を組み、冷ややかに彼の足元を見下ろした。

「あなた、お嬢さまを突き落としたんですって?」

 ユールベルは驚き、顔を上げた。彼女はその女性を見たとたん、激しくおびえ、壁に身を寄せ震え出した。

「ユリア、やめないか」

「どれだけみんなを不幸にすれば気が済むの、この厄病神!」

 バルタスの制止を無視し、彼女はおびえるユールベルに言葉を突き刺した。

「違う! 私はやってない!!」

 ユールベルは震えながら声を張り上げた。頬に涙が伝い落ちる。それでもユリアは容赦なかった。

「いくら泣いたって、あなたの言うことなんて誰も信じないわよ!」

「本当に、やってない……のに……どう、して……」

 ユールベルはしゃくりあげながら、切れ切れの言葉を並べた。そんな彼女を、ユリアは顔をしかめてにらみつけた。

「泣きたいのはこっちよ。どうしておとなしく閉じ込められててくれなかったのよ。あなたが出てきたせいで、家族はめちゃくちゃだわ」

 ユリアはいらついて、左足で床を蹴りつけた。ユールベルはびくっとして体をこわばらせた。

「生きる価値のない人間のくせに……。それどころか生きていてはみんなの迷惑なのよ! わかってるの?!」

 ユールベルは顔を歪ませ、目をつぶり、幾筋もの涙を流した。

「私だって、好きで生まれてきたわけじゃない……」

 震える小さな声でそう言ったあと、苦しそうに浅い息を繰り返す。

「こんな……こと、なら、生まれてきたくなんかなかったわよ!!」

 壁に寄りかかり、顔を伏せたまま、精一杯の声で悲痛に訴えた。

 しかし、それでもユリアの冷酷な態度に変わりはなかった。

「こっちだって、あなたみたいな子だとわかっていれば、生まなかったわよ」

 小さく舌打ちして、吐き捨てるように言った。ユールベルは耳をふさぎ、体を丸め、床にうずくまった。

「そこまで言うんだったら、いっそ殺してくれればよかったのよ」

 虚ろにそう言うユールベルに、ユリアはさらに追いうちをかける。

「死にたかったらね、勝手にひとりで死になさい!」

 身を屈め、彼女の頭の上から大声を浴びせかける。耳をふさいでも、それを防ぐことはできなかった。手から力が抜け、床に落ちる。

「何度も死のうと思った。でも、死ねなかった……」

 小さなうめき声とともに、すすり泣き始めた。

「度胸もないくせに、偉そうに言ってるんじゃないわよ」

 ユリアは嫌悪感を丸出しにした。威嚇するように激しく右足を踏み出し、白いワンピースの裾を踏みつける。

 ユールベルの肩がぴくりと動いた。それと同時にすすり泣きがやんだ。ゆっくりと体を起こし、顔を上げると、泣き腫らした右目でユリアを睨み上げた。

「度胸がないのは、そっちだって同じじゃない」

 今までとは違う、落ち着いた静かな声。だが、その奥には、激しい怒りが渦巻いているのが感じられた。ユールベルはワンピースの裾を引っ張り、ユリアの足から引き抜いた。ふたりの鋭い視線がぶつかりあう。

「私を殺さなかったのは、あなたが臆病だったから。罪を背負いたくなかったから。だから、私を閉じ込めた」

 ゆらり体を揺らしながらスローモーションで立ち上がると、ふらつきながら一歩前へ踏み出した。顔を上げ、ありったけの怒りをこめた瞳を、まっすぐユリアにぶつける。ユリアに初めて動揺の色が浮かんだ。

 ユールベルは高鳴る鼓動を感じながら、意を決して口を開いた。

「手を汚さず、自分が楽になれる方法を選んだ卑怯者なのよ、あなたは!!」

「うるさい!!」

 逆上したユリアは、握りこぶしを振り上げた。ユールベルは声にならない悲鳴をあげた。逃げるように後ろによろめくと、壁にぶつかり、頭を抱えて崩れ落ちた。

 振り上げられたユリアの腕を、後ろからサイファが掴んだ。

「精神的、肉体的虐待、あげくの果ての監禁だったのか……」

 その声には、やりきれなさがにじんでいた。

「あなたは、あの子のことを、何も知らないのよ!」

 ユリアはサイファの手を振りほどいた。彼に掴まれていた部分を見つめながら、深くうつむいた。

「あの子のことを知れば、誰だってこうするわ」

 淡々と、うわごとのように言う。そして、急に勢いよく振り返ると、声のトーンを上げた。

「ご存知?!」

 サイファを激しく睨み、眉間にしわを寄せた。

「あの子はね、自分の弟さえも手に掛けようとしたのよ。まだ伝い歩きしかできない幼い弟を、階段から突き落としたのよ!!」

「違う! 私はやっていない!!」

 後ろでユールベルは再び泣き叫んだ。

「……どうして、私たちに相談してくれなかったのですか」

 黙って顔をそむけているバルタスに、サイファは悲しい眼差しを送った。しかし、その言葉に反応したのはユリアだった。

「きれいごとを言わないで! あなただって憎いでしょう?!」

 一歩サイファに踏み込み、顔を突きつける。しかし、彼はまったく動じることはなかった。

「彼女はやっていないと言っています」

 冷静に、まっすぐユリアの瞳を見つめる。そのことが、よけいに彼女の頭に血をのぼらせた。

「そんなたわごと! 信じているの?!」

 サイファは後ろで小さくうずくまるユールベルに、そっと目を向けた。

「君は、アンジェリカに真実を話した。アンジェリカはその話に驚いて、階段を踏み外した。そうだとすれば、君を責める理由はない」

 ユールベルは驚いて顔を上げた。呆然とサイファを見つめる。彼女の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。

 ユリアは眉をひそめ、サイファを睨んだ。そして、短く投げやりなため息をついた。

「どこまでお人好しなの、あなたは。万が一、それが事実だとしても、あなたの娘をこんな目に遭わせたのは、あの子のせいに違いはないでしょう」

 サイファの顔つきが険しくなった。

「彼女を追いつめたのは、我々、そして、あなた方だ」

 ユリアは反抗的な視線を返した。しかし、サイファは真っ向からそれを受け止めた。

「申しわけありませんが、お帰りいただけますか」

 丁寧だが、有無をいわせない強い口調。ユリアは一瞬たじろいだ。しかしすぐにサイファをキッと睨みつけた。

「私だって、来たくて来たわけではありませんから」

 そう言うと背中を向け、ヒールの音を響かせた。しかしすぐに足を止め、顔だけ振り返った。その視線は、バルタスに向けられていた。

「さっさとあの子を追い出してちょうだい。そうしない限り、私もアンソニーも戻りませんから」

 一方的に言い放つと、返事を待たずに早足で去っていった。


「すまない。君たちに謝罪させようと思って呼んだのだが……」

 覇気のない声。バルタスは、サイファとレイチェルに頭を下げた。疲れきったように肩を落とし、大きな背中を丸めている。

「ひどい……実の……血のつながった親子なんでしょう?」

 レイチェルは小刻みに震える唇から、かぼそい声を漏らした。その顔は透き通るほどに青白く、今にも倒れそうだ。

 サイファはうつむいた。

「血のつながりなんて、関係ないさ」

 かすかな声で、早口につぶやく。レイチェルははっとして振り向いた。しかし、さらりと流れる金の髪が、彼の横顔を隠し、表情をうかがうことはできなかった。

「血がつながっているからこそ、よけいに憎しみが深くなる、ということもある」

 バルタスは重々しくそう言った。うなだれたままで顔を見せない。レイチェルはくたびれた彼の姿を、寂しげに見つめた。

 サイファは、膝を抱えうずくまっているユールベルのもとへ歩いていった。彼女の前まで来ると、片膝をつき、目線を合わせた。

「すまない。君にはずいぶんつらい思いをさせてしまった」

 ユールベルの瞳にあたたかいものがじわっとにじんだ。目を閉じうつむくと、手の甲にぽたりと雫が落ちた。

「おじ……さま……」

 震える声でそう言うと、大きくしゃくりあげた。

「ごめん……なさい……約束、やぶってしまって……」

 サイファはそっと微笑みかけると、泣き続けるユールベルの頬に手を置いた。


 プシュー。

 空気の抜けるような音とともに扉が開き、中からラウルが現れた。後ろで数人の医療スタッフが、慌ただしく動き回っている。

「アンジェリカは?!」

 レイチェルはラウルに駆け寄り、すがるように白衣を掴むと、泣き出しそうな顔で見上げた。ラウルはなだめるように、レイチェルの細い肩に両手を置いた。そして、真剣な眼差しをサイファに向けた。

「肩、腕と肋骨2本の骨折、それと頭部外傷だ。骨折はたいしたことはないが、問題は、頭の方だ。脳挫傷を起こしている」

「脳挫傷……」

 レイチェルはかすれた声で、聞き慣れない単語を繰り返す。鼓動がしだいに速く、強くなっていく。

「助かるのか」

 サイファが抑えた声で尋ねた。口調は冷静だったが、表情からは抑えきれない焦りがにじんでいた。

「私を信じろ」

 ラウルは、強い漆黒の瞳をサイファに向けた。彼はまっすぐにそれを受け止め、小さくうなずいた。

「アンジェリカに会わせて!」

 レイチェルは再びラウルの白衣を掴むと、大きな澄んだ瞳で必死に訴えた。

「入れ」

 ラウルがそう言うや否や、彼女は小走りで医療室に駆け込んでいった。サイファとラウルも、続いて入っていった。

 アンジェリカは大きなガラス窓の向こう側にいた。天井も床も白い、真っ白な部屋。白いパイプベッドと白いシーツの間に、黒髪の少女は横たわっていた。右腕にはギプスと包帯、左腕には点滴、頭には包帯とネット、口は酸素吸入マスクで覆われている。その他、心電図の装置などが彼女を取り囲んでいた。物々しく、痛々しいその状態を見て、サイファもレイチェルも言葉をなくした。

 しばらくふたりはガラスに張りつくようにして見ていた。

「中へは、入れないの?」

 レイチェルがふいにポツリと言った。

「今は刺激を与えたくない」

 ラウルは間髪入れずに返事をした。レイチェルは、ウェーブを描いた長い髪を舞い上がらせながら振り返ると、潤んだ瞳で彼を見つめた。

「おとなしくするわ、だから……」

 彼女は涙で揺らぐ声で懇願した。しかし、ラウルは無言で背を向け、次の点滴の準備を始めた。レイチェルは、ゆっくりと目を伏せながら、うつむいていった。

「ここから見守ろう」

 サイファは後ろから彼女の肩を抱き寄せた。


 数時間が過ぎた。

 ふたりは長椅子に腰掛け、アンジェリカの様子をガラス越しに見つめていた。彼女はまだ一度も目を開いていないし、微動さえしていない。

「アンジェリカは?!」

 静寂を切り裂く切迫した声が、入口の方から響いてきた。続いて小刻みな足音。ジークとリックが姿を現した。彼らはあたりを見渡し、サイファとレイチェルと見つけると、その前のガラス窓に、一目散に駆け寄った。痛々しいアンジェリカの姿。リックは呆然と立ち尽くした。ジークはガラスに両手をつき、肩を震わせながらうなだれた。

「頭を打っているそうだ。だが、ラウルは大丈夫だと言っている。信じよう」

 サイファは静かに口を開いた。だが、その言葉も、ジークたちの慰めにはならなかった。

「俺のせいだ……。俺が止めてれば……!!」

「僕も、何も出来なかった……」

 ふたりの顔が歪んだ。ジークは、ガラスの上で握りしめたこぶしを震わせた。

「君たちの責任ではないよ」

 サイファは長椅子から立ち上がると、ふたりの間に並び、それぞれの背中に手を置いた。

「真実を隠そうとした、私が悪かったんだ」

 ガラスの向こう側を見つめながら、自らを責めるように、アンジェリカに詫びるように、そう言った。

「責任なら私にもある」

 奥から歩いてきたラウルが、後ろから口を挟んだ。

「ユールベルは……」

「やめて!!」

 突然、レイチェルが悲鳴のような叫び声をあげた。サイファたちが驚いて振り返ると、彼女は固く目を閉じ、頭を小さく横に振っていた。

「誰のせいとか、そんなことより……」

 顔を上げ、揺れる瞳で四人を見つめる。

「今は祈ってください。アンジェリカの回復を……」

 胸の前で両手を組み、震えるまぶたを閉じた。


 さらに数時間が過ぎた。

 それでも状況は何一つ変わらなかった。四人は長椅子に座り、ただ見守ることしかできない。時計の秒針の音が、やけに大きく聞こえる。

 ジークは隣のサイファを気にしながら、反対側のリックに耳打ちした。

「リック、おまえはそろそろ帰れ」

「でも……」

 リックは声をひそめて口ごもる。彼との間をつめ、ジークはさらに畳みかける。

「ここにおまえがいてもいなくても、何も変わらねぇんだ。でも家の方は、そうはいかねぇだろ」

 リックは難しい顔で考え始めた。

「帰りなさい、リック君」

 ジークの向こう側に座っているサイファが、少し身を屈め、リックに微笑みかけた。どうやらふたりの会話は、彼に筒抜けだったらしい。ジークの声が大きかったわけではなく、この場が静かすぎたのだ。ジークは少しばつが悪そうに目を伏せた。

 その隣で、リックはためらいがちに口を開いた。

「……はい。すみません」

 少しの迷いはあったが、彼は素直に甘えることにした。

「ジーク君も」

「俺は帰りません」

 サイファの言葉を遮り、きっぱりと言い切った。強い意志を秘めた瞳を彼に向ける。しばらく、互いの視線の探り合いが続いた。

「……わかった」

 サイファは前を向き、長椅子から立ち上がった。ジークもつられるようにして立ち上がり、彼の端整な横顔を、不安そうに見つめた。サイファは恐いくらいの真剣な表情で振り向いた。

「だが、家に連絡だけは入れておくんだ」

 ジークは、その静かな迫力に押され、無言でこくりとうなずいた。サイファは少し笑顔を見せて、彼の肩に優しく手を置いた。


 サイファ、レイチェル、ジーク、リックの四人は、連れ立って緊急医療室から出てきた。そこには、入る前と同じように、扉の前で仁王立ちをしているバルタスと、その足元で膝を抱えるユールベルがいた。サイファとレイチェルは、彼らを目にするなり、はっと息をのんで目を見開いた。まだここにいるとは思っていなかった。それどころか、存在を忘れていたといってもいい。

 ジークとリックは、ユールベルの姿をなるべく目に映さないようにして避けていた。

「それではリック君、気をつけて。今日はありがとう」

 サイファが礼を述べると、レイチェルはその隣で深々とおじぎをした。

「また、あしたの朝に来ます」

 申しわけなさを顔いっぱいに広げ、リックはぺこりと頭を下げた。

「アカデミーまで一緒に行くぜ。家に連絡しないといけねぇし」

 リックにそう言ったあと、ジークはサイファに振り向き、目を合わせた。

「家に連絡したら、すぐ戻ります」

「心強いよ」

 サイファは柔らかい笑顔を返した。


 去り行く少年たちの後ろ姿が小さくなると、サイファはバルタスに振り向いた。

「あなたももう結構です。お帰りください」

 感情のない、淡々とした口調。銅像のように動かなかったバルタスが、じわりと首を動かし下を向いた。

「すまない……」

 喉の奥で声がかすれた。組んでいた両腕をほどき、足元で小さくなっている娘に目をやった。

「ユールベル、行こう」

 自分の名が呼ばれると、彼女はぴくんと体を揺らした。

「彼女は私が預かる」

 突然の背後からの声。サイファもレイチェルも、驚いて声のする方に振り返った。

「ラウル……おまえ何を……」

 いつのまにか扉の奥に立っていたラウルを見つめ、サイファは言葉を詰まらせた。ラウルは大股で歩いて出てきた。バルタスを冷たく一瞥すると、腕を組み、サイファと向かい合った。

「2、3日だけだ。おまえはその間に、入寮の手続きを済ませろ」

「アカデミーの寮か」

 サイファはようやく合点がいった。独り言のようにそう言うと、顎に手を当て考え込んだ。

「だがあそこには、遠隔地の者しか入れないはずだ」

「なんとかしろ」

 ラウルは、たいした問題ではないかのように、あっさり言ってのけた。

「……わかった」

 サイファは深刻な顔で考えを巡らせながら、小さくうなずいた。レイチェルは心配そうに彼を見上げた。それに気がつくと、彼はにっこり笑いかけ、彼女の肩に手を回した。

「そういうことだ」

 ラウルはバルタスに向き直り、短く言った。その声には、一切の反論を受けつけない強さがあった。

「娘を……よろしく頼む……」

 バルタスは力なく言った。

 ラウルはユールベルの前まで歩いていき、かがみ込むと、彼女の華奢な体を軽々と抱き上げた。ユールベルは細い腕を伸ばし、すがりつくようにラウルの首に手を回した。そして、何かにおびえるように、彼の肩に顔をうずめた。金の髪と白い包帯が緩やかに揺れる。ラウルは彼女を庇うようにして三人とすれ違うと、長い廊下を歩いていった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ