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37. 渇いた心

 その日は休日だった。

 厚手のカーテンの隙間から光の帯が差し込み、さわやかに朝を告げる。こんな日は小鳥のさえずりが目覚ましがわりだ。

 アンジェリカは、淡いピンクのネグリジェのまま階段を下りた。

「おはよう、アンジェリカ」

 レイチェルはミルクティーを入れながら、にこやかに笑いかけた。

「お父さんは?」

 アンジェリカは広いダイニングを見渡しながら、椅子に座った。

「用があるって、少し前に出かけたわよ」

 レイチェルはカップを載せたソーサーを、アンジェリカの前に差し出した。アンジェリカはそれを手に取り、ミルクティーを口に運んだ。ほっとする香りと温かさ。頬を緩ませ、ふぅと小さく息をついた。

 レイチェルは隣に腰を下ろしながら、その様子を愛おしそうに見つめた。それから少し身を乗り出し、彼女を覗き込んで口を開いた。

「ね、アルティナさんが久しぶりにあなたに会いたがっているの」

「王妃様が?」

 そう聞き返したが、たいして驚いた様子でもなかった。レイチェルが王妃アルティナの付き人をしていることもあり、彼女は小さい頃からよく王宮へ遊びに行っていた。だが、アカデミーに入学してからは、ほとんどアルティナとも会っていない。

「一緒に行かない? 小さな王子様も待っているわ」

 暗い気持ちさえ吹き飛ばすような、レイチェルの明るい声と笑顔。

 この人が私のお母さんで良かった――。

 そんな思いが、アンジェリカの胸にじわりと広がった。


 サイファはひとりバルタスの家へ来ていた。門前で立ち止まり、屋敷の二階を見上げてみる。だがもうそこからは、偽装結界も、通常の結界も感じられなかった。

 扉の前まで進み、呼び鈴を鳴らす。奥で重みのある音が鳴り響いた。やがて軽い足音が聞こえ、扉が開いた。

「おじさま、来てくださって嬉しいわ」

 中から飛び出してきたユールベルが、サイファに抱きついた。ノースリーブの白いワンピースが風を受け、ふわりと丸みを作る。

「何度も訪ねてくれていたのに、いつもあの人が追い返してしまってごめんなさい。もう来てもらえないかと思っていたわ」

 そう言うと、サイファの胸に頬を押し当て、目を閉じた。サイファは彼女の頭を軽くなでると、少し離れて立っているバルタスに会釈した。ユールベルはそれに気がつくと、冷たく固いまなざしをバルタスに流した。彼の顔には疲労の色が浮かんでいた。

「行きましょう」

 ユールベルは再びサイファに向き直ると、彼の手を取り、軽い足取りで応接間へと駆けて行った。そして二人掛けのソファにサイファを座らせると、彼女もその隣に腰を下ろした。体半分をサイファに向け、甘えるように寄りかかる。サイファはよけることも突き返すこともせずに、自然なままでそこにいた。

「おじさま、コーヒーと紅茶、どちらがいい?」

「紅茶をお願いするよ」

 サイファはユールベルの顔を見て、にっこり笑いかけた。ユールベルも微かに笑顔を返した。だが、それはほんの一瞬のことだった。すぐにいつもの無表情に戻った。

「バルタス、紅茶ふたつ」

 召使いにでも言うかのような命令口調。それでもバルタスは何の反論もせず、黙って奥へと姿を消した。大きな背中には何の威厳もない。仕事中とは別人のようだった。

「ユールベル」

「なあに、おじさま」

 ユールベルは体を伸ばし、サイファに顔を近づけた。サイファはユールベルの瞳を見つめて、真剣な表情になった。

「私たちのことを恨んではいないのかい?」

 その言葉を聞くと、ユールベルはぱちくりと瞬きをした。

「恨むだなんて」

 彼女は細い腕をたどたどしく伸ばす。ぎこちなくサイファの首へとまわし引き寄せると、彼の肩に顔をうずめた。そして、彼の耳もとでささやくように言った。

「あれは事故だったのよ」

 サイファは複雑な面持ちで、彼女のゆるやかに流れるブロンドを見つめていた。


 バルタスが無言で戻ってきた。カタカタと小刻みな音を鳴らしながら、カップがふたつ乗せられたプレートを、慣れない手つきで運ぶ。

 ユールベルはサイファから離れ、向かいのソファに座り直した。

 上品で繊細な花柄のカップとソーサーを、それに似つかわしくない大きな手でふたりに差し出す。

 ユールベルは冷めた目で、その様子を眺めていた。

「終わったら出ていって」

 驚くほど冷たい声だった。

 バルタスは背中を丸めて立ち上がった。無愛想なままサイファに会釈をすると、プレートを小わきに抱えて応接間をあとにした。

 サイファはカップに手を伸ばそうとした。だが、ユールベルはそれを遮るように、横からサイファに抱きついた。

「私、おじさまのピアノが聴きたい」

 サイファはにっこり笑って答えた。ユールベルもつられてわずかに笑顔になった。

「おじさまこっち」

 サイファの手を引っ張り、部屋の隅に置いてあるアップライトピアノへと誘う。彼女の軽い足どりから、浮かれているさまが見てとれた。

 ユールベルが黒塗りの椅子を引くと、サイファはそこに腰を下ろした。鍵盤の蓋を開け、音と感触を確かめるように軽く鳴らしてみる。だが、その手はすぐに止まった。

「ユールベル、このピアノ、調律が出来ていないよ」

 サイファはユールベルを振り返る。ユールベルは少しの間、動きを止めていたが、やがて扉の方へ走っていった。

「バルタス、どういうこと? 調律が出来ていないって」

 部屋の外に向かって大きめの声で問いつめる。

 バルタスはすぐに戸口に姿を現わした。彼はユールベルを静かに見下ろして言った。

「ピアノは七年間一度も触っていない」

 次の瞬間、ユールベルの平手打ちがとんだ。細腕を思いきり伸ばし、背伸びをしての平手打ち。たいした威力はないだろう。それでも、サイファを驚かせるには十分だった。それでも彼は動じた様子は見せなかった。

「道具さえ貸していただければ、私が調律しますよ」

 サイファは立ち上がり、バルタスに声をかけた。

「道具もない」

 バルタスはにべもない返事をした。

「最低」

 ユールベルは冷たく彼を見上げた。

「それでは来週、私が道具持参でうかがいますよ」

 サイファはバルタスににっこり笑いかけた。

「おじさまにそんなことさせられない。バルタス、調律師を呼んでおいて」

 その命令を残し、ユールベルはサイファのもとへ戻っていった。そして再びサイファの背中に手をまわし抱きついた。

「ごめんなさい。ピアノはまた今度聴かせてくださる?」

「もちろんだよ」

 サイファは優しくユールベルの頭をなでた。


 ユールベルはサイファから少しも離れようとはしなかった。ソファに座った彼の膝に頭をのせ、彼の脚を指でたどり、その感触を確かめていく。

「おじさまが私のお父さまだったら良かったのに」

 ユールベルはポツリともらした。サイファから彼女の表情は見えなかった。横顔には長い金髪が無造作にかかり、さらに包帯が邪魔をしていた。

「私、アンジェリカがうらやましくて仕方がない」

 再び彼女はポツリと言った。

「君も知っているだろう、あの子の立場は」

「でもアンジェリカにはおじさまがいる。私には何もない」

 彼女のあらわになった細い肩が、ほんの少し揺れた。

「そういえば、アンジェリカ。私のことをすっかり忘れていたわ。寂しかった……」

 サイファの顔がけわしくなった。だが、それは一瞬。すぐに元の表情に戻った。ユールベルの頭に優しく手を置き、もう片方の手で彼女の顔にかかった髪をそっとかきあげる。

「申しわけない。あれはあの子にとっては辛すぎる過去なんだ。勝手を言うようだが……そっとしておいてほしい」

 ユールベルはだるそうに体を起こし、サイファの膝の上に、横向きに座った。体をねじり、彼の首に腕をまわすと、額が付きそうな距離でまっすぐ見つめた。

「彼女だけずるい」

 そう言ったあと、サイファを引き寄せ、頬と頬を触れ合わせた。

「でも、おじさまがそういうなら、私はそうするわ」

「ありがとう」

 サイファは彼女の華奢な背中に手をまわした。


「さて、私はそろそろおいとまするよ」

 サイファの膝の上に身を投げ出しまどろんでいたユールベルは、驚いて身を起こした。

「そんな、行かないで。ずっとここにいて」

 彼に顔を突きつけ懇願する。サイファはにっこり微笑んだ。

「そういうわけにはいかないよ」

 彼の右手がユールベルの頬を包み込んだ。

「また来るから」

 そう言うと、サイファは立ち上がった。だが、その右手をユールベルがつかむ。すがりつくような右の瞳。

「また来るから」

 サイファは同じ言葉を繰り返し、にっこりと笑った。ユールベルの手から力が抜け、サイファの手はするりと抜けた。

 サイファは少し歩くと振り返った。

「その目、一度きちんと診てもらった方がいい。今度、ラウルのところへ行っておいで」

 それだけ言うと、今度は立ち止まらずに部屋を出ていった。


 玄関でバルタスが扉を開け待ちかまえていた。

「すっかり迷惑をかけてしまった」

 気力のない低い声。彼が疲れ切っていることは明らかだった。

「いいえ。こちらこそお邪魔いたしました」

 サイファは会釈をして外へと出た。まだずいぶん明るく、日没までは時間があるようだ。風もなく穏やかで静かな空に、小鳥が弧を描いて飛んでいった。

「……あまりあの子の言うことを信用しない方がいい」

 バルタスは声をひそめてそう言うと、間髪入れずに扉を閉めた。

 サイファはしばらく扉を見つめていた。それから顔を上げ二階を見上げた。窓にはすべて暗色のカーテンが掛けられていた。


「おかえりなさい!」

 扉の開く音を聞きつけ、アンジェリカが二階から駆け下りてきた。

「ただいま、アンジェリカ」

 サイファは優しい笑顔を見せた、

「今日は何をしていたんだい?」

「王妃様と王子様に会ってきたわ」

 アンジェリカは嬉しそうに軽いステップを踏みながら、サイファの横に並んだ。だが、その途端、彼女の顔から笑みが消えた。とまどい、怯えたようにうつむき、体をこわばらせる。

「アンジェリカ?」

「ううん、なんでもない」

 彼女は首を横に振りながらそう答え、小走りで二階へ戻っていった。

「お帰りなさい」

 今度はレイチェルが笑顔で迎えた。

「あら? アンジェリカが降りて来なかった?」

「降りてきてたんだが……。また戻っていったよ」

「そう。王子様のお相手で疲れたのかしら」

 レイチェルは首をかしげた。


 ふたりは奥の書斎に場所を移した。扉には内側から鍵をかけた。それからテーブルを挟み、向かい合わせに座った。

「それで、どうだったの? 彼女」

 レイチェルが静かに尋ねた。

「アンジェリカをどうこうする気はなさそうに見えた。だが……」

 サイファは机にひじをつき、口元で両手を組むと、わずかに目を伏せた。

「バルタスには信用するなと言われたよ」

 レイチェルは少し身を乗り出して、サイファを覗き込む。

「サイファは大丈夫だと思ったのでしょう?」

「自信はない。嘘を言っているようには見えなかった。ただ……」

 彼は言葉を切った。そして、少しの間をおいて続けた。

「彼女の精神状態はまともとはいいがたいからな」

「そうでしょうね」

 レイチェルは顔を曇らせた。

「やはりしばらく様子を見るしかないだろう」

 サイファはそう言ったきり口をつぐんだ。レイチェルも同じく暗い表情で目を伏せた。重い空気がふたりにまとわりつき、動きを封じているかのようだった。


「ラウルにも言っておかなければな」

 サイファは唐突に切り出した。

「え?」

 レイチェルは顔を上げた。サイファもゆっくりと顔を上げ、彼女と視線を合わせた。

「ラウルにも関わりがあることだろう、多少はね」

「そう、ね」

「ユールベルには言っておいた。ラウルに目を診てもらうようにとね。それが吉と出るか凶と出るかはわからないが、もしかしたら……」

 レイチェルの表情に、ふいに陰が落ちた。

「心配かい?」

 サイファは優しい笑顔で尋ねた。レイチェルは目を伏せ、ぽつりと言った。

「そんなこと、聞かないで」

「そうだね」

 サイファは彼女の頭にそっと手を置いた。

 レイチェルは、突然はっとして目を見開いた。自分の頭を撫でているサイファの手を取り、袖口を鼻に近づけた。

「サイファ、この甘い匂い……」

 彼女は悲しげにそう言うと、小さくため息をついた。

「彼女の匂いが移ったのね」

 サイファは焦ったように匂いを嗅いだ。だが、自分ではよくわからなかった。困惑した顔をレイチェルに向ける。

「君にはわかるのか?」

「ええ、自分では気がつきにくいのかしら」

「アンジェリカが急に二階へ戻っていったのはこれが原因、ということか」

 サイファは自分のしでかした大きな失敗に顔をしかめた。後悔を隠すことなく、その表情にあわらにする。

「思い出してはいないと思うが……」

 彼は祈るように両手を組んだ。

「でも、匂いとそれに結びついた感情というものは、なかなか切り離せないものだわ。こういうことが続けば、もしかしたら記憶もよみがえってしまうかもしれない」

 少し沈んだ声で、レイチェルは冷静に述べた。

 サイファは立ち上がった。

「シャワーを浴びてくる」

 そう言うと、扉へ向かって歩き出した。

「サイファ」

 レイチェルは憂いを含んだ瞳を向け、気遣わしげに呼びかけた。サイファはドアノブに手をかけたまま、顔だけ振り返り、にっこりと笑ってみせた。いつもとなんら変わることのない笑顔。だが、レイチェルはその裏に隠された自嘲と自責を見逃さなかった。いたたまれなさに、思わず立ち上がり駆け出した。そして、後ろから彼をぎゅっと抱きしめた。

 サイファは突然のことに驚いたが、その表情はすぐに和らいだ。愛おしげに、彼女の手の上に、自分の手を重ねた。

 サイファはふいに幼い日々を思い出した。自分が落ち込んでいたときは、何も言わずとも、いつも彼女はこうやって抱きしめてくれた。どんなに表面を取り繕っても、彼女だけは本当の自分を見透かしていた。彼女がいるからこそ、自分を見失わずにいられる――そんな気さえしていた。

「ありがとう」

 そう言った彼の声は、とても穏やかであたたかかった。


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